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07◆8月-1

 結局のところ、うやむやのうちに現状のままということになるのだろう。

 それが時空融合してしまったK地区東2ー33についての、時空管理局の認識だった。

 それを怠慢と言い放つことは簡単だが、実際問題、融合してしまった時空を分離する方法が確立していない現在では、現状維持が精いっぱいなのである。

 K地区東2ー33付近の住民は引っ越しを余儀なくされた。いまは安定しているとはいえ、いつ時空融合の範囲が広がるとも限らない。政府にしては珍しく素早い対応で代わりの土地を用意し、見舞い金としていくばくかの金も支給した。それでも移住に難色を示す人々はいたが、それも8月に入り、なんとか付近全ての住民の移動が終了していた。

 特殊課の管理下に入ったとはいえ、K地区東2ー33が神南の担当区内にあることには違いない。どうしても気になる神南は、こっそりと監視を続けていた。

不幸にも時空融合に巻き込まれてしまった住民の捜索は難航していた。

 融合が起きてしまった時点での位置を確保していてあれば、それなりに目処めどというものは付けられる。だが、そのような非常時に、動き回ることもせず、じっと助けを待てるような図太い神経の持ち主はそうそういるものではない。

 それに加えて、捜査課の持つ問題もあった。時空間連携をとることにはなっていたが、それでも互いの縄張り意識は強く、効率のよい捜索とは到底言えなかった。

 あちらこちらにいろいろと伝手つてのある神南は、それらもろもろの状況がかなり正確な情報として耳に入ってきていた。何も手出しできないことに、神南は苛立っていた。自分の担当区域のことである。管理課の仕事ではないと言われていても、気にならないわけがない。

 神南の苛立ちを、綾女はちゃんと理解していた。釘は刺しておいたが、それで神南がおとなしくしているわけがないことなど、十分承知している。打つ手を見いだせないうちは監視にとどまっているだろうが、有効な手段を見つけた途端に動き出すに決まっている。そこまで綾女は理解していた。

「どうしたものかしらね」

 綾女は小声で呟き、ふとカレンダーを見た。そして、世間ではいま『夏休み』と呼ばれていることに気づく。

 我知らず、笑みがこぼれた。

 善は急げとばかりに、綾女は連絡を入れる。神南の困ったような顔が思い浮かび、綾女は笑みを濃くした。


 玄関のチャイムが鳴った。

 ちょうど昼時だった。

 ダイニングで一緒に食事をしていたアインは、ちらりと神南を見た。

 神南はその視線の意味を察して答えた。

「俺は入院中だよ」

 アインは来客の予定はなかったはずだと思いながら、インターフォンをとった。

 モニターには誰も映っていない。

 いたずらだろうと思いインターフォンを切ろうとしたとき、もう一度チャイムが鳴った。

「おにいちゃん、いないの?」

 チャイムの音と重なるようにインターフォンから女の子の声が聞こえた。その声に聞き覚えはない。

 アインは神南をもう一度見た。

「誰だって?」

 アインが判断できないような来客なのだろうかと、神南は訝しむ。神南を見るアインの瞳に戸惑いを見つけたせいだ。

「ねぇ、おにいちゃんってば! 深森みもりだよ」

 じれたように言葉を重ねる来客に、アインは応答した。

「……カンナミならば留守にしている」

『おにいちゃん』と呼ばれる覚えがないからには、この来客は神南を訪ねてきたのだろうとアインは判断した。そして、インターフォンの音声を神南にも聞こえるようにした。

「あー、もしかしてアインでしょう! 開けてよ」

「……深森か。アイン、悪いが出てくれないか。俺は茶でもれてるから」

 声を聞いた神南は、来客に心当たりがあるようだった。少しげんなりした声でそう言った。

「……いま開ける」

 アインはインターフォンに応え、玄関に行ってドアを開けた。

 白いつばの広い帽子をかぶり、夏らしい胸の大きく開いた水色のワンピースドレスに身を包んでいる、幼い顔立ちの少女が立っていた。光沢のある黒い巻き毛が肩のあたりでふんわりと踊っており、少し緑がかった黒目がきらきらと輝いている。フランス人形を思わせるような少女である。

