08◆8月-2
「ここが秋津島だよ」
だだっ広い空き地に立って、深森は言った。
周辺の草原とは一線を画し、長細い赤茶けた平らな地面。それがかろうじてそこを滑走路に見せている。いや、ここにセスナ機が着陸しなければ、やはり滑走路とは思えないかもしれない。それほど何もないところだった。
「秋津島――日本の古名」
「アインは物知りだな。一応、所有者は俺ってことになってるんで、適当に名前を付けただけさ。呼び名がないと困るって人もいるんでね。まぁ、洒落だわ」
旅行先へ向かう飛行機が小型のセスナ機だと判った途端、神南に思い当たる行き先はたったひとつとなった。綾女の手配にしては少々引っかかるものを感じないでもなかったが、諸々の事情を鑑みれば妥当というところだろう。どこへ行こうとも賢人会議の影がちらつくのは仕方がない。当然、待ち人もいるはずだった。
「じーさまが待ってる。行くぞ」
飛び立つセスナ機を見送り、神南は地べたに置かれていた荷物を担ぎ上げると歩き出した。
どこに行くのかも言わない。膝丈までに伸び放題になっている草原の中、獣道とおよそ変わらないところを後ろを振り向きもせずに歩いていく。
どんなところを歩かされるのか判っていたのだろう、今日はパンツスタイルの深森がその後に続く。
「アインも早くおいでよ!」
状況が把握できないアインは、しばし呆然としていた。
セスナから見たこの島は、決して小さいとは言えなかった。出発地点からの進路や飛行時間などから推察するに、どうやら日本から東北東に2000kmというところだろう。だがそのあたりに島があっただろうか。少なくともアインの記憶にはない。それは地図には載っていないというのと同義だった。
「アイン?」
「――いま行く」
アインは少ない荷物を手に、深森の後を追う。
「びっくりしたでしょ」
追いついたアインに、深森は笑いかけた。
「深森もね、数えるくらいしか来たことがないんだ。ホントに何にもない島なの。でもね、遊ぶところはいっぱいあるんだ。それが楽しみ」
「深森。宿題は?」
からかうように神南が言う。
「ちゃんと終わらせてきたもん! ……少し残っちゃったけど。あ、おにいちゃん。絵の宿題があるの。ここの景色、描いてもいーい?」
「だめー。言ったろ? ここは秘密基地なんだから」
「どこの景色かは言わないから。ね?」
「ねだってもダメだよ。俺が許しても、沙雪のやつが怒るだろうよ」
「そこでなんで叔父さまが出てくるのよぅ」
「それも秘密です」
おどけた表情で深森と喋る神南を、アインは新鮮な思いで見ていた。屈託なくはしゃいでいる様子の神南も珍しかったが、なによりも自分が他人の様子を気に留めているということが新鮮だった。今まで何も見ていなかったのかもしれないと、アインはこのとき初めて思った。
少し歩いている間に、勾配がきつくなったのをアインは感じた。風景はまだ変わらない。膝丈まで伸びている草が足下を危うくしている。
「ヘリにすれば良かったのに」
神南が言った。
「でもぉ。それだとおにいちゃんすぐに判っちゃうじゃない? つまんないもん」
「最初から見当はついていたさ。セスナと判った時点で確定したな」
「むー。ならそうすればよかった。そしたらお家の前に降りれたのにねー。綾女おねえちゃん、今回ばかりは見込みはずしたのかな」
セスナを指示したのが綾女だと知ると、その思惑がどのあたりにあるのか神南には判ってしまった。おそらくアインに自然の中を歩かせようと思ったのだろう。いろいろと考えるものだなと感心する。
「まぁ、たまにはいいだろう、歩くのも。アイン、足場が悪いが大丈夫か?」
しんがりを歩くアインに声をかける。
「訓練よりまし。問題ない」
「えー、訓練って、なんの?」
無邪気に深森が尋ねる。
それにアインが何と答えるのか、神南は興味があって黙っていた。
「…………」
アインは無言で返した。
「それも秘密のこと? みんなして秘密ばっかりなんだから。深森にだけ秘密がないのは淋しいなぁ」
深森は勝手に納得する。
「深森に秘密は無理だな」
「どうしてそう思うのよ、おにいちゃん。いい女には秘密がつきものなのよ? 深森にも秘密があってしかるべきだと思わない?」
どこでそんな知識を仕入れてきたのかと苦笑しながら、神南は答える。
「秘密ってのは誰にも言えないってことなんだぞ?」
「平気だもん。ここのことだって誰にも言ってないよ? 深森だって秘密くらい守れるもん」
膨れっ面で深森は答えた。その様子がまた愛らしくて、神南は笑みを深める。
「ここのことは沙雪には喋ってもいいだろ? 深森が秘密を約束している他のことだって、言っても構わないって人がいるだろ? 本当の秘密にはね、そういう人もいないんだ。たった一人で守っていかなきゃいけない秘密もあるんだよ」
深森は思案顔になる。本当にできるか考えているのだろう。
しばらくして、降参するように言った。
「深森には無理かもしれない。すごいね、おにいちゃんもアインも」
「別に」
素直に称賛を浴びせかける深森に、アインは照れたようだった。
草原がぷっつりと途切れた。
