1043.アーテルの歪
澄み切った青空の下、白壁の家々が夏の日射しに輝く。
庭木や街路樹が濃い影を落とし、陰影のはっきりした街並みが、ラキュス湖の岸辺まで続いた。
湖面の漣が水晶を散りばめたように光を返し、その上を漁船や客船、貨物船など魔道機船が行き交う。
窓から見えるアミトスチグマ王国の夏の都は、平和そのものだった。
……居ながらにして、必要な情報が手に入るとはな。
ラクエウス議員は祖国の惨状を思い、安全な場所でぬくぬくと過ごす我が身に後ろめたさを感じた。
支援者のマリャーナは、ラクエウス議員ら、武力に依らず平和を目指す活動をする者たちに居場所と資金、必要な物資などを惜しみなく与えてくれる。
彼女はアミトスチグマ人だが、役員を務める総合商社パルンビナ株式会社にとっては、ネモラリス共和国は商圏の大きな一画を成す。ネモラリスとアーテルの戦争が終わり、ラクリマリスが湖上封鎖を解除する日まで、商社の業務への悪影響が続くからだ。
仕事の為だけでなく、フラクシヌス教徒としても、聖地ラクリマリスに戦禍が及ばぬよう心を砕く。
互いの利害が一致するからだとわかっていても、ラクエウスは老いた身の置き場を見失いそうな程の罪悪感を抱えずには居られなかった。
……だが、一人のネモラリス人として、キルクルス教徒として、この命尽きるまで平和の為に働くと決めたのだ。
齢九十を越えた常命人種の身では、明日の朝日を拝めるかさえ定かでない。
今日できることを明日に延ばさぬよう、心に抱えた重荷と罪悪感を脇に退け、資料に目を通した。
クラピーフニク議員とファーキル少年がインターネット上から収集してまとめたもの、ロークとラゾールニクらがアーテル共和国領内で集めた警察や消防などの白書、新聞の切抜き、巷間の話など多岐に亘る。
中には、現地の青少年から人気を博する娯楽小説の文庫本もあり、該当箇所に付箋が貼ってあった。
彼らに集めてもらったのは、アーテル共和国内で発行した魔物や魔獣による捕食事故の統計、被害実態を伝える記事、魔物や魔獣への対抗手段や、一般人にも可能な対策、アーテル本土で暮らすキルクルス教徒の捕食事故への認識などだ。
アーテル本土の北東部とラニスタ領は、三界の魔物との戦いによって数千年前に魔力が枯れた土地だ。
完全に枯渇した訳ではなく、この地でも日々雑妖が発生し、異界から魔物が迷い出て魔獣も棲息する。力ある民の割合は低いが、全く産まれないことはない。
西隣のスクートゥム王国より遙かに魔物や魔獣は少ないが、対抗できる人員や手段が限られる為、一頭辺りの被害は周辺のフラクシヌス教国とは比較にならない程に酷かった。
会議室として割り当てられた部屋には、両輪の軸党のアサコール党首、モルコーヴ議員、秦皮の枝党の若手クラピーフニク議員、旧王国時代を知る長命人種の呪医セプテントリオー、アーテル本土出身のファーキル少年、そして、湖南経済新聞本社の国際部員シレンティウム記者が集まり、持ち寄った資料に目を通す。
「心掛けの護りって……そりゃ、場を清めれば、雑妖の発生は抑えられますが、魔物や魔獣が相手ではどうにもなりませんよ?」
アミトスチグマ人のシレンティウム記者が呆れる。
ラクエウス議員は複雑な思いで、フラクシヌス教徒の記者に説明した。
「我々キルクルス教の一般信者にとっては、それが唯一の対策なのだよ。アーテル軍には、対魔獣の特殊部隊があるようだが」
「一般向けの資料では、銀の弾丸など教義に則った武器だけを用いて戦うとありますが、こちらの……フリージャーナリストのラゾールニクさんが入手したアーテル軍の内部資料では、力ある民だけで組織した部隊がある、となっていますね? どう言うことですか?」
シレンティウム記者は、キルクルス教徒と接する機会が滅多にないらしく、ラクエウス議員にここぞとばかり質問を浴びせる。
「それこそが、アーテル社会の歪なのだよ。色々と複雑でな。どこから説明すれば……記者さんは聖典が一般信者と星道の職人、聖職者用に分かれておるのはご存知ですかな?」
