1035.越えられる歌
翌朝、ソプラノ歌手のオラトリックスは、約束の時間通りに、大きな鞄を抱えて西神殿前に来てくれた。
長袖のワンピースに淡い色のスカーフを巻き、鍔広帽なのは日焼け防止の為で、暑さ対策は服に刺繍された【耐暑】の呪文だ。
おばさんよりもお婆さんに近い年齢だが、暑さが堪えないお陰か、昨日、神殿で会った難民たちよりずっと元気だ。
「おはようございます」
「おはよう。暑いでしょう? 歩きながら話しましょう」
オラトリックスは、噴き出す汗をハンドタオルで拭うファーキルを気遣ってくれた。
「楽譜のセットとカセットテープ、サイン入りの写真と塩飴を持って来たの」
「持ちましょうか?」
「いいのよ、このくらい。オペラ歌手は鍛え方が違うのよ」
笑顔であしらわれ、ファーキルは頭を掻いた。昨日、宿に戻る途中で持てるだけ塩飴を買い、ファーキルの鞄もパンパンだ。
「おはようございまーす!」
ファーキルが西神殿の集会所に顔を出すと、サインをねだった老人が駆け寄ってきた。
「どうだった? あ、この人がニプトラさんの親戚か?」
「初めまして。私は歌手のオラトリックスと申します。ニプトラさんとは、何度も共演させていただきました」
「おっと、こりゃ失礼」
オラトリックスが穏やかな微笑で応じ、老人は気マズそうに苦笑した。
作業の準備をする人々も、朝から訪れた客の傍に集まってくる。
「楽譜と、ニプトラさんからお写真を預かって参りましたの。子供たちには飴をどうぞ」
歌手オラトリックスが、飴の袋を手近に居た緑髪のボランティアに渡し、ファーキルに楽譜が一揃い入った封筒を持たせる。
最後に、厚紙製の簡易額に収まったA4サイズの舞台写真を取り出した。
樫祭の慈善コンサートで、ニプトラ・ネウマエが合唱団を背に、舞台中央でソロパートを歌う場面だ。色とりどりの衣装がやわらかな照明に浮かび上がる華やかな一幕で、舞台の床部分にニプトラ・ネウマエの直筆メッセージが添えてある。
平和を望むみなさんへ。
歌は、国境を越えられます。
人種や信仰、魔力の有無などにも妨げられません。
歌は、時間を越えられます。
共に歩む心を過去から現在、未来へ届けましょう。
末尾に昨日の日付とニプトラ・ネウマエのサインがあった。
オラトリックスは、サイン入りの写真を高く掲げてメッセージを暗誦し、少年のように瞳を輝かせる老人に手渡した。
「おぉおぉおお……ありがとう、ありがとう」
感極まって泣き出す老人に、周囲の者たちが喜びやからかいの声を掛ける。
歌手オラトリックスは、ファーキルに持たせた封筒を掌で示し、よく通る声で説明する。
「ここにラジオで放送された四曲と、『神々の祝日の為の聖歌メドレー』の楽譜があります」
「神々の祝日?」
人々の意識が、キルクルス教の歌「真の教えを」ではなく、初めて耳にしたらしい曲に向けられる。
年配の歌手は、ゆったりとした口調で説明した。
「旧ラキュス・ラクリマリス王国時代の祝日で、共和制に移行した時、廃止されました。三十分くらいの長い曲で、歌があるのはほんの一部ですが、カセットテープをお持ちしましたので、お時間ございます時にでも、お聞き下さい」
近くに居たおばさんが、二人から封筒とカセットテープを受け取って押し戴く。
「ホントに何から何まで……ありがとうございます」
「何で祝日が廃止されたんです?」
若い女性が首を傾げる。
「神々の祝日は、旧ラキュス・ラクリマリス王国領内で信仰される全ての神々を讃えるお祭りでしたが、共和制に変わった時、政教分離と信仰の自由の為、廃止されました」
「あぁ、そう言う……」
