1036.楽譜を預ける
「他を回る前に、ギームン神官の所へ寄らせてもらっていいかしら?」
「勿論、いいですよ」
「他の神殿や一時避難所も、同志たちが手分けしてファーキルさんと同じように説明しながら回ってますから、そこにも楽譜を届けるんですの」
ファーキルは熱中症対策、オラトリックスは日焼け対策で、運河沿いの木陰伝いに王都ラクリマリスの第二神殿へ向かう。運河を行き交う船は多いが、道行く人は少なかった。
夏の日差しが石畳に照り返し、上からも下からも炙られる。
「もう少し先の船着場から乗りましょうね」
「はい」
運河のあちこちに設けられた船着場のひとつで足を止める。
王都ラクリマリスでは、バスの代わりに渡し船が都民の足だ。安い船賃で一定の距離を運んでもらえる。
船頭が術で操る細長い船は全く揺れず、滑るように水面を行く。日射しを遮る物はないが、風が心地よく、汗が引いた。
王都第二神殿に着くと、オラトリックスはギームン神官との待ち合わせ場所へ迷わず進んだ。
本殿の他、幾つも小さな拝殿があり、事務棟や集会室、施療院、聖職者の宿舎、書庫や倉庫などが、広い敷地内に点在する。
待合わせ場所は、独立して建つ書庫の前だ。
そこかしこに植えられた秦皮や樫の木が、深い影を落とす。よく繁った枝葉を抜ける風が涼しい。
赤毛の中年男性が、笑顔で年配のソプラノ歌手を迎えた。白い聖職者の衣の胸で【導く白蝶】学派の徽章が木漏れ日に輝く。ファーキルは、葬儀屋アゴーニを思い出した。
「オラトリックスさん、お久し振りです。そちらは?」
「お久し振りです。この子は私たちの同志で、インターネットを使った情報支援をして下さってるんですの」
「初めまして。ファーキルって呼んで下さい」
「初めまして。ギームンです。お噂はかねがね耳にしておりますよ。まさか、本当にこんな少年だったとは……」
白地に青い花がひとつ刺繍された聖職者の衣は、思ったより赤毛の男性にもよく似合う。
……花が付いてるから、女の人向きかと思ったんだけどな。
そう言えば、移動販売店プラエテルミッサの一員として西神殿に参拝した時も、男性神官は居た。針子のアミエーラの親戚騒動でそれどころではなく、じっくり見るのは初めてだ。
「こちら、頼まれておりました楽譜です。一応、『真の教えを』もお入れしました」
「恐れ入ります」
ギームン神官は、表情を変えることなく封筒を受け取った。
「キルクルス教の歌も入ってるのに、大丈夫なんですか?」
ファーキルは思わず聞いて、すぐ、軽率なことを口走ったと後悔した。だが、神官は微笑を浮かべて答えた。
「少なくとも、私は構いませんよ。キルクルス教の教義や聖典の中身は、旧王国時代に見て知っておりますから」
「えぇッ? 聖典……読んだんですか?」
……フラクシヌス教の聖職者なのに?
