03◆6月-1
流血注意です。
梅雨の晴れ間の貴重な一日が非番の日と重なったのは、神南にとって非常にありがたいことだった。
雨が降ろうと槍が降ろうと、神南が洗濯物をため込むということはまずありえない。それでも天日に干すのと乾燥機を使うのとでは仕上がりが全然違う。掃除にしても、雨が降っていては窓を全開にしてするわけにはいかないので、どうも気分良く出来ない。大体において雨の日というのは人を憂鬱にするものである。
久方ぶりに気分良く鼻歌交じりに洗濯物を干し、ついでに自分やアインのはもちろん、使っていない布団まで干し、窓を全開にして掃除に励む。
「お天道さまさまだよなぁ」
あまりに気分が良いので、神南は凝った料理でも作ろうかと思い立った。
手早く、だが隅々まで掃除を終わらせ、神南は地下書庫へと降りた。アインが朝から資料を読みふけっているのだ。
「アイン! せっかくのいい天気にモグラみたいに地下にこもってるなよ。一緒に買い出しに行かないか?」
アインは広い机の上に、過去の報告書の写しやら空間補整の原理を書いたもの、時空間移動の規定書など、仕事関係の資料を山積みにしていた。どこまでが読み終わったもので、どこからがこれから読むものなのかは、神南には判別がつかなかった。
「まだ読むのが残っている」
返答は神南の予想範囲内だった。だからにこやかに言う。
「そんなの今日でなくてもいいだろうが。せっかく天気がいいんだ、俺につきあえよ。オープンテラスの美味い店を知ってるんだ。そこで昼にしよう。その帰りに夕飯の材料を買って、晩は牛タンのシチューにでもしようと思ってるんだが」
アインは気乗りしなさそうな顔で、それでも席を立つ。神南が勧誘を装いながらも引く気はないのだろうと、今までの経験から判断したのだ。左側に山積みになっている資料を抱え、書棚に戻していく。
「これも戻していいか?」
「うん。読み終わったから」
神南はアインを手伝って資料を戻していく。
仕事をするうえで必要だと判断してアインが選んだ資料は、どれもこれも的確なものばかりだった。神南が選んだとしてもこれらとそう違わないものになっただろう。
確かに地下書庫のすべての資料は検索可能となっているが、だからといって誰にでもこれらをすぐに取り出せるとは限らない。検索するにもコツというものがあるのだ。しかも、ここは神南の個人書庫である。誰にでも判りやすいような分類はしていない。
「よくまぁ、これだけの資料を揃えられたな」
「分類の癖をつかむのはそんなに難しくなかったから。法則が判れば検索も楽になる」
「それほど系統立てて分類してるつもりはなかったがなぁ。俺が判ればそれでいいって感じでしか整理してないからな」
「どんな形であれ分類されていれば、それなりの法則というものは生まれる」
「そういうもんかね」
読み終えたものを片づけた二人は、そろって外に出た。
梅雨明けもまだなのにすっかり夏の日差しになっている外は、少し歩くだけで汗ばむくらいだった。
いままで地下にいたアインは眩しげに目を細めた。銀色の髪が光をはじく。
「一つ、訊きたいことがある」
アインは隣を歩く神南を仰ぎ見て言った。
「俺に答えられることなら、何でも教えてやるよ」
アインから話しかけるという滅多にない状況に、神南は機嫌よく答えた。
「時空間移動の規定によると、捜査官が時空間を移動するのは、許可が下りたとしても隣接する階層だけのはず」
「……あのあたりの報告書の控えも読んだのか……」
アインが何を訊こうとしているのか判った神南は、自分のうかつさを呪った。
相棒とは言え、他人に見せてもいいものではなかった。イレギュラーな報告書を、取り出せるところに置いたままだったことを神南は後悔した。
だが、その雰囲気を察してくれるようなアインではない。
「カンナミは隣接していない階層にまで単独で移動している。明らかな命令違反のはずなのに、処罰は始末書一枚ですんでいる。中には長期にわたっての滞在もある。あそこにあった規定書の施行は決して古い日付ではなかったけれど、それ以降、改定が?」
答えないという選択肢もあった。軍事機密だ答えれば、おそらくアインは追及してこないだろうことも判っていた。それでも神南は誤魔化すことをよしとはしなかった。