 少女はにっこりと微笑んで右手を差し出した。少し首をかしげる仕草が幼さを強調する。

「はじめまして。鷺ノ宮深森です。よろしくね」

「アイン・シュヴァルツ。……よろしく」

 ぎこちなくアインは握手をした。

「夏休みになったから来ちゃった。おにいちゃん、出かけてるの?」

 深森と名乗った少女は、奥の方をのぞき込むようにして言った。

 神南が茶を淹れると言ったからには招き入れてもよいのだろうと、アインは無言のまま半身を引いて深森を招き入れた。

「おじゃましまぁす」

 深森は足下に置いていたボストンバックを引きずるように持つと、ためらうことなくリビングに向かう。かなり馴染んでいるようだった。

「なんだ、おにいちゃん、ちゃんといるじゃない」

 リビングで三人分の日本茶を淹れていた神南を目にした深森は、膨れっ面を見せた。

「悪い悪い。深森だとは思わなかったんだよ」

 そう言うと神南は目線で座るように促した。

 当たり前のように深森はソファに座った。そこが定位置であるかのように、微塵のためらいもない。アインの方が気後れするほど、深森はこの家に馴染んでいた。

「居留守使うなんて、おにいちゃんらしくないよ」

「居留守ってわけじゃないさ。自宅療養中。……ああ、アイン。こっち座れよ」

 リビングの戸口で、そのまま仕事に戻ろうかと考えていたアインに、神南は自分の隣を指し示した。

「仕事中とかって無粋なこと言うなよ? 昼休みだろ」

 神南の笑みに誘われるように、アインは隣に座った。

 改めて深森を見る。

 神南と似ているところはないように思える。アインは神南の家族構成を思い出そうとしたが、そこが空欄になっていたことを思い出しただけだった。そういえば誕生年の記載もなかったように記憶している。

「紹介するよ。こちら、鷺ノ宮深森嬢。俺の……主治医の姪御さんだ」

 珍しく神南は言い淀んだ。

「さっき玄関で御挨拶したのよ。ねー?」

 天真爛漫を絵に描いたような笑みで、深森はアインを見る。

「うん……」

 つられたかのようにぎこちない笑みでアインは頷いた。

 純真無垢な、なんの思惑も狙いも見いだせない笑みをアインが見たのは、このときが初めてだったのかもしれない。

 神南もよく笑みを浮かべてアインに話しかける。だがそこには大人が子供を懐柔しようとする意図がほの見えている。たとえそれを神南が意識していないとしてもだ。結局はそれが世代の違いというものなのかもしれない。

 アインの笑みを横目で見た神南はそんなことを思った。陳腐な言い方だが、やはり子供は子供同士ということなのだろう。

「そうか。ところで深森。どうしてアインを知ってた?」

 アインと同居していることを、神南は深森に伝えた覚えはない。

「綾女おねえちゃんから聞いたの。今日はお迎えに来たのよ」

「綾女さんがぁ? なんでまた」

「聞いてないの? 深森がおにいちゃんちに来るのに、こんな大荷物なわけないじゃない。旅行よ、旅行」

 初耳だった。

「アイン、ちょっと深森の相手しててくれ」

 神南は席を立つとリビングを出ていった。

 綾女に連絡を入れようというのだろう。事によっては綾女と口論になるかもしれない。傍目にも神南との旅行を楽しみしている深森に、それを見せたくないという配慮がそこにはあった。

 相手をしていてくれと頼まれたアインは内心困っていた。人とのコミュニケーション能力に欠けているアインは、こういうときに何をすればいいのか判らなかった。黙ったままソファに座っている。

「アインはどうしておにいちゃんと一緒に住むようになったの?」

 深森は屈託なく尋ねた。

 ただでさえアインの持つ雰囲気は人を寄せ付けないところがある。しかも話には聞いていたとはいえ、深森はアインとは初対面だった。それなのに、深森はなんら臆することはなかった。易々とアインの内側に踏み込んでくる。それを不快に思わないことに、アインは驚いていた。

