1038.逃げた者たち
東教区のウェンツス司祭が教会執務室の扉に鍵を掛け、フェレトルム司祭、クフシーンカ、新聞屋の店主、工員プラエソーにソファを勧める。
「前置きなしで失礼します。元・星の標が失踪しました」
「えッ? 仕返しで消されたとかじゃなくってですか?」
工員プラエソーが不穏な質問をする。
以前は、ゼルノー市立中央市民病院で呪医の治療を受けた者やその家族が、星の標に不信心だと糾弾され、見せしめに殺害されるのが日常茶飯事だった。
だが、彼らはネミュス解放軍の襲撃で武器を取り上げられた。
その上、よりによって、フラクシヌス教徒の湖の民に「星の標こそが異端である」と指摘され、和平協定に基づいて現在も再教育が続く。
立場が逆転した今、理不尽に親しい人を奪われた者たちが元・星の標に報復し、ネモラリス政府が派遣した治安部隊は、その対応に忙しかった。
クフシーンカはプラエソーの質問を訳さなかったが、フェレトルム司祭は、何も言わずに地元のウェンツス司祭を見詰めるだけだ。
東教区の司祭は、執務机の椅子に腰を降ろし、溜め息と共に言葉を漏らした。
「一部隊十一人が同時に姿を消しました」
ウェンツス司祭が、先程の遣り取りも合わせて共通語で言い直すと、フェレトルム司祭は小さく頷いて先を促した。
これまで、一日に十人以上が報復されたことはない。
「星の標の連中、一部隊だけで逃げたんですか? そいつらの家族は?」
「誰と誰が居なくなったか、はっきりわかってんのかい?」
身重の妻が待つ工員プラエソーが首を傾げ、新聞屋が聞いた。
ウェンツス司祭は、クフシーンカが二人の質問を共通語に訳すのを待ち、行方不明になった十一名の呼称を指折り数え挙げる。
「今朝、再教育の場に姿を現さず、先程まで捜していただきましたが、みつかりませんでした」
クフシーンカは、彼らの名に憶えがあった。小金を持った団地地区の個人商店主ばかりだ。
「その人たちの家族は、確か、マレーニ染業の資材供給ルートを使って、解放軍が来る前に自治区の外へ……」
「そうです。恐らく、家族と合流するつもりなのでしょう」
ウェンツス司祭が重々しく頷く。
プラエソーは憤りに顔を歪めたが、二人の司祭に遠慮したのか、苦しげな溜め息を吐いただけで、何も言わなかった。
「でもよ、マレーニ染業は解放軍にやられて廃業したし、どっから行く気だ?」
「クブルム街道を使ってゾーラタ区へ出て、トポリ空港を目指すつもりではないかと」
ウェンツス司祭が、新聞屋に苦い顔を向ける。クフシーンカは、何をしに来たかわからないフェレトルム司祭の為に通訳した。
「私も、そこまでは区長さんからお伺いしました。可能なら、今からでも街道の様子を見に行きたいのですが、如何でしょう?」
クフシーンカとウェンツス司祭は、自治区の地理に疎いフェレトルム司祭を慌てて止めた。
「彼らが朝一番に街道へ向かったなら、もう追いつけません」
「しかし」
「今から行ったのでは、日が暮れてしまいます。クブルム街道は山道ですから、危のうございますわ」
「それでしたら、尚のこと」
「今頃は避難小屋に身を寄せた頃でしょうから、大丈夫です。朝になってから、治安部隊にお願いして、平野部からゾーラタ区の方へ先回りしていただきましょう」
フェレトルム司祭は、地元司祭の説得を不承不承、受け容れた。
「そうですか。では、逃げた異端者の対処につきましては、治安当局にお任せしましょう。それとは別に、日を改めて一度、そのクブルム街道とやらに行きたいのです」
「あの……特に何もございませんわよ。司祭様は薪拾いや蔓草集めをなさいませんでしょう?」
「山には魔物や魔獣が出ます。フェレトルム司祭の身に万一のことがあっては」
「しかし、地元のみなさんは、蔓草摘みなどで毎日、行ってらっしゃるんですよね? 私の命は聖者様に捧げ、既に自分のものではございません。お気遣いは無用に願います」
フェレトルム司祭は、こちらの件については頑として譲らなかった。