土が掘り起こされていて、ちょっとした畑になっている。里芋畑を抜けると、トマトやキュウリなど夏野菜がたわわに実っていた。
神南はそこで足を止めると、真っ赤に熟しているトマトをひとつ、もぎ取った。
「ほら。美味いぞ」
ここの野菜が無農薬で栽培されているのを知っている神南は、軽く汚れをふき取っただけでそのままアインに渡した。
神南は趣味の領域で料理をする。だからかもしれないが、旬にはかなりこだわっている。ほとんどの野菜は、多少割高になろうとも無農薬または低農薬の露地物を、生産地から直接買うことにしている。それでもこうやって目の前でとったばかりのものとはやはり味が違う。
「深森も。汁気たっぷりだから気をつけろよ」
もうひとつもぎ取って深森に渡す。
「ありがとう。深森ねぇ、野菜の味にうるさくなったって、ママに言われたのよ。ここで食べる野菜のせいかなぁ」
「そうかもな」
神南は自分用にもひとつもぎ取ってかぶりつく。完全に熟しているトマトには、青臭さなどどこにもない。
服を汚さないように気をつけながら食べる深森は、それでも喋ることをやめない。
「それでね、ここに来るようになってから野菜嫌いが直ったってママは喜んでるの。でもぜいたくだって言うのよ。ハウス物を食べてくれるといいのにって。だけどおいしくないのを我慢して食べるのって嫌なんだもん」
アインはそのお喋りを心地よく聞いていた。
ずっと人の声とはうるさいものだと思っていた。こちらが喋らなければ相手も必要なことしか話さなくなると判ってからは、余計に言葉が少なくなったように思う。
そういえば、とアインは気付く。
今は神南の声もうるさいとは感じていない。
確かに始めの頃はうるさかった。煩わしいと思った。いくら言葉少なに応じていても、神南の言葉が少なくなることはなかった。うるさいほどにアインの名を呼び、話しかけてくる。名前を連呼されるのも珍しい経験だった。
それが今では嫌ではない。人の声に慣れたのだろうか。
アインは考え込みながらトマトを口にした。
「おいしい」
言葉が口をついて出る。
神南は少し傷ついたような表情をしてみせた。
「俺の料理にはそんなこと言ったことないのに」
拗ねたように言う神南に、アインは戸惑った。それが表情に出る。
神南はその微かな変化を見て少し微笑んだ。
「おにいちゃんのご飯はおいしいのよっ!」
フォローのつもりだろうか、深森が力説する。
「深森、ありがとう。そのうちアインにも美味いと言わせてやるよ。乞う御期待ってやつさ」
手に付いたトマトの汁をウェットティッシュでぬぐうと、神南は畑の向こうに見える家屋に目を向ける。平屋の一軒家だ。家の前には誰か立っているようだった。
「じーさま、待ちきれなかったようだぞ」
「あ、ほんとだ!」
深森は駆け出す。左手で持っている荷物に少しバランスを崩されながらも、右手を大きく振って叫ぶ。
「おじいちゃま〜!」
アインは説明を求めるかのように神南を見上げた。
その視線に気付きながらも、神南はあえて無視した。先回りして言葉をかけることをやめたのだ。
その意図が通じたかどうか定かではなかったが、アインは言葉短く尋ねた。
「彼は?」
「ここの管理人。通称『じーさま』。本名は俺も知らないな」
「この島の所有者はカンナミ……さんだとさっき言ってた。正体の知れない人物に管理を任せるのはどうかと思う」
深森が聞いていないというのに、アインは言われたままに敬称をつけて神南の名を口にする。昨日の今日では流石にまだ慣れていないと見えて、少し躊躇いが残っている。
それをほほ笑ましく思いながら神南は答えた。
「正体は俺が知らないだけ。この辺になるといろいろと機密事項が絡んでくるんで詳しくは言えないんだが、確かな筋からの派遣なんでね、正確にはじーさまを信用しているというよりは、派遣元を信用してるってことになるかな」
神南は少し嫌そうな顔をして言葉を切った。
信頼しているわけではない。正しく心情を述べれば、アインに余計に指摘されそうだったので、無難な言葉を選んだつもりだった。それがここまで実情にそぐわないとは、神南自身も口にしてみるまで気付かなかった。
だが嫌そうな顔はすぐに消え去り、神南は言葉を続けた。
「彼の人となりは自分で確かめるんだな。信用に値するかどうかはアインが決めることだよ」
「了解」
アインの目つきがまるで戦場にいるかのように鋭くなった。
その育ち方から考えればそれも当然と言えるのだろうが、神南はまず信頼から始めることのできないアインに、少し淋しさを感じた。
面と向かってみるとその老人には威圧感があった。白髪と口許が見えぬほどに豊かな白い髭が彼を老人と見せているのであって、それらが黒々としていればとても『老人』と呼べるものではない。身長はそれほど高くはないが、背筋はしっかりと伸びている。二の腕は深森の腰ほどの太さがあり、肩幅も広ければ胸板も厚い。肉体労働をしているのは体つきから一目でわかる。目つきは鋭く、アインを値踏みしているかのように見ている。
その鋭い視線を跳ね返すように、アインはその老人を見た。
