01◆4月
いつものように始業ぎりぎりに出勤した神南市郎は、自分の机に昨日はなかったメモを見つけた。
『朝イチで来ること』
署名はない。だが誰からのものであるか、すぐに判る。
「ヤな感じだな」
この手の呼び出しをくらって平和的な気分で席に戻ったことなど、未だかつて一度もない。
今回がその初めての経験になるかは神のみぞ知るというものだが、行き先も書いていないようでは望み薄だろう。
溜息をつき、神南はメモを破り捨てると、呼び出された先――すなわち局長室へと向かった。
時空管理局――通称時管局。
一般にはあまり知られていないが、その名のとおり時空を管理する公的機関である。
時空を管理するなどというと、眉唾物に思えるかもしれないが、実際のところ他の時空から迷い込んでくる物や生物、はたまた人間までも確かにいるのである。それらを元の時空に戻し、通り道となったところを補修するというのが主な仕事になるのだが、中には時空をわざと超えてくる犯罪者などもいるので、部署によってはかなり危険な仕事となる。
神南の所属しているのは管理課といって、不慮の事故で何かが落ちてこないよう、時空の歪みを管理・補修する部署だった。もっとも神南は、余計なことにまで手を出しては頻繁に呼び出しを食らっているのだが。
今回の呼び出しに限っていえば、神南に何の心当たりもなかった。局長室の前で少し息を整えると、神南はドアをノックした。
応えを待ってからドアを開ける。
中には、局長の檜川総一朗のほかにもう一人、神南の直属の上司である橘綾女がいた。
厄介事を予感させる面子に、神南は天井を仰ぐ。
「……で、今回はなんです?」
挨拶などまだるっこしいことは抜きにして、神南はいきなり本題に入った。
「挨拶もなしでいきなりそれ?」
綾女は苦笑を浮かべて言った。
「どうせ嫌なことを聞かされるんでしょう? 嫌なことはさっさと済ます主義なんですよ」
そして神南は視線を檜川に移す。
それを受け、檜川は重い口を開いた。
「明日、管理課に新人が入る。彼の教育を頼む」
新年度である。新人が入ることに何の不思議もない。神南が新人教育を担当するのはこれが初めてのことでもない。それなのに、わざわざあのようなメモで呼び出して、しかも局長直々より辞令が下るのは何故か。その理由を思うと、神南はうんざりとしてしまった。
「まーた、賢人会議がらみですか」
それは疑問ではなく、確認の色合いをもって発せられた。
「その通りだ。詳しいことは資料に全て記載されている。あそこが育てた人材だ。使えることは間違いないが……感情が欠落している。どういった目的で彼をそのように育てたのかは想像するしかないが、結局は必要ではなくなったということらしい」
「それで、要らないから時管局に、ですか」
「……すまぬ」
飲み込みの早い神南に、檜川は白髪混じりの頭を下げた。
「檜川さん……。まだ気にしてるんですか?」
口調を改め、神南は尋ねた。しかし檜川の答えは待たずに、明るい笑顔で続ける。
「あれは、俺の失態ですよ。檜川さんが責任を感じることなんて何もない。確かにあれがなければ、あいつらの干渉を俺が直接受けることもなかったでしょうけれど、自業自得のようなものですから」
それで話は終わりとばかりの態度に、檜川に言えたのは事務的な言葉しかなかった。
「詳しい資料は、橘くん」
檜川の台詞を受けて、その傍らに立っている綾女は笑顔で手にしていた資料を神南に渡した。
「これが彼についての資料よ。なかなかの難物だけど、あなたになら任せられると思うわ。その資料を見て、何か質問があれば聞くわよ」
神南は封筒を受け取ると、中から資料を取り出した。ブロマイド版の写真も同封されていた。珍しくもホログラムではない。前後横の三方向から撮った顔写真と、正面からの全身を写したものだった。つい神南の口から嫌みが出る。
「ご丁寧なことで」
銀といってよいくらい色素の薄い金髪には軽くくせがかかっている。幼さの残る顔つきは無表情のまま。それが写真のせいなのか、それとも性格なのかは判らないが、神南はなんとなく後者ではないかと思った。
「アイン・シュヴァルツ、か。この後、フィアとかノインとか、じゃなかったらロートとか、そんな名前のがごっそり来るなんてことはないでしょうね」
軽口をたたきながら、かなりの速度で資料に目を通していく。
現在15歳。顔に幼さが残っていても無理はない。しかしながらドイツの大学を優秀な成績で卒業している。出身地は空欄になっている。写真から推察するにアングロ・サクソン系であることは間違いないのだろうが、出身地を限定できるような情報は何もない。名前などはあからさまに偽名もしくは後から付けられたものであろうし、最終学歴しか記載されていないのでは手がかりになりようもない。一枚目の資料から受ける印象は、見事に過去を消されているというものだった。
