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06◆7月-2

 回診の最中だった。

 関係者以外立ち入り禁止区域の病室ということもあり、神南の見舞いに訪れる者はほとんどいなかった。心の安らぎになる可愛らしい看護婦すら神南の病室には来ない。訪れるのは主治医の鷺ノ宮ただ一人。綾女も忙しいのか、それとも面会許可が下りないのか、あれ以来姿を見せなかった。

 隔離される生活に慣らされてしまった神南ですら、一日中ひとりベッドに寝かされているのはあまりに退屈だった。だいぶ少なくなったとはいえ、まだ電極や点滴用の管が神南の身体を拘束している。何よりも、骨まで砕かれた左肩と右膝はまだ動かせる状態ではない。気晴らしの散歩すらままならない。

 このような状態では、話し相手として適しているとは言えない主治医の鷺ノ宮ですら、今の神南にとってはありがたかった。

「なぁ、沙雪。なんか暇つぶしのネタ、ないか?」

 神南は鷺ノ宮を名前で呼ぶ。

 名前で呼ばれるのを極端に嫌っている鷺ノ宮も、何故か神南に対しては仏頂面ながらも言葉を返す。抗議する機会を逸してしまったのが敗因らしい。

「ほう。そんなに暇か。ならばこの際だ、投薬実験にもつきあってもらおうか」

 冷笑を浮かべ、鷺ノ宮は応えた。

「一通りは5年前までにすんでるだろうが。まだやってないのがあるのかよ」

 うんざりとした声が神南の口から漏れる。

「年間にどれくらいの新薬が臨床実験されているか知らないのか?」

「俺の身体じゃ、臨床実験にはならんだろう」

「馬鹿か? 誰が臨床実験をすると言った。投薬実験だ」

 鷺ノ宮は神南と視線を合わせようとはしない。

 問診のときですら微妙に視線を外しているのだ、他愛もない会話の最中に視線が合うことなど、全くなかった。おまけに四六時中仏頂面か、たまに笑みを浮かべると思えば冷笑だけでは、そこから好意的な感情を読み取ろうとする神南の努力もむなしいものとなっている。

 昔はこれでも可愛げがあったのだがなどと思いつつ、神南はこっそりと溜息をついた。

「却下だな。俺にメリットがない」

「実験動物にメリットなどあるはずがなかろう。いい加減自覚しろ」

「神南を実験動物扱いするのは僕が許さないよ?」

 病室には神南と鷺ノ宮しかいない。だが、いつものように前触れもなく第三者の声が降ってきた。

「手続きが面倒なのは判る。だが、こうも頻繁に来られては困るんだが」

 姿を現したトーラに動じることなく鷺ノ宮が言う。

「今度は何しに来たんだよ」

 神南も突然の来訪に驚いた様子はない。

 二人とも、不本意ながら予告もなく現れるトーラに慣れてしまっているのだ。

「歓迎しろとは言わないけどさぁ、もっと友好的な雰囲気ってもんを作ってくれないかなぁ」

「友好的な雰囲気を作れるような間柄ではないだろ」

 神南は機嫌の悪さを隠そうともせずに言った。

「この僕がこぉんなに好意を抱いているのって、他にはないんだけどなぁ。どうして伝わらないんだろう。何がいけないんだと思う?」

 トーラはそれでも楽しげに笑って、鷺ノ宮に向かって問い掛けた。

「基本的に意志の疎通を図ろうという努力が足りないと思うが」

 問い掛けられた鷺ノ宮は臆することなく答えた。

 トーラはますます楽しげに笑う。

「ほぉんと、ここは楽しいねぇ。だから残しといてあげてるんだけどね」

 さらりと物騒なことを呟くトーラに、神南は何やら不穏な雰囲気を感じた。

「何を考えてる?」

「別にぃ。あ、そうそう。僕ね、当分来れなくなったから。もっと神南と遊びたかったんだけどねぇ」

 神南は探るようにトーラを見る。

 ただで去っていくようなトーラではないことを、神南はよく知っていた。この時空から去る代償とは何だろうかと考える。つき合いが長い分、トーラの気まぐれには慣れているが、それを予測できるほどではない。何を言い出されてもいいように、心構えだけはしておく。