神南は自分で判断しろと言った。見た目は判断材料にならない。アインはまだ警戒を解いてはいなかったが、ほとんどの場合、それが彼にとってのニュートラル状態であった。
「こちらが崎守輝人さん。深森は『おじいちゃま』って呼んでるの。それで、こちらがアイン・シュヴァルツさん。おにいちゃんと一緒に住んでるのよ」
一種緊迫した雰囲気の中、それに気付かないのか、深森はいつものように朗らかに互いを紹介する。
崎守の目許が和らぐ。そうするとまるっきり印象が変わる。どこか神南に似た、人好きのするような笑顔になる。
「よく来たな。神南くんからここの管理を任されているものだ。よろしく。私のことは『じーさん』とでも呼んでくれればいい。ここにいると自分の名前も忘れるもんでな」
「僕は『アイン』でいい。……よろしく」
「おじいちゃま、自分の名前も忘れちゃうの? じゃあ深森、おじいちゃまを名前で呼んであげるね。忘れないように」
深森は崎守の腕にぶら下がるようにして言った。
「おやおや。私は深森に『おじいちゃま』と呼ばれるのが好きなんだがね」
深森を片手でひょいと抱き上げ、崎守は答えた。
「でもおじいちゃまが自分の名前忘れちゃうんでしょ? それは嫌だもん」
「深森のおじいちゃまではいかんか?」
「うーん、でもぉ」
深森は納得しない。
「じゃあ、俺が『崎守さん』とでも呼んでやろうか」
神南が口を挟んだ。こちらは完全に面白がっているような口調だった。
「……それは嫌みかね、神南くん」
「冗談だよ。元気そうで何よりだ、じーさま」
「おまえさんこそな。で、今回はどれくらい滞在できるんだ?」
「ケチな時管局が2週間もの休みをくれたんでね、のんびりと羽を伸ばさせてもらうさ」
そのまま崎守の呼び名についてはうやむやのうちに流し、神南は深森に目を映す。
「深森。アインとその辺で遊んでこいよ。俺とじーさまで飯作っとくから」
「え! おにいちゃんとおじいちゃまの作るご飯? 期待してていいんだよね?」
すっかり気をそらされ、深森はきらきらと期待に満ちた目で双方を見る。
「じーさまがちゃんと材料を確保してくれてればな」
「もちろんだとも。もっとも、神南くんの気に入るような食材かどうかは保証しないがね」
「なーに言ってんだか」
「そうだよぉ。おにいちゃん、おじいちゃまに料理を習ったって、深森聞いたよ?」
深森は楽しそうに笑いながら、崎守の腕から滑り降りる。
「お部屋はいつものとこでいいんでしょ? アインは?」
「その隣がいいんじゃないか?」
崎守が答えた途端、深森は走りだした。荷物を持たない方の手でアインを引っ張るのも忘れない。
「じゃ、荷物置いてくるね!」
家の中に走り込む子供たちの後ろ姿を見て、神南は苦笑とともに言葉がもれる。
「元気なものだ」
「まるでおまえさんは元気じゃないみたいな言い方だな」
崎守が混ぜ返す。
「子供ほどの元気は流石にもうないさ」
荷物を担ぎ直し、神南は玄関の戸をくぐった。
今ではほとんど見られなくなった土間があり、そこを上がるとすぐ囲炉裏がある。
神南はそのまま囲炉裏端をつっきって、玄関とは逆側になる台所へ直行した。そこもまた土間になっていた。荷物は台所からの上がり口に置いておく。
「おにいちゃん、行ってくるね!」
部屋に荷物を放り込んだだけなのだろう、深森が台所に顔を出す。その後ろにはアインの顔も見える。
「気をつけてな。探検は明日にしとけよ。小一時間で飯にするからな」
「はーい! アイン、行こ?」
神南の注意を半分聞きながら、深森はアインの手を取って駆け出していった。
「ところで、あの名前はなんだ?」
深森たちが外に出ていったのを確認して、神南は崎守に言った。なにやら苦い口調である。
言いながら流しに立つ。答えを期待していないかのように、流しにあった採ったばかりの野菜を流水で洗い始めた。
「お嬢ちゃんにまで名無しでいるわけにもいかんだろう。それにあの坊やに私を何と紹介するつもりだったんだね?」
崎守――そう深森がアインに紹介した老人は、上がり口に座ったままで答えた。
「そりゃそうなんだけどさ。まぁ、適当に誤魔化そうとは思ってたよ。しっかし誰の趣味だよ、『さきもり』だなんて。しかも『てると』ときたもんだ」
「さてね。私の関知するところではないな。それよりも、おまえさんのことはあの坊やも知ってるのか?」
それによって対応が違ってくるのだろう、崎守は尋ねた。
「いまんとこは知らないはずだな。俺は言ってない。が、あいつのことだ、なんとなくは察してるかもしれん」
「知られても構わないと?」
意外なことを聞いたと言わんばかりの口調だった。
「宣伝して歩くようなことでもないし、賢人会議以外のどっかの馬鹿がしゃしゃり出てきても困るんでばらしまくられるのも嫌だが、あいつならまぁいいかと思ってるよ」
「それはあの坊やをそこまで信頼しているということか?」
神南は水を止めて振り返った。そこには呆れたような表情が浮かんでいた。
「今回のメンテ、誰だったんだよ。まるで綾女さんみたいじゃないか」
「おや。判るかね?」
