1041.治安と買い物
カーメンシクは工業都市だが、八百屋の店頭はどこも充分な野菜があった。客はネモラリス島南部の都市のように殺気立っておらず、のんびり品定めする。
ジョールチとパドールリクが、ここより東は農村ばかりだと言っていた。
仕入れやすい立地のお陰で、生鮮品はネモラリス島南部の諸都市より、ずっと安い。それでも、前はこんなに高くなかったのに云々との値切り交渉があちこちから耳に入り、アーテル・ラニスタ連合軍の空襲に晒されなかったここも、物価上昇に苦しんでいるとわかった。
……申請の帰りに油と野菜買って、たんぱく質はお魚があるからいいかな。
出掛ける前に言った通り、北の工業地帯へ行った三人は、昼食に戻らなかった。
わかっていても、アマナの目は駐車場の門に向く。レノは何と言っていいかわからず、取敢えず、干し蝦入りのスープのおかわりを勧めた。
「でも、お父さんの分……」
「材料はまだいっぱいあるから、晩ごはんにも作れるよ」
アマナは、交換品でもらった干し蝦入りの麻袋をチラリと見て、おかわりを受け取った。
昼食の片付けを終え、買った地図から道順を書き出し、カーメンシク市警本部へ向かう。
途中、ガソリンスタンドの前を通り、三人は思わず溜め息が漏れた。
「ここは大型車両が多いですから、その分、需要が高いのでしょう」
「それにしたって、こんな……」
燃料は、今まで見たどこよりも高い。ジョールチは諦め顔だ。
薬師アウェッラーナが肩に掛けた鞄をポンと叩いた。
「現金はこの値段でも、お薬なら、少しでいいかもしれませんよ。ジョールチさん、後で交渉してもらっていいですか?」
「頑張ります」
「じゃあ、ホームセンターで容器も買い足しましょう」
レノが店長として言い、市警本部からホームセンターに寄ると決まった。
カーメンシク市警察本部でも、臨時放送の許可申請は、拍子抜けするくらいあっさり通った。
最初の数カ所では、国営放送のジョールチが居るからだと思ったが、今は別の理由が思い浮かぶ。チェルニーカ市以外では、臨時放送の許可申請のことなど一度も言われなかった。
……イーヴァ議員たち、星の標のイヤがらせだったんだろうな。
「えっ? ここってこんなに……」
薬師アウェッラーナが、廊下に掲出された犯罪統計のグラフに絶句する。先のカイラー市よりはマシだが、他所と比べれば多かった。
レノも窃盗のグラフを見る。
六月の分は、それ以前に比べて大幅に少ない。過去の分を見ると、前年の水準に戻っただけだが、明らかについ最近、何事かあったとわかる大きな変化だ。
「お巡りさん、これって窃盗団か何かが捕まったんですか?」
レノは通り掛かった制服警官に聞いてみた。グラフをチラリと見て、面倒臭そうに答える。
「別に。仮設で呪符盗まれるのが続いてたけど、五月の半ばくらいからパッタリ止んだだけだ」
「それらしい犯人、捕まったんですか?」
「俺の担当じゃないから知らないよ。そんなの聞いてどうすんだ?」
イヤそうな顔を向けられ、怯んだレノに代わって、ジョールチが落ち着いた声で言う。
「私、国営放送アナウンサーのジョールチと申します。本局から締め出されまして、現在、移動放送局でその地方のローカルニュースを中心に放送しております」
警察官の訝しげな顔がみるみる驚きに染まり、喜びに変わった。
「ジョールチさん、生きてたんですか! てっきりクーデターで……」
アナウンサーは微笑を浮かべ、これまで幾度となく繰り返した説明をした。
「FMなので、市内の一部地域にしか届かないんですけどね」
「この件、ニュースにするんですか?」
「詳しいことがわかりましたら」
「うーん。すみません。担当じゃないんで、ちょっとよくわかりません」
「恐れ入ります。何はともあれ、事件が減ってよかったです」
有名人相手にコロリと態度を変えられ、レノは内心苦笑した。
予定通りホームセンターに寄ると、燃料の高騰で在庫がダブついたのか、ガソリン用も軽油用も、携帯用タンクは大安売りだ。
「呪符泥棒が止んだの、聖典が届いた頃からでしたね」
「そうみたいですね。六月は爆弾テロも発生しなかったようですし、このまま大人しくしてくれればいいのですが」
レノは窃盗のグラフに気を取られてしまったが、ジョールチは一覧表もきっちり読み込んでいた。
「今は、どうしようかなって、戸惑ってるんじゃないかと思うんです。本質を理解した指導者……ちゃんとした教えを学んだ聖職者が居ないと、今度はどんなトンデモ解釈をするかわかりませんよ」
