主の居なくなったピアノ
我が家の居間にあるグランドピアノについて語ります。
憧れだったピアノ。
それもアップライトピアノじゃない、グランドピアノ。
それが我が家の居間で大きな顔をして鎮座しているのだ。
【どんなグランドピアノなの?】
もちろん「コンサートグランド」のフルサイズでもなければ「パーラーグランド」でもない。「ベビーグランド」の、一番小さいサイズから二番目に大きいサイズの百六十一センチメートル。でも、それはYAMAHAでのサイズ・ラインナップの話だ。他のピアノメーカーだと、恐らくこれが最小サイズになるだろう。
このピアノの型番は『YAMAHA・GC1S』という。YAMAHAのピアノ通なら、この型番でピーンと来るはずだ。この型番は『YAMAHAグランドピアノ製造百周年記念モデル』なのである。二〇〇二年三月一日から二〇〇三年三月三十一日までの期間で限定販売されたピアノだ。ピアノの鍵盤蓋を開けると、その右隅に「YAMAHA Grand Pianos 一〇〇YEARS」というエンブレムが入っている。
他にも同じ百周年記念モデルとして『C3AE』と『A1AE』という型番もある。しかし『GC1S』は一味違う。サイレントシステムが付いているのだ。
【サイレントシステムってなに?】
鍵盤の左下にあるレバーを操作すると消音機能が働く。キーを弾いても鍵盤を押した動作音しかしない。弦を叩く代わりにセンサーがハンマーの動きを読み取る。その信号を電子技術で培ったサンプリング音源によるグランドピアノの電子音を発音する。発音されたグランドピアノの音をヘッドフォンで聴くのだ。
【ふーん、なんだか凄いのね。】
素人が聴くとサイレントの音も生音も同じように聞こえるかもしれないが、聴き慣れてくると両者の差は歴然としている。
まず、サイレントシステムの電子音は「共鳴しない」のだ。
生音の場合は「響板」という共鳴板がグランドピアノの底の部分にあって、弦の音を駒を通して響かせる。当然の如く響版は一枚しかないので、多くのキーを打鍵すれば音が重なり合う。その重なり具合が微妙な音階となり、微妙な音色となり、微妙な響きとなり、演奏に豊かな広がりが出る。
しかし電子音の場合は、その『音の重なり』が無いのだ。いくらサンプリングされたグランドピアノの音色といっても、最終的にスピーカーで合成された音でしかないのだ。
次に、サイレントシステムの電子音は「表現力に乏しい」のだ。
生音の場合、タッチの強弱によって音量だけでなく、やわらかい音からするどい音まで音色が変化する。このことによって豊かな表現が可能になるのだ。
しかし電子音の場合は、例え「タッチセンサー」が搭載されていても所詮はスイッチである。無段階のボリュームコントロールだけでなく、アタックやベロシティの制御まではまだまだ無理なのだ。
【いいところが無いのね、サイレントシステム。】
そんなイマイチなサイレントシステムが「どうして必要なんだ?」と思わないでもらいたい。サイレントシステムにはサイレントシステムの利点があるのだ。
まずは「音が出ない」ということは「静か」ということだ。
夜になって辺りが静かになってもピアノを弾くことが出来るのだ。防音設備を施していない一般家庭でも十分に大丈夫だ。極端に言ってしまうと、夜中でもOKなのだ。ただし、鍵盤を叩く音とペダルを踏んだ時の「ゴーッ」という音が家の中に響くけれど、それは仕方がない。どうしても出てしまう動作音だから。だから、人に聴かれないでコッソリと練習できるというメリットもある。
それに、搭載された音源装置はMIDIに対応しているので、サイレントシステムを通してピアノを入力装置とし、MIDIデータを作成することが出来るのだ。これはDTMをする人に対しての利点ではある。今言ったMIDIを利用するための入出力端子も装備しているので、外部からデータを入力してグランドピアノの音を出すことが出来る。ただし、自動演奏ピアノではないので鍵盤を打鍵して音を出す訳ではなく、音源装置からのグランドピアノの音が出るだけなのだが。
【どうしてアップライトピアノではなくグランドピアノなの?】
購入にあたってはアップライトピアノも検討したのだ。もちろん、アップライトピアノの方が価格が低めで置き場所も小さくていい。だが、アップライトピアノとグランドピアノでは歴然とした差がある。