「そういう命令だから」

「じゃあ、いつお家に帰るの?」

 内心の驚きなど表わすことなく端的に答えるアインに、深森は躊躇なく重ねて問い掛ける。

「家?」

「そうだよ。アインのパパやママのいる家」

「ない」

「え?」

「僕には帰る家がここ以外にないから」

 口にしてから、自分の言葉にアインは驚いた。この家を『帰るところ』と認識していることに、いま初めて気づいたのだ。

「帰るお家がないって、じゃあパパやママはどこにいるの?」

「僕に両親はいない」

 深森の目に涙が浮かぶ。

 アインはそれを不思議そうに眺めた。

「……ごめんね。深森、知らなかったの。他に兄弟とかいないの?」

 深森がなぜ謝るのか、アインには見当もつかなかった。

 アインにとって『両親』とは自分を形成した遺伝子情報でしかない。いなくて淋しいだとか会いたいなどという意識は、欠片かけらほども持ち合わせていなかった。

「いない」

「じゃあ、本当にひとりぼっちなんだ。でも、淋しくないよね? おにいちゃんもいるし、深森だってもう友だちだもん」

 ここで首を横に振っては確実に泣き出すだろうというくらい真剣な面持ちで、深森は身を乗り出すようにして尋ねる。

 淋しいという感情は知らない。それでも何故か深森を泣かせたくないと思ったアインは、慣れない笑みを浮かべて答えた。

「大丈夫。淋しくはない」

「よかったぁ」

 大げさなほど溜息をついて、深森は安堵する。

 その様子に、アインは不思議な気持ちを抱いた。

 どうして他人のことで――それも知りあったばかりの人のことで一喜一憂できるのだろうか。

 少し興味を持ったアインはいてみた。

「サギノミヤはどうしてカンナミを『おにいちゃん』と呼ぶの?」

「あー! ダメだよぅ、おにいちゃんのこと呼び捨てにしちゃ。それにね、深森のことはちゃんと『深森』って呼んでくれなきゃダメ」

 何について抗議されたのか、一瞬アインは判らなかった。答える声にも戸惑いがにじむ。

「……でも、カンナミがそれでいいって……」

「おにいちゃんがいいって言っても、目上の人に対しての礼儀として、ちゃんと『さん』付けで呼ぶの!」

「……カンナミ……さん?」

 逆らう気にもなれず、アインは言われるまま神南の名をさん付けで口にしてみる。

「そうだよ。じゃあ、今度は深森のこと呼んでみて」

「……ミモリ?」

 深森は難しそうな顔をして小首をかしげた。

「んー、なんか違うなぁ。えっとね、深森はね『深い森』って書くのよ」

 指で宙に文字を書きながら深森は言った。

 その『深い森(ディヒター・ヴァルト)』という言葉に、アインは幻を見た。

 あまり日の差し込まない針葉樹の森。

 苔むした岩。

 どこか濡れたような空気。

 暖炉の炎。

 暖かいミルクの湯気。

 差し出される白い手。

 頭を叩くように撫でる大きな手。

「……ムッター……ファーター……」

「……アイン?」

 ためらいがちな問い掛けに幻は消える。

 アインは自分が口走った言葉の意味も知らず、夢から覚めたような表情で深森を見た。そこには心配そうな深森の瞳があった。

「大丈夫。何でもない」

「なんでもなくないよ! アイン、顔色悪い。深森、何か悪いこと言っちゃった?」

「本当に何でもないよ」

「深森、おにいちゃん呼んでくるね」

 青い顔で席を立つ深森を手で制し、アインは慣れない微笑みを浮かべる。

「本当に大丈夫だよ。深森は心配しなくていい」

 驚いたように目を見開くと、深森はすとんとソファに座った。

「アイン、深森の名前、ちゃんと呼んでくれてるんだ」

「……ああ、そうだね」

 意識はしていなかった。なんか違うと言われたときと同じように発音したと思った。それでも確かに響きは違う。

 指摘されてアインも気づいた。記号ではなく人の名前だということを意識して、深森の名を口に乗せたからかもしれない。

 どこか遠くで鍵の開く音がしたとアインは思った。


 苛立ちを抑えるように大きく深呼吸をすると、廊下に出た神南はそのまま地下2階にあるモニタールームに向かった。

 未だ入院中という形をとっている神南は、正規のルートで綾女と連絡を取るわけにはいかなかった。モニタールームの端末でシークレットの直通回線を開く。

 呼出し音から保留音に変わり、そして綾女の声が聞こえた。

『旅行の件ね』

 予想していたのだろう、神南が抗議の声を上げる前に、綾女は先手を打って言葉を発した。

『知ってる? 世間一般に、今は夏休みだってこと』

 その声にはどこか楽しげなものが含まれている。

 神南は頭を抱えた。

「世間一般には夏休みでしょうけどね、綾女さん。俺らの仕事に休みなしじゃなかったんですか?」

 むかし綾女から言われたことのある言葉を、そっくりそのまま神南は返した。

『それはそうだけれどね、誰かさんが勝手に怪我してくれちゃったせいで、ひとりで頑張らなくてはいけなくなったアインへの御褒美みたいなものよ。明日から2週間の夏季休暇が許可されたわ。神南くんは未だ療養中ということになっているから、厳密には夏休みとは言えないわねぇ』