「この子をどっから連れてきたんです?」
返答はないだろうと判っていながら、神南は怒りの滲んだ口調で問いかけた。
賢人会議のやり方はよく知っている。自分たちの目的に則した人材であれば、どの時空からでも無理やりに連れてくるのだ。そして記憶を操作し、性格を作り替え、ある意味人形のような『使える人材』に作り上げるのだ。
本当ならば時管局に摘発されるべき組織である。だが世界的に擁護されているために手が出せない。それを苦々しく思っているのは、何も神南に限ったことではない。
「少なくともこの時空でないことだけは確かね」
綾女の表情が曇る。
だからといって何ができるでもない。無力感と折り合いをつけるのが精一杯である。
神南は苦い思いを押し殺し、資料に目を通し続ける。
そして最後の頁までたどりつくと、ついでといわんばかりの扱いで現住所があった。
「綾女さん?」
その問い掛ける口調で、綾女は神南の言わんとするところを正確に察知した。
「そ。あなたと同居、ということになるわね。彼がこちらに到着するのは明日になるから、まっすぐここに来ることになっているの。荷物は今日あたり着くと思うけど、勝手にいじられるのも嫌でしょうから、彼の部屋に適当に入れておいてあげて」
「そうじゃなくて!」
「一人暮らしのくせに、あんなに広い家に住んでるんだもの、同居人の一人や二人、増えたって構わないでしょ? どうせ部屋なんていくらでも余ってるんだから」
「構うとか構わないとかの問題じゃなくて! 普通、そういうことは家主の同意をまず先に取るのが常識ってもんじゃないですか」
「結果が同じだからいいのよ」
あっさりと常識外れなことを言ってのけてから、綾女は本音を漏らす。
「あなたには四六時中アインの側についていて欲しいの。絶対に嫌がると思うけれど、あの子を人形から人間に戻すためには、どうしてもあなたの力が必要なのよ」
ちらりと神南は檜川を見た。綾女がこのように個人に対して干渉しようとするのは珍しくもないが、それをここで口にするということは、檜川も了承しているということになる。
「私からも頼むよ、イチ」
今では誰からも呼ばれなくなった愛称を聞かされ、神南は思わず苦笑を浮かべてしまった。
「どうやら、俺に拒否権はないみたいですね。わっかりました。俺の忍耐力がどこまで続くか、見物でもしててくださいよ」
逃げ道を塞がれてしまった小動物のような気分で神南は答えた。
「お詫びというわけじゃないけど、今日は公休扱いにしてあげるわ。家に帰って掃除するなり、どっかで憂さばらしするなりなさい。明日からは当分気が休まるときはないと思うから」
優しげな顔で、綾女は怖いことをさらり言ってくれる。
覚悟を決めたものの、それでもどこか逃げ場はないかと一抹の希望を抱いていた神南は、この綾女の言葉で甘い見通しを一切捨てた。
「それじゃ、お言葉に甘えまして、来たばっかですけど退社しますよ。おそらく俺以上に同居を嫌がるだろう相棒のために、せめて居心地の良い部屋でも用意しときますよ」
そう言って、神南は局長室をにこやかに――少なくとも表面上はにこやかに辞したのだった。
神南の家は駅前の商店街を抜けた先にある閑静な住宅街にあった。そこは神南が担当しているエリアでもある。
諸事情により一人暮らしを半ば強制されたときに、腹いせとばかりに要求した一軒家は、綾女が言ったようにとても一人で住むような家ではなかった。通常神南が使用しているのはその1階部分だけである。2階には客間が6部屋ほどあるが、使われたことは数えるほどしかない。
それでも家事全般を得意としている神南は、使うことのない部屋でもホテルの客室なみに整えてある。同居人が一人増えるからといって、特に慌てる必要はなかった。それでも布団を干すくらいのことはしたかったので、公休扱いにしてくれた綾女の配慮に感謝していた。
あまりに天気が良いので、ついでに他の部屋の布団も干す。片手間に洗濯機を回し、家中をひととおり掃除し終えたころにはちょうど昼時となっていた。
残り物のご飯でチャーハンを作り、作り置きしてあるオニオンペーストで手早くスープを作る。他に副菜を作る気にもなれずにそれだけで昼食を済ますと、見計らったかのようにチャイムが鳴った。
荷物が届いたのだろうと見当をつけて出てみると、確かに荷物ではあった。引っ越し荷物とは思えないほど小さな――段ボール箱がひとつ。
「あの、これだけですか?」
思わず神南が聞いたのも無理はなかろう。
「そうですよ」
配達人は伝票を確かめて言った。
とりあえず荷物を受け取り、2階に運ぶ。その軽さに神南は首をかしげた。