辛うじて後半の言葉を飲み込み、ファーキルは赤毛の神官をまじまじと見た。冗談で言った顔には見えない。露骨な驚きにギームンの笑みに苦いものが混じった。
「廃止されましたが、旧王国時代には、神々の祝日と言うものがありまして、その日は、フラクシヌス教徒もキルクルス教徒も、普段、自分が信仰していない神々の教えに触れられる日でした」
「それに『神々の祝日の為の聖歌メドレー』もお入れしましたよ」
オラトリックスがゆったりと微笑み、ギームン神官は改めて礼を言った。
「湖の民の方々は、キルクルス教徒とのトラブルを避ける為、普段はあまりそちらの方へ行かないようですが、私たち聖職者は神々の祝日には、そうも言っていられませんでしたので、クリューチ神官たちもその日だけは……」
「えっ? じゃあ、長命人種の聖職者の人たちは、みんな、キルクルス教のコトも割と知ってるんですね?」
ギームン神官の外見は、呪医セプテントリオーよりも若い。呪医が四百歳以上だと言っていたから、この神官は三百歳代くらいだろうか。
「隅々まで熟読したことはありませんが、ここで、三種類の聖典が一冊ずつ保管されておりますよ」
「えぇッ?」
「若い方が驚くのも無理はありませんが……キルクルス教が伝来した当時、この地方で最初に建立されたルフス光跡教会から、神々の祝日の交流で贈られたものだそうです」
ギームン神官が、書庫の扉に遠い眼差しを向けた。木製の大扉は開放され、奥に廊下が伸びる。
「それって、一般人……フラクシヌス教の普通の信者も、見ていいんですか?」
「今となっては貴重な資料で、【渡る白鳥】学派の【禁帯出】が掛かっておりますが、指定の部屋でなら、自由に閲覧できますよ。少し読んでみますか?」
「中身知ってるんで……えっと、あの、いえ、こないだネットで見たばっかりなんで、遠慮しときますけど、その……読む人、居るんですか?」
驚きのあまり言葉が上手くまとまらなかった。
書庫の廊下を行き交う人影は疎らで、多くは聖職者の衣を纏う。
「今では存在自体が殆ど知られておりませんので、滅多に居ないでしょう。このご時勢で、ここにキルクルス教の聖典があると知れ渡れば……」
「そうですわね。ネミュス解放軍のような急進的な考えの人たちが、ここを襲うかもしれませんものね」
オラトリックスが続きを先回りし、同意見のファーキルは目を伏せた。
ソプラノ歌手の声が憂いを帯びる。
「それでは、『真の教えを』はこちらでは歌っていただけないんですのね?」
「聖歌隊への説得は努力します。並行して、信者の方々への説明も……ただ、時間が掛かるのは確かです」
聖歌隊責任者の声には、ファーキルが予想もしなかった熱が籠もる。
ファーキルは顔を上げ、ギームン神官の目を見詰めて聞いた。
「あの……ラジオは……『花の約束』の感想も、ムリっぽい感じでしたか? 昨日、西神殿とかで難民の人たちに聞いて回ったんですけど、キルクルス教の歌はダメだって……」
「彼の説明で、ある程度は納得して下さったようですが、頭ではわかっても、きちんと気持ちの整理がつくまで、時間が掛かるでしょう」
消えてしまった後半をオラトリックスが補ってくれた。
ギームン神官の声が沈む。
「えぇ。こちらに身を寄せる方々も、地元の信者のみなさんも、若い世代を中心にそう言う声が多いのは否定できません」
やっぱりと項垂れる二人に、明るい声が掛けられる。
「しかし、神々の祝日を記憶に留める世代は、当時を懐かしむ声もありました」
赤毛の神官が、封筒から楽譜を出して確める。
「順序を間違えれば、この楽譜が失われてしまうかもしれません。それは、もう一度コピーすればいいという話ではなく……今は、私に預からせて下さい」
「はい。お願いします」
アーテル共和国のキルクルス教徒には一人も居ないが、ラクリマリス王国とネモラリス共和国のフラクシヌス教徒には、平和に共存できた時代の思い出を持つ古い世代が居る。
一人でも多くの若者が、彼らの話に耳を傾けてくれるよう、ファーキルは心から祈った。
☆ギームン神官……「593.収録の打合せ」「594.希望を示す者」「774.詩人が加わる」「1005.初めての樫祭」参照
☆移動販売店プラエテルミッサの一員として西神殿に参拝した時……「539.王都の暮らし」~「544.懐かしい友人」参照
☆針子のアミエーラの親戚騒動……「540.そっくりさん」参照
☆真の教えを……「0987.作詞作曲の日」「1018.星道記を歌う」参照
☆神々の祝日の為の聖歌メドレー……「310.古い曲の記憶」「377.知っている歌」、楽譜と動画をネットに公開「348.詩の募集開始」参照
☆花の約束……「1014.あの歌手たち」~「1018.星道記を歌う」参照




