04◆6月-2
主に昔語りの回になります。
ストレッチャーに乗せられた神南はそのまま手術室へと入っていった。
アインから連絡を受けた綾女は迅速に手配を済ませ、意識不明の神南を賢人会議傘下の総合病院へと運び込んだ。特殊な事情から、神南の治療は賢人会議傘下の病院でなければ行えないのだ。アインにはまだその事情を知られるわけにはいかないので自宅待機を命じてある。
足早に執刀医である鷺ノ宮沙雪も手術室へと向かう。
その後を、綾女もまた足早に追いかける。
「絶対に助けてよ? あの人は自分の命には執着しない人だもの、気を抜けばすぐに死んでしまうかもしれない。首に縄をつけてでも、三途の川から連れ戻して」
「橘。誰に向かって言ってるんだ? この私が、神南を死神になど渡すわけがなかろう」
「常々あなたのその自意識過剰な言い方が気に入らないと思っていたけれど、こういうときだけは助かるわ。頼むわね、鷺ノ宮」
「任せろ」
鷺ノ宮が手術室に入ると同時に手術中のランプが点灯する。おそらく長い手術になることだろう。
綾女の立場では、この病院に詰めているわけにはいかなかった。それでも離れたがくて手術室前の長椅子に腰を下ろした。
「橘くん」
神に祈る思いで手術中のランプを見つめていた綾女に声がかかる。
「……局長……」
綾女以上に、ここには来てはいけないはずの人がいた。時空管理局局長の檜川総一郎その人だった。
「神南は?」
「いま手術が始まったところです。傷はだいぶ酷いみたいです。詳しい報告はまだなので正確なところは判らないですが、どうやら《彼》が絡んでいるようです」
何が起きたのか、綾女はまだ把握していなかった。神南に意識がない以上、あとはアインに尋ねるべきだったのだが、流石の綾女も気が動転していたらしい。アインに詳しい報告をさせる前に自宅待機を命じてしまった。
「こちらにも賢人会議経由で連絡がきたよ。《彼》はアインに対してかなりご立腹のご様子だ。今回神南が大怪我をしたのもそのせいらしい。どうもあいつはアインを庇ったようだ」
檜川のほうが正しい情報をつかんでいるようだ。
「そうですね。《彼》があの人を故意に傷つけるわけがありませんもの。……コンビ、解消したほうがよろしいでしょうか。今後もまた《彼》が出てくるようでは……」
呼び寄せてしまうことを恐れているかのように、二人ともトーラの名を口にすることはない。
「いや、それはないだろう。《彼》についてはいろいろと困ったこともあるが、確約したことを違えたことはない。その《彼》が、アインが傍にいる間は神南に手出しはしないと言ってきた」
「ちょっと待ってください。それ、信用できます? アインに対してかなり怒っているのでしょう?」
「神南が瀕死の状態にあってもアインを気にかけていたことで、どうやら待つ気になったらしい。《彼》にとって人の一生など、瞬きのようなものだからな。おそらく神南はそれを狙ってもいたんだろう」
綾女は溜息をついた。
「あの人は全く……。自分の命をなんだと思っているのかしら。どんな状況にあっても他人の命を最優先にするんだから」
「だから橘くん、君にあいつを頼んだのだよ。あいつが今のように――年をとらないようになったのは私の所為だ。自分の落ち度だと、あいつは言ってくれるがな。あの事故さえなければこんなことにはならなかった。私の判断ミスだ」
今から三十年程前、時管局の捜査課に配属されたばかりの神南は、この檜川と組んである組織を追っていた。当時はそれが賢人会議の一組織だということを知らなかった。深追いした結果、神南だけが爆発に巻き込まれた。そして行方不明になる。その10年後、賢人会議を経由して神南は時管局に戻ってきた。それも、事件当時のままの外見で。その10年間に神南に何があったのかは檜川も知らない。戻ってきた神南の身体は不老となっていた。だから神南の治療は賢人会議傘下の病院でなければ行えないのだ。年老いることのない身体を持つ人間がいるなどと、一般に知られてはならないことだった。