「期待してるとこ悪いんだけど、今回ばかりは僕の事情だからね、交換条件なんてものはないよ」

「誰が期待なんぞしてるか。だけど、本当に何もなしなんだな?」

「えー、期待されちゃうと、僕がんばっちゃおうっかなって気になるんだけどなぁ。……あ、忘れてた。どうせ綾女かあの坊やから聞くと思うから先に言っちゃうけど、一ヶ所、時空融合しちゃったとこがあるんだ。確か神南の担当区だったと思ったなぁ。ごめんね」

 見事なほど口先だけの謝罪だった。

「何をした?」

 神南はやはりと思った。ただでトーラが帰ることなどあり得ないのだ。

 それでも神南の声にトゲが混ざる。

「不可抗力だよぅ。僕恋しさにこの子がこっちまで来ちゃってさぁ」

 そう言って、トーラは手を開いて見せた。そこにはテニスボールほどの黒い球体が乗っていた。

 神南にはそれが何だか判らなかった。それでも時空の歪みに似た感じを受けた。

「それは?」

「ホムンクルス。ということにしてあるんだよね、あの坊やには。だけど神南には本当のこと教えてあげるね。あ、沙雪にも聞かせてあげるけど、他にはヒミツだよ?」

 トーラは楽しげに笑う。聞かされる側に選択の余地はない。

「新しい時空なんだ。まだねぇ小さいから生命体を内包できないんだけどね、その代わり意志を込めたから、自分で勝手に動き回れるんだよ。まだ他時空に来るだけの力はないと思ってたんだけどねぇ、独りぼっちが淋しくって僕を探しに来たみたい。あとで総一郎にでも聞いてごらんよ。ここに来るまでにいくつか時空を渡ってきてるはずだから、楽しいことになってると思うよ?」

 自由意志で勝手に動き回る時空。

 そのあまりの常識はずれのものに、流石さすがの神南も言葉を失った。

 時空は固定されているものではない。多少の揺らぎはあるし、時空同士がぶつかり融合することさえごくまれにある。それでもそれらは自然現象であり、害意をもって融合しているわけではない。

 自由意志を持った時空が悪意をもって周辺の時空を飲み込んでいくとしたら。

 恐ろしい考えが神南の頭をかすめた。

「なんでそんなものを作った?」

「別に理由なんてないよ。面白いかなぁと思ってさ」

 トーラは本当に何も考えていないようだった。下手にその可能性を示唆して面白がられては困る。そう判断して神南は深く追及しないことにした。藪をつついて蛇を出すこともないだろうと思ったのだ。

「それでさぁ」

 トーラは神南の僅かなためらいに気づくことなく話を続ける。

「この子がもうちょっと大きくなるまではそばについていてあげないと駄目みたいだから、神南としばらく遊べなくなっちゃったんだ。ホント、残念なんだけどねぇ。もっと綾女やあの坊やと遊びたかったんだけどなぁ」