「改定なんぞないよ。何人たりとも時空間移動はしてはいけないってのが大前提だ。例外は時管局の上層部。時空を渡ってくる犯罪者を摘発するには、どうしても他の時空との連携が必要となるからな。もっとも、実際に時空間移動をする偉いさんはあまりいない。他時空との通信回線は常時オープンになっているし、定例会も通信回線を使用してのものだしな。あとは賢人会議のやつら。本来なら時管局に摘発されていい組織だが、パワーバランスがあっちに傾いてる以上、手出しができなくてね。許可されているわけじゃないが黙認されている、という感じだな」
そこで神南はため息をついた。大前提の例外を内情を含めて知っている自分に、少しうんざりしたのだ。
時管局に勤めなければ、他にもここと同じような時空が存在するなど、話の中だけで実感することもない。たとえ時管局に勤めたとしても、実際の業務は捜査官が存在する時空に限られているので、とくに時空の重なりを意識することもない。やっていることといえば、対象物が他時空のものであるだけで、警察とあまり変わらないのだ。
「で、俺が何でたいしたお咎めなしで時空間移動ができるかっていうとだな」
どうしても言葉が重くなる。言いたくない気持ちと、誤魔化したくないという思いが、神南の中でせめぎ合う。
アインは黙って言葉の続きを待っている。
「例外二つの両方に不本意ながらも絡んでるからだよ」
「…………」
「詳しい話はここではちょっとできないんだよな。それなりに重要機密だったりするからさ」
あとで教えてやると続けるつもりが、神南の台詞はそこで途切れた。突き刺さるような視線が、人込みの中から神南に向けられたのだ。
「予定変更。アインは先に帰ってろ。悪いが、昼飯は自分で調達してくれ。野暮用ができたらしい」
真正面からの冷ややかなその視線に、神南は覚えがあった。
いつだったか、他の時空から逃げ込んできた男がいた。やっとのことで逃げ出して来たらしく、身体のあちらこちらに傷があり、その状態で時空を越えたことで弱った身体を余計に痛めつけていた。本来ならばすぐにでも元の時空に戻すのだが、彼の体力を鑑みて、まずは療養ということになった。しかしその甲斐なく、彼は亡くなった。
神南に覚えのあるその冷ややかな視線の主は、亡くなった男の一人娘のものだった。どこでどう連絡が間違ったのか、はたまた誰かに何か吹き込まれたのか、娘は何故か神南を父の敵と思っているのだ。時々こうして時空を越えてきて神南を狙う。彼女の父親を助けられなかったという自責の念もあり、検挙率の高い神南にしては珍しく、ついつい逃がしてしまっているのだ。狙いが神南だけに限定されていることもあり、狙われている神南自身があまり乗り気でないこともあって、時管局からのマークもあまりきついものではない。
「……わかった……」
アインはくるりときびすを返した。神南に向けられていた視線が、ふいっと逸らされた。
「……嘘だろ、おい……」
神南は自分の判断ミスに気づいた。神南に固定されていた意識が、きびすを返したアインを追っている。
「羅珠……おまえ、何を考えてる?」
神南はアインを追いかけた。
視線の主は間違いなく神南を狙っている娘――羅珠のものだった。それなのに何故アインをも狙うのか。
神南は事態を読み切れずに焦っていた。
「アイン。悪い。巻き込んだようだ」
神南はまず謝った。
「攻撃する?」
アインは自分が狙われていることなどなんとも思っていないようだった。隠し持っていた小型銃をとりだす。
「銃刀法違反だぞ」
神南たちが所属している管理課では、拳銃所持の許可を出していない。同じ時管局でもこれが捜査課となると状況に応じて許可されるのだが、それは扱う事例の違いだった。
「個人的に許可は取ってある」
確かにアインの持っている銃は、時管局で支給されるものではない。手になじんでいる様子から、ずっと使い込んでいるものと判る。
「それはしまっておきな。威嚇射撃はやったことないんだろう? 相手を殺すための使い方しか知らない奴に撃たせるわけにはいかないからな」
15歳という年齢を考えに入れなくとも、アインの銃の腕前はずば抜けたものだった。速射で急所を確実に撃ち抜く。だがそれは、戦場での撃ち方だった。街中で、違反者を逮捕するための撃ち方ではない。
「それでは勝てない」
アインは銃をしまおうとはしなかった。生き残るためだけに教育を受けてきたアインには、この状況で銃をしまうことなどできはしなかったのだ。
「相手を殺しての勝ちってのは、俺たちにとっては負けになるの。いいからしまいな。何かあっても俺が守ってやるから」