意外な答えが返ってきて、神南は驚いた。あれほど賢人会議によい印象を持っていない綾女が、自ら関わるとは思ってもいなかったのだ。
「……嘘だろ……?」
「彼女の人脈と根回しの巧みさ、勉強するんだな。ああ、そうそう。ここだけの話にしておいて欲しいのだが、メンテナンス要員はすべて彼女の息が掛かっているものにすり替わっている。賢人会議には適当な情報が流れるようになっているよ」
神南は天井を仰ぎ見た。
なるほど、それならば綾女がここを選ぶわけだ。
そこだけが神南の納得いかないところだった。賢人会議となるべく関わり合いを持ちたくないと思っていることを綾女は知っている。それなのにこの島を選んだのは、綾女らしくないと思っていたのだ。確かにここは神南にとって『田舎』と呼べるようなところである。だがこの島の提供者が賢人会議だと知っている綾女が、神南の旅行先にと選ぶ場所ではなかった。
「やってくれるよ。あいつもどうしてそういう能力を自分のためじゃなく俺に使うかなぁ。放っておけとあれほど言ってるのに」
それには曖昧な笑みで答え、崎守は別の話を振ってくる。
「それはそうと、おまえさんに伝言があるのだが」
「伝言? なんかやな感じだな」
この手の予感に外れはない。聞きたくないとは思ったものの、聞かなかったときのデメリットもバカにできない。神南は覚悟を決めた。
「誰からだって?」
「おまえさんには意外な人物かもしれんよ。――おまえさんのお母上からだ」
「はい?」
神南は耳を疑った。
事故に遭ってからというもの、家族とは疎遠になっている。文面での連絡も義理めいたものしかやりとりがない。昔と変わらぬ姿でどう応じろというのか。神南はそこまではまだ達観していなかった。
「幸枝さんが? 今更何を」
「たまには家に戻ってきなさい、だそうだ。それからお父上が亡くなった」
神南は大きく溜息をついた。それで気持ちを落ち着ける。
「その伝言の順番は違うだろうが。京市さんの訃報が先じゃないのか?」
重要度を考えれば神南の言うとおりだろう。だが崎守は首を振った。
「おまえさんのお母上はその順で言付けていった。ならばそのとおりに伝えるのが筋というものだろう?」
「あの人らしい。……で、ほかには?」
「結局お父上は、最後までおまえさんは死んだものとしていたそうだ。だからおまえさんを臨終にも呼ばなかったし、葬儀も勝手に済ませたと言っていた」
神南は父の顔を思い浮かべた。まだ若いのにと思い、神南は苦笑した。覚えている父の姿は約30年前のものだということを思い出したのだ。80を過ぎた父の姿など想像もつかなかった。
「それでいいさ。そのうち孫のような顔をして墓参りくらいは行っておくか」
「お母上はたまには帰ってこいと言っていたが?」
「どの面下げて帰れるかよ。京市さんが最後まで俺を死んだものとしてたっていうなら、幸枝さんだって表立って否定はしなかったろうさ。そこにのこのこと昔のまんまの格好で俺が帰る? 誰がそんなバカな真似すると思ってるんだ」
帰りたくないわけではない。
父の死に水を取れなかった実感はまだ沸いてはこないが、側に母がついていてくれたのならそれでいいと思う。
では、母の時はどうだろう。死に水をとってくれる人はいるのだろうか。一人息子――神南のことだ――とは疎遠になっており、親類縁者は遠方にしかいない。
神南は不意に心配になった。
まだまだ元気だと思っていた。ただの事故の後遺症と互いに割り切れるようになれば笑顔で会えると思っていた。
だが父は鬼籍に入り、その父と同い年の母もまた、いつの日か逝ってしまうのだろう。
見ないように努めてきたものが、いま目の前に立ちふさがっている。そんな気分だった。
「息子が若いままっていいわねぇ」
崎守が女声を作って言った。
「はぁ?」
「おまえさんのお母上の台詞だよ。みんなに見せびらかしつつ、腕を組んでデートするのが夢なのだそうだ。今すぐとは言わん。帰っておやり」
神南は頭を抱えた。確かに母の言いそうな台詞である。
「あの人は……まったく……」
女は強いなと思う。少なくとも神南の回りにいる女性はみな前向きである。
神南は流しに向き直る。そして蛇口をひねる。勢いよく水が流れ出した。
野菜を洗いながらぽろりともらす。
「もう少しってとこかな」
それは水の音にかき消されるくらいの声だったが、崎守にはちゃんと聞き取れたらしい。
「そのように伝えておこう」
崎守は律義に返答した。
1週間が過ぎた。
神南はひがな一日中、本を読んで過ごしていた。どこにそれだけの蔵書があるのか、毎日どころか、日に3回くらいは本のタイトルが変わっている。
趣味の料理も、ここでは当番制をいいことにサボり気味だった。そもそも当番制を持ち出したのも神南だった。その当番日でも深森にせがまれないかぎりは、神南にしてはかなり手抜きの状態だった。
崎守はこれまたひがな一日中、畑仕事に精を出している。神南たちが来たからといって別段変わりなく、日課を過ごしているようだった。
深森は当番日以外は外で遊んでいる。どこに行くにもアインを連れていく。家事一般の当番も本来は別々の筈だったが、あまりに何もできないアインに苛立ちを覚えたのか、手伝うと宣言してからは一緒にやっている。