「別便があるのか?」
そうとしか思えない軽さだった。開けてみたくなる衝動をこらえ、神南はアインの部屋へ荷物を入れた。
「ま、明日になれば判るし、足りなきゃ買えばいいしな」
その場合、費用は誰持ちになるのかにはあえて考えを向けず、神南は布団を取り込むために2階へと上がっていった。
新年度。
年度が変わるというのは、社会人にとってはあまり変化のないものである。必ず新人が入ってくるとは限らないし、新年度だからといって仕事が新しくなるわけでもない。
それでも今年は新人が入るし、しかも前日に予告まであったのだから、気持ちも新たにいつもより早く出勤すべきなのだろう、本当は。しかしながら、神南はいつものごとく始業時刻ぎりぎりの出社だった。
当然といおうか、出勤したのは神南が一番最後だった。
「おっはよーございます!」
能天気に朝の挨拶をする。それとほぼ同時に始業のチャイムが鳴る。無言で課の全員が立ち上がる。朝礼が始まった。
「おはようございます」
神南が所属する管理第一課の課長である綾女が、総勢18名を前にして挨拶をする。その隣に立つのは、銀髪の少年だった。
神南以外は、どこかいぶかしげな表情をしていた。新人が入ってくるという噂はとうに知っていただろうが、その当人がこれほどに若い――平たく言えば幼い――とは思ってもいなかったろう。新人がどんな人物であるかを知らされているのは神南だけである。
「今日から新年度です。といって、特に仕事が変わるわけでもないけれど、初心に戻って気持ちを新たに仕事をするように。特に神南くん。これ以上、私の寿命を縮ませるようなことはしないでちょうだいね」
軽く笑いが起きる。
綾女は隣に立つ少年に目をやった。少年は無表情で立っている。そこには緊張も不安も見いだせなかった。
「紹介するわ。アイン・シュヴァルツくん。今年の新人よ。神南くんにつけることにしたけれど、他の人たちもいろいろと教えてあげてちょうだい」
そういうと、綾女は軽くアインの背を押した。一歩前に出る形となり、アインに注目が集まる。
「…………よろしく」
無表情のまま、アインは挨拶らしき言葉を口にした。
「以上。――神南くん、ちょっと」
アインの短い挨拶に戸惑うことなく、綾女は朝礼を終わらせる。ほとんどの者は、何か納得できないものを感じつつも仕事に取りかかった。
神南は綾女のデスクへと行った。間近で見るアインはどこか少女めいた顔立ちをしていた。
紺のブレザーのせいか、学校の制服を着ているように見え、少し場違いな雰囲気を醸し出している。たとえるならば、社会見学で時管局を訪れた中学生、といったところか。もっとも、年齢別ではなく修得単位数別に学年分けをするようになった昨今、外見から学年を見極めることはできなくなってはいたが。
「アイン。彼があなたと一緒に仕事をしていくことになった神南市郎くんよ。神南くん、アインはまだこっちに慣れていないから、仕事以外でも面倒見てやってくれるかしら」
「神南です。よろしく」
思惑は別として、神南は人好きのする笑顔で挨拶した。
「…………」
それに帰ってきたのは無関心を雄弁に語る無言だった。挨拶を必要と感じていないらしい。
「あのな、人が挨拶したってのに、その態度はないんじゃないか? たとえどんなに嫌な相手だろうが、とりあえず挨拶は返しといたほうが揉め事を起こさないぞ」
「……必要ない」
端的に喋るアインに、神南は綾女をちらりと見る。その視線に恨みましいものが入っていたかもしれない。
「むやみやたらに敵を作る必要もないだろうに」
「……理解できない」
「何が?」
「挨拶を返さないと敵を作るという考え方が理解できない」
神南はまたもや綾女をちらりと見た。
このような難物を、よくもまあ引き受けたものだ。
しかし今更抗議したところで何の解決にもならないだろうことは判りきっていた。神南は溜息ひとつで気持ちを切り替えた。
「円滑な人間関係を形成しておいたほうが、仕事にも何かと有利になるんだよ。理解できようができまいが、そういうことだ」
「……覚えておく」
「覚えておいてもらえれば嬉しいよ。さて、仕事内容についての説明はもう?」
半分は綾女に向けて、神南は尋ねた。
「あなたが出社する前に、一通りのことは説明しておいたわよ。もちろん、携帯端末のこともね」
返答は綾女からだった。アインは我関せずという表情をしている。そのアインの左手首にはごつい金属製のリストバンドのようなものがついている。それが携帯端末だった。
時空の歪みなどというものは目に見えるものではない。よほど歪んだときには周りの風景に影響がでるのでそれと判るのだが、そこまでの歪みになる前に補修するのが管理課の役目である。
