13◆10月-2
予感はあった。
呼び出し状だけで済ますようなところではない。特に、今回のような場合は。
だからといって、この状況に驚いていないかというと、それはまた別の話だった。
神南が帰ってくるまではさしあたってすべきことはなかったので、アインはリビングで本を読んでいた。玄関の開く音はしなかったのに人の気配を感じて顔を上げると、見知った、しかしここに居るはずのない女性が立っていた。
「何しに来たの」
当たり前のように目の前に立つ女性に、アインは無愛想に言った。
女性はあでやかに微笑む。不法侵入であることを指摘するのもばからしいほど、堂々としている。
淡い金色の髪は緩く内巻きのカールがかかっており、ふんわりと肩にたれている。化粧映えする整った顔立ち。年のころは17・8といったところか。オレンジの口紅がよく似合っている。
「何のためにこの私がわざわざ出向いたのか、本当に判らないというの?」
揶揄を含んだ涼やかな声で女性は言った。
もちろんアインには彼女の目的が何であるか判っている。だが、手順を無視した相手の行動につきあう義理はないと思った。
黙ったまま読みかけの本に戻る。しかし意識は本に向かわなかった。穏便に帰ってもらうためにはどうすべきか、それを考えていた。できれば神南が戻る前にケリをつけたい。ただでさえ神南自身がマークされているのだ、これ以上の負担はさせたくないとアインは思っていた。
「相変わらず愛想がないわね」
「用件は?」
「あくまでも私の口から言わせようというのね」
溜息をつき、女性はここに来た目的を口にしようとした。その時。
「ただいま」
タイミング良くなのか悪くなのか、神南が帰ってきた。
アインは心の中で舌打ちした。思ったより帰りが早い。
「お客様かい?」
リビングに入ってきた神南は、女性の姿を認めて言った。
神南が思っていた通りの展開になっていた。始めから呼び出しを無視できぬよう、迎えを出す予定だったのだ。通知などただの警告に過ぎなかったというわけだ。
「おかえりなさい、神南さん」
アインはそう神南に返す。女性がほんの少しだけ驚きを表す形に口を開けたのが視界の端に見てとれた。
その僅かな表情の変化から、彼女とアインとの関係が判ったと神南は思った。だが、そのままアインの言葉を待つ。
嫌々ながらアインは不法侵入者を紹介した。
「……フィア・シュヴァルツ。以前一緒だった」
「今はオランジェよ。フィア・オランジェ。シュヴァルツは消滅したの。あのときね」
驚きを声に乗せず、女性は名乗った。
「オランジェ? 直属か」
アインは呟いた。
ファミリーネームがそのまま所属を表す。オランジェは賢人会議の最高責任者直属の部署
だった。
「シュヴァルツがなくなった後、ほとんどは処分されたわ。だから最後のシュヴァルツを消しに来たのよ。私はそのためにオランジェに配属されたのだもの」
フィアと名乗った女性は、にっこりと笑った。
「穏やかじゃないな」
神南は顔をしかめて言った。
「あら、穏やかよ。ただの帰還命令だもの」
意味あり気な表情で言葉を切ると、フィアは口調を改める。
「アイン・シュヴァルツ。即刻帰還せよ」
「おいおい。帰還命令ってのはどういう意味だ? 以前はともかく、今は時管局勤務なんだが」
アインが反射的に復唱するのを恐れるかのように、神南は異議を唱えた。
フィアは首を傾げた。命令に対して反論されるとは思ってもいなかったようだ。
「うちの子に家へ帰れというのが、そんなにおかしいことかしら?」
「えらく家庭的な譬えを持ってきたな」
神南はフィアの言い草に苦笑した。
「アインの帰る家はここだし、勤め先は時管局だし、お前らの命に従う義務はないんだよ」
神南の台詞に、アインの表情がふと柔らかくなる。
大丈夫だとアインは思った。
手続きだとか書類とか、そういった事務的な裏付けがなくとも、神南はちゃんとアインの居場所を守ってくれる。それに対して絶対の信頼があるから、アインは神南に庇われることをよしとせず、昔の同僚を射ぬくように見る。
「僕は行かない。賢人会議から命令を受ける筋合いはないから。協力ということならば、きちんと手順を踏んで。それなら考えてもいい」
フィアは口を開き、だが結局何も言えずに口を閉じた。目の前に立つ少年が以前見知っていた人物とは全く違うことを実感したようだ。
仮面を被ったかのように、フィアから表情というものが抜け落ちる。