「私が死んでも、神南は年をとることなく生きている。神南を守ってやってくれないか」
「局長……。私の力の及ぶ限りでしたら、全力を尽くしますわ。知ってます? あの人、敵が強大な分、力強い味方が多いんですのよ」
くすりと笑い、綾女は声を潜める。
「ここだけの話、主治医の鷺ノ宮氏、あの人を守るためだけに賢人会議に籍を置いているんですもの。その鷺ノ宮氏が執刀しています。あの人は大丈夫です。局長がこんなところに来てはいけませんわ。あの人が特別だと知られてしまいます。私もしばらくしたら戻りますから」
「……そうか……。そうだな。後は任せたよ、橘くん」
手術室の前で気をもんでいたところで檜川にできることは何もない。別のところで檜川にしかできないこともある。ここで時間を無駄にすることもないだろう。そう考えて、檜川は手術室の前を立ち去った。
立ち去る檜川を見送りながら、綾女は初めて神南と出会ったときのことを思い出していた。
念願の時管局、それも希望どおりの捜査二課に配属され、新人の綾女は意欲満々だった。その綾女と組んだのが神南だった。綾女の目にはいい加減な男としか映らなかった。規定外の行動ばかりで、その始末書はすべて綾女が書くことに暗黙のうちに決まってしまっていた。結果だけを見れば、確かに高い検挙率を保持している。二課随一と言っても過言ではなかったろう。それでも普段のつかみ所のない性格と、いい加減さが服を着ているような態度が、綾女にはどうしても我慢が出来なかった。思い余って上司に陳情したこともある。考えておくと返されるだけで改善される気配が微塵もないことに気づいてからは、神南を無視して一人で仕事を進めていた。神南と組んでいるからといって四六時中一緒にいる必要はないと判断し、自分の手に余る状況では神南を通り越して直接上司に連絡をとり処理していた。無視されていることを感じていないわけでもないだろうに、神南の綾女に対する態度は何一つ変わらなかった。それがまた綾女の癇に障っていた。こんな男のために自分が仕事を辞めるなどということは、綾女のプライドが許さなかった。それがなければ、さっさと転職していたことだろう。
神南を見直したのはいつだったろう。
綾女は記憶をたどっていく。
新人には手に余る凶悪犯を、経験不足を認識していない綾女が追いつめた結果、反撃を受けて逆に人質になってしまった。自分のミスで命を落とすことなどなんとも思っていなかった綾女だったが、犯人に交渉の余地を与えてしまい、他人の足を引っ張ってしまう結果となったことを情けなく思った。そのミスを返上するためにも、機会を見て自ら命を断とうとまで思い詰めていた。ところが綾女が舌を噛み切る寸前、神南が単独で突入し、犯人を逮捕したのだ。
その時を思い出して、綾女は微笑みを浮かべる。
身の危険を省みず助けに来た神南を、綾女は怒鳴りつけたのだった。
《なんて無謀なことをするんですッ!》
助かった喜びよりも、神南ごときに助けられた己の不甲斐なさに怒っていた。いわゆる八つ当たりというやつだ。
それに対する神南の返答は平手打ちだった。容赦はなかった。神南の本気というものを綾女はこのとき初めて見た。
《こっちの台詞だ! どうせ捕まったことを苦にして自害しようとでもしてたんだろうが。おまえがそんな性格じゃなきゃ、俺だってもっとのんびり犯人と交渉してたさ。……頼むから、命を粗末にするな。こんな仕事をしてるんじゃ、いつ何時殉職したっておかしかないが、頼むから自分から命を捨てるような真似だけはするな》
あの時の平手打ちで神南を見直したわけではないが、少なくともそのきっかけにはなった。
先入観なしに神南を見ていると、いい加減に見えても要所要所はきっちりと押さえているし、気づかないほど巧妙に綾女をフォローしてくれてもいた。