「……守る?」
初めて耳にした単語のように、アインは呟いた。
「今回のは完璧に俺の判断ミスだからな。あいつにどんな狙いがあるのか知らないが、アインには指一本でも触れさせやしない。だから、俺の側を離れるなよ」
アインは神南の考えが理解できなかった。
勝つか負けるか。成功か失敗か。それ以外の結果など、アインにとっては何の意味もなかった。他人を守るという概念もない。自分が生きるか死ぬか。それが勝ち負けの基準だった。自分が生き残っていれば、当然敵は死んでいるものと決まっていた。双方ともに生き残り、それで自分が勝つという状況はあり得なかった。
「いいから、俺に任せときな」
神南はアインの戸惑いを正確に把握していた。羅珠の狙いがどこにあるかはまだ判らないが、アインに今までとは違う価値観を教えるには絶好のチャンスかもしれないと思っていた。それくらいの余裕は、神南にはまだあった。
「このまま後ろから撃ってくるような子じゃない。そのつもりなら、正面から気配を悟られるようなことはしないさ。余計な人間を巻き込みたくないってのはこっちも同じだから、少し人気のないところまで御足労願うさ」
そのまま、自宅の方へ戻る。この時間ならば、自宅周辺の住宅街はほとんど人通りがない。
整備されている表通りから、ふらりと裏道へ入る。万が一にも他人の介入がないようにと考えたのもあるが、両側の高いブロック塀が流れ弾の被害をある程度防いでくれるだろうという目論見もあった。
律義にも視線の主はちゃんと追いかけてきた。神南の目論見など、知ったことではないらしい。怒りのこもった冷ややかな視線はそのままだった。何かを警戒しているような気配もない。
「なんのつもりだ?」
足を止め、神南は背後の気配に言った。アインを庇うことも忘れていない。
「おまえが狙うのは俺だけの筈だろう? どうしてアインまでターゲットにした?」
振り返る。
そこに立っていたのは、緋色の髪を肩のところで切り揃え、額には何かを隠すかのように緑のバンダナをまいている17歳くらいの娘だった。金色の瞳は憎しみを込めて神南を見つめている。その手には、アインが見たことのないタイプの銃らしきものが握られており、照準は神南に向けられていた。
予想どおり羅珠だった。
「私の大切なものを奪ったんだもの。あなたの大切なものを奪ってもいいじゃない?」
その声は涼やかなもので、銃を構えている緊張感も、人を殺そうとしている罪悪感も、瞳に現れている憎しみさえ見いだすことができなかった。
「だから、言ってるだろーが。俺が親父さんを殺したわけじゃないって。ここに来たときには既に重傷だったんだよ。あの怪我で時空間移動なんかした所為で、余計に体力を消耗してしまったんだ。その辺の事情は、そっちの時管局から知らされてるだろう?」
「関係ないもの。時管局のやり方は知ってるわ。自分たちに都合の悪いことは全部なかったことにするのよね」
「時管局のやり方がそうだってことに異議を唱えるつもりはないさ。確かに都合の悪いことに目をつぶろうとする傾向はあるよ。だけどな、親父さんのことに関しては間違いなく報告書のとおりだ。改竄の余地はない」
「信じられないわ。だって、私の目の前で父は転移装置に入ったのよ? その時はどこも怪我なんかしていなかった。そして次に会ったときは瀕死だった……。信じられるわけ、ないじゃない!」
「信じる信じないの問題じゃない。真実はいつだって一つだ。そして、この場合はカンナミが正しい」
神南の後ろに庇われた形となっていたアインが口を挟む。
「何も知らないくせにっ!」
「報告書は読んだ。担当がカンナミでなければ、父親の死に目にも会えなかったと思う」
「……どういうこと?」
「アイン。言わなくていい。それは羅珠には関係ない」
「関係ないってどういうことっ!?」
神南の台詞が羅珠の怒りに火を注いだ。
しかし、アインは口を閉ざし、神南もその件について何も語ろうとはしなかった。
「言いなさいよ!」
「昔の話をしてもしょうがないだろう。それよりも、おまえだけは他人を巻き込まないと信じてたんだがな。残念だ」
「昔の話? 当事者でなければ昔には違いないわ、もう10年も前のことだもの。でも、あんたは間違いなく当事者の一人だし、それにあんたにとっての10年なんて、つい最近のことじゃないの? 今年でいくつになったのよ、おじいちゃん?」
