0979.聖職者用聖典
昼メシの後、奥の部屋に案内された。
他の大人たちは忙しいとか言って他の部屋に散らばった。
「いいこと? 今日、ここであったコトは、誰にも内緒よ」
「仲良しのお友達が信徒でも、内緒にするんだよ」
「何で?」
モーフは、イーヴァ議員と最初のおっさんに口止めされ、純粋な疑問が口をついて出た。
「秘密を知る者はなるべく少ない方がいい。万が一、ネミュス解放軍に聖典の存在が漏れたら」
「悪しき業で燃やされるかもしんねぇから?」
「そうよ」
「俺はいいのか?」
少年兵モーフは、後で口封じに殺される可能性に思い至り、背中にうっすら汗が滲んだ。平気なフリで聞くと、おっさんがメドヴェージのように馴れ馴れしく肩を叩いた。
「坊やは聖句もちゃんと言える敬虔な信徒なのに、今まで聖者様の教えを授けてくれた人の他には、知られていないんだろう?」
「うん。……多分、バレてねぇと思う」
「この状況で湖の民に知られたら、今頃、命がなかったでしょうね」
薬師のねーちゃん、葬儀屋のおっさんに市民病院の呪医、運び屋のねーちゃんも漁師の爺さんも、モーフがよく知る湖の民は誰も、信仰の違いで人殺しなんかしない。
言い返したいのをぐっと堪えて二人を見た。
「クレーヴェルの解放軍は、あちこちで隠れキルクルス教徒狩りをして、女性や子供たちにも情け容赦ない。いいね。決して、聖者様への信仰を知られないようにするんだよ」
「うん。でも、何でバレたんだ? 仮設に来る湖の民のボランティアも、みんなが聖句っぽいの言って励まし合ってんの聞いて、一緒に言うようになってたのに」
モーフは、情報収集するようになってから、ずっと心に引っ掛かっていたことをやっと言葉にできた。
あちこちの街の仮設住宅で、湖の民も変質したスローガンを口にするのは何故なのか。
下手なことを言って警戒されたり、信徒だとバレたら厄介なことになりそうで、今まで誰にも聞けなかった。
二人は驚きに目を見開き、無言でモーフを見詰める。
モーフが痺れを切らして何か言ってやろうとしたところで、やっとイーヴァ議員が口を開いた。
「湖の民が聖句に似た言葉を口にしたと言うのは、私も初耳よ。どこの仮設?」
「あっちこっちだ」
「チェルニーカ市の他の仮設も?」
「全部の仮設は知らねぇけど、港の近くんとこは言ってたし、チェルニーカに来る時に通ったあっちこっちの街でも言ってたぞ。呪符泥棒もあっちこっちに出てたし」
あまり詳しく言うと、移動販売店のみんなに迷惑が掛かりそうな気がして、テキトーに誤魔化した。
おっさんが、やさしく微笑を浮かべた。
「呪符泥棒は心配いらないからね」
「えっ? でも、冬に【耐寒符】盗られて困ったって仮設の婆さんたちが……」
このチェルニーカ市でも他と同様、仮設住宅で呪符泥棒が横行していると何度も耳にした。モーフだけでなく、情報収集に出たみんなが言うのだから、全ての仮設で事件が起きたとみて間違いないだろう。
……なのに、何が大丈夫なんだよ?
おっさんが微笑を引っ込めて、恐ろしげに言う。
「呪符という物はね、タダの紙切れじゃないんだ」
「穢れた力を持たない無原罪の清き民を邪悪な闇に引き込む恐ろしい物なのよ」
「えぇー……?」
それと、現に呪符泥棒が出るこの街で、呪符泥棒の心配が要らないことが、どう繋がるのか。モーフは話が全く見えず、首を傾げた。
「呪符を使ったコト、あるかい?」
「ねぇよ、そんなモン」
モーフが吐き捨てると、おっさんは心底、安心したと言いたげな顔をした。
「呪符には穢れた力が籠もっていて、我々力なき民でも、呪文を唱えるだけで悪しき業に手を染め得る物なんだよ」
「だから、各地の同志が回収して、焼き清めてるのよ」
「呪符泥棒ってお前らだったのかよッ!」
モーフは思わず叫んだ。
隠れ信徒の二人が、憤る少年に憐みの目を向け、やさしい声で言い聞かせる。
「驚かせてごめんなさいね。でも、泥棒なんかじゃないのよ。落ち着いて、よく聞いてくれる?」
「ちょっと、そこに座って話そうか?」
おっさんがモーフの肩に馴れ馴れしく手を置いて、立派なソファに座らせる。
敵陣のど真ん中で、ソルニャーク隊長もメドヴェージのおっさんも居ない。少年兵モーフは今更ながら、自分一人どころか、ここに居ることさえ仲間の誰も知らないことに気付いた。
……落ち着け、俺!