綾女が素直に神南に謝ったのは、その事件があってから3ヶ月ほどたったころだった。綾女の謝罪に、神南はきょとんとした顔をした。何を謝っているのか判らないという顔だった。その時が綾女の今に至る分岐点だったのだろう。
「……全く。あの時の台詞、そっくりそのまま返してあげたいわ」
綾女は呟く。
「心外だなぁ。自分から命を捨てたことなんか、一度もないですよ」
神南の答えが聞こえたような気がして、綾女は苦笑を浮かべる。そして、手術中のランプを見上げると、きびすを返してその場を立ち去った。
神南が目を覚ますと、なにやら見覚えのある天井が目に入った。そこから首を巡らして周りに視線を移す。身体中に貼付けられた電極が、神南の動きを制している。それでも神南にはここがどこだか判った。神南が月に一度は検査のために来ている、いつもの病室だった。
「まだ不老のメカニズムが判らないうちは、貴様に死なれると困るんだよ」
神南の意識が戻ったことを察して、主治医の鷺ノ宮が声をかけた。
「実験動物としての自覚をもって欲しいものだな」
機械のディスプレイに表示される波形を見ながら、鷺ノ宮は言う。神南のことなどちらりとも見ない。
「アインは無事か?」
多少かすれ気味で力が入らないとはいえ、声を出すことは出来た。神南はいちばん気にかけていることを訊いた。
自分がどうなったのかなどということに興味はない。意識は戻った。いまのところは生きている。それだけで十分だった。
「アイン? ああ、貴様が庇ったとかいうガキのことか。橘に訊くんだな」
周囲に置かれている多数の機械が放つ低音に紛れて判りにくい神南の微かな言葉を、間違うことなく鷺ノ宮は聞き取って答えた。
「じゃあ、俺はいつ綾女さんと連絡が取れるんだ?」
「検査が全て終了したら、だな。回復速度のサンプルも取りたいし、当分先だと思っておけばいい」
鷺ノ宮はそっけなく答えた。
「そいつは困る」
「貴様の事情など関係ない。忘れているようだが、貴様は賢人会議のために生きてる実験動物に過ぎない。おとなしくデータ提供だけしてろ」
「30年近くも研究して結果が出ないんだ、いい加減諦めろよ。偶然の産物を再び作るなんて、人間にできることじゃないだろうが」
議論をしても無駄なことは、よく判っている。それでも神南は言わずにはいられなかった。
時の理りから外れてしまったことを賢人会議は忘れさせてはくれない。
「貴様とは違った意味で我々にも悠久の時がある。たかが30年で結果がでるわけなかろう? ……ふむ。流石に再生力が強いな。この不老細胞が単体で培養できれば研究の見通しがつくというものを。なんだって貴様から採取した途端に老化のメカニズムが働きだすんだ?」
「それを俺に訊くか?」
神南は有用な情報を鷺ノ宮から聞き出すことを諦め、おとなしく天井を眺める。
今すぐにでも綾女に連絡をとりたかったが、身体が言うことを聞かなかった。貼付けられている電極の所為だけでなく、身体そのものが休息を欲しているのだ。死んでもおかしくない傷だったという自覚はある。
別に死に場所を求めたわけではない。綾女が思っているほど、神南は生に飽きてはいなかった。
確かに自分だけ取り残されて、周りの人間がどんどん成長していく様を見るのはあまり嬉しいことではない。不慮の事故で不老の身体を手に入れた最初のうちは、それでも年老いることがないということを喜んで受け止めていた。その結果に付随する賢人会議での扱いにすら寛容だった。周りが自分よりも年上だけだったせいもあるのだろう。成長というものが目に見えて判るわけではない。自分だけ取り残される感じはあまりなかった。
10年の時を経て時管局に戻ったときも取り残されたとはあまり思わなかった。事故当時に組んでいた檜川がやけに年取ったなと感じた程度である。10年という短くはない時間が過ぎたのだと思うだけだった。
神南は機械に映し出される数値を手元の用紙と見比べながら何やらチェックしている鷺ノ宮を見る。
