0991.古く新しい道
クフシーンカは思わず天を仰いだ。
視界に入るのは、礼拝堂の高い天井とその下の鮮やかなステンドグラス。白い壁と天井、柱の要所には力ある言葉と呪印が刻まれ、無自覚な力ある民の魔力によって教会を守る。
そのことが広くリストヴァー自治区に伝わったのは、つい最近のことだ。ネミュス解放軍の襲撃がなければ、知らずに一生を終えた自治区民は多かっただろう。
だが、今はそれを知らぬ者はない。
教会の建物、司祭の衣や祭衣裳、夏祭の舞いや祈りの詞、聖歌にまで魔術が組込まれていると知れ渡った。
魔術は悪しき業だと教えられ、疑いもなく信じて生きて来た。
力なき民は、魔力を持たぬが故に魔術を用いる愚を犯すことがない。自分たちは「無原罪の清き民」だと信じ、それを支えに自治区の貧しい暮らしに耐えてきた。
支えを失い、「何故、隠していたのか」と司祭を詰る者も居たが、それはほんの数人だけで、彼らはすぐ何も言わなくなった。
解放軍と星の標の戦闘に巻き込まれ、沿岸部の工場や高台の団地地区が大打撃を受けた。クフシーンカも自宅兼店舗を破壊され、住居はどうにか無事だったが、仕立屋の店舗は更地になった。
あの冬の大火から立ち直りつつあった自治区は、再び失業者が溢れ、初夏の明るい日射しの下で暗く沈んだ。
日々の糧を得る為に急拵えの家庭菜園やクブルム山脈での薪拾い、木の実や山菜採り、工場や店舗の再建工事などで忙しく、司祭を逆恨みする暇などなかった。
昨年の罹災者支援事業でクブルム街道を発掘したお陰で、薪には困らない。家庭菜園を作る「塩害に晒されていない土」も手に入った。
それでも相変わらず野菜泥棒が横行し、夜間は鉢を家の中に引っ込めるが、手間暇掛けて育てた者が食べられない鬱憤は、日々募る一方だ。
解放軍の襲撃後、区長とFMクレーヴェルのDJが、魔装兵を含む部隊の派遣を要請した。
政府軍はすぐに治安部隊を派遣したが、キルクルス教徒の自治区であることに気を遣ったのか、アーテル軍の空襲に備えるだけで精一杯で手が足りないのか、力なき民の兵しか来なかった。
治安部隊も、呪符や呪印弾など魔法の武器を携行し、一応、魔物や魔獣には対抗できるのが救いだ。
再びネミュス解放軍の攻撃を受ければひとたまりもないが、今はウヌク・エルハイア将軍が約束を守ると信じる他ない。
クフシーンカの溜め息の原因は、それらへの不安ではなく、星の標への報復だ。
今日もまた、治安部隊の目を盗んで三人が惨殺され、司祭が弔いに走った。
強い苦痛を受けた者の遺体は、安らかに亡くなった者よりも魔物の苗床になりやすい。
……気持ちはわからなくないけれど。
これまで星の標がしてきたことと、彼らが武装解除されたこと、よりによって湖の民を主体とするネミュス解放軍に「星の標は異端である」と事実を突きつけられたことで、解放軍が自治区から引き揚げた直後から、星の標に身内や友人を殺された者たちの報復が始まった。
政府軍の治安部隊は私刑の取締りに忙しく、野菜泥棒など軽微な犯罪まではとても手が回らない。
親しい人を奪われた悲しみが癒えない限り、報復は終わらないだろう。
折角、星の標の脅威が去り、怯えずに暮らせるようになったと言うのに、一方を立てれば他方が立たず、溜め息がこぼれた。
今のクフシーンカには、遺族の悲しみがわかるだけに、星の標への報復を止められる有効な手段をみつけられない。
これがまた、新たな報復の芽になるかと思うと、遣る瀬なかった。
ひとつ、いいこともあった。
