11◆9月-3
ひとしきり泣いた後、アインは乱暴にこぶしで涙を拭った。
こんなところにずっといるのは願い下げだった。たとえ廃棄処分になるにしろ、もう一度神南に会って言いたいことがあった。神南に会うまでは諦めるものかと思った。
立ち上がる。それがまず一歩だった。
漆黒の闇の中、何の情報も得られないままではあったが、アインは携帯端末で救難信号を発信した。
ここがどこだかは判らない。この救難信号が届くかも判らない。それでもアインは諦めることをやめた。
涙がシナプスに似た働きをしたのかもしれない。居場所を求めて暴れていた感情が、正しい場所に落ち着いたようだ。あれほど不安定だった精神状態が、今は安定している。この真の暗闇がアインに与えるストレスよりも、自分の感情を持て余していたときのそれのほうが、遥かに大きかった。
光を思う。
神南の笑顔が見える。声が聞こえる。
「アイン! 無事か!?」
空耳だと思った。
闇がこじ開けられ、光が飛び込んでくる。
眩しさに目を細めたアインは、闇の裂け目から光とともに伸ばされた腕を見た。
迷うことなくアインはその腕を掴む。それが神南のものだと、アインには判っていた。
強い力で引っ張られる。
喩えようもない感覚が、アインの体を駆け抜ける。
次の瞬間、アインは神南の腕の中にいた。他人の体温がこれほど安心できるものだとは知らなかった。
「神南さん……神南さん……!」
拭ったはずの涙が、アインの頬と神南のシャツを濡らす。
「……無事で良かった……」
「僕……僕は……」
何を言いたかったのか、何から言葉にすればいいのか、アインは判らなくなっていた。もう何もかもどうでもいいと思った。廃棄処分になろうと、こうして神南に再会できたことで十分だった。
「何も考えなくていい。泣くだけ泣いたら、きっとすっきりするから」
腕の中で泣きじゃくりながら聞く神南の声は、耳からというよりは直接心に響いてくるようだった。
「怖かった。不要になったものは、廃棄処分になる。僕はそれを見てきた。僕は神南さんに要らないって言われたくない」
「ばぁーか」
言葉の持つ意味とは全く逆の感情を込めて、神南はアインの頭を撫でながら言った。
「要らないなんて、そんなこと言うわけないだろ」
「でも、任務失敗した」
そう言ったアインは、今更のように気付いた。罪悪感にかられた表情で、神南を見上げる。
「神南さん、任務は?」
「ああ、ワキさんに任せてきた」
「じゃあ、神南さんに迷惑かけたんだ」
「迷惑じゃないさ。人手は足りていたし、なによりお前の捜索を人任せにはしたくなかったからな」
神南は、優しい笑みを浮かべて言った。
「でも……」
「そんなに気になるなら、これから仕事に戻るか?」
神南としてはアインを連れ帰って、ゆっくり休ませるつもりだった。外傷はないように思えるが、アインが虚空にいたことは間違いない。検査入院とまではいかなくても、軽く調べてもらう必要があるだろうと思っていた。
「まだ間に合うの?」
アインは仕事のことの方が気にかかっていた。
神南が何と言ってくれようと、挽回できるものならば、今からでも任務に戻りたかった。
「うーん……。間に合うといえば間に合うんだが。というか、間に合わせる裏技ってのはあるんだが」
神南の歯切れは悪い。
「じゃあ行こう」
「でもなぁ……。アイン、お前、今までいたところがどこか判ってるのか?」
「何か問題が?」
アインの顔つきが変わる。泣きはらした目はそのままで、だが感情を取り戻す前のような、そんな表情だった。
「アイン?」
その変化を神南は訝しむ。
「僕は大丈夫。問題ないよ」
にっこりと微笑み、アインは神南を安心させた。
理性と感情のバランスはうまくとれている。オン・オフの切替えがスムーズにされている。
本人も持て余していた感情が、上手に統合されたのだろう。