最初に会ったときは中学生だったんだよな。
時管局に戻されてからも、月に一度のペースで検査に呼び出された。5年前に高齢だった担当医が他界したと知ったとき、これで検査に呼び出されることもないだろうと思った。だがやはり神南は賢人会議に呼び出され、カルテを持って目の前に立ったのはこの鷺ノ宮沙雪だった。
最初の担当医の孫か何かだと聞いていた。本来ならば同席できるはずのないところに中学生がいたのは、先の担当医が連れてきたせいらしい。不老メカニズムの解析などという賢人会議内でもトップシークレットに属するプロジェクトの責任者である、結構地位は高かったらしく、その分尊大でもあった。孫の一人や二人同席させたからといって、どこからも文句は出なかったのだろう。
鷺ノ宮は会うたびに成長していた。当然だった。当時の鷺ノ宮は、成長期まっただ中にあった。同じ時間が過ぎているとは思えないほどだった。それでもまだ、時間に取り残されているとはあまり感じなかった。
それを切実に感じたのは、中学生だった鷺ノ宮が同い年くらいの青年医師として目の前に立ったときだった。
まじまじと見つめたものである。これがあの中学生か、と。そして自分の上に流れている時間が、他人と共有できるものではないことを実感をもって理解したのだった。
「不老というだけで死なないわけじゃない。安静にしてろ。貴様に死なれると、私の責任問題になる。それは願い下げだからな」
仏頂面のまま鷺ノ宮は言うと、病室を出ていく。
その後ろ姿を見ながら、たまには思い出に浸るのもいいかと神南は思った。肉体年齢はそのままでも、精神年齢はそれなりに年をとっているのかもしれないと、神南は薄く笑った。
自宅待機を命じられたアインは、家に戻るとそのまま地下書庫に降りた。神南が誘いに来る前に読んでいた資料は途中にしおりが挟まれている。アインはその続きを読み始めた。
神南がどうなったかなど、アインには全然興味がなかった。関心があるのは如何に能率良く仕事をするかということだけだった。知識は判断の基準となる。過去のデータから得られるものは決して少なくはない。アインは資料に没頭していた。
「勉強熱心なことだね」
不意に声をかけられて、アインは資料から目を離す。
気配は全く感じられなかった。
いくら没頭していたからといって、アインが他人の気配を――それも今まで存在しなかった者の気配を感じ取れないはずがない。だが、目の前の空間に寝そべるかのように浮かんでいる絶世の美少年は、だいぶ前からそこにいたかのようにくつろいでいた。
「いつ気づくかなぁと思ってたんだけどねぇ。案外鈍感なんだ。それとも素晴らしい集中力とでも言えばいいのかな」
アインは自分の脈拍が速くなっていることに気づいていた。運動もしていないのに脈拍が上がるなど今までにない症状である。どこか壊れたのだろうかと訝りながらも、それが表情に出ることはなかった。
「心配してるだろうと思ってね、神南の様子を教えに来てあげたよ」
満面の笑みを浮かべ、少年――トーラは言った。空間を歪ませることなく転移ができるのだ、セキュリティなど彼の前には無意味だった。
「心配? 僕が?」
ようやくアインは口を開いた。
力が及ばないことは先刻承知している。それと同様に、現在トーラにはアインを害する気持ちがないこともわかっていた。遊ばれている、そう思わなくもないが、敵わぬ相手を故意に挑発することもないだろうとアインは判断した。
「心配じゃないの? だって君らしくもなく僕に銃を突きつけたじゃないか。勝てないのは判っているだろう? 玉砕趣味なんて持ってないだろうし、引き際を知らないようなバカでもないのに、この僕と対峙したってことは、神南の敵討ちのつもりだったんじゃないの?」
言われてアインは考えた。
確かにあの時点で自分の負けは察していた。それなのに何故トーラに銃口を向けたのか。