「それで、ネーニア家が庶民宣言したって歴史の時間に習ったよ」
大人が頷き、中学生の少年が得意げに言う。
ファーキルも、インターネットで湖南地方の歴史を調べた時に知った。
オラトリックスが少年に微笑を向けて頷く。
「私が生まれる前のことでしたが、この祝日がなくなったせいで、人々の心が、信仰によって分かれてしまったような気がしてなりませんの」
……呪医とか長命人種だったら、歴史の教科書とかじゃなくて、自分の思い出として憶えてるコトなんだよな。
戦争難民から疑問の声が上がる。
「どうしてそう思うんです?」
「この祝日は、王国に住まうすべての人々が、ひとしく、すべての神々を讃えるお祭で、隣人の信仰を理解する場でもあったそうなんですの」
「たった一日、祝日がなくなったせいで、半世紀の内乱が起こったって?」
「そんなまさか……」
「勿論、それだけが理由ではございませんでしょう。個人的に、何より大きいのは、アルトン・ガザ大陸から伝わった民族自決の思想だと思っております」
「みんぞくじけつって、なーにー?」
小学生から質問が飛び、ファーキルが答えた。
「自分たちの民族のことは、自分たちで全部決める。ひとつの民族にひとつの国が必要だって言う考え方だよ」
「そうだ。でも、それをすると、昔のラキュス・ラクリマリス共和国みたいな多民族国家は、こんな感じでバラバラになっちゃうんだよ」
「昨日、地図で見た湖東地方の国も小さいとこがいっぱいあったでしょ? あれもそうなのよ」
「神々の祝日があった時代の人たちは、未来に民族紛争が五十年も続いた揚句、国がみっつに分かれて、その先でまた、元はひとつの国だったネモラリスとアーテルが戦争になるなんて、想像もつかなかったろうね」
勉強を教えに来た緑髪のボランティアたちが、ファーキルの考えを代弁するように続きを説明してくれた。
サイン入り写真を受け取った老人が、ニプトラ・ネウマエのメッセージを大声で読み上げる。
「歌は、時間を越えられます。
共に歩む心を過去から現在、未来へ届けましょう」
「共に歩む心を過去から現在へって、そう言うコト……」
若い女性が、小声で繰り返してオラトリックスを見る。年配のソプラノ歌手は頷いた。
「そうです。勿論、この歌ですぐに平和が来るとは、私たちも思っておりませんが」
戦争難民がざわつく。
歌手のよく通る声がざわめきを貫き、集会所に響き渡る。
「ただ、平和に共存できた時代を知ることで、少しでも、それに近付けると思うんですの」
西神殿に身を寄せる戦争難民は、その眼に悲しみの色を浮かべながらも、微かな笑みと共に頷いた。
☆サインをねだった老人……「1032.王国側の反応」参照
☆樫祭の慈善コンサートで、ニプトラ・ネウマエが合唱団を背に舞台中央でソロパートを歌う場面……「1005.初めての樫祭」参照
☆神々の祝日……「295.潜伏する議員」「330.合同の演奏会」「560.分断の皺寄せ」「628.獅子身中の虫」、廃止の理由「310.古い曲の記憶」参照
☆神々の祝日の為の聖歌メドレー……「310.古い曲の記憶」「377.知っている歌」、楽譜と動画をネットに公開「348.詩の募集開始」参照
☆ファーキルも、インターネットで湖南地方の歴史を調べた時……「183.ただ真実の為」「448.サイトの構築」参照
☆呪医とか長命人種だったら、歴史の教科書とかじゃなくて、自分の思い出として憶えてるコト……「240.呪医の思い出」参照
☆アルトン・ガザ大陸から伝わった民族自決の思想……「059.仕立屋の店長」「370.時代の空気が」「371.真の敵を探す」参照




