1009.自治区の司祭
昨日は夢中で歌い、気が付いたら幕が降りていた。
まだ、現実感がない。
アミエーラは、夢の中に居るような心地で知らないベッドを出た。
王都ラクリマリスの西神殿に近いホテルだ。
運び屋フィアールカの知人が支配人を勤める。アミエーラは去年、移動販売店プラエテルミッサの一員として泊まった。
指定されたサロンの個室へ朝食に行くと、運び屋フィアールカが一人でお茶を飲んでいた。
「おはよう。昨日はお疲れ様。なかなかサマになってたわ。【編む葦切】もいいけど、ニプトラさんみたいに【歌う鷦鷯】もいいかもね」
「おはようございます。……他のみんなは、まだなんですね」
「ニプトラさんは神殿。あのコたちはまだ寝てるんじゃない? 先に食べる?」
大伯母カリンドゥラは昨日、夜明け前に大神殿へ行って祈りの歌に加わると言っていた。
「起こしちゃ悪いですよね。でも、もう少し待っていいですか?」
「今の時期、混んでるから、朝ごはんは後三十分でおしまいよ」
「えッ? じゃ、早く起こさなきゃ」
アミエーラが腰を浮かすと、フィアールカは苦笑して立ち上がった。
「でも、今から起きて身支度したんじゃ、絶対、間に合わないでしょ。部屋に運ぶように頼んだわ」
「あ、そうなんですか。ありがとうございます」
「あなたの分も」
「すみません」
「部屋で一緒にお茶させてもらっていい?」
断る理由はなく、連れ立って戻った。
「自治区の様子見に行った同志が、店長さんの手紙を送ってくれたの」
「いつもありがとうございます」
アミエーラが、上等なバターロールを急いで飲み下して言うと、フィアールカは緑色の眉を少し下げた。
「今回は、あなた宛ての個人的な手紙じゃないし、モノは手許になくて、手紙の写真が届いただけなの」
「いえ、店長さんがお手紙書けるくらいお元気だってわかって、嬉しいです」
仕立屋のクフシーンカ店長は、力なき陸の民で常命人種。
ラクエウス議員の姉で、姉弟は九十歳を越える高齢だ。いつ、遠い所へ行ってしまってもおかしくなかった。
リストヴァー自治区を出たアミエーラは、恐らく二度と会えないだろう。
「店長さんのお手紙には、大聖堂から直々に司祭が派遣されたって書いてあるんだけど、今までもこんなコトってあったの?」
「いえ、全然。聞いたコトもありません。司祭様たちはどうなさったんです?」
思いがけない話に聞き返す。
「その司祭が共通語しか話せないから、通訳しながらお勤めしてるそうよ」
「クビになったワケじゃないんですね」
アミエーラは、東教区の司祭の穏やかな微笑を思い出してホッとした。
「自治区の司祭ってどうやって決めてたの?」
「私も詳しいコトは知らないんですけど、最初の司祭様たちは、内乱中に国内の神学校で学んだ人たちだったそうです」
「その人たちはどうしたの?」
「東教区の司祭様の一人は、病気で亡くなられました。西教区の司祭様は行方不明になって……噂なんですんけど、星の標に殺されたとかなんとかで、他の司祭様たちが辞めちゃって、私が知ってる限り、東教区は司祭様と御寮人様が一人ずつ、西教区は司祭様一人と見習いの人が二、三人だけになっちゃって、リストヴァー大学の神学科を出た人は会社とかに就職して……」
「星の標を異端だって指摘して消されたから、ちゃんとした教えを伝えるのが怖くなったのね」
アミエーラは、運び屋の訳知り顔な物言いに心が少しささくれた。
フィアールカがフラクシヌス教の聖職者を辞めた理由は、このホテルの支配人から聞いた。自治区の司祭たちとは事情が違うと、頭では分かっている。
しかも、アミエーラは力ある民として生きると決め、もうキルクルス教徒には戻れないのに、何故こんな気持ちになるのかわからなかった。
「その司祭、かなりのカタブツで、元・星の標の人たちを改心させようとかなり頑張ってるみたい。今までキルクルス教団が一般信者に伏せてたコトまで伝えて」
「新しい司祭様は何を……?」
「聖典を全部……は、まぁ、ネミュス解放軍との約束でもう見せてるけど、力ある民でもキルクルス教を信仰してもいい……のも、個人の心の問題だから、別にいいっちゃいいんでしょうけど」
フィアールカも困惑を隠しきれず、何とも言い難い顔で頭を抱えた。緑色の髪が指の間をこぼれ、頬に掛かって表情を隠す。
「魔法使いの司祭が存在する件は、自治区の人の気持ちがもう少し落ち着くまで待ってもらえたらよかったのにって、店長さんたち、困ってるわ」
アミエーラは、声もなく運び屋フィアールカを見た。
「急にそんなコト言われたって、みんなついて行けないし、あんなコトがあったばかりで気が立ってる人も多いし、どんな反応が来るかって」
だが、もう遅い。
大聖堂から来た正統派の司祭の言葉は重かった。
……どうしてそんなコト、軽々しく言っちゃたの?