 トーラの口ぶりでは綾女やアインとは二度と遊べないと思っているようだった。もしかしたら手にしている時空の成長は、人の時間と異なる流れを持っているのかもしれない。

「今度こちらに来れるのはいつになる予定だ?」

 よせばいいのに、鷺ノ宮はトーラに尋ねた。

 神南は軽く顔をしかめる。できれば二度と会いたくない相手である。予定など聞きたくもなかった。

「いま言ったって仕方ないと思うよ。今度来たときは神南以外総替えになってるだろうからね」

「では今一つ。賢人会議との盟約はその時まで生きているか?」

「なんだ。沙雪はそんなことを心配してたの? でもそれは沙雪の関知することじゃないよ。でしゃばりすぎ」

 特に意志を込めたわけでもない台詞に、鷺ノ宮の身体が硬直する。本能的なおそれが鷺ノ宮を支配した。

「トーラ」

 神南はやんわりと抗議の声を上げた。

「やだなぁ、判ってるよ。僕は神南以外とは遊ばないことにしたから」

「遊びで人を殺すな。おまえにとって人の一生など、瞬きのようなものじゃないか。ただ待っていればいい。それだけが何故できない?」

「だってつまんないんだもん。しばらく神南とは遊べないしさ。それなのに沙雪は神南を独り占めしてるんだよ?」

 神南はトーラの言い草に頭を抱えた。

「そういう問題か? そもそも俺がこんなとこで軟禁状態にされてるのは、おまえのせいだろうが」

「えええええ? 神南ってば、好きでここにいるのかと思ってた」

 心底驚いているようなトーラに、神南は大きく溜息をついた。

「だぁれが好き好んで賢人会議ウィザーズの世話になんかなるかよ。自己修復機能は人並みなんでね、こうやって治療を受けてるわけだ。ついでにサンプルデータもとられてるというわけ」

「なぁんだ。血を止めるだけじゃ足りなかったんだ。人間ってばほんと不便だよねぇ。神南もさぁ、そういうことは早く言ってよね」

 ふわりとトーラの黒髪が舞う。それだけで神南の身体は完治した。

 鈍く重いような感じだった左肩も、少し動かしただけでも痛みが走っていた右膝も、力の入らない腹筋も、すべて再生されていた。

「これで沙雪が独り占めすることもなくなったと。言っとくけどね、完治してるのに神南を閉じこめておいたら、この僕が許さないよ? こればっかりはいくら神南が取りなしても駄目だからね。肝に銘じといて」

「……だそうだ。今すぐ退院してもいいんだろ?」

 苦笑を浮かべ、神南はまだ硬直が解けていない鷺ノ宮を見た。

 鷺ノ宮は肩で大きく息をして身体をほぐすと、何もなかったかのようにぽそりと言った。

「確認のため検査をしてからな」

「確認なんかいらないよぅ。この僕を誰だと思ってるの」

「……判った。許可しよう」

 そして賢人会議ウィザーズの医師としての責務からか、トーラに抗議する。

「そう簡単に力を使わないでくれるとありがたいのだが。それでなければ、賢人会議われわれにいま少し協力していただきたいものだな」

「あれぇ? 不老不死の研究、頓挫したんじゃなかったんだ。なかなか粘るねぇ。じゃあその粘りに敬意を表して、まどかに伝えといて。僕の手が空いたら、いくらでも協力するってね。ただし、協力するのは賢人会議ウィザーズに対してじゃない。まどか個人にだ。僕の手が空くのと、まどかの命が尽き

るのと、どっちが先かは運次第だけどね」

「伝えておこう」

 それがトーラにとって破格の扱いであることを知っている鷺ノ宮は、それ以上言葉を重ねることはなかった。

「じゃあ、またね、神南」

 にこやかな笑みを残してトーラは消えた。

「これでもまだ命は惜しいからな」

 毒気を抜かれたのか、鷺ノ宮はいつになく優しい雰囲気を纏って神南に言うと、ちらりと周囲のディスプレイに目を走らせる。すべて平常値を示していることを一瞥のうちに確認し、鷺ノ宮は神南を拘束している電極や点滴を外した。

 ようやく自由を取り戻した神南は起き上がるとまず肩を回してみた。痛みは全くない。

 次にベッドから降りて立ってみた。

 トーラは萎えていた筋肉をも修復してくれたらしく、寝たきりだったにも関わらず何の不安もなかった。

 試しに右足で床をたたいてみる。違和感は全くない。

「着替えたら例のルートで帰る。許可は下りるだろ?」

「アレは貴様専用だ」

 いつものような仏頂面に戻って鷺ノ宮は答えた。そのまま病室を出ていく。どことなく淋しげな表情を浮かべていたことに、神南は気づかなかった。


 アインからの一報を受け、時空融合した場所についての善後策を講じていた綾女は、手首の携帯端末に目を走らせると不意に立ち上がった。

「ちょっと席を外すわ。手配、よろしくね」

 手近にいた部下にそう声をかけると、綾女は地下に向かった。

 時空管理局本館の地下には時空間転移装置がある。しかし一般には使用されていない。基本的に時管局勤務でも時空を超えることは許されていない。もっとも、何事にも例外というものは存在し、いま綾女が地下に向かっているのも、その例外のひとつだった。