そしてアインは、この奇妙な生活にまだ少し戸惑っていた。
神南と同居し始めたころ、何かと干渉してくる神南に戸惑いを覚えたものだが、この1週間はそれの比ではなかった。深森はアインの感情などまるで無視して――いや、無視しているのではない、喜んでいると信じて疑っていないのだ――四六時中つきまとう。正しくは『つきまとう』ではない。あくまでも主は深森であり、従がアインなのだから。
「今日はね、深森の秘密を教えてあげる」
いつものようにアインと連れ立って外に出た深森は、周囲には誰もいないというのにこっそりと耳打ちした。
他人の感情に疎いアインにも、深森が何を期待しているのかくらいは読めるようになっていた。
「秘密?」
興味を持ったわけではない。会話を続けるための記号みたいなものだ。アインにしては格段の進歩だった。だがそれだけでは深森は納得しない。言葉に宿る感情を、深森は敏感に察するのだ。
「もう! 深森の秘密なんて、どうってことないと思ってるんでしょう!」
案の定、深森の声には怒りが混ざる。
「そうじゃなくて……」
口ごもるアインに、深森は諦めたような溜息をついた。
「いいけど。でも、アインも絶対気に入ると思うの。こっち来て」
深森は戸惑うアインの手を引いて家の裏手に回る。
「秘密って?」
先程よりはだいぶ興味を覚えてアインは尋ねた。
深森は機嫌をなおして笑った。
「あのね、裏山に登るの」
きらきらとした深森の瞳に、アインは魅入られた。
「なにがあるの?」
深森の言う『秘密』とは物、もしくは場所のことらしい。アインは好奇心にかられて尋ねた。
深森にもはっきりと判るくらい、その感情は声に表れていた。
「秘密基地」
語尾にハートマークを付けているかのように、機嫌よく深森は答えた。アインの興味を引けたのが嬉しいらしい。それから誰も聞いていないのに声を潜める。
「おにいちゃんにも内緒なのよ。おじいちゃまはずっとここにいるからわかっちゃってるかもしれないけど、でも一応は秘密なの。アインにだけ教えてあげるね」
アインの手を放すことなく、深森は裏山に入っていく。途中から道を外れて、木の枝に結わえてある色褪せたリボンを頼りに道なき道を分け入っていく。
流石にアインの手は放したが、それでも助けを借りることなく、深森は奥へ奥へと分け入っていく。
後から付いていきながら、アインは感心していた。
この1週間で、深森が見た目どおりの深窓の令嬢ではないことは判っていた。活動的といえば聞こえがいいが、要は落ち着きがない。一時もじっとしていられないらしく、あちらこちらと走り回っている。アインもそれにつきあわされたおかげで、島内をくまなく探索できた。
フランス人形を思わせるような深森が、泥汚れを気にすることなく獣道とすら言えないようなところを上っていく。それなりに息は弾んでいるようだが、思った以上に体力はあるらしい。いつ足を滑らしても大丈夫なようにアインは構えているが、その心配はまずないようだった。
「やっと着いたぁ!」
茂みを抜けると、いきなり視界が開けた。
ぽつんと古ぼけた小屋が建っている。
「おじいちゃまは古い炭焼き小屋だって言ってた。深森ね、ここを見つけたときに聞いたのよ。そしたらもう使ってないって。だからこっそり深森の秘密基地にしたの。ご招待するのはアインが初めて」
そう言って深森はまたアインの手を取った。
「こっち」
本来、入り口として使われていたであろう扉には、しっかりと鍵がかかっている。どこから入るのかと思っていると、深森は扉を素通りして裏側に回った。そして、そこの板壁の一部を取り外す。たいして力を入れていないところをみると、既に壊れているようだ。目隠しのために板をはめ込んであるだけなのだろう。
「ここから入るの。ね、秘密基地っぽいでしょ?」
四つん這いになった子供がやっとくぐれるだろうくらいの穴が開いている。
「靴、脱いでね」
深森は一度中に入ってから、脱いだ靴を取るため穴から顔を出した。
「アインも入って」
そう言って靴を持って引っ込んだ深森の後についてアインも中に入った。
中は何もない、がらんとしたただの四角い部屋だった。それでも普段人気がないとは信じられないほど荒れていなかった。おそらく崎守が深森に気づかれないよう、定期的に手入れをしているのだろう。
ぺたりと板張りの床に座った深森は、辺りを見回しているアインを見て照れたように笑った。
「えへへ。なぁんにもないでしょ?」
「……ここで何してるの?」
活動的な深森には似付かわしくなく思えて、アインは尋ねていた。
「なにしてるって、考え事……かな?」
「考え事?」
「うん」
アインにも座るように促して、深森は言葉を続けた。
「深森ね、やりたいことがいっぱいあるの。ありすぎて時間が足りないの。だからね、どれを一番にするか考えるのよ。ねぇ、アインならどうやって一番を決めるの?」
「緊急を要するもの」
アインは端的に答えた。
「別に急ぐものはないのよ。んー、考えようによっては急がなきゃいけないかもしれないけれど」