それは、鍵盤装置が全然違うからだ。グランドピアノは水平に張った弦を下から上へと叩き、ハンマーが自重で戻る。だが、アップライトピアノは縦に張った弦を横から叩き、スプリングバネの力でハンマーが戻る。明らかに重力を利用したグランドピアノの方がスムーズなのだ。その違いは、一秒間の打鍵数になって表れる。グランドピアノが一秒間に一四回なのに対してアップライトピアノは一秒間に七回だ。そこまで弾きこなせるかどうかは別問題だが、どうせなら本格的にと思ったは確かだ。
一番の理由は、師事した先生が「グランドピアノを持ってないとダメです」という方だったのだ。
【いきなりグランドピアノを買ったの?】
いえいえ。最初は安物のキーボードから始めた。二、三年してから買ったのは、いわゆる『電子ピアノ』というヤツ。レッスンが進んでいくと曲の音域が増えて三オクターブ半では間に合わなくなったためだ。もちろん「クラビノーバ」なんていう高級電子ピアノではなくて、ライブ用の鍵盤だけ付いているような細長いタイプを買った。
その電子ピアノを六年ほど弾いたのだが、やっぱり電子ピアノでは表現力が身に付かないということと、激しく弾くものだから電子ピアノの特定のキーの反応がバカになってしまったのだ。
ピアノが壊れて弾けなくなったからどうしようかと思っていたところに、このグランドピアノを見付けたという訳なのである。
【どこで見付けたの、このグランドピアノを?】
たまたまピアノリサイタルのチケットを買いに行った楽器店で出会ったのだ。
運命だと思ったな、あの時は。
チケットを買っただけではもったいないし、せっかく来たのだからそのついでにと店内をあちこちと物色した。店内には何点かのグランドピアノが置いてあった。
店員さんが「どうぞ、お弾きください」というので、戸惑って遠慮がちの長男に遠慮なく弾かせてみた。
「やっぱりいいよな、グランドピアノ」
「おや? このグランドピアノ、サイレントシステムが付いてる」
「あれれ? 鍵盤の蓋に『グランドピアノ百周年』っていうインレイがある」
そんなことを思いながら、長男が弾くピアノの音色を聴いていた。
すると女性店員さんが寄ってきてセールストークを始めたのだ。
「このグランドピアノは中古なんですよ。製造から四年ほど経過してますけど、前のオーナーが殆ど弾いてないので新品同然と言ってもいいくらいなんですよ」
価格を訊くと、新品の同型後継機種の三分の二ほど。
悩んだ。
それは「苦悩」とか「葛藤」と言ってもいい。
悩んだ末に僕は店員さんにこう告げた。
「来週また来ます。出来れば『予約』をお願いします」
店員さんはあまり良い顔をしなかった。
「前金をいただければ……」
焦った。
「早めに連絡します」
そう言うのが精一杯だった。
「分かりました。出来るだけ早く連絡を」
店を後にして、帰宅した途端に家族会議を開催した。
議題はもちろん『グランドピアノ購入の案件』についてである。
渋ったなぁ、我が家の財務省は。
それでも長男が決意を述べると折れたようだ。
三日もしないうちに楽器店の、名前を聞いておいた女性店員さんに連絡をした。
「取り置きしてください。今度の日曜日に購入するつもりです!」
「それでは『商談中』というカタチで取り置きしておきます」
店員さんは優しく言ってくれた。
それで、日曜日に家族で楽器店を訪ねた。
我が家の財務省は最後の最後まで渋ったが、契約書にサインしてくれた。
「これで一生懸命に練習してよね」
財務省に念を押されては、長男はひたすらに頷くしかない。
こうして、グランドピアノを購入することになったのだ。
【このグランドピアノの弾き初めはいつ?】
二〇〇七年一〇月一六日。
この日、我が家にこのグランドピアノがやってきたのだ。
契約書にサインをしてから一ヶ月。
秋晴れだった。
遂にこの日が来たのだ。
グランドピアノ納入の日。
嬉しかった。
真っ黒だけどピカピカに光っている。
これを『ピアノ・ブラック』とか言うらしい。
このグランドピアノのお陰で生活空間がかなり減った。
だが、何にも換えられない大事なグランドピアノ。
長男が弾き初めをした時は堪らなかった。
ここにグランドピアノがあるというだけで感動だった。