「……あのな、お前がいたところ、あそこは時空と時空との隙間にある『虚空』と呼ばれるところで、本当なら人間が――いや、生命体が存在しえない空間なんだ。そこに落ちたお前が、どうして無事でいたのかってのは俺にも判らないけれど、おそらくは身体になにかしらの影響があるはずなんだ。それを調べもしないうちに、裏技使って元の時空に戻るってのは、ちょっと奨めらんないんだよなぁ……」
「でも、あそこに落ちてからずっと、なんともなかった。だから僕は、とりあえず生命の危機はないと判断したのだけれど」
虚空での真の暗闇を思い出して、少し身体を震わせはしたものの、アインは落ち着いた声で言った。
「何ともなかった? 変だな、レポートと違う……」
神南が何を根拠にして首を捻っているのかは判らなかったが、アインは補足説明を試みる。
「確かにあそこに永遠に囚われていては、水や食糧の問題もあるし、生存の可能性はかなり低くなるだろうけれど、2〜3日程度で死に至るようなことはないと思う。周囲の情報がまったく遮断されたような状態だから、肉体的なものより精神的なダメージの方が大きいと思う」
「じゃあ、やっぱり休まないとな。仕事よりもアインの方が心配だよ、俺は」
「心配ないよ。精神的ダメージが大きいというのは、一般民間人についてのこと。僕は平気。訓練受けてるから」
虚空の闇に恐怖を覚えなかったといえば嘘になる。だがそれも、こうして虚空を抜ければ問題はない。
「だけどな、裏技を使って元の時空に戻るのには、かなり遠くの時空を経由しなきゃならない。時空転移は認識されない程度ではあるものの、どうしても虚空を通らなくちゃいけないんだ。人体への影響はないってことにはなってるが、アインは今まで虚空にいたわけだし、できれば正規のルートを通って戻り、そのまま検査しに行ったほうがいいとは思うんだよな」
神南の言葉に、アインは強い瞳で抗議した。
言葉はなくとも、神南にはそれが伝わった。苦笑を浮かべてしまう。
「……仕事に穴を開けるほうが、よっぽど精神衛生上問題があるってことか」
「そう」
神南はもう一度アインを抱きしめた。
「無理はするなよ。俺に迷惑がかかるだとか、廃棄されるだとか、そんな余計なことは考えるな。覚えておけよ。お前はもう、俺の家族なんだから」
「うん。判った」
アインは素直に頷いた。『家族』という言葉が嬉しいとアインは思った。
「よし。じゃ、行くか。とりあえず、この時空の時管局に戻って、一番時間軸の離れている時空を経由して帰ろう。タイムラグを利用すれば、多分大丈夫だろ。その代わり、仕事が無事終わったら、お前が何と言おうと検査に連れてくからな」
「……了解」
アインは笑って答えた。
アインを保護したところの時空管理局に戻った神南は、そのまま案内も待たずに一般には立入禁止とされている時空転移装置の部屋に向かう。
途中で二度ほどチェックされるも、神南のIDで難なく通り抜ける。
「ねぇ神南さん」
神南の後をついてきたアインは、この状況が一般的ではないことに気付く。時空間移動が一般に許可されないことは知っていた。だがここまでチェックが厳しいとは思っていなかったのだ。
「なんだ? アイン」
神南からは特別なことをしているという感じが見受けられない。
「もしかして、僕、すごく無理なことを言った?」
「無理ってことのほどじゃないさ。裏技ではあるがな」
神南は笑みを浮かべて答えた。
その笑みに、アインは今までもこうやって不安を取り除いてくれていたのだと知った。
本当に何も知らなかったのだと――何も見ようとはしていなかったのだと、アインは今更ながらに理解した。
「どうした、アイン」
名前を呼ぶ神南の声が嬉しい。それをどう表現していいのか判らずに、アインは少し怒ったような声で答えてしまった。
「別になんでもない」
その返答にくすぐったそうに神南は笑い、アインの頭に手を置いて髪をくしゃくしゃに撫でる。