庇われた恩を返そうと思ったわけではない。トーラの言うように敵討ちのつもりだったわけでもない。あまりに強大な力に一矢報いてやろうというのも全くなかった。
どれもこれも、アインからしてみれば馬鹿げたことである。
目の前で行われた傷害事件に対しての反射的行動だったのだろうか。
それも違うような気がする。
傷害事件に対して反射的に行動が起こせるほど、アインは経験を積んでいない。
そもそも管理課に配属されて傷害事件などと縁があるわけがない。賢人会議にいたころは軍事訓練ばかりで、如何に生き残るかが最優先課題とされていた。アインがあそこで敵わぬと自覚していたトーラに銃口を向けるなど、あり得るはずがなかった。
トーラにそれを指摘されてアインは困惑した。そういった感情にもアインは慣れていなかった。
「下手にいじくるから歪みが出るんだよねぇ。やるからには、僕くらいの繊細さが欲しいなぁ」
芝居がかっているほど大袈裟にトーラは溜息をつく。そして目を眇めてアインを見た。
自分の意志に反してアインは椅子から立ち上がる。しかし自分の思いどおりにならない身体にアインが苛立つことはなかった。おとなしく操られるままに動く。
この感覚には覚えがあるとアインはぼんやりと思った。半ば催眠状態なのだろう。
トーラの前に立ったアインは、全身をスキャンされているかのような落ち着かない気分に突如襲われた。一気に覚醒する。動こうとしても見えない鎖でがんじがらめに固定されているかのように身動きがとれない。動けない代わりに、アインは勁い瞳でトーラを見た。
「何をする?」
トーラは何かを見つけたようだった。嬉しそうに答える。
「い・い・こ・と。手出ししないようにって言われたけど、これはまぁ神南の希望に添ったことだろうし、きっと怒らないよね。もしかしたら感謝されちゃったりするかもしれないなぁ。それで僕のところに来てくれたりするかも。……うわぁ、いいかも。何にしろ、貸しは多いほうがいいよねぇ」
一人で納得し、トーラはついっと空間を滑るようにアインに近づいた。
相変わらずアインは見えない何かに拘束されているように動きが取れなかった。
トーラは抱き寄せるようにしてアインの首の後ろに手を当てる。ひんやりとしたその手がだんだん熱を帯びてくる。それに伴い、手を当てられたところがピリピリとしてきた。
「そうそう、神南は無事だよ。あとで僕がちょっと手伝っておくから、退院できるのは予想より早くなると思うよ」
まるで接吻するかのような近距離でトーラはそう囁く。唇にかかる吐息にアインがのけ反ろうとしても、首に回されたトーラの手がそれを阻んでいる。
「今のうちにこれはとっておいてあげるよ。君を殺すのは神南に止められているけれど、神南だって賢人会議に監視されてるなんて気分いいもんじゃないだろうからね」
手を当てられているところが急激に熱くなる。アインはその熱に顔を歪ませた。
「ふぅん。なかなか素材はいいんだ。へぇ。嗜虐心を刺激されるねぇ。さっき殺さないでおいて良かったかもしれないなぁ。……ああでも手出しするなって言われてるんだっけ。どうしようかなぁ。バレなきゃいいんだよねぇ。神南が退院してくるまでならバレないよねぇ。あとで処理しておけばいいんだし」
勝手に結論を出し、トーラはアインの唇に軽く接吻して手を放した。アインを縛っていた見えない鎖も同時にとかれた。
アインは全身の力が抜けて立っていられずに、操り人形の糸が切れたかのように崩れ落ちた。
ようやく首だけを動かしてトーラを見上げる。
「これ、何だか判る?」
トーラは小さな金属片をつまんでいた。その金属片からは短いピンのようなものが6本出ていて、まるで昆虫のように見えた。
アインはトーラの問いに小さく首を振った。声が出ないほど何故か消耗していた。
「君に取り付けられていたものだよ。これで賢人会議は神南の動向を逐一チェックしていたみたいだね。それと、君をある程度コントロールしていたらしいねぇ。まったく、やるならやるで、もっとスマートにやってもらいたいなぁ」