ひとつ深呼吸して、改めて部屋を見回した。
入ってきた扉の他に出入り口はない。ひとつだけある窓の外は庭だ。木の形に見覚えがあった。最初の廊下から見えた中庭なのだろう。
トラックの荷台の二倍くらいの広さで、壁際を背の高い本棚が埋める。中央にソファとローテーブルが置いてあった。
図書館に似ているような気がしたが、背表紙の色は大体どれも似たような色で、図書館よりずっと地味な雰囲気の部屋だ。
モーフが大人しくしていると、おっさんが隣にどっかり腰を降ろした。
イーヴァ議員が、カーテンを閉めて右側の本棚に手を伸ばす。本棚の一部が少し引っ込んだかと思ったら、引き戸のように動き、奥から小型金庫の扉が現れた。
国会議員が迷いのない手つきでダイヤルを回し、金庫から大きな本を引っ張り出す。重そうによたつきながら、ローテーブルに置いた。
紺色に染められた革の表紙は夜空を表す。
その中央に星をちりばめた楕円が、金色で描かれていた。
聖なる星の道。
キルクルス教の聖印だ。
複雑な飾り文字もあるが、モーフにはひとつも読めなかった。
「これが、司祭様の聖典?」
モーフが図書館や本屋で見たどの本よりも分厚くて立派だ。
二人は少年が機嫌を直したと見て、にっこり微笑んだ。
「そう。これが、聖職者用の聖典よ」
「バルバツム連邦の敬虔な信徒の方が、ネモラリス共和国で苦難に堪える信徒の為にって、個人で寄贈して下さったんだよ」
「ディケアの会社に百冊も預けて下さって、そこからリャビーナの倉庫会社に届けられて、少しずつ送って下さったの」
「司祭様って、自治区じゃねぇとこに百人も居んの? 何で?」
モーフがどうにか質問を絞り出すと、二人は笑った。
「今は居ないの。だから、指導者の居ない無原罪の清き民が、悪しき業に毒されてしまわないように、呪符を処分しなくちゃいけないのよ。わかる?」
「う~ん……難しくてわかんねぇよ」
さっきから、全然話が繋がらない。
モーフは苛立ちを抑え、立派な聖典を見詰めた。
……司祭様だったら、こんな時、どうすんだろうな?
モーフは、長らく会っていない慈悲深い微笑を思い出して少し心細くなった。
「でも、私たちがキルクルス教徒だって知られてはいけないのは、わかるわよね?」
「うん。解放軍の連中にバレたらオオゴトだもんな」
素直に頷いてみせると、イーヴァ議員は嬉しそうに続けた。
「だから、誰にも内緒で呪符を処分しなくちゃいけないのよ」
……何が「だから」だよ。さっきから意味わかんねぇコトばっか言いやがって。
「……そこんとこ、難しくってわかんねぇよ」
モーフは、向かいに座る国会議員のババアを眉間に皺を刻んで上目遣いに睨んでやった。隣のおっさんが苦笑交じりに説明する。
「さっき坊やに教えたみたいに、詳しい訳を話して処分させてもらったら、キルクルス教徒だと知られてしまうだろう?」
「あッ! ……でも、聖者様だったら、こんな時どうすんだろうな? 何かいいコト書いてない?」
盗んで燃やすのではなく、何故、作った人や配った人に返すのではダメなのか。
教会には、礼拝後の飴玉を目当てに通った。
自治区に居る間はずっと、平日は仕事で朝から晩まで忙しく、休日も姉が作る蔓草細工の素材や食べられる草や虫を集めにあちこち駆けずり回って忙しかったが、休日の礼拝だけは欠かさなかった。
……司祭様は、他人のモン盗っちゃダメだっつってたのに。
その言葉は、現実との矛盾と共に、モーフの心の奥深くに今もくっきりと刻まれている。
イーヴァ議員が胸の前で小さく楕円を描いて立派な表紙を捲った。
「失礼します。イーヴァ先生、お電話です」
「あ、あら……」
議員のババアは、ノックと同時に声を掛けられ、目次を捲る手を止めて腰を浮かした。聖典を金庫に片付け、あっという間に本棚を元に戻して出て行く。
「マーク、この子を車で仮設に送ってあげて」
見る物がなくなってしまったモーフは、肩を落として、聖典が仕舞われた場所を見た。
部外者のモーフに見られたからには、後で移動させるかもしれないが、取敢えず今の隠し場所を記憶に焼きつける。
「また今度、見せてもらっていい?」
「ここは、大人の人が難しい用事で集まるところだからね」
「子供はダメなんだ?」
「今回だけ、特別だよ。それと、知らない人の車に勝手に乗っちゃダメだよ。悪い人だったら、殺されて魔法の道具の材料にされるかもしれないからね」
「えぇッ?」
おっさんに怖い顔で言われ、モーフは声が裏返った。
「悪しき業とは、そう言うものなんだよ。さ、暗くならない内に帰ろう」
少年兵モーフは素直に部屋を出て、廊下の道順を頭に叩き込んだ。最初の暗い部屋は車庫で、来た時のワゴン車とは別の乗用車に乗せられた。
港の近くにある公園の仮設住宅で降り、集会所で一時間くらい潰して住民のフリをする。
夕飯の買出しで賑う商店街の人混みに紛れて、移動販売店のトラックに戻った時には、すっかり日が暮れていた。
☆最初のおっさん……「0973.聖典を見たい」参照
☆隠れキルクルス教徒狩り……「746.古道の尋ね人」「793.信仰を明かす」「806.惑わせる情報」「0969.破壊後の基地」参照
☆あちこちの街の仮設住宅で、湖の民も変質したスローガンを口にする……「773.活動の合言葉」「774.詩人が加わる」「791.密やかな布教」「817.浮かばない案」「832.進まない捜査」「833.支部長と交渉」参照
☆湖の民が聖句に似た言葉を口にした……「817.浮かばない案」参照
☆ディケアの会社に百冊も預けて下さって、そこからリャビーナの倉庫会社に届けられて……「0958.聖典を届ける」「0976.贈られた聖典」参照
☆礼拝後の飴玉を目当てに通った……「372.前を向く人々」「887.自治区に跳ぶ」参照
☆来た時のワゴン車……「0973.聖典を見たい」参照
▼キルクルス教の聖印「聖なる星の道」