「よし。じゃ、これから綾女さんをだまくらかすからな。口裏、合せろよ」
神南はにやりとして、転移装置に備え付けの通信機を操作した。これならば時空間通信ができる。
数回の呼び出し音の後、自動転送のアナウンスが聞こえ、そして綾女が出る。
『無事なの?』
時空間通信を受けた時点で、綾女には相手が誰だか判っていたらしい。なんの前置きもなく安否を尋ねた。
「無事ですよ。外傷はなし。本人申告によれば、どっこも不具合はないようですよ」
神南も別段名乗ることなく話を続ける。
「アインです。心配掛けてごめんなさい」
アインは口を挟んだ。口許には少し照れたような笑みが浮かぶ。
いくら神南が外部スピーカーを使用してアインにも綾女の声が聞こえるように配慮してくれていたとしても、今までなら口を挟もうとなど思いもしなかっただろう。素直に迷惑をかけたと、心配させたと思えたからこそ、アインの口から言葉が出ていた。
『……よかったわ、元気そうで。でも、だからといって楽観視はできないでしょう?』
綾女は一瞬間を置いて、安堵の声を漏らした。まさか神南との通信に割り込んでくるとは思わなかったのだろう。
「判ってますよ。ここからまっすぐ検査に向かいます。――やっぱりあそこ使うしかないですよね?」
神南は思惑を隠して神妙に尋ねた。
『使いたくはないわね。ノウハウはあそこが一番しっかりしているけれど』
綾女は言葉じりを濁した。しばらく沈黙が続く。代用できるところを考えているのだろう。
『ダメね。人命に関わることだもの、手を抜くわけにはいかないわ』
溜息とともに綾女の口から言葉が漏れる。あまりの選択肢のなさに、乾いた笑いすら出てこない。
「ところで、アインには担当医のようなものはいるんですか?」
もともとアインは賢人会議から回された人材である。以前からの担当に任せるのが最善であろうと神南は思った。
『聞いてないわね。以前あそこにいたのは間違いないけれど、そういった内部事情まで渡してくれるようなところではないもの』
「担当医と言えるのはなかったと思う。定期検査はもちろん受けていたけれど、医療チームが持ち回りで担当していたようだから」
アインが小声で補足説明をする。
神南は少し考えた。
「ということは、窓口として沙雪を使うのが手っ取り早いってことか」
いつも不機嫌そうな鷺ノ宮の顔を思い出す。極力会いたくない顔ではあるものの、だからといって面識のない他の医師にアインを任せるのも気が進まなかった。
『それが最善ね。あそこには私から連絡を入れておくわ』
「それは頼めたら嬉しいんですが、そこまで綾女さんの手を煩わすのも……」
神南は綾女がどれほど賢人会議を嫌っているか知っている。本来ならば、たかだか課長ごときが関わり合うはずのない機関だった。神南を部下に持ったからこそ、余計な手間をかけさせてしまう。それを自覚しているから、神南は綾女にどうしても引け目を感じてしまっていた。
『あのね、あなたが直接出向くのも本当は問題があるのよ? あなた自身のことならばともかく、今はアインのことでしょう? ちゃんとした手順を踏めば、おそらく書類を作るだけで半月はかかるところよ。せっかくのホットラインがあるんですもの、使わなくてどうするの』
そういう考え方もあるのかと、神南は苦笑を浮かべて思った。
「それじゃ、お言葉に甘えまして、手配の方はお任せしますよ。俺はアインをあそこに置いてから戻ります」
そして、思いついたように付け加える。
「ああ、そうだ。ワキさん、まだそっちにいます? 詫び入れときたいんで、できれば引き止めといて欲しいんですけど」
『そうね、まだ完了の連絡は入っていないから、彼にしてはずいぶんとのんびりやっているみたいよ。――まさかとは思うけれど、あなたを待っている、なんてことはないんでしょうね?』