ではどのように歪みを発見するのか。
それにこの携帯端末を使用する。補修された歪みや影響のない穴などはグリーンで表示し、警戒が必要なものはイエロー、そして緊急に補修を必要とするものはレッドの光点で表示される。
歪みを補修するときにも使用する。目に見えるほどに歪んだ場合には使えないが、ほとんどの場合は携帯端末から照射される力場で補修ができる。
その他にもいろいろと機能はあるのだが、その全てを使いこなす必要もないし、また使いこなしている人間も少ない。
「使い方についての質問は?」
今度ははっきりとアインに向けて尋ねた。
「ない。あったとしても説明書を読めば理解できる」
「結構。それでも判らなかったら訊きな。裏技的な使い方とかも教えてやるよ」
そこで神南は思い出した。確か、アインはここに直行すると言ってなかったろうか。
「アインくん」
「ヘル・カンナミ、僕のことはアインで構わない」
「俺も敬称略してもらって構わないよ。で、アイン。確か、まっすぐここに来たんだよな?」
「……はい」
「荷物持ってついてきな。今のところ、補修を必要とする穴もないし、担当エリアを案内してやるよ」
案内のついでに荷物を家に置いてきてもいいだろうと思ったのだ。そのくらいの自由は許されている。
「荷物はこれだけ」
アインは足下に置いてあるスポーツバックを持ち上げる。
「じゃ、別便があるんだな」
昨日届いた荷物の軽さを思い出し、神南は言った。
「これだけ」
「おいおい、本当かよ。ほとんどないじゃないか」
「必要なものはある。あとは要らない」
「……ま、必要になってからでも遅くはないか……」
自分に言い聞かせるように、神南は呟いた。
「頼んだわよ、神南くん」
綾女の期待を込めた言葉を背に受け、神南はアインを伴って出掛けた。
神南はアインの扱いに戸惑っていた。話しの接ぎ穂というものを全く考えないアインを相手に、どこまで意志の疎通が図れるのかも問題だった。それでも会話を成り立たせるコツは何となくつかめそうだった。
「あのさ、俺が言うのも変なんだろうけど、まだ15だろ? どうして時管局に来た? 大学を卒業したからって、まだ遊んでいても許される年だろ。知識ばっかり詰め込んだって大人になれるわけじゃないんだからな」
並んで歩くアインに訊いてみた。神南とは頭一つ分の身長差がある。
「……命令だから」
「命令って……。なんて言われて来た?」
「時管局に行くように。来たら配属先が決まっていた」
その情景が目に見えるようだった。何の説明も一切せずに行き先だけを告げる。それを疑問に思うようには育てられなかったのだろう。
「来るの嫌じゃなかったか? 友達もいただろう?」
「友達。必要のないもの」
「それは淋しい考え方だな。作っといて損はないぞ、友達」
時管局からメトロを使って2駅。駅前商店街を抜け、住宅街に入る。そしてまっすぐ家に行った。
「ここが俺の家だ。今日からは君の家でもある。さあ、入って」
「勤務中」
アインは冷静に指摘する。
「今のところ、警戒中のも要補修のもないからいいんだよ。歪みがなけりゃ開店休業みたいな部署だからな」
開き直った言い訳のようにも聞こえる台詞を口にし、神南はアインを促して中に入った。
「ただいま」
誰の返答もないけれど、神南は家に挨拶をした。
「誰もいないのにそういうのはおかしい」
「おかしかないよ。家に挨拶したんだからな。出掛けるときだってちゃんと『いってきます』っていってるよ」
それが一人暮らしの淋しさを紛らわすものであることを神南は承知していた。その上で、淋しいという感情を忘れていた。アインの存在が、それを思い出させる。
最初に話を聞いたときほど、同居人ができたことを嫌がっているわけではないと神南は思った。もっと積極的に歓迎しているのかもしれない。
自らの分析に苦笑を浮かべ、神南は家の中を案内する。
「一階には俺の部屋がある。ダイニングとリビング、浴室は共有。洗濯物はそこのカゴに入れといてくれれば洗ってやるよ。そうだ、嫌いな食い物があったら教えてくれ。考慮する」
「……はい」
「昨日届いた荷物は、2階の部屋に入れてある」
そう言って、2階に上がる。
「2階はどこも使っていないから、別の部屋を使ってもいい。好きにしな」
「……はい」
「同居に関しての約束事は特にない。同居していることを忘れないでくれたらそれでいい。質問は?」
「地下に降りる階段があった」
「地下には書庫があるんだ。ちょっとした図書館並には蔵書が揃ってると思う。興味があるなら行ってみるか?」
「今はいい。勤務中だから」
その返答に神南は振り返ってアインを見た。その目を見て、神南は言う。
「今日からよろしくな、相棒」
返答はなかった。それでも今はいいと思った。