フィアが実力行使に出ようとしていることを一瞬のうちに見て取ると、アインは神南を庇うように前に出た。そして強い口調で言い放つ。
「僕が拒否した場合の指示は受けていないだろ?」
その言葉にフィアはぴくりと反応した。
アインは昔を思い出す。
指示されたことだけを確実に実行する。そのように作られた。それはフィアも同じだった。しかし両者にはたった一つの、それでいて最大の違いがある。1という名を与えられたものと、4という名を与えられたものの違い。フィアには意志も判断力も与えられていない。
「無理に連れていこうとするのなら、僕は全力で抵抗する。それでも構わないならやろうか」
ついと片足を引く。それだけの動作が、アインの言葉を裏付けする。
「アイン!」
神南が怒ったような声で言う。それを手で制し、アインはフィアをまっすぐに見ていた。
フィアとの実力差はそれほどない。神南を庇いながらでは勝ち目は薄い。それでもあえて挑発したのは、フィアがそれに乗ってこないと踏んでのことだった。
フィアに与えられた命令は『アインを連れ帰ること』だろうとアインは見当をつけている。アインが命令に従わないとは思ってもいない賢人会議は『無傷で』との条件はつけなかったはずだ。だからといって怪我を負わせても構わないと判断するだけの力はフィアにはない。
膠着状態が続く。
ここはとりあえず退いて仕切り直すという判断すら、フィアにはできない。本来ならば単独で動ける駒ではないのだ。
フィアはアインに視線を固定したまま、左耳に手を当てる。おそらく小形の通信機を仕込んでいるのだろう。
左耳から手を離したフィアは、あでやかに微笑む。それは、神南が最初に目にした表情と同じだった。
芝居がかった微笑みに、神南はこちらの表情こそが仮面なのだと気づく。
「……今回は退きましょう。いずれまた」
優雅に一礼をしたフィアはそれだけを言うと、踵を返してリビングを出ていった。
その気配が完全に消え去るまで、アインは緊張を解かなかった。
「アイン! あんな馬鹿なことするんじゃない!」
後ろから怒鳴り声とともにゲンコツが頭に降ってきた。
「神南さん。それはこっちの台詞だよ!」
そのゲンコツを甘んじて受けたアインは、振り返って神南を見上げた。
「他人のため東奔西走する神南さんだから好きなんだけれど、だけど、過保護すぎるのはどうかと思う。この件だって、僕が相談したのは意見を聞きたかっただけであって、神南さんに何かしてもらおうとか思ったわけじゃない。大体、神南さんはなんでも自分で背負いすぎる。それって、僕らを馬鹿にしてることだって気付いてる?」
アインにしては珍しく声を荒げている。
「アイン?」
「判らないふりしているの? 神南さんの持つ最強のカードって、神南さん自身でしょう。それを安売りしないで欲しいって言ってるんだよ」
神南は照れたような笑いを浮かべる。心配されることに慣れていないのだ。
その笑みを見て、アインは大仰に溜息をつく。
「……課長も酬われない……」
「どうしてそこで綾女さんが出てくるんだよ」
「神南さん。この際だから言っておくけれど、課長の好意を右から左に聞き流すのはやめたほうがいいと思う」
「……結託したな?」
質問の形をとった確認。
「だから?」
対するアインも動じない。
少しの間、睨み合いにも似た緊迫した状態が続いた。
神南はいったん目線を床に落とし、そして溜息をついてアインを見た。
「判ったよ。気をつけよう」
「聞き流しているつもりがないことも知ってるけれど、なんでも自分一人でやろうとしないで欲しい。僕も課長も、神南さんの味方だから」
神南はアインの柔らかな髪をかき回すように撫でる。
「神南さん、やめてよ」
「ありがとうな、アイン。お前に会えて、本当に良かったよ」
「それは僕が言うべき言葉だよ」
幸運だったと思う。
シュヴァルツが解体され、そのまま処分されてもおかしくない状況だった。命じられたままに時管局に来た。配属先はどこでも構わないはずだった。アインの経歴から考えれば、時空犯罪を扱う捜査課に配属されるのが妥当だったろう。それが誰の思惑か管理課に――しかも神南の下に配属になったというのは、僥倖以外の何ものでもないと今は思う。
「アイン。この仕事、やめてもいいんだぞ」
優しい声で神南は言う。
「僕は必要ない?」
思った以上にアインの声は震えた。
「ああ、違う。そういう意味じゃないよ。時管局に来たのは賢人会議の命令だろ? そもそも
賢人会議にいたのだってアインの意志じゃないんだし、いまから別の道を見つけるのもいいだろうと思ってさ」