相変わらず、綾女の勘は鋭い。
だが、神南は見透かされたことなどおくびにも出さずに答えた。
「そんなことはないでしょう。いくら俺でも、あの状況下で仕上げを待ってろとは言えませんよ」
だが、現時点で仕事が完了していないというのならば、おそらく丹羽は時間ギリギリまで待つつもりなのだろう。よほどアインに興味があるらしい。彼らしくもない所業である。
『……そうよね。戻りがいつになるか判らない人間を待つなんて、丹羽さんに限って言えばある筈もないわね』
綾女は呟くように言った。それは半ば自身に言い聞かせているかのようだった。
「それじゃ、これから例のところに向かいますんで」
『了解したわ。ああ、そうそう。ついでにあなたも検査してもらってね、神南くん』
「えー? 定期検査には早いですけど?」
思ってもいなかった言葉を聞かされ、神南は不満の声をあげる。
『何を言ってるの。いくつ時空を渡ったと思ってるの? これほど短時間でこれほど多くの時空を渡った人はまずいないのよ? 念のためって言葉があるでしょう』
「神南さん?」
傍らで通信を聞いてるアインが、心配そうに神南を見上げた。
「綾女さんが変なこと言うから、アインが心配するでしょうが。しばらくすれば嫌でも検査を受けなきゃいけないんですからね、今日のところはパスさせてくださいよ。俺まであそこで時間くっちまったら、誰がワキさんに詫び入れるんです?」
『私が詫びておくわよ。どうしてもあなた自身が謝りたいというのなら、丹羽さんには日を改めてきてもらうことにするわ。神南くん。死にたがりじゃないってこと、証明してくれるわよね?』
綾女にこう言われてしまっては、神南に否の選択はできなかった。
「……判りました。判りましたよ。ワキさんには、綾女さんから詫び入れといてください。忙しい人だから、俺の都合で日を改めてまた来てもらうってのは、ちょっと気が引けるんで」
『了解したわ。それじゃ、あなたに言う台詞ではないけれど、気をつけてね』
そう言って、綾女は通信を切った。
神南はしてやられたと思った。アインの不安を取り除くように笑う。
「綾女さんは大袈裟に言ってるだけだから」
「だけど、課長の言うことだから」
「俺の身体については、綾女さんも知ってる。だから余計に心配するんだろうよ。大丈夫だ、具合が悪いようなら誰に言われなくても検査しに行くよ。綾女さんが心配するほど死にたがりじゃないからな」
実際のところ、神南は不調を覚えてはいなかった。アインが見つかるまでは、異様に疲れた身体に苛立ちもしたが、今は全くそのような感じはない。安堵感から疲れを感じていないのかも知れない。そう思いはしたものの、検査ともなれば一日仕事になることが判っているからなのか、できれば避けたいと思っているのも事実だった。
それでも本当に体調が思わしくなければ、綾女に言われるまでもなく自主的に検査に赴くだろう。そのくらいには自分の身体を大切にしていた。
「それより、当面の問題はどうやって帰るか、だ」
神南は秘密めいた口調で言う。アインの意識を逸らそうという思惑もあった。
アインは躊躇を見せたが、何を優先すべきか判断がついたのだろう、神南の思惑に乗ってきた。
「課長をうまく誤魔化すには、時管局の転移装置は使えない。どうするつもり?」
しかし神南の体調について懸念が去ったわけではないらしく、アインの瞳には心配そうな色合いが浮かんでいる。
神南はアインの頭を撫でた。
「任せろって。ええと、ああ、ここがちょうどいいか」
座標が決まり、神南が慣れた手つきで操作すると、二人の乗っている台座の円周にそって、二重の隔壁がせり上がってきた。
透明な隔壁は視界を妨げることはなかったが、物理的に外界と遮断されたことで、アインは不安を感じていた。時空転移はこれが初めてとあれば、それも当然だった。
「大丈夫だ。揺れることもない。一瞬だからな」