「2週間! その間、ここの管理は誰がやるんですか!」

『心配しなくても大丈夫。私の手配に落ち度があったことがあって?』

 すっかり根回しは済んでいるらしい。確かに、外堀を埋めてから事に及ぶ綾女ならば、神南に反論する余地など残していないだろう。

「で、本当の狙いは何ですか?」

 神南は攻め方を変えた。

 純然たる好意のみで2週間もの休暇を与えるような時空管理局ではない。それは十分に承知している。つまりは、何か裏があるはずなのだ。

『御褒美だと言ったでしょう?』

「まさかそれを信じろとは言いませんよね?」

 綾女は溜息をついた。

『そうね。神南くん相手に取り繕ってもしょうがないわね。休暇の最大の原因は、率直に言ってあなたよ、神南くん』

「俺? なんでまた」

『しらばっくれないで。あれほど手出しするなと言ったのに、例の区域に出入りしてるんですって?』

 どこから漏れたのだろうと、神南は考えを巡らせた。その一瞬の躊躇が、綾女にそれが事実であることを雄弁に語ってしまった。

 今更誤魔化すのも無理と判断した神南は、一応の弁明を試みる。

「いや、ほら、俺は療養中ってことで暇だし、捜査課の手が足りないみたいだったし」

『言い訳は結構。好奇心おう盛な小猫ちゃんは、遠ざけておくのが賢明だということよ。ヴァカンス先は深森ちゃんに伝えてあるわ。交通手段も手配済。あなたは黙って深森ちゃんについていけばいいの。判った?』

「10歳の女の子に何をやらせるんですか、綾女さん」

 脱力感とともに言葉がこぼれ落ちる。深森が相手では強く出れないことを十分に承知されているのだ。流石に綾女のすることである、抜かりはない。

『あら。私と一緒のヴァカンスが良かったかしら?』

「あー。判りましたよ。これはもう天からの授かりもんとでも思って、休暇を謳歌してきますよ。で、休暇明けからは俺も通常業務に戻ってオッケーですか?」

 映像は送られていないと判ってはいるものの、神南は諸手を上げて降参の意を表わす。

『大丈夫じゃないかしら? 通常どおりでもやせ我慢だと思ってくれるわよ、みんな』

「日頃の行いがいいってことですかねぇ」

 苦笑気味に神南が言うと、綾女もまた、少し苦笑しているような声色で答えた。

『いいんだか悪いんだかよね』

「ま、ともかく。最近ケチが付きっぱなしなんで、この休みでリセットできりゃいいんですけどね」

『とりあえず健闘を祈っておくわね』

 どこか笑いを含んだような声で綾女は言うと通信を切った。


 リビングに戻った神南は軽い驚きを感じた。

 アインが談笑している。

 人懐っこい深森ならばアイン相手でも気まずい雰囲気になることもないだろうと二人きりにしたのだが、深森が一方的に喋っているものだと思っていた。マシンガンのごとく次から次へと言葉を繰り出す深森に、アインはさぞかし閉口しているだろうと苦笑しながら上がってきたのだ。それが、ぎこちないながらも微笑みまで浮かべて深森の相手をしている。

「話がはずんでいるようだな」

 結局のところ、自分はアインに何もしてやれないのかと神南は思った。少しでも人間らしい感情を取り戻すことができればよいと、これでも根気よく話しかけていたつもりだった。それでもアインがこれほど会話を楽しんでいるところを見たことがない。屈託のない深森だからこそできることなのかもしれない。それを思うと、神南は綾女の采配に感心する。

「あ、おにいちゃん。どこ行ってたの?」

「ん、ちょっとな。で、深森。俺たちはどこに連れていかれるんだ?」

 不審げにアインは神南を見上げた。

「明日っから2週間の夏季休暇だとさ。アインが一人で頑張った御褒美だそうだ。そんでもって、俺たち二人は深森に拉致されるというわけ」

 神南はその視線の意味を正確に察して答えた。

 これが悪いのか、と神南はふと思った。

 アインが疑問を口にする前に答えてしまうから、ただでさえ少ない言葉が余計に少なくなってしまうのかもしれない。

「らち? ちがうよ、旅行だよ。行き先はね、まだ秘密なの。でもね、おにいちゃんは途中でわかっちゃうかもしれない」

 つまりは、神南の行ったことのある場所ということらしい。ヴァカンスという言葉に見合うような場所はどこだったろうかと考える。なおかつ、全ての手配をしたであろう綾女の知っている場所。