神南の雰囲気が冷ややかになる。いつもの神南らしくない。
アインは観察するように神南を見た。
「誰から聞いた?」
羅珠に『おじいちゃん』と呼ばれるような年には見えない。どんなに童顔だということにしても30過ぎには見えない。17前後の羅珠に『おじさん』と言われても『おじいちゃん』と言われる年ではないだろう。……少なくとも外見は。
今年で25になるはずの神南が、10年前の事件を担当していたというのも不思議な話ではあるが、アインが読んだそれの報告書の日付は3年前になっていた。書類上は、羅珠の父親が死んでから3年しか経っていないことになる。
「だ……誰でもいいでしょっ」
羅珠は明らかに動揺していた。今までに見たことのない神南に怯えてもいた。無害だと思って手を出したものが、実はかなり獰猛で手に負えないと判ったようだった。
「もう一度訊く。誰から聞いた?」
神南の放つ殺気の前に、羅珠は動けなくなっていた。
「苛めないでくれるかなぁ。羅珠のことは、僕も気に入ってるんだからさ」
空間に一瞬たりとも歪みはなかった。それなのに何故か神南と羅珠の間に不意に人が立っていた。大人でも子供でもない、ちょうどその境界くらいの年に見える。ここに割り込んでくるにはあまりに不釣り合いだった。
「こんな美形の僕を忘れたなんて言わないだろうね。そりゃあ、ここ5年くらいはご無沙汰してるけどさ。本当に、久しぶりだねぇ」
自らを美形と称するだけあって、不意に現れた少年は人とは思えないような美しさをしていた。腰まである絹糸のように艶やかな黒髪が白磁のような肌をいっそう白く見せている。黒に見えるくらい深く青い瞳はまるで恋人を見るかのように神南をとらえてる。均整のとれた身体は作り物のように完全な左右対称で、歪みはどこにも見つけられない。
「……トーラ……おまえか……」
「遠螺さま……」
羅珠がうっとりとした声で呟く。
「まさか、羅珠にいろいろと吹き込んだのは……」
「もちろん僕だよ。ほら、僕もいろいろと忙しいからさぁ、なかなか君に会いに来れないじゃないか。せめて羅珠を通してでも会いたくてね」
にこやかに微笑む。
「羅珠に何をした?」
「えー、たいしたことはしてないよ。羅珠本体はオリジナルだし。ただちょっと意識をいじったのと、左目をね、僕とつなげたくらいかな」
あっけらかんと言う。羅珠を意志のある人間として見ていない口調だった。
「人をいじるのはやめろって言っただろ!」
「君だけだよ。僕が何者だか知っているのにそうやって怒るのは。やっぱり、連れていきたいなぁ」
満面に笑みをたたえながら、トーラは言った。
「遠慮しとくよ。おまえとは波長が合わない」
「そんなことないと思うよ? 君のすべてを理解できるのは僕だけだと思うなぁ」
「気色悪いことをにこやかに言うなっ!」
怒鳴りつける神南に頓着せず、トーラは羅珠の肩を抱く。
うっとりと微笑みトーラに身を預けた羅珠が不意に消えた。
アインは端末を見た。
空間が歪んだという形跡はどこにもない。しかし、他の時空に移動したのでなければ、そのように不意に消えることはあり得ない。空間を歪ませることなく時空移動を可能にするほどの力。その圧倒的な力には敵わないことを、アインは冷静に判断していた。
「羅珠をどうした?」
敵わないことなど、十分に承知している。それでも神南はトーラに問わずにはいられない。
羅珠の父親の件が神南の担当でなければ、羅珠がトーラに魅縛されることはなかったに違いない。悪いのは間違いなくトーラなのだが、自分と関わり合いにならなければと思うと、神南は自責の念を抑えることができなかった。
「えー? あんな子に興味あるの? 嫌だなぁ。君は僕のことだけ思っていればいいのに。悔しいから消しちゃおっかな」
「トーラ!」
「でもぉ、そんなことして君に嫌われるのも嫌だから、生かしておいてあげようっと。感謝してくれるよね?」
無邪気な微笑みが、神南の神経を逆撫でする。
「羅珠を元通りにして、彼女本来の時空に戻して、今後一切手出しをしないというなら、感謝してやってもいいぞ」
怒りを押し殺して神南は言った。トーラを怒らせてよいことなど一つもないことを、決して短くはないつき合いから学んでいた。
「どーしようっかなぁ。うーん。君にばれちゃったんじゃ、羅珠はもう使い物にならないし……うん、いいよ。君の言うとおりにしてあげるよ。その代わり、君が後ろに隠してるその子、僕にちょっと貸してくれないかなぁ。あとでちゃんと返すからさ」