そう言いつつも、神南は安心させるかのようにアインの肩を抱き、最後のスイッチを押す。
ほんの微かに浮遊感を覚えた次の瞬間には、隔壁の外側が別の部屋になっていた。
「もう一回な」
時間軸を確認して、神南はまた座標を入力する。口の端に苦笑が浮かんでいるのを自覚しつつ、転移スイッチを押す。
一瞬の浮遊感がアインを包み込み、そしてまた見覚えのない部屋にいた。
「到着~」
おどけたように言いながらも、神南は抜かりなく今の転移記録を抹消する。
隔壁が自動的に下がる。アインは周囲をうかがいつつ台座を降りた。
「ここは?」
「家だよ」
アインの問い掛けに、神南はあっさりと答えた。
「こんな部屋、知らない。それに転移装置が個人宅にあるわけがない」
「アインが知らないのも無理ないさ。教えてないもんな。実を言うと、家は地上2階、地下3階の秘密基地も兼ねてるんだ」
神南は笑いながら言う。
いまひとつ真実味に欠ける言い草ではあるが、アインは以前、神南が不意に現れたことを思い出した。あの時、ほんのわずかではあるものの、確かに携帯端末は空間の歪みを感知した。あれが転移装置によるものだと考えれば納得がいく。
「何故こんなものが個人宅にあるの?」
「俺がごり押しした。モルモット代わりにされてるんだ、このくらいの特権はあっても罰は当たらないだろってな。それに、賢人会議へ定期検査に行くにはこれの方が便利なんだ」
時空転移装置は何も時空間だけに限らず、同時空の離れている転移装置間をつなぐ装置でもある。秘密裏に動くには非常に適していた。
「さてっと。さっきの綾女さんの言い方だと、どうやらワキさんは俺らを待っててくれてるみたいだからな、急ぐぞ」
時計を合せつつ、神南は気付かないほどの壁の突起を押す。すると壁にしか見えなかったところが開いた。それは地上へのエレベータだった。アインを促し、それに乗る。
「了解」
アインの簡潔な応えに、神南は微笑みを浮かべた。
エレベータのドアが閉まり、軽く浮き上がる感じがする。そしてドアが開く。そこは玄関を入ってすぐの所だった。
「教えとくよ。地下3階に行くにはこれを使うしかない。普通の壁に見えるよう苦心したんだが、判っていればここがほら、ほんの少し出っ張ってるだろ? これがスイッチだ」
そこをアインに手で確かめさせ、神南は念を押す。
「ただし。本当にこれは裏技だからな。最終手段だと思っておけ。普段は忘れてるくらいで丁度いい」
「了解。でも、それなら何故僕に教えておくの? 神南さんが知っていればいいだけのことなのに」
「そりゃ、いま使う羽目になったからだよ」
そう言って笑った神南だった。それに何の疑問も抱かなかったアインは、この言葉の裏にあるものを見逃していた。
他時空を経由することで稼げた時間は約一時間半。この間に丹羽のチームと合流して仕事を片づけなくてはいけない。丹羽のことだ、不安定箇所の固定穴化はあらかた終えているだろう。あとは仕上げの結界張りくらいかと神南は思った。
やろうと思えば、アインが落ちた次の瞬間にすら戻ってくることはできた。ただそのためには、いくつもの時間軸のずれた他時空を経由しなくてはならない。いくら外傷が見当たらず、本人もなんの異常を感じていないにしても、アインが虚空に落ちたのは間違いない。アインの負担を考えると、これが精一杯だった。
車ならすぐの距離を神南はほぼ全力で走り、ようやくの思いで現場に到着した。
「……おまた、せ……、ワキ、さん……」
息を整えながらこう言った神南に、丹羽は驚いた表情で応えた。
「えらく早いな。嬢ちゃんからは坊主が見つかったという話すらまだ来てないぞ?」
「ちょっと、裏技、使いまして……。綾女、さんは、現時点では、まだ、俺らが、戻ってるの、知らないんですよ」
いろいろな時空を渡り歩いている丹羽は、細切れのこの台詞だけで状況を正確に把握した。