 ともすれば走り出しそうになる足を懸命になだめ、普段と同じ歩調を心がける。そして綾女は転移ルームに着いた。

 暗い部屋の中で計器の光が浮かび上がっている。壁面のスイッチを押して綾女は明かりをつけた。

「ただいま」

 奥の扉が開き、普段となんら変わりない調子で神南が出てきた。

「どういうこと? 完治したの?」

 綾女の表情はやや険しい。主治医が主治医だけに完治せずに退院を許すはずもないと判ってはいるが、それをかわして勝手に自主退院してくる可能性も捨てきれないだけに、どうしても尋問口調になってしまう。

「完治したよ。不本意ながらね」

 そのどことなく苦味を帯びた響きに、綾女は全てを理解したと思った。

「……《彼》の気まぐれということね」

「ご明察」

「それで? こんなものを使ってまで秘密裏にここに戻ってきた理由は?」

 普通ならば、その足で表玄関から退院の報告をしに来てもいいはずである。わざわざ人目につかないように、普段誰も使わないルートで、しかもこっそりと綾女を呼び出しての帰還である、嫌な予感は当たりそうだった。

「異動を願おうと思ってね」

 神南は天気の話をするかのような口調で言った。

「どういうこと?」

「判らないふりをするんじゃない。あの怪我はある意味、渡りに船だと思ったろう?」

 図星だった。そろそろ異動させろという上からの要望は、ずいぶんと前からあった。それを綾女の尽力をもって延ばしに延ばしてきたのだ。

 この4月のアインの異動は、その意味で綾女にとって救いだった。アインを現場で扱えるのは神南しかいないという現実を盾に、上層部を納得させたのだ。

 しかし最早もはやそれも弱々しい理由にしかならなかった。神南の入院により、アイン単独での業務になんら支障のないことが実証されてしまったせいだ。

 怪我をしたのを幸いと、表面上は殺してしまえとまで言われている。それをどうにか現状維持――入院中という形に留めているのは、綾女の人脈と情報力と根回しの巧みさだった。

「判ってるわよ。判ってはいるの。もうだいぶ前から言われてるし。でも、私は嫌なの。神南さんを表面上とはいえ殺してしまうのは絶対に嫌だし、できれば私の目の届くところにいて欲しいの。私ならなんとでも庇えるもの。そのために、ここまできたんだもの」

「前から言ってるだろう? 俺のことで綾女が何とかしようと思うことはないって。そろそろ不審がられる頃合いだし、表面上殺されるというのは案外いい手かもしれない。この時空内での異動を考えてたんだが、そうすると他の時空に移ったほうがいいかもしれないな」

「駄目よ! それだけは駄目。あなたの考えることくらい、私にだって判るわよ。どうせ一番時間軸の離れたところを選ぶに決まってるんだもの。二度と会えないように。会えなくても言い訳ができるように」

 綾女はつかみ掛からんばかりの勢いで神南に詰め寄った。

「俺はね、憶病者だからな。この目で檜川さんの死ぬところを見たくない。お前の死ぬところを見たくない。この時空に戻ってくるのが百年後くらいならば、諦めもつくだろう? 俺が時間の流れから外れた存在だからではなく、時間軸の違いのために先にかれたと思うほうがいい。憶病者なんだよ」

「そんなことは知ってるわよ! いつだって死にたがりで、いつだって私たちのことなんか全然考えてなくって、自分さえよければそれでよくて。先にくことになる人の気持ちも考えてよ。私はまだいいわよ。出会ったときから先にくことは判ってたんだから。局長の気持ちも考えてよ。あなたが何と言おうと、あの人は責任を感じてるわ。それはもうどうしようもないのよ。いまさら何をどうしようと、過去は変えられない。局長は最期まであなたに負い目を持ったままでしょうよ。それに対して少しでも悪いと思うならば、あなたは局長の最期を看取る義