「今は僕の意志でここにいる。命令だからじゃない。僕が神南さんと一緒にいたいから」
「本当にそれでいいのか? 別に家を出ていけと言ってるわけじゃないんだぞ。アインの歳ならまだまだ遊んでても許されるって言ってるんだよ。というか、アイン、お前、友だちと遊んだことないだろう。大学課程まで終了してるったって、どうせまともに学校生活なんぞ送ってないんだろうが。今のうちに遊んどけよ。大人になったら嫌でも働かなきゃなんないんだからな」
優しさが嬉しい。そして、そう思えること自体、アインはとても嬉しかった。
「僕は神南さんと一緒に仕事がしたい。それとも、学校に行ったほうがいい?」
「アインが決めることだよ」
「なら今までどおりに仕事をする」
そしてはにかんで付け加える。
「それに、僕が見張ってなかったら、神南さん、何するか判らないから」
「言ってくれるな」
神南は笑ってそう言うと、またアインの髪をくしゃくしゃに撫でた。
あらゆる手を打っておくというのが綾女のやり方だった。
それを沙雪は再認識していた。
「叔父さま?」
目の前の深森は誤魔化しを許さない勁い瞳で沙雪を睨みつけていた。
深森が自分から大好きな『叔父さま』に連絡することなど今まで一度もなかった。発信者のあり得ない名前に驚いて、反射的に通信を受けてしまったのがそもそもの敗因だったと沙雪は思う。
神南からの伝言――呼び出しともいう――を伝えたあと、有無を言わさぬ迫力で深森は沙雪に面会を求めたのだ。神南の伝言に頷くかわりに深森との面会は断ろうとしたものの、沙雪の職場に行くのも辞さないとの決意に、渋々ながら沙雪の方が折れた。賢人会議に乗り込まれるよりは、沙雪が出向いて上手く言いくるめるほうがまだましだと思ったのだ。
そして、指定されたファミレスに行ってみれば、そこにはにこやかな笑みで傍観者を決め込んでいる綾女と、怒りを隠そうともしていない深森がいたというわけだ。
「橘」
抗議の意味を込めて、沙雪は綾女を睨む。
「叔父さま! いまは深森とお話ししてるんでしょ!」
いっそう機嫌を悪くして、深森は言った。
「そうそう。あなたに用事があるのは私じゃないのよ。私はただ深森ちゃんについてきただけなんだから」
楽しげともとれる笑顔で綾女は言う。
「貴様が焚き付けたんだろうが」
「あら、失礼ね。深森ちゃんにお願いされたから、仕事の都合をつけてこうして来ているのに」
渡りに船とばかりに深森の依頼を二つ返事で引き受けたことなどちらりとも匂わさず、綾女は楽しそうな笑みを浮かべたままで答えた。
「叔父さま! 深森の質問に答えてない! アインをどうするつもりなのか、ちゃんと言って」
深森はきつい口調で質問を重ねる。
もう一度綾女を睨みつけると、沙雪は溜息とともに深森に向き直った。
「仕事の話だ。深森には関係ないだろう?」
「関係あるよ! だってアインは深森の大切なお友達だもん。深森のお友達をいじめちゃ駄目」
子供の論理に、沙雪は苦笑を浮かべる。
「深森。私は深森の友達を苛めているわけじゃないよ。彼は深森の大切な友達 なのだろう? どこも悪いところがないか、ちゃんと検査するだけだよ」
優しい声で言い聞かせるように言う。
「深森が子供だと思って、ごまかそうとしてるでしょ。ちゃんとわかるんだからね」
確かに深森は真実を見抜く目を持っている。だがここでそれを肯定するわけにはいかなかった。沙雪はあくまでも白を切る。
「ごまかそうとなんかしていないよ。深森は私の仕事を知っているだろう?」
「うん。おにいちゃんのお医者様。それがどうしてアインをいじめるの?」
「苛めてなどいないと言っているだろう? 神南に頼まれたんだよ。アインの健康診断もしてくれってね」
笑いを堪えようとして妙な顔つきになっている綾女を睨みつけ、沙雪は深森に対してはこれ以上ないほど優しい声で言う。
「叔父さま」
深森は射貫くように力を込めた目で沙雪を見る。
「嘘ついたってちゃんとわかるんだからね。深森、叔父さまの仕事がどんなものか、ちゃんと知ってるもの。深森は叔父さまの後を継ぐんだもん」
神南からそのことは聞いていた。それでも深森本人の口から聞かされるのとは違う。ガツンと見えないハンマーで頭を叩かれたようだった。
沙雪はいつものポーカーフェイスを維持することができず、驚きの表情を浮かべまじまじと深森を見た。
「……深森……」