「無茶するな、相変わらず」
苦笑とともに発せられたその言葉に、アインが深々と頭を下げる。神南と一緒に全力疾走を強いられたのに、こちらはそれほど息を乱していない。
「ごめんなさい。僕のミスだから」
その言葉と態度に、丹羽は少しだけ目を瞠った。初めて会ったときと印象がすっかり変わっている。
だがそう感じたという素振りは少しも見せずに、丹羽はアインの頭に手を置いて言った。
「そう思うんなら、仕事で挽回するんだな」
「了解」
今度は身を引くことなくアインは答えた。
「で、どこまで進んでます?」
神南が進捗状況を尋ねる。
「予想はついてんだろうがよ。後始末が数ヶ所残ってるってとこか」
手にした端末の表示を見ながら、丹羽は答えた。
「そんじゃ、それは任せてもらいましょうか。本来俺らの仕事ですからね」
神南はそう言って丹羽の持つ端末と自分の携帯端末のデータをリンクさせると、早速仕事にとりかかる。アインとの特別な打ち合わせは行わない。担当箇所の割り振りだけを簡単な言葉ひとつで済ませた。
「右側半分、任せたぞ」
「了解」
それを丹羽は面白そうに眺めていた。
神南とのつき合いは長い。丹羽は時空を渡り歩いている関係で、一定の時空で時を重ねている人たちとは別の時間を生きている。はっきりとしたことは教えられなくとも、神南の時間が他の人たちとは違う流れにあることにはとうに気付いていた。それ故に、神南が他人とは一線を画したつき合いをしているのも知っていた。
アインが初めて会ったときと印象が変わっているのと同様、神南もまた、以前会ったときとは何かが変わっている。だいぶ生きるのが楽になっているように見える。
「ようやくふっ切れやがったらしいな……」
口の端に笑みを浮かべ、丹羽は呟いた。そして二人が確実に仕事をこなしているのを見て取ると、自分のチームに撤収命令を出した。
仕事の進みは順調だった。
迷惑をかけたという負い目はある。だがそのことがアインの心理状態にプレッシャーを掛けているということはない。
マニュアル通りの作業をしながら、アインは奇妙な感じを抱いていた。
意識が乖離している。作業を的確に、まるで機械のように行っている自分と、それを冷静に見つめる自分。その乖離は、ここのところ感じていた不安を伴ったものではない。それが当然であるかのように安定している。
己の居場所を確定できたことが安定をもたらした最大の要因であろうとアインは分析する。
必要とされること、物ではなく一個人として認められること、それがこうも安心することなのかと不思議な気持ちがした。
そして、問題なく作業は終了した。不安定だった穴は固定され、一般市民が間違って入り込んだりしないように細工もされた。そのそつがない仕事に丹羽も満足げだった。
「またおめぇと仕事したいもんだな、アイン」
丹羽の言葉に、神南の方が嬉しそうな顔をした。これが丹羽にとっての最大の賛辞であると知っているのだ。
「ワキさん、お願いがあるんですが」
神南は丹羽の機嫌を伺うような口調で切りだした。
「なんだ?」
「この件なんですけど、俺たちは来なかったということで、口裏合せといてもらえますか。綾女さんには俺もアインも直接検査のため病院に向かうって言ってあるし、裏技使ったのもバレないようにはしといたんで」
丹羽はこれを聞いて豪快に笑った。
「嬢ちゃんには相変わらず勝てねぇようだな」
「綾女さんに勝てる人がいるなら、お目にかかりたいもんですよ」
神南は苦笑じみた声で答えた。
「わかった。で、時間的には完了の報告をいつすれば齟齬をきたさない?」
時間を確認する。
「結構時間くってるな……。あと、十分ってとこですかね」
「任せとけ。そういう工作なら得意中の得意だ」
「助かります。この礼はいつかどこかで」
「おうよ。期待してるぜ。おめぇらは急いだほうがいいんだろ? 後は任せろや」