アインは何を言われているのか判らなかった。身体の力だけでなく思考力までも奪われたかのようだった。
「あー、やだやだ。これじゃあまるで、僕がとってもいい人みたいじゃないか。僕のメリットなんてちっともないのになぁ。……まぁいいか。久しぶりに神南で遊んだお代みたいなもんだし」
そう言うと、トーラは床に倒れ込んでいるアインの耳元に顔を近づけ囁いた。
「また遊びに来てあげるよ。メンテナンスも兼ねてね」
そして立ち去るそぶりを見せたが、何かに気づいたかのようにトーラは笑みを浮かべてそのまま床に座り込む。愛玩動物を撫でるようにアインの柔らかい髪を触りながら、何かを待っているようだった。
普段であれば黙って触られているようなアインではない。しかし今は全く身体に力が入らず、抵抗どころか身じろぎすら出来なかった。疲れ切っているというよりも、どうやって身体を動かせば判らないという感じだった。触感はあるので神経が切れたというわけでもないらしい。
身体の自由を奪われているというのに、アインに危機感はなかった。それもまた普段のアインらしからぬことだった。
ほどなく壁と見分けがつかないようになっている隠し扉が開き、綾女が現れた。
アインを撫でているトーラを見て、綾女は息を飲む。こんなところでトーラに出会うとは予想だにしていなかったのだろう、彼女にしては珍しく驚きがそのまま表情に出てしまっていた。
その驚きにはアインが黙って撫でられていることも含まれていた。
「……どうしてあなたがここにいらっしゃいますの?」
ほんの少しの沈黙の後、綾女は自分を取り戻していた。感情を読ませない表情でトーラに対峙する。
「やだなぁ。久しぶりに会った挨拶がそれぇ?」
楽しそうにトーラは答えた。アインを撫でる手は止めない。
「なるべくならお会いしたくありませんでしたので。アインがいる間は手出ししないと伺っていましたけれど?」
「だから神南には手出ししてないじゃないか。心配してるだろうと思って来ただけだよ」
床に倒れたままのアインを綾女は見遣り、非難めいた口調で問いただす。
「それでどうしてアインが倒れているんですの?」
「ああ、これ? 神南には手出しするなって言われてるんだけどさぁ、バレなきゃいいと思わない?」
「そこで同意を求められても困りますけど」
「でも、この子をくれたら神南を諦めるって僕が言ったとしたら、君、迷わず同意するだろ?」
綾女は返答に詰まった。
けらけらと楽しそうにトーラは笑った。
「嘘だよ。神南に嫌われる真似はしたくないんだ、僕」
まだ身体を動かせないアインを、トーラは軽々と抱き上げた。体格はほぼ同じくらいなのに、重そうなそぶりも見せずに歩き出す。
「どこへ連れていくつもりですの?」
綾女はトーラの思惑が読み切れないために、その場を動けなかった。気分一つで人の命をためらいもなく奪い去る相手と言葉を交わすだけで、かなりのストレスを感じていた。
「この子の部屋。安心していいよ。この子が黙って僕に抱き上げられているのは、ただ単に動けないだけだから。不都合な部品を取り除いたから、ちょっと運動機能に障害が出てるだけ。一晩寝れば調整されてちゃんと動くようになるから大丈夫だよ」
綾女は軽く首を傾げた。神南以外の人間にトーラが興味を示すとは思わなかったのだ。普段なら倒れているままに捨て置いている筈である。
「この子、面白いよぉ? 抑圧されてるのに、しかもその認識すらないってのに、それを無意識にはねのけるんだよ? 神南の次くらいに気に入ったかな」
綾女の戸惑いを察してトーラは言葉を紡ぐ。
「僕ねぇ、君も気に入ってるんだよ、綾女。何でかなぁ、神南が必死になって守ろうとする人間って、結構気に入る確率高いんだよね」
「……お礼を言うべきなのかしら?」
「お礼よりもさぁ、神南を懐柔してくれると嬉しいんだけどなぁ。僕のものになるように言ってくれない?」
