陽だまりの中、手を繋ぎ
講義室のざわめきがすっと引き、またすぐに漣のように広がった。前方のドアが開いたものの、入ってきたのが担当教授ではなく学生課の職員だったからだ。その時点で休講は決まったようなものだ。
「えー、本日の小賀先生の講義は、先生の体調不良により休講となりました」
壇上のマイクを通して伝えられるやいなや、わっと歓声が上がる。若葉は周りが次々と笑顔で席を立っていく中、むうっと口を尖らせた。郊外の自宅から電車を乗り継ぎ一時間ちょっとかけて通学している若葉には、急な休講はあまりありがたくない。一コマ目のこの講義に出るためにラッシュに揉みくちゃにされた時間を返せ、と思う。
「若葉ぁ、ほら、行こ」
友人たちに促され、ふーっと長息してから立ち上がった。出口に向かう学生たちの流れに混じって廊下に出ると、向かい側の講義室からもぞろぞろと学生が出てくるところだった。
「あ」
その中に颯真の姿を見つけ、若葉は思わず声を上げた。颯真の方も若葉に気づき、二人は揃って破顔する。
「ごめん。あたし、ちょっと、」
「はいはい。またあとでねー」
友人たちに断りを入れると、ニヤニヤ顔でひらひらと手を振られた。若葉は申し訳なさそうにちょっとだけ顔をしかめる。友達より彼氏を優先させる瞬間というのはどうにも気づまりだ。颯真も一緒に講義を取っている友人に断りを入れたようで、片手で手刀を切っているのが見えた。二つの講義室から吐き出された学生たちは、エレベーターホールのある東側と、学食やラウンジの入った棟への連絡通路がある西側へと分散していく。二人はその流れを見送る形でその場に留まり、目で笑い合いながら近づいた。
「そっちも休講か?」
「うん。颯真、この後は?」
「三コマと四コマだけ。若葉も二コマ目は入ってなかったよな?」
颯真の言葉に頷いてから、「でも、」と若葉はげんなりした顔になった。
「あたし、今日は三コマから五コマまでびっちりだよー」
「俺と大して変わらないじゃん」
「えー、ぜっんぜん、違うよ。五コマ終わる頃にはもう真っ暗だし、また帰りもラッシュにぶつかるし」
愚痴る若葉を宥めるように颯真が柔らかく笑う。
「まぁまぁ。じゃあどうする? とりあえず学食行くか? それとも外、出るか?」
「う~寒いから、とりあえず学食行こ」
「おっけ」
颯真と並んで歩き出しかけ、若葉は何気なく後ろを振り返った。エレベーターホールに向かった学生たちの姿は既になく、向き直った先にも人影はない。キャンパスは確かに広大だが、学生数も相当なものだ。それでもこうしたエアポケットのような無人の空間に出くわす瞬間がある。ガラス張りの連絡通路は穏やかな冬の陽光が降り注ぎ、スポットライトで照らされた舞台のように白く輝いていた。
──今、二人きりだ。
改めてそう自覚するのと、腕を取られたのはほとんど同時だった。連絡通路の手前にある柱に背中が押しつけられる。
あ。
と、思った時には唇を塞がれていた。颯真の伏せられた睫を呆けたように見つめていたのはほんの一瞬で、反射のようにきつく目を閉じる。上唇と下唇を交互にはまれ、角度を変えて唇が繋がって、頭の芯が甘く痺れた。
ゆっくりと離れていく唇を追うように颯真を見上げると、イタズラが成功した子どものように愉しげに笑っていて──、若葉はじろりと彼を睨めつけた。
「なんだよ」
「だって、こんなところで・・・」
言い淀み、決まり悪そうに両肩を竦め俯く。
「他に誰もいないだろ」
「だけど、もし誰か来たら──」
「誰も来なかっただろ」
「それは結果論!」
事も無げに答えるケロリとした態度がなんとも小憎らしい。若葉が噛みつくような勢いで応酬するも、颯真は余裕たっぷりに笑みを深めるばかりだ。
「──じゃ、嫌だった?」
長身を折り曲げ、颯真がわざと下から覗きこんでくる。その顔は「嫌じゃなかっただろ」と言わんばかりのしたり顔だ。否定しようにも真っ赤になった顔は隠しようもなく、若葉はうう~っと悔しげな唸り声を上げた。
「ほら、行くぞ」
手を繋がれ、指を絡められる。ささやかな意趣返しに思い切り力をこめたら、握りつぶさんばかりの強さで握り返された。
「いたたたたっ、ちょっと手加減してってば!」
「してるって。──他にもいろいろとな」
「え?」
怪訝そうに目をしばたくと、諦めたような苦笑い顔で小さく息をつかれた。
「ま、そのうち分かるよ。つーか、分かって下さい」
「なにそれ」
ぺこりと殊勝に頭を下げてみせた颯真がおかしくて、若葉は小さく吹き出した。調子に乗って繋いだ手で颯真を軽く小突く。途端、またも万力で締めつけるように強く握られた。
「痛い痛いっ、ギブギブギブッ!」
ぎゃーっと悲鳴を上げた若葉に、颯真が満足げに口角を上げる。恨めしげに見上げるも、視線を絡め合うとなぜだか笑いがこみあげてきて、結局、若葉は颯真と一緒に笑い合った。その間も繋がれた手は解かれぬままで──、連絡通路を渡る二人の影は弾むように楽しげに揺れていた。