「はい。それじゃ。――行くぞ、アイン」
「了解」
二人は丹羽に軽く会釈をするとその場を立ち去った。丹羽の言うように、立ち話をしている時間は残されてはいなかった。
時間的辻褄合わせはどうやらうまくいったようだった。
自宅に戻り転移装置を使って賢人会議に着くと、そこには仏頂面した鷺ノ宮が待っていた。
いつにも増して機嫌が悪そうな顔つきだった。
「遅い」
「これでも急いだんだがな」
途中、道草を食ったことなどおくびにも出さずに神南は答えた。
「まぁいい。貴様はこっちだ」
アインを一人残し、いつもの検査室に向かおうとする鷺ノ宮に、神南は抗議の声を上げた。
「アインは?」
「一般人を貴様と一緒に検査するわけがなかろう。自覚しろ」
「アインを一般人と呼ぶのはどうかな。そもそも賢人会議が絡んでるだろうが」
だが、アインについては担当外だったのか、鷺ノ宮は興味を引かれた様子もなく言い放つ。
「関係ないな」
「沙雪」
鷺ノ宮は大きく溜息をついた。神南が何を懸念しているのか、その口調だけで完全に把握しているようだった。
「賢人会議にきた段階で覚悟してるものだと思っていたが?」
「選択肢がなさ過ぎるんだよ。いいか? アインに検査以外のことをさせるなよ」
「それを要求できる立場に貴様はいないと判っているのか?」
「昔なじみを盾にとってもダメなんだろうな」
神南の答えを鷺ノ宮は鼻先で嗤わらう。
「それを判っていてなおも言う馬鹿さ加減には、いっそのこと尊敬の念すら抱くがな」
「見返りに、二つばかし情報をやろう。――深森のことだ」
一瞬だけ、鷺ノ宮は躊躇したようだった。だがすぐに態勢を立て直す。
「この私が、身内を盾にされて言うことを聞くとでも思っているのか?」
「他のことならいざ知らず、深森のことだからな。あいつ、お前の後を継ぐつもりだぞ」
これは初耳だったらしく、鷺ノ宮は軽く目を見開いた。
「アインが本人から聞いた情報だ。俺の主治医になるそうだよ」
言う神南も、どこか苦味を帯びた表情をしている。
「……それがどうした」
鷺ノ宮は、内心の動揺をどうにか抑えつけたらしい。辛うじてではあるものの、平静を保って見せた。
「そうくるか」
長いつき合いの神南には、それが虚勢であることは見て取れた。深森が実の両親よりもたまにしか会えないこの叔父に懐いているのを、神南は深森本人からよく聞いて知っている。そして、鷺ノ宮が深森に甘いのもよく知っている。苦笑を浮かべ、最大の爆弾を落とす。
「もうひとつ。深森はかなりアインを気に入ってるぞ」
それがどうした、とは今度は言えなかった。鷺ノ宮はアインに目を落とす。アインのどこに深森が惹かれたのか、それを検分しているようだった。
「……判った。仕方がない。私が診みよう」
他の医師に任せて、万が一アインに何か不都合なことが起こり、それを深森に知られた場合のことを考えたのだろう。しぶしぶながら、鷺ノ宮は答えた。そして壁の通信機で待機していたであろう医療チームに連絡する。
「二件とも私が処理する」
その言い草に神南は苦笑を浮かべた。
「賢人会議はまるっきり信用していないが、沙雪、お前だけは信頼できるからな」
本心から言ったこの言葉が、鷺ノ宮に対しての最大の武器になっているとは、神南自身、微塵にも思っていなかった。
鷺ノ宮は一瞬無表情になり、次いで怒ったような顔つきでアインに言った。
「貴様もこっちだ。ついてこい」
アインは鷺ノ宮を見上げて頷いた。
鷺ノ宮を信頼してもいいとアインは思った。それは、神南が信頼しているからだけではなく、鷺ノ宮に自分と同じものを感じ取ったためだった。
好悪が判断基準になることを、アインは忌避していた。感情に任せては冷静な判断が下せないと思っていた。しかしこの判断は、紛うことなく好悪を基準としている。それを悪いことだとは、今のアインには思えなかった。