……街道への道案内が欲しくて来たのね。
わざわざ東教区に来た理由はわかったが、フェレトルム司祭にも、運び屋たちとの連絡を知られるのは危険な気がした。
注意事項の貼り紙を見られれば、山小屋ごと燃やされてしまうかもしれない。
共通語のわからない新聞屋と工員プラエソーが、クフシーンカに不安な眼差しを向けるが、フェレトルム司祭の説得に忙しく、通訳どころではなかった。
「プラエソー、小屋に行って下さったのですよね? 人が居た形跡などはありませんでしたか?」
ウェンツス司祭に湖南語で声を掛けられ、工員は一瞬ホッとしたが、すぐに顔を曇らせた。
「俺が行った時には何もありませんでした。運び屋さんが今日、届けてくれるって手紙に書いてた荷物も、ゾーラタ区の人がくれる食べ物とかも、何も……」
「それは……手紙もなかったのですか?」
「手紙だけ、郵便受けに入ってました。あ、鍵、お返しします」
ウェンツス司祭は硬い表情で受取り、クフシーンカに聞いた。
「お手紙には、何と?」
「約束通り、お薬を持って来て下さったようで、一覧表と使用上の注意事項も同封されておりましたわ」
「それも、なくなっていたのですね?」
プラエソーが石のような表情で頷く。
湖南語がわからないフェレトルム司祭は、四人が眉根を寄せるのを見て、言い掛けた言葉を飲み込んだ。
「でもよ、呪いの袋だって、はっきり書いてあんのに幾らなんでも」
「追い詰められて、構っていられなくなったのではありませんか?」
ウェンツス司祭が苦しげに言うと、新聞屋は沈黙した。
「フェレトルム司祭は明日、どうしてもクブルム街道の様子をご覧になりたいそうです。お手数ですが、案内をお願いできませんか?」
「えぇッ? 俺ぁ共通語はからっきしで、その……」
新聞屋が目を白黒させる。
「星道の職人である店長さんにも、必ず同行して欲しいそうなのですが」
「私の足ではとても……あら、通訳ではなく、星道の職人としてなんですの?」
改めて共通語で言うと、大聖堂から派遣された若き司祭は、明るい顔で応えた。
「はい。山道では私が背負いますので、共に行きましょう」
「そんな、畏れ多いことを」
「私はタダの人間ですよ。私がご同行をお願いするのですから、当然です」
通訳ではなく、星道の職人に確認させたいことがあるのだろう。
……大工さんとか、他の職人さんが代わりに行って、却って面倒なことになるくらいなら、私が行った方がいいわね。
クフシーンカは、大火の罹災者支援事業でクブルム街道発掘事業を行った責任者として、腹を括った。
☆フェレトルム司祭……「1007.大聖堂の司祭」「1008.動かぬ大聖堂」「1009.自治区の司祭」参照
☆ゼルノー市立中央市民病院で呪医の治療……「369.歴史の教え方」「529.引継ぎがない」「551.癒しを望む者」「552.古新聞を乞う」参照
☆呪医の治療を受けた者やその家族が、星の標に不信心だと糾弾され、見せしめに殺害されるのが日常茶飯事……「557.仕立屋の客人」「558.自治区での朝」「859.自治区民の話」参照
☆ネミュス解放軍の襲撃……「893.動きだす作戦」~「906.魔獣の犠牲者」参照
☆武器を取り上げられ(中略)現在も再教育……「921.一致する利害」「0941.双方向の風を」「0942.異端者の教育」参照
☆その人たちの家族は(中略)解放軍が来る前に自治区の外へ……「630.外部との連絡」「724.利用するもの」「786.束の間の幸せ」「796.共通の話題で」参照
☆マレーニ染業は解放軍にやられて廃業した……「896.聖者のご加護」「904.逆恨みの告口」「905.対話を試みる」「0939.諜報員の報告」参照
☆星道の職人……「554.信仰への疑問」参照
☆大火の罹災者支援事業でクブルム街道発掘事業を行った責任者……「419.次の救済事業」「420.道を清めよう」「442.未来に続く道」参照