謎かけのような言葉にアインは深森を見る。
「夢があるの。いっぱい。どれからかなえたらいいのかわからないくらい。アインにもあるでしょ、そういうの」
問い掛けられてアインは戸惑う。『夢』という言葉は知っている。それを定義することはできる。だがそれに見合うものをアインは持たない。任務を遂行するだけで、自発的に何かを行うなど、今まで経験したことはなかった。
「深森の夢は?」
ないと答えるのに何故か抵抗を感じたアインは、代わりに質問を投げ掛けた。
「えーっとね、お医者さんになりたいし、最低5つくらいは言葉を覚えたいし、世界中の国に全部行きたいし、ピアニストになりたいし、女優さんにもなりたいし、それから」
「……もう決まっているみたいだね」
「え?」
「だから、深森のなりたいもの。一番最初に言ったものが一番強く願っていることだと思う」
アインの指摘に、深森は天井を見上げるような仕草で考える。
「うん。そうみたい。お医者さんには絶対になるの。それは決まってるの。だって深森、叔父さまの後を継ぐんだもん」
深森の言う叔父さまとは、神南の主治医のことだろう。確かそのようなことを言っていたとアインは思い出した。
「おにいちゃんのお医者さんになるのよ」
深森の言葉がそれを裏付ける。
「カンナミさんのことが好きなんだ」
ポロリと漏らしたアインの言葉に、深森は呆れ顔で答える。何を今更と思っているのだろう。
「アインはおにいちゃんのこと嫌いなの?」
ストレートに聞いてくる。
「嫌い……じゃないと思う」
まだ感情を言葉にすることは得意ではない。アインはそれでも深森に何かを伝えたいと思った。自分の思っていること、感じていること、それを言葉にしたいと思った。
「アインは面倒くさい言い方をするよね。どうしてちゃんと『好き』って言えないの?」
「……良く判んないから」
「よくわかんない? 深森の方がもっとわかんないよ。だって自分のことだよ?」
深森は首をかしげる。
「深森は素直だよね。……僕はそう作られなかったから」
感情の発露は時として致命的なミスとなる。ならば始めから感情などなければよい。アインを教育した者たちはそう判断した。そして感情を排除されたマシンが出来上がった。それがアインだった。
本来ならばそのままどこかの戦場に連れていかれたに違いない。それ用の訓練も受けた。いかに敵を殺すか。いかに生き残るか。教わったのはそれだけだった。日常生活に必要なことも、一般的な常識も、すべて戦闘には必要のないもの――却って不要のものと判断された。
そうして作られた戦闘マシンは、何のいたずらか一度も戦場に出ることなく一般社会に放たれた。それが如何に危険か、賢人会議は頓着しなかったらしい。アインは戦場仕様のままで神南に預けられた。
実を言うとまだ人を殺して行けない理由がアインには判らなかった。反射的に銃を抜いたことは数えきれない。その度にさりげなく神南がアインを抑えた。敵ではないという理由だけが、アインをどうにか一般社会に紛れ込ませていた。命令があれば、目の前にいる深森のことすら殺すだろう。そう思ったアインは、少し心が痛んだ。そして心が痛むことに驚く。
「僕は……」
「やっぱりアインってちょっと変わってると思う。でも、深森は好きだよ、アインのこと」
「好き……」
アインは呟いてみる。いま感じた心の痛みに、どこかぴたりとはまる言葉だった。
「そう。好き。だってお友達だもん。アインが元気ないと心配だし、アインが楽しいと深森も楽しいの。そういうのってお友達って言うんだよ」
「友達……?」
聞きなれのしない言葉なのに、どこかほんわりとした感情が生まれる。
これではダメだと思う。感情に邪魔されて任務が遂行できないのでは存在している理由がない。
「アイン?」
顔が強張っているのが判るのだろう、深森が心配そうにのぞき込んでくる。
目を合わせてはいけないと思った。生き残るためには深森を殺しておくべきだと、どこかで囁く声がある。その囁き声を否定する一方で、アインは冷静に殺し方を考えていた。
ここで銃を抜くのはあまりに馬鹿げている。深森を殺すことによって生活拠点を失うわけにはいかない。殺されたと判らない状態、もしくは自分に嫌疑がかからない状態で深森を殺さなくてはいけない。シャツの裾に隠し持っている針で首の後ろをひと突きにする。おそらくそれが最善だろう。一見すれば傷跡もなく自然死を装える。それでもいまことに及ぶのはまずい。二人でこの裏山に登ったことは誰にも見られていないはずだが、これまでの行動から深森がアインと一緒であることは容易に察せられる。それでは自然死を装ったことが無意味になる。戻っ
てから、深森の部屋を訪ねて殺るのがいいだろう。ことを終えた後、深森が死んでいると報告すればいい。
そこまでを一瞬のうちに判断したアインは、いま考えついた殺害方法を頭から追い払うように首を振った。深森を殺せという命令は出ていない。現在の仕事内容からしても、深森が障害になることはまずないだろう。その状況下で危険を冒す必要はない。