「叔父さまのお仕事も知らずに、後を継ぐなんて言えるわけないでしょ。深森、もう子供じゃないもん」
胸を張って言う姿は10歳になったばかりの子供らしい仕草だった。それでも深森を子供とみることが沙雪にはできなかった。
「…………」
沙雪は深森を見る。その表情は、可愛がっている姪を見るのではなく、他の人を見ているかのようないつもの冷たさを感じさせるものだった。
「叔父さま?」
沙雪のそんな目を、深森は初めて見た。だが、そのこと自体が、深森に子供扱いされていないと教えていた。
だから深森も居住まいを正す。
「秘密のことだっていうのはわかっているの。深森が叔父さまをあてにしてわがままを言っているのもわかっている。でも、どうしても譲れないもの。アインを、どうするつもりなの?」
「機密を漏らすわけにはいかない。私の後を継ぐつもりならそのくらい覚えておけ」
沙雪は冷たく言い放つ。
「それでも! 深森にはまだ力がないんだもの。叔父さまにお願いするくらいしか、まだできないんだもの!」
深森は初めて知る叔父の姿にも怯まず、語調を強めて言った。
「……善処はしよう。私のできる範囲でな。だが、確約はできない」
それがぎりぎりの線だった。望みを叶えるのに必要な地位を保つには、不本意であろうともそれ相応の仕事をしなくてはならない。枝葉を取り払って大事なものだけを残すのならば、深森の願いなど切り捨てるしかない。
それを判っていながら、沙雪はぎりぎりの譲歩を口にする。この甘さが命取りになるやもしれぬと思いながら。
「でも!」
「深森ちゃん。ここまでよ」
傍観者に徹していた綾女が止める。
綾女としても沙雪が今の立場にいることが必要だった。沙雪を失脚させるわけにはいかない。いまは、まだ。
「だけど、綾女おねえちゃん」
「引き際も肝心よ」
諦めきれない顔の深森に、綾女は言う。
「努力なさい、深森ちゃん。あなたにはそれをする覚悟もできているでしょう?」
言外に含まれている意味を正しく理解した深森は、自分を納得させるように頷いた。
「うん。わかった。――ごめんね、叔父さま。深森、帰るね」
「送っていくわ」
「大丈夫。ちゃんとお迎えきてるから」
窓の外に止まっている車を目線で示し、深森は席を立った。
「じゃあ、車まで。ね?」
一緒に無言のまま立ち上がろうとする沙雪を視線で止め、綾女は深森と連れ立って外にでていった。
沙雪はすっかり冷めてしまったコーヒーを、何も入れないまま一気にあおる。
「おかわりはいかがですかぁ?」
能天気な店員に無言のまま空になったコーヒーカップを差し出す。
「あ、私のも替えてもらえる?」
戻ってきた綾女が去り際の店員を捕まえて言う。
「カップ、お取り換えしますねぇ」
微妙に間延びした口調で、店員はカップを持っていった。替わりのコーヒーが来るまで、綾女は一言も喋らなかった。
「おまたせしましたぁ。ごゆっくりどぉぞ」
熱々の、だが煮詰まり気味のコーヒーにミルクだけを入れて一口飲むと、綾女はようやく口を開いた。
「正直な話、私としてはアインがどうなろうとどうでもいいのよ」
何を言いだすのかと、沙雪は黙って先を促した。
「ただ、アインに何かあるとあの人が自滅するから。だから、ね」
沙雪は溜息をついた。
「橘は判っていると思っていたがな」
「念押しよ。で、どうにかなりそう?」
「人道的に目をつぶればな」
「それでいいわ。でもあの人には何も言わないで」
沙雪は首を横に振った。
「代案は、やつも薄々感づいてる。それでも?」
「それでも。証拠を残すような馬鹿じゃないでしょ、あなたたちも」
「結果的に期待に沿えない場合もありうると思え」
「構わないわ。そのときは私が止める。骨は拾ってね?」
笑みを浮かべて綾女は言った。
それに苦笑で沙雪は答える。
「お互い、難儀なやつに惚れたな」
綾女はその言葉に大きく目を見開くと、場所柄もわきまえずに笑いだした。
その必要はないと神南は言ったが、アインは当然のこととして綾女に賢人会議から迎えが来たことを報告した。それは義務からではなく、いわば保険のようなものだった。
「そう。それで、正式に通達が来たらどうするつもり?」
「そのとき考える」
簡潔にアインは答える。
神南はこの場にいない。事務処理をアインに押し付けて、姿をくらましている。
いつものこととはいえ、今回ばかりは助かった。ここに神南がいれば、いろいろと茶々を入れてくることだろう。
「私の課長としての権限で断ることもできるわよ?」
綾女はアインの真意を推し量るように訊いた。