務があると思うわ」

 半ば泣き声になる綾女を、神南は驚いたように見つめた。

 初めて会ったときから、綾女がこのように激しく感情をさらけ出すのを見たことはなかった。

 いつだって冷静で、先輩である自分に先輩とも思えない態度で接し、部下として配属されてきたときにも顔色ひとつ変えなかった。その綾女が泣いている。それだけで神南は何やら負けたような気分がした。

「それにね、あなたのここでの仕事はまだ終わってないわよ。アインはまだあなた以外と連携をとれるまでに成長していないわ。言ったはずよ、あの子を人形から人間に戻すには、あなたの力が必要だと。あの子はまだ人間に戻れていないわ」

「……わかった。判りました。でも、そろそろ不審がられる頃合いだっての嘘じゃないんでね、あの家の名義をアインにしてもらえると嬉しいんだが。で、俺はまだ入院中ってことで、地下にこもることにするよ。あれだけの大怪我がこんな短時間で完治するわけないからな」

 そのくらいは綾女も許せる範囲だったのだろう、課長としての顔を見せる。

 やられた、と神南は思った。まんまと綾女の泣き落としに引っかかってしまったらしい。先程までの泣き顔は幻かと思えるくらい見事な変わり身である。

「判ったわ。これまでのように、アインには一人で動いてもらうことにするわ。ただし、バックアップはきっちりとお願いね。連絡は直通ラインで」

 そう言って、綾女は流石さすがに悪いと思ったのか、照れくさそうに付け加えた。

「それと、異動の件だけど、考えておくわ。あなたの希望どおりにはいかないと思うけれどね。そのあたりは妥協してもらえると嬉しいわ」

「……綾女さんには負けるな。多分、一生勝てないと思うよ」

 すっかり部下の顔になって神南は苦笑した。

「負けてくれてありがとう」

 綾女はにっこりと微笑んだ。

 神南の甘さにつけ込んでいる自覚はある。それでも綾女は無理を押し通す。

 時空間移動の許可がおりている神南は、その気になりさえすればノーチェックでどこの時空にも転移することができる。本来ならば綾女の抑制力など、神南には通用しないのだ。

 そのことに呵責を感じながらも、綾女はそれを表に出すことはしなかった。

「それから、懸案事項があるの。K地区東2ー33が時空融合したことは知ってる?」

「時空融合したとこがあるってのは奴から聞きましたよ。あの辺は住宅街じゃないですか。避難状況は?」

「対応が遅れたわ。それについては捜査課が時空間連携をとって処理に当たる予定。融合されちゃっては管理課ではお手上げなのよ。明日付けで該当区域だけ特殊課の管理下に入ることになってるの。いいこと? 勝手に処理しようなどと考えないでね? あなた《彼》が絡んでいると見境なくなるから」

「ということは、やるなら今日中ってことですか」

「だから! ほんとにもう、何を聞いてるのかしら。手出しするなと言ったばかりでしょう」

 きりりとまなじりをあげて、綾女は睨みつけた。

「どうなったか実際に見るくらいは許されるでしょう。何かしようにも、融合した空間を分離する方法なんざ、俺は知りませんからね」

 綾女は神南の瞳をじっと見つめた。

「信用するわよ?」

「任せてください」

 溜息をつくことで綾女は無理やり自分を納得させた。

「それじゃあ、こちらのことは後は任せてもらっていいわ。本当なら局長に挨拶するよう言うところだけれど、人目につくのもいろいろと問題があるから、私の方から報告しておくわね」

「頼みます」

 結局、一番嫌な手を使うことでしか止めることができなかったと、綾女は苦笑して神南を見る。

「――早く帰ってあげなさい。《彼》がかなりご執心のようだったから、フォローよろしくね。私では《彼》の影響がどれくらいなのか判断がつかないのよ。少なくとも仕事の面では相変わらずだけれど」