「いえ、不勉強で恐れ入ります」
魔術を悪しき業として否定することは知っているようだが、詳しいことまでは調べたことがないらしい。
ファーキル少年が資料のひとつを指差す。
「教団の公式サイトでは一般信者向けの部分しか公開してませんけど、ユアキャストとか、個人サイトとか非公式には、星道の職人用のが出てますよ」
「儂の姉も星道の職人だが、家族である儂にも見せてくれなんだ」
シレンティウム記者が少し考えて口を開く。
「家族にも伏せなければならない信仰の秘密で、それを漏洩した信者が居る、と?」
「そうです。星道の職人はご存知ですかな?」
「名称だけ耳にしたことがあります」
「教義を深く知る特別な職人で、建築や縫製、金属加工などの分野毎に別の聖典を与えられる者で、儂の姉は縫製分野の星道の職人です」
今は弟子の針子サロートカが姉クフシーンカの聖典を預かる。シレンティウム以外の同席者は、既に聖典に目を通し、教団の秘密を把握済みだ。
ファーキル少年がタブレット端末をつつき、シレンティウム記者に向ける。
「例えばこれは、武器職人用の聖典なんですけど」
ユアキャストを表示させたらしく、控え目な音量でBGMが流れる。記者が息を呑み、画面とラクエウス議員を忙しなく見比べた。
「あの、これ【飛翔する鷹】学派の……!」
「そうです。キルクルス教の聖典には【霊性の鳩】学派をはじめ、【編む葦切】や【巣懸ける懸巣】【飛翔する鷹】【歌う鷦鷯】【踊る雀】の一部の術が載っております」
「一体、どう言う……」
記者が乾いた声で問う。
「聖者様の教えは本来、三界の魔物の惨禍を再び招かぬ為のもので、魔法生物を作る学派や、アルトン・ガザ大陸の地形を変えた大破壊の術を含む学派だけを禁じておったのです」
「えぇッ? 【深淵の雲雀】は現在、魔法文明国でも禁止されていますが、他は【急降下する鷲】と【贄刺す百舌】だけなんですか? いや、しかし……」
「うむ。いつの時代からか、聖典の“魔術は悪しき業である”と、光跡記に残された“かくて、魔術に依る国々は滅び、新たなる光の国興る”の一節が独り歩きして、全ての術が排除される方向に信仰が変質してしまったのです」
シレンティウム記者は、ラクエウス議員の言葉を噛みしめるように沈黙し、捕食事故の統計グラフに視線を落とした。
☆娯楽小説の文庫本もあり、該当箇所……「794.異端の冒険者」「795.謎の覆面作家」参照
☆被害実態を伝える記事……「293.テロの実行者」「328.あちらの様子」「359.歴史の教科書」「430.大混乱の動画」「431.統計が示す姿」「803.行方不明事件」参照
☆魔物や魔獣への対抗手段……特殊部隊と星の標の自警団「164.世間の空気感」「328.あちらの様子」「475.情報と食べ物」「802.居ない子扱い」、ランテルナ島の駆除業者「293.テロの実行者」「519.呪符屋の来客」「520.事情通の情報」参照
☆一般人にも可能な対策……「359.歴史の教科書」「764.ルフスの街並」「811.教団と星の標」参照
☆アーテル本土で暮らすキルクルス教徒の捕食事故への認識……「293.テロの実行者」「795.謎の覆面作家」「811.教団と星の標」参照
☆モルコーヴ議員……「273.調理に紛れて」「378.この歌を作る」「489.歌い方の違い」参照
☆湖南経済新聞本社の国際部員シレンティウム記者……「692.手に渡る情報」参照
☆心掛けの護り……「069.心掛けの護り」「764.ルフスの街並」参照
☆フリージャーナリストのラゾールニクさん……「751.亡命した学者」参照
☆光跡記に残された“かくて、魔術に依る国々は滅び、新たなる光の国興る”の一節……「557.仕立屋の客人」参照
▼「370.時代の空気が」参照
不自然に丸い地形は術で吹き飛ばされてできた。