アインを抱いたままトーラは階段を上る。
とりあえず今は何もするつもりがないと見極めのついた綾女は、トーラの後を追って階段を上った。
「お断りしますわ」
「つれないなぁ。でもそう返せるあたりが綾女だよね」
トーラは本当に楽しそうに笑っている。
「あなたとまともに会話が出来ないようでは、神南の上司として勤まりませんから」
「あれぇ? 上司になっちゃったんだ。それは大変だねぇ。同情半分、妬み半分ってとこかな」
綾女は沈黙で答える。
「あはははは。神南に嫌われるから、君にも手出ししないってば。えーと、それでこの子の部屋って?」
「二階の、階段を上がってすぐの部屋だと聞いてますけど」
綾女の言葉に、アインは微かに頷いた。
トーラはアインを抱え直すこともなく部屋へ連れていき、ベッドに寝かせた。
「こんな状態だから、この子から何か聞こうと思っても今日は無理だよ」
「……その件に関しては、ここであなたにお会いした段階で諦めていますわ。どの道、あなたが絡んでいるようでは立件もできませんもの」
「賢明だね」
冷ややかな笑みを浮かべ、トーラはふいっと消えた。相変わらず見事な時空移動である。
トーラの姿が消えてようやく、綾女は大きく溜息をついた。
「厄介な人物に気に入られたようね。先に謝っておくわ。私は神南くんのフォローだけで手一杯なの。あなたにまではとても手が回らないわ。ごめんなさい」
綾女はアインの瞳をのぞき込むようにして言った。
声が出せないアインは綾女の瞳を見つめ返した。
「言いたいことや聞きたいことは判っているつもりよ。まず《彼》の正体ね。それについては判らないとしか答えられないわ。おそらく神南くんが一番よく知っていると思う。ただ、怒らせると怖い人よ。他人の命を紙屑同然に思っているような人だし、つまらないって理由だけで拷問のような殺し方をするから、《彼》と一緒の空間にいるときはかなり気を張っていないともたないわね。普通なら出会う筈のない人物だけれど。不運と思って諦めなさい」
綾女にしては珍しくアインの視線を少しかわして答えた。どこまでアインに伝えたものか判断に苦しんだ結果である。
トーラが神南を気に入っている理由から話すのが一番筋のとおったものなのかもしれない。しかしそれは神南の秘密に言及しなくてはいけない。公然の秘密と半ば化していても、神南の許可を得ないうちに漏らすわけにはいかなかった。
「本当は神南くんに何が起きたのかを聞きに来たのだけれど、それについてはさっきも言ったように不問に付すわ。それで、神南くんが入院している間の仕事についてだけど、基本的には自宅待機になるわね。今のところ、たいした時空の歪みもでないと予想されているし。ただし携帯端末は常にはめておいてね。予想はあくまでも予想でしかないもの」
時空の歪みはある程度ならば予測できる。天気予報と同じで信頼度はあまり高いものではないものの、神南の担当区域は彼のこまめなメンテナンスのおかげで不安定な箇所が少ないのだ。
もっともそれは自然発生する歪みについてであり、無理やりこじ開けられたりする場合もありうるのだが、それは捜査課の担当範囲で本来ならば管理課が出るものではない。
「最後に神南くんの容態だけど、失血がひどいものの、命に別状はないようよ。担当医の話では二ヶ月ぐらいで退院できそうなことを言っていたわ。ただ、退院したからといって通常業務にすぐに戻れるわけではないから、アインには退院後の神南くんをフォローしてもらうことになると思うわ」
そしてふと気づいたように言葉を続ける。
「神南くんが退院するまで一人暮らしになるのよね。大丈夫かしら?」
アインは頷いた。それでも多少不安げに綾女は言う。
「それならいいけれど……たまには顔を出してみるわね」
その言葉に、アインは気づかれないほどほんの少しだけ嫌そうな顔をした。そんな感情が生まれたことを、アインはまだ自覚していなかった。