 二つ三つの心当たりはあった。だがそれを今ここで確かめてしまうのは、やはりつまらないと思った。

「2週間も仕事をあけるわけにはいかない」

 アインは納得できないようだ。

 まるで仕事馬鹿のオヤジの台詞だと神南は苦笑する。休むことをアインは知らないのだろう。

「大丈夫だって。綾女さんの手配だ、手落ちはないよ。それに俺の入院中、ひとりで頑張ったろ? せっかくその御褒美をくれるっていうんだからもらっとけよ」

 綾女を相手にさっきまでアインと同じような台詞を言っていたことに気づいた神南は、こっそりと苦笑を浮かべた。なだめる言葉が綾女とほぼ同じというのも我ながら笑える。

「だが、例の区域のこともある」

 アインの返答は、そっくりそのまま神南のの気持ちと重なる。神南は自分を納得させるようにアインに言う。

「それは特殊課の管理下に入ったろうが。俺らの仕事じゃないさ」

 返す瞳はそれを信じていない。

 信じるわけもないだろうと神南は思う。自分でも納得していないのに、どうして他人を説得できようか。しかもパトロールと称してK地区東2ー33に出入りしていることはアインも知っている。神南の日頃の態度が、今の言葉を裏切っていた。

「まぁ、気になるのも仕方ないが、このあたりで気持ちを切り替えないと、いつまでも引きずるからな」

 どうしても言い訳がましくなってしまう。

「気持ちの切り替えが必要なのは、カンナミ……さんだと思う」

 敬称付きで呼ばれた神南は、妙なくすぐったさを感じてアインを見た。

 アインもどこか照れているようだ。その向かいで、深森が満足げに頷いている。

「敬称略で構わないと言っただろう」

「ダメだよ。おにいちゃんがよくても、深森はゆるさないんだから」

 偉そうな態度で深森が抗議する。

「……なんとかには勝てないって言うもんな」

「なによ、それ。深森、こどもじゃないんだからね!」

「判ってるよ」

 神南は深森を軽くあしらって、話題をもとに戻す。

「まぁ、俺の気持ちの切り替えのためでもあるさ」

「僕には必要がない。だから僕が残っても問題はないと思う」

「アインも一緒に行くの!」

 それは、まるで鶴の一声のように響いた。

「だけど……」

「だけどもなにもないの! それともなに? アインは深森と一緒の旅行はきらい?」

「諦めろ、アイン。深森は引かないぞ。それにな、休むってのも仕事のうちさ」

 半分は自分に言っているようだと神南は思う。

「でも……」

「綾女さんからの通達だ。2週間の休暇は業務命令だぞ」

 納得しないアインに、神南は最終兵器を持ちだす。

「……了解」

「へんなの。お休みが命令?」

 深森は首をかしげる。

「そういうこともあるさ。で、深森。俺たちはいつ出発するんだ?」

 神南は深森の意識を旅行へと向けさせた。

「そう! 旅行の話、してなかったよね、まだ。明日のね、朝7時3分の飛行機だよ」

「そんなに早く出るのか? ここから空港までどれくらいかかると思ってるんだよ」

 神南はぼやく。

 別段、朝に弱いわけではない。それでも抵抗があるのは、寝耳に水の旅行計画のせいかもしれない。

「だからね、今日の夜は空港近くのホテルでお泊まりよ。深森ね、おにいちゃんのご飯食べたかったんだけど、飛行機に乗り遅れるかもしれないのとどっちがいいって訊かれたの。おにいちゃんのご飯は別のときにも作ってもらえるけど、飛行機は待っててくれないもんね」

「ヒルソンホテルの料理もかなり美味いぞ」

「……おにいちゃん、すごい……。空港近くって、いっぱいホテルがあるのに、どうしてヒルソンだってわかったの?」

 綾女が手配したとなれば予想はつく。深森には曖昧に笑って見せ、アインに用意をするよう促す。

「薄手の上着かなんかも持ってけよ。朝晩は夏でも結構冷えるからな」

「おにいちゃん、もしかして行き先わかっちゃった?」

 深森はのぞき込むように神南を見て言った。

「飛行機で行くっていうからな。外れてるかもしれないし、行ってみてのお楽しみだろ?」

「うん!」

 思っていることが素直に表情に出る深森を見て、アインによい影響があるかもしれないと思った。この旅行はアインにとって実り多いものになるだろう。

 神南は明日からの二週間の休みにようやく感謝する気になりつつあった。


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