アインは深森を殺したくない理由を理詰めで考える。感情が邪魔をして殺せないと思うわけにはいかなかった。それではアインがアインである理由がない。つまりは存在理由がなくなる。
「なんでもないよ」
心配そうに見つめる深森に、アインは笑ってみせた。
いまの心の動きを深森に悟られたくないとアインは思った。それが深森に好意を持っているためだとは、まだ自覚していなかった。
夕食が済んでからも、アインの頭からは深森を殺すべきだという考えが消えなかった。幾通りもの殺害方法をシミュレートしている自分に嫌気がさす。
「カンナミさん」
何を言うべきか判らぬまま、アインは神南を呼ぶ。
深森は部屋に下がったし、崎守は台所に行ったまま戻ってきていない。他に誰もいないということが、アインの口を開かせていた。
「ん?」
神南はアインの変化に気づいていた。昼間、何かがあったのだろうと察してはいたが、深森にそれとなく探りを入れても原因は判らなかった。外的要因ではないだろうと見当はついたけれど、判るのはそこまでだった。
「僕は……」
何を言いたいのか、アイン本人にも判らない。言葉を探すようにアインの視線が彷徨う。
神南は待つことを知っていた。言葉が見つからないのなら見つかるまで付きあうだけの心積もりはあった。
ところが。
「あー! まだこんなとこにいたんだ。お部屋にいないんだもん、探しちゃった」
深森が居間に入ってくるなり叫んだ。
探している言葉が見つからないまま、アインは深森に手を引かれてしまう。
「おねがいがあるの。きいてくれるよね?」
断られることなど微塵も疑っていない口調に、神南は軽く溜息をついた。
「後でゆっくり話そう。いまは深森につきあってやりな」
「え? お話し中だったの? 深森、待てるよ?」
「別に構わない。なに?」
探しあぐねた言葉はアインの手の届かぬところに消え去ったようだ。仮面を被ったかのように、自信なさ気な表情は意思のはっきりとしたものとなり、彷徨っていた視線は深森に固定された。
「えへへ。ごめんね。深森の宿題、手伝って欲しいの」
「なんだ深森、まだ終わってないのがあるのか」
神南が混ぜっ返す。
「だからぁ、絵の宿題があるって言ったでしょー。それ以外は終わってるもん!」
「風景画は駄目だぞ」
神南は駄目押しをするように言った。
「わかってるよーだ。おにいちゃんがそうやって意地悪言うから、深森、人物画にすることにしたんだもん」
そしてアインに向かって言う。
「ね、モデル、おねがいします」
アインは助けを求めるように神南を見た。
「つきあってやりなよ。俺もじーさまもモデルには適してないしな」
神南にしろ崎守にしろ、モデルになれない理由がある。その点アインには、その制約がない。
単純な引き算だった。
「自画像は?」
アインは神南が味方についてくれないと悟ると、深森の翻意を促そうとした。
「自分描いたってつまんないもん。それに学校で描いたことあるし。ねぇ、おねがい」
拝むように手を合わせる深森に、アインは仕方なく折れた。
「判った。どこで描くの?」
「ありがとう! あのね、深森の部屋。いいでしょ?」
昼間の苦い気持ちが再び込み上げてくる。アインは思わず神南を見た。神南が何とかしてくれると思ったわけではない。それでもその視線には微かな期待が込められていた。
「深森。俺もお邪魔していいかな」
アインが何を望んでいるのかはまでは読み取れない。だが微かに込められた期待を裏切るつもりは、神南にはなかった。
「えー? 恥ずかしいからいやだよ。アインもモデルやってるの見られるの、いやだよね?」
「別に。僕はカンナミさんがいるほうがいいと思う」
アインは無意識のうちに深森と二人きりになることを避けていた。昼間の囁きが聞こえないようにか、またはその囁きに負けてしまうのを恐れているようだった。
「2対1? しかたないなぁ。でもおにいちゃん、口出しはなしよ?」
「もちろんさ。口出しできるほど絵に造詣深くないよ。ただし、ひとつだけ。背景はなしだぞ」
どこからこの場所を限定されるか判らない。もちろん第三者にこの島の存在を知られたとしても、賢人会議が口封じに動くはずで、故に秘密は保たれることになっている。だからといって賢人会議の口封じが平和裡に行われるわけもないので、極力そういった事態にならないよう配慮すべきだった。
「お部屋の中もダメなの?」
そういった裏事情を知らない深森は、不審げに尋ねる。
「代わりに深森の家を描けばいいじゃないか」
「それじゃあ、ここで仕上げられないじゃない」
頬を膨らませて深森は抗議する。
「それなら背景塗りつぶしちゃえ」
「おにいちゃん、乱暴。……いいもん。あとで考えるから」
「深森」
「わかってるよ。ちゃんとおにいちゃんの言いつけは守ります。叔父さまとも約束してるもん。約束破ると、もうおにいちゃんと会えなくなるって言うのよ、叔父さま。ひどいでしょ?」
神南は微笑んだ。深森を賢人会議に近づけたくないと思っているのは神南だけではないらしい。深森が鷺ノ宮である以上、いつかは賢人会議に加わることになるだろう。それでも出来ることならば、早いうちに鷺ノ宮から離れ、賢人会議とはなんの関わりもないところで生きて欲しいと神南は思う。