そう言ってトーラは神南の後ろにいるアインを目を眇めて見た。
「へぇ。面白いね。ふぅん。その子がアレなんだ。あいつらも節操ないね」
「……何を視た?」
トーラには他人の過去を読み取る力があることを知っている神南は、意味あり気なその言葉に反応した。
「教えなーい。でも、それじゃ使えないな。となると、邪魔だなぁ。君の側に誰かがいるのって、我慢できないんだよね、僕。しかも、だいぶ気に入ってる様子じゃない。気に入らないな、消えちゃって」
「駄目だっ!」
反射的にアインを庇った瞬間、神南は左肩と腹部と右膝に堪えようのない熱さを感じて倒れ込んだ。
立っていられない。
何が起きたのか理解できるほどの冷静さは残されていない。熱さと痛みにのたうち回る。
「バカだなぁ。君は不死じゃないんだから、そういうことすると死んじゃうよ?」
「傷害罪。殺人未遂罪」
アインは使い慣れた拳銃をトーラに向けた。
「せっかく彼に助けてもらった命、無駄にするの?」
トーラはそんなアインを面白そうに見た。
アインは血だるまになって倒れている神南を見下ろす。
止血もせずにこのままで放っておいたら確実に神南は死ぬだろう。
それを判っていながら、アインは何もしなかった。
神南は負けた。だから死ぬ。
当然のことだった。
「僕はまだ負けていない」
「勝てない勝負をするようには見えなかったんだけど。……もしかして、彼のこと好き?」
「…………」
アインには好悪の感情が欠落していた。好きかと問われても答えを持っていない。だから黙っていたのだが、トーラはその沈黙を答えと見なしたらしい。
「ふぅん。やっぱり邪魔だな。死ぬまで待つこともできるけど、そこまでこの僕が譲歩する必要はないと思わない? だからさ、ここで死んじゃってくれる?」
「……だ、め、だ……」
血の海に倒れ込んでいる神南が微かに口を開く。
「譲歩しろっての? この僕に? そんなこと要求するのって、君くらいだよ。しかも、その状態で人の心配するなんてね。……仕方ないなぁ。瀕死の君に頼まれたんじゃ、断れないじゃないか。この場はいったん退いてあげるよ。貸し、一つだよ?」
そう言って、トーラは現れたときと同じように不意に消えた。声だけが残る。
「それはおまけ。早くちゃんと手当てしてあげるんだね」
声も消えたのを確認してから、アインは倒れている神南の様子を見るためにしゃがみ込んだ。
出血がひどい。ただ、止血をしたわけでもないのにもう出血は止まっている。弱々しいながらも脈はしっかりしているので、体中の血が流れ出し尽くしたというわけではない。おそらくトーラの言う『おまけ』の結果だろう。だが既に流れ出たその血の量だけでも、神南が生きていることが不思議なくらいだった。
左肩と右膝の傷はゴルフボールほどの大きさにえぐれている。筋肉組織を破壊し、骨も砕いている。腹部の傷は他よりも大きいが、その代わりにそれほどえぐれてはいない。内臓に損傷があるかどうかは見た目では判らない。
神南は負けた。だから死ぬのがあたりまえではあるものの、現状で命があるものを見捨てるわけにもいかない。アインは休暇中にもかかわらず手首にはめていた携帯端末で綾女と連絡を取った。
『あら、どうしたの?』
「カンナミが撃たれた。早急に治療を要する」
『今どこ?』
綾女は何が起きたかなどと訊かなかった。アインが早急と言ったからには一刻の猶予もないと判断したのだ。
「南1ー1。カンナミ宅裏手の路地」
『判ったわ。すぐに人を向かわせる。そこにいてちょうだい』
綾女が手配した人が来るまで、アインは倒れている神南の傍に黙って立っていた。
神南がとった行動が理解できなかった。
あの時トーラが狙っていたのは間違いなくアインのほうだった。神南が庇わなければ、ここで倒れているのはアインだったはずである。
自分が無傷でこうして立っていることに不満があるわけではない。神南に対して余計なことをしてくれたと思っているわけではない。しかし同様に、感謝しているわけでもなかった。ただ理解できないのだ。余力があって他人を庇うなら、納得はできなくともまだ理解できる範疇である。自分の身を犠牲にしてまで他人を庇うとなると全く理解できない。なおかつ、瀕死の状態にありながら、神南はそれでもアインを庇おうとしていたのだ。
アインには神南が何を考えていたのか、まるで判らなかった。