その前に座って長男が弾いているというだけでも。
それも自宅で。
一週間後に最初の調律をしてもらった。
調律を終えると、グランドピアノは見違えるような音を出した。
その音は本物のピアノという音だった。
それ以上に形容しようが無い。
美しい音色だった。
生のピアノの音が我が家に響き渡る、その贅沢な時間。
ホントに素晴らしいと感動した。
【それ以降はどうしたの?】
それから四年半、このグランドピアノは今も我が家の居間に鎮座している。
この四年半の間、長男と次男が代わる代わる、このグランドピアノで練習をした。
毎日練習したと言えば嘘になる。
だが、三日とこのグランドピアノの音がならなかったことはなかった。
もっともサイレントシステムのお陰で生音が鳴らないことは多々あったが、打鍵音とペダルの動作音だけは毎日響いていたような気がする。
長男と次男がこのグランドピアノで練習してきた曲目は以下の通りだ。
バイエルはもちろん、ブルグミューラーやハノン、ソナチネ、バッハのインベンション、ベートーヴェンのピアノソナタ、シューベルトの幻想曲、モーツァルトのトルコ行進曲、シューマンのトロイメライ、ショパンの革命、等々。
特に、長男の十八番は『ベートーヴェン・ピアノソナタ第五番』だったりする。
僕も弾かなかった訳ではない。
僕の場合は、フォークやニューミュージックのギター譜からコードだけを見て弾き語りをしてみたりするのが関の山だったが。特にジョン・レノンの『レット・イット・ビー』をよく弾いたものだ。
【実にステキで幸せな時を過ごしているのね、このグランドピアノは。】
あぁ、そうだ。
そうだとも。
いや、そうだったと言うべきだろう。
ところがだ、この四月からは状況が一変したのだ。
長男は大学に進学して、この家を離れた。
長男は三流だけれども音楽大学に入学したのだが、大学は通える距離にはなく、下宿せざるを得ない状況。もちろん副科としてピアノを選択しているのだが、ピアノを持ち込めるような下宿があったとしても家賃が馬鹿にならない。仕方なく、ちょっとバカになった電子ピアノを持たせたのだが、長男はしばらくの間、我が家にあるグランドピアノを弾くことはない。というか、弾けない。
そして次男も高校入学と同時にピアノを辞めてしまった。
次男は高校受験のため昨年末に開かれたピアノの発表会を最後に事実上の引退をした。長男がやっているのを見て始めたピアノだったが、自分にとっては反りが合わないと判断したのだろう。中学の頃にはもう半分嫌気が差していたような印象だった。しかし、次男は音楽を辞めた訳ではない。中学の部活から始めた吹奏楽部を高校でも継続するようだ。「シンガーソングライターをやってみたい」と考えている次男が、気が向いたらこのグランドピアノで何かの曲を創ったり、創った曲を弾くかも知れないけれど、それ以外のことで次男が我が家のグランドピアノを弾くことは殆ど無いだろう。
【ちょっと悲しいわね、このグランドピアノ。】
あぁ、そうだとも。
だからこそ、この文章の表題を『主の居なくなったピアノ』としているのだ。
四月に入ってから、このグランドピアノの鍵盤蓋を開けたことはない。
その癖、先日のことだ、楽器店から電話が入ったのだ。
「前回の調律からそろそろ一年が経過しますので、また調律の方をよろしくお願い致します……」
主が居ないのに、調律だけは必要なのか。
それはそれで、空しい想いが胸の中を横切る。
【誰も弾かない、寂しいグランドピアノなのね。】
それではあまりにも可哀想過ぎる。
納入された日の、ピアノブラックの光沢が今でも脳裏に甦る。
毎日でなくてもいいが、弾く必要がある。
そのためには、誰かが弾くしか方法はない。
我が家の財務省は全く無理だ。
次男もしばらくは触らないだろうし。
僕しか居ないのか?
あぁ、他に居ないのだ。
僕が、このグランドピアノの鍵盤蓋を開けてやらなければなるまい。
たどたどしい指使いで弾くグランドピアノ。
流暢な音楽にはならないかもしれない。
そうかもしれないけれど、僕はこのグランドピアノを愛している。
ここまでずーっと語ったように、僕はこのグランドピアノには相当な愛着があるのだ。
【思い入れがあるのね、このグランドピアノに。】
あぁ、そうさ。
だからこそ僕が弾こうじゃないか、このグランドピアノを。
それで