「正式な手順を踏んできちんと依頼が来るのなら、こちらも相応の対応をすべきと思う。少なくとも検討もせずに断るつもりはないよ」
そして少し笑う。
「検討した結果、課長から正式に断ってもらうことになるかもしれないけれど」
「交渉の余地ありの場合も、こちらに回してくれるわよね?」
綾女の言葉にアインは苦笑を浮かべた。
「僕は神南さんとは違うよ。そう念を押さなくても」
「ああ、ごめんなさい」
綾女も苦笑した。
「どうもね、私も過保護になっているみたいだわ。これじゃ神南くんを笑えないわね」
「仕方ないと思う。それで、正式な通達なしに実力行使で来た場合だけれど」
アインの本題はここにあった。
フィアは最後のシュヴァルツを消すためにオランジェに配属されたと言っていた。
それが本当ならば、具体的な指令をもってフィアが再度アインを確保しに来る可能性もある。
フィアに後れを取るつもりはないが、彼女との実力差がそれほどないことはアイン自身がよく知っていた。それにフィア以外にもオランジェに転属になったシュヴァルツがいないともかぎらない。連携をとられたら、流石のアインでも対処しきれないかもしれない。万が一に備えて、綾女のフォローを期待していた。
「私の力が必要なほどなの?」
「実力差はそれほどない。違いは判断力くらい。どのような指令を受けてくるかによって対処の仕方は変わってくるけれど、それによってはこちらが不利になることもありうるから」
綾女はアインの危惧しているところを理解した。
「手段を選ばず、と言われては、確かにこちらが不利よね。もうアインにはそれができないでしょう?」
「正直に言うとまだよく判らない。僕は生き残るための方法だけを教わってきたから。だけど、そういう状況になったとき、前のように自分以外の命を無視することはもうできないと思う」
そしてアインは首を傾げる。
無関係な人間を盾に取るフィアを想像してみる。そのときの自分の対応を考えてみる。
賢人会議にいたときのように、人質を無視して敵を攻撃する気にはどうしてもなれない。たとえ敵の銃口が自分を狙っていると確実に判っていてもだ。
神南がそれを嫌がるからというのは理由の一因ではもちろんある。しかし、どうやらそれだけではないようだった。アイン自身が、他人を犠牲にすることを忌避するようになっていた。
変われば変わるものだと、自分のことながらアインは内心感心していた。
「最後の砦は賢人会議にあるけれど、あれはあまり期待しないほうがいいし。万が一にもあなたが拉致されるような場合は、私からも働きかけてみるわ」
「それは別にいい。それより止めなきゃならない人がいるでしょう」
綾女は大仰に溜息をついた。
「そっちは折り込み済みよ」
「ならいい。僕が賢人会議に戻るようなことになったら、その段階で課長は手を引いて構わない。名実ともに消される可能性は微小だから」
賢人会議が必要としているのはアインの命ではない。そのことをアインは神南から聞いて知っていた。
「それでもね。私が動かないと、あの人を抑えられないから」
「……課長も苦労するね」
「そんなことは別にいいのよ。私にできることなんて微々たるものだもの。せいぜいが、あの人の先回りをすることくらい。あの人が私たちを心配するのと同様に、私たちもあの人を心配しているんだってこと判ってくれると、こちらとしても楽になるのだけれどね」
自重する神南というものを二人とも想像して、そして同時に苦笑した。
「なんか、らしくない」
「そうね」
改めて気づいたように綾女は言った。
「ということは何? 私ってば、振り回されるのが好きだってことなのかしら。我ながら悪趣味だわ」
「……僕の場合は、刷り込みみたいなものだから……」
アインも言っていて何やら情けなくなってくる。
「ともかく。うまくいけばすべてが杞憂に終わるはずよ」
打てる手はすべて打った。それらが功を奏すれば、賢人会議にアインが呼び出されることはなくなる。
「とりあえず今回については?」
「……アイン。お願いだから、それは思ってても言葉にしないでくれる?」
「了解」
二人は互いに顔を見合わせて溜息をついた。
賢人会議がその後アインに接触することはなかった。
綾女のプライベートナンバーにメールが届く。待ちわびていたものだった。
たった一文だけのメールを読むと、綾女は心底ほっとして微笑んだ。
「ありがとう、鷺ノ宮」
返信は期待されていないことを知っている綾女は、口の中だけで呟いた。