「酷くはないさ。沙雪の言うとおりだよ」
答えた神南の声はどこか淋しさを醸しだしていた。
アインは何とかして神南と二人で話がしたかった。助けて欲しいと思っているわけではない。神南と話したところで何が変わるわけでもないと思っている。それでも話がしたかった。何を話せばいいのか、何を言いたいのか、アイン自身にも判ってはいない。
ところが、いざ話そうとすると深森や崎守の邪魔が入る。それはもう笑えるくらい確実にどちらかが割って入ってくるのだ。話すことが決まっているのならば、深森や崎守を後回しにしてもらえばいい。しかし、何を話せばいいのかすら判らないアインは、ついつい神南を後回しにしてしまう。『後でゆっくり』と何度神南は言ったろう。そしてそのたびにアインは頷く。
そうこうしている間に、夏休みが終わろうとしていた。気がつけば明日は迎えのセスナが来る日になっていた。
アインはある意味ほっとしていた。深森がいなくなれば、囁きも聞こえなくなるだろう。何が問題なのかも把握できないままであったが、原因とおぼしきものを排除できるのはありがたかった。深森と別れるのが淋しいと感じていることには気付かぬふりをする。
「ちょっといいかね」
縁側に座ってぼんやりと畑を見ていたアインに、崎守が話しかけた。
珍しく深森は部屋にこもっている。絵の宿題に掛かり切りになっているのだ。仕上げは戻ってからと決めたものの、やれるところまではやっていこうと、最後の追い込みに入っている。
神南はいつの間にか姿を消していた。いちいち行き先を告げていくわけではないので、どこに行ったのかは判らない。ひがな一日中、読書に勤しんでいたことを思えば、これもまた珍しいと言えるかもしれない。
「なにか?」
「おまえさんに、神南くんのことを頼もうと思ってな」
思いもかけないことを言われて、アインは戸惑いの表情を浮かべる。
「彼は淋しい男でな。私が言っていいものか悩んでいたんだが、おまえさんに知られるのは構わないと言っていたんでな」
前振りが長い。崎守は躊躇っているようだった。アインは黙って畑を見ていた。
しばらく沈黙が続く。
やがて、崎守は意を決したように口を開いた。
「神南くんにはな、不老の呪いがかかっている」
アインはそれを比喩と受け取った。それが判ったのだろう、崎守は言葉を続ける。
「比喩なんかじゃあない。本当に老いを知らないのだよ。彼は今年で確か55になる。外見はまだ20歳をちょっと過ぎたくらいにしか見えんのだがね」
「それを何故僕に?」
神南の秘密を知ったからといって、アインに何が出来るわけでもない。知る必要のない情報に思えた。
「このことを知っているのは、賢人会議を除けば、時管局の局長とおまえさんらの直属の上司に当たる橘綾女嬢くらいだな。局長も綾女嬢ちゃんも、確実に神南くんより先に死ぬ。綾女嬢ちゃんの後釜を今のうちにと思ってな」
「僕には関係ない」
「ほう、そうかね。おまえさんならば、神南くんの味方になってくれると思ったんだがな」
残念そうに崎守は言った。
「カンナミさんが味方を必要としている? そうは思えない」
「彼の矜持がそうさせているのだろうよ。まあよい。おまえさんがそう思っているのなら、今の話は聞かなかったことにしてくれんかね」
「何が聞かなかったことにしてくれって?」
振り返れば、いつの間にやら神南が帰ってきていた。
悪戯を見つかった子供のようなばつの悪い表情で、崎守はなにやら言い訳めいた言葉を口にする。
「ああ、いいさ。どうせまた俺のことでも言ってたんだろう? 俺の周りはどうしてこうも心配性なやつらばかり揃ってるんだか」
ぼやくように呟くと、神南はアインに笑顔を向けた。
「気にするな。聞かなかったことにしてくれると嬉しいんだが」
「ひとつだけ確認してもいい?」
「ああ」
「カンナミさんが不老だというのは本当のこと?」
「まぁな。むかぁし、不慮の事故ってヤツに巻き込まれてね。その結果、外見年齢が25から動かなくなったってわけだ。……深森には内緒だぞ?」
おどけるように言う神南に、崎守は心配そうな表情を見せる。
「じーさまも心配するなって。自分で言えるようになったんだ、ようやくふっ切れそうだよ」
「それならいいんだが。おまえさんは開き直ると強いと思ってるんでな。綾女嬢ちゃんも喜ぶだろう」
「……深森は叔父さんの後を継いで、カンナミさんの主治医になると決めているみたいだ」
アインの言葉に驚いたように神南は応えた。
「本当か?」
「そう聞いた」
「……沙雪のやつに言って止めさせよう」
あきれ顔で崎守がため息をつく。
「無駄だと思うがね」
「ちょっとぉ! みんなして何してるの? 深森も混ぜて!」
一人、絵を描いているのに厭きてきたらしく、深森が縁側に出てきた。
ふと顔を見あわせてしまった男三人は、暗黙のうちに秘密を誓い合った。
こっそりと神南がアインに耳打ちする。
「帰ったらゆっくり話そう。俺のことも、おまえのことも」
アインは、気にかけてくれる神南の存在を嬉しいと、このとき初めて思った。