山中のクブルム街道が間もなく、西端の北ザカート市から東端のリストヴァー自治区まで、完全復旧する。ネミュス解放軍は約束通り、力ある民の職人を手配して作業に当たらせたのだ。
自治区民が手作業で行った時は、数百人掛かりで延べ数カ月掛けても、ゾーラタ区の手前までしか掘れなかったが、魔法使いたちはほんの一カ月程で、ネーニア島をほぼ横断した。
【魔除け】の敷石が露出し、迷わず安全に歩けるようになったが、まだ土留め工や休憩所の整備が残る。
街道脇には【結界】に護られた休憩所跡が点在し、力ある民の技術者たちの調査で、術がまだ有効だとわかった。雨風を凌げるよう、これから小屋を建ててくれると言う。
自治区に近い三カ所は罹災者支援事業として、自治区民が小屋の建築作業に携わり、区内の有力者たちが資金を出し合って日当を支払うことになった。
魔法使いの職人には、ウヌク・エルハイア将軍が賃金を払うと言う。
古い道が掘り起こされ、新たな可能性を拓いてくれたが、それを活かしきれないのがもどかしかった。
湖の民の運び屋フィアールカも約束通り、週に一度は救援物資を届けてくれる。
戦争のせいで【無尽袋】が足りないとのことで、充分な量が行き渡らないことが多い。少ない物資を巡って諍いが起き、クフシーンカは仲裁に忙しくなった。
「店長さん、今日は農家の人が来て、サカナってモンをくれました」
「これ、どうやって食うんスか?」
街道の小屋を見に行った青年たちが、麻袋抱えて戻ってきた。開けてみると、魚の干物がぎっしりだ。
「干してあるから、二、三日は持つわね。そのまま焼いてもいいし、スープの具にしてもおいしいわ」
「スゲェ」
「ただ、骨に気を付けないと、刺さって痛い目に遭いますよ」
自治区側から、古着を解いて拵えた袋やクッション、敷物などを置いておくと、数日後にゾーラタ区の農家が手紙付きで食べ物を分けてくれる。
自治区外、それも力ある民とのささやかな交流が始まり、ほんの僅かでも、相互理解の扉が開いたのが救いだった。
☆ネミュス解放軍の襲撃……「893.動きだす作戦」~「906.魔獣の犠牲者」参照
☆教会の建物(中略)魔術が組込まれていた……「432.人集めの仕組」「555.壊れない友情」「0858.正しい教えを」「0860.記された呪文」「0861.動かぬ証拠群」参照
☆無原罪の清き民……「182.ザカート隧道」参照
☆クフシーンカも、自宅兼店舗を破壊され……「918.主戦場の被害」「0940.事後処理開始」参照
☆あの冬の大火……「054.自治区の災厄」「055.山積みの号外」参照
☆昨年の罹災者支援事業でクブルム街道を発掘/自治区民が手作業で行った時……「419.次の救済事業」「420.道を清めよう」「442.未来に続く道」「453.役割それぞれ」「480.最終日の豪雨」「550.山道の出会い」参照
☆区長とFMクレーヴェルのDJが要請……「920.自治区の和平」参照
☆ネミュス解放軍に「星の標は異端である」と事実を突きつけられた……「0942.異端者の教育」参照
☆星の標に身内や友人を殺された者たち……「859.自治区民の話」「900.謳えこの歌を」参照
☆彼らが武装解除された……「921.一致する利害」「0939.諜報員の報告」参照
☆クブルム街道が(中略)完全復旧する……「0940.事後処理開始」「0941.双方向の風を」参照
☆運び屋フィアールカも約束通り、週に一度は救援物資を届けてくれた……「0941.双方向の風を」参照
☆骨に気を付けないと、刺さって痛い目に遭います……「631.刺さった小骨」参照
▼クブルム街道は、ネーニア島をほぼ横断する。