「了解しました」

 片手をあげることでこたえ、神南は奥の扉へ入っていく。

 神南の姿が扉の中に消えたのを確認してから、綾女は涙を堪えるのをやめた。

 一人静かに泣いた後、化粧を直して涙のあとを消し去ると、何事もなかったかのように足早に転移ルームを出ていった。


 アインは自宅の地下二階にあるモニタールームにいた。

 当初案内されたのは地下一階の書庫までだったが、神南の入院が長引きそうだという判断から、綾女がモニタールームの鍵を開けたのだった。

「担当区域はここからすべてモニターできるわ。一人で担当するには広い区域だけれど、他から人を回してもらう余裕はないの。ここを活用してちょうだい」

 綾女はそう言ってアインに鍵を渡したのだ。

 それ以来、アインはもっぱらここで一日を過ごしていた。

 携帯端末が微かに反応する。モニターには何も異常は見られなかったが、どこかで――しかもこの付近で空間が歪んだのは確かだった。携帯端末の情報をもとにサーチを始めたが、すぐに歪みは消えてしまった。

 アインの耳が微かな機械音をとらえた。その音をたどって首を巡らすと、壁にしか見えなかったところが左右に開いた。

「よぉ。ただいま」

 アインは息を飲んだ。

 まだ隠し部屋があったことに驚いたのか、それともそこから人が出てきたことに驚いたのか、はたまたそれが命に関わるほどの重傷を負って入院中である筈の神南だったことに驚いたのか、それはアインにも判らなかった。

「悪い、驚かせたようだな」

 神南は照れくさそうな笑みを浮かべつつ、アインをうかがっていた。以前とはどこかが違うと、漠然と感じた。何が変わったというわけでもない。ただ受ける印象がどこか違っている。いてあげれば、無機物な印象にほんの少し柔らかな風合いが加わったというところだろうか。

「俺の留守中、何かあったか?」

「――報告書は全て課長に提出済み」

 口調も、いまひとつ説明の足りない言葉選びも、なんら変わっていないように思う。しかしながら、やはりほんの少しだけ以前とは違うと神南は感じた。

「資料は後で見せてもらうよ。俺はアインから聞きたいんだ」

 戸惑いに似た表情を浮かべると、アインは口を開いた。

「……おおむねは良好。ただし、K地区東2ー33が時空融合。対応については検討中」

「ああ、その件に関しては聞いてきた。明日付けでそこだけ切り取る形で特殊課の管理下に入ることになった。で、俺たちとしてはお役目ごめんというわけだ。担当区域内を特殊課の面々が我が物顔に闊歩するのを見るのは気分いいもんじゃないが、まぁ仕方ないな。他には?」

「別に」

 特に伝達事項はないように思えたので、アインは短く応えた。

 その答えに神南は苦笑して質問を変える。

「仕事以外で変わったことはなかったか?」

 そう問われてアインは戸惑う。

 仕事以外に、神南に何か伝えなくてはいけないことなど何もなかったように思う。

 もともと来客は極端に少ない。綾女が時々顔を出しに来ていたが、それはとりたてて言うようなことでもないし、ましてや自動引き落としになっている請求書の明細だとか、勧誘のメールだとか、いちいち報告するようなことでもない。

 神南が何を要求しているのか読みとれなかった。

「そういえば、トーラのやつが来たって?」

 仕方なく、神南は自分から切りだした。

「それが何か?」

「いや、悪かったな。俺があんなドジを踏まなきゃ、アインにまで迷惑をかけなくてすんだんだがな。あいつ、何かしてかなかったか?」

「……別に」

 アインの一瞬の躊躇に、何かがあったことだけは察したものの、それ以上神南は聞きだそうとしなかった。ただ見極めるかのように、じっとアインを見つめた。

 まっすぐな神南の視線に、アインは何故かふいと目線を逸らしてしまった。

 それを見た神南は優しい笑みを浮かべて言った。

「今日中に時空融合したとこを見ておきたいんだが、一緒に来るか?」

 言外に仕事ではないからつきあう必要はないと匂わせている。

「……うん」

 アインはこっくりと頷いた。

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