「店長さんの見立てじゃ、言ってるコトは正しいけど、それを伝えるのを急ぎ過ぎる人みたいで、大聖堂が持て余して、体よく自治区に押し付けたんじゃないかって」
「そんな……」
味は美味しいのに泥水を啜るような心地がして、アミエーラはスープカップを下ろした。
「それで今、ファーキル君たちに大聖堂の動きを調べてもらって」
ノックの音で、フィアールカは続きを飲み込んだ。
大伯母カリンドゥラが、ルームキーで開けて入る。
「おはよう。あら、まだ食べてたの? あのコたちのお見送り、大丈夫?」
「あっ……」
出港は午前九時。もう八時過ぎだ。
アミエーラは大急ぎで朝食を掻き込み、身支度を整えてホテルを出た。
細長い渡し船が水路を滑り、ホッと息を吐く。
「渡し船まで手配して下さってありがとうございます」
「いいのよ。寝不足で収録中に居眠りされるより、船賃出す方がマシだから」
アルキオーネがしおらしく頭を下げると、運び屋フィアールカはわざとらしく意地悪な笑みを浮かべた。平和の花束の四人が肩を竦め、詫びを口にして苦笑する。
「DJのレーフさんは、もう船着き場で待ってるって」
フィアールカがタブレット端末を見て言う。
樫祭の期間中とその前後は、王都ラクリマリス周辺では一般人の【跳躍】が規制される。
DJレーフはネモラリス島の北部から、葬儀屋アゴーニに連れられてアミトスチグマ王国の夏の都へ跳び、ラゾールニクと合流。アゴーニだけネモラリスに戻り、二人で魔道機船に乗って、無事に王都ラクリマリスに到着したと言う。
……離れてても、人が多くても、ちゃんと連絡つくなんて、インターネットって便利なのねぇ。
アミエーラは先程の動揺を鎮めようと、努めて他のことに気を向けた。
リストヴァー自治区を出て、力ある民として生きると決めた時、同時にキルクルス教の信仰も捨てた。聖者キルクルスにどれだけ祈りを捧げようと、奇跡など起きないと思い知らされたにも関わらず、これまでの人生を全て捨て去るような気がして、なかなか決心をつけられなかった。
……やっと気持ちが定まったのに、今更そんなのって。
信仰は個人の心の問題だとか、キルクルス教の司祭の中にも魔法使いが居るだとか、フィアールカは今になって何故、そんなことをアミエーラに教えたのか。
タブレット端末を見詰める湖の民の横顔が視界に入ると、思考はあっさり引き戻されてしまった。
☆運び屋フィアールカの知人が支配人/フィアールカがフラクシヌス教の聖職者を辞めた理由……「535.元神官の事情」、外伝「明けの明星」(https://ncode.syosetu.com/n2223fa/)参照
☆アミエーラは去年、移動販売店プラエテルミッサの一員として泊まった……「535.元神官の事情」「539.王都の暮らし」~「546.明かした事情」「548.薄く遠い血縁」「549.定まらない心」「563.それぞれの道」~「565.欲のない人々」「568.別れの前夜に」~「572.別れ難い人々」「586.気になる噂話」~「592.これからの事」参照
☆西教区の司祭様は行方不明……「557.仕立屋の客人」参照
☆大聖堂から直々に司祭が派遣された……「1007.大聖堂の司祭」「1008.動かぬ大聖堂」参照
☆一般人の【跳躍】が規制……「1005.初めての樫祭」参照
☆聖者キルクルスにどれだけ祈りを捧げようと、奇跡など起きないと思い知らされた……「141.山小屋の一夜」「236.迫りくる群衆」参照