薬師アウェッラーナは、星の標や、隠れキルクルス教徒を全く信用できないらしい。
……でも、自治区にも星の標、居るらしいからな。
正式な聖職者の指導があっても、彼らの思い込みを正すことも、テロを止めることもできなかったのだ。
隠れキルクルス教徒を正しい教えに導くのが難しいからと言って、改宗させるのはもっと難しいだろう。
フラクシヌス教の聖職者は、基本的に布教活動を行わない。
穢れを祓い、女神の涙と主神の大樹、封印の岩山に祈りと魔力を届けるのが主な仕事で、信者の冠婚葬祭や治療などの福祉活動でさえ、ついでのようなものだ。
キルクルス教が伝来するまではラキュス湖と共に在って、湖水の畔に住まうすべての民が同じ信仰を持ち、何の疑問も持たなかった。
人々がラキュス湖と向き合う時、力ある民と力なき民、陸の民と湖の民などの違いが意識されることもなかった。
身の内に水抱く者みな、日の輪の下にすべて ひとしい 水の同胞。
水の命、水の加護、水が結ぶ全ての縁。
我らすべて ひとしい ひとつの水の子。
……でも、伝わっちゃったモン、今更なかったコトになんてできないよな。
フラクシヌス教を篤く信仰するレノには、どうやって異教徒と折り合いをつければいいのかわからなかった。
市場で植物油と野菜を少し買って、アウェッラーナが鞄にまとめて持つ。
レノとジョールチがふたつずつ携帯タンクを持って、ガソリンスタンドの敷地に入った。
「物々交換でも大丈夫ですか?」
「モノによるな」
ジョールチが声を掛けると、店員は無愛想に応えた。
薬師アウェッラーナが鞄からプラ容器をひとつ取り出す。
「傷薬があるんですけど」
「俺じゃホンモノかどうかわからなんからなぁ」
「私が作りました」
アウェッラーナが、襟の中から【思考する梟】学派の徽章を引っ張り出す。茶髪の店員は、薬師の証と湖の民の少女の顔を見比べ、店内に引っ込んだ。
「店長、傷薬で売ってくれって薬師が来てんスけど」
店の奥から、髪がかなり白くなった湖の民が出て来た。
「ちょっと嗅がせてくれ」
アウェッラーナは、素直に蓋を開けて老人の鼻先に近付けた。老店主が、いきなりその手首を掴んだ。アウェッラーナが顔を引き攣らせたが、老人はお構いなしに薬を嗅ぐ。
「ホンモノだな。ガソリンはこれ二個でそいつ一杯分、軽油は三個で一杯分だ。ビタイチ負けねぇ」
……チェルニーカと同じくらいだな。
レノがジョールチを見ると、彼も価格には納得したのか頷いた。
「わかりました。彼女を放して下さい」
「おっと、こいつぁ失礼」
店主はジョールチの硬い声に下卑た笑みを返して手を離した。アウェッラーナが数歩退がって容器に蓋をする。
レノは店主が薬師に近付かないよう背に庇う。アウェッラーナから容器を六個受取って、携帯タンクを足で店主の方へ押しやった。
「まず、軽油の分」
……全く、油断も隙もありゃしない。
傷薬は、満タンになった容器と同時に引き換えた。
「まいどありーッ!」
店員の威勢のいい声に贈られ、三人は足早にガソリンスタンドを離れた。
☆客はネモラリス島南部の都市のように殺気立って……レーチカ「647.初めての本屋」、ギアツィント「782.番宣ポスター」参照
☆北の工業地帯へ行った三人……「1039.カーメンシク」参照
☆交換品でもらった干し蝦……「1031.足りない物資」参照
☆イーヴァ議員たち、星の標のイヤがらせ……イーヴァ議員と星の標「0973.聖典を見たい」「0979.聖職者用聖典」「0983.この国の現状」、イヤがらせ「0970.チェルニーカ」「0971.放送への妨害」「0980.申請方法調査」「0981.できない相談」参照
☆呪符泥棒が止んだの、聖典が届いた頃から……「0977.贈られた聖典」参照
☆フラクシヌス教の聖職者は、基本的に布教活動を行わない……成文化された聖典もない「0941.双方向の風を」参照
☆穢れを祓い、女神の涙と主神の大樹、封印の岩山に祈りと魔力を届けるのが主な仕事……「535.元神官の事情」「542.ふたつの宗教」「684.ラキュスの核」「685.分家の端くれ」、外伝「明けの明星」(https://ncode.syosetu.com/n2223fa/)参照
☆キルクルス教が伝来……「370.時代の空気が」「374.四人のお針子」「559.自治区の秘密」「588.掌で踊る手駒」「590.プロパガンダ」参照
☆すべて ひとしい 水の同胞……「541.女神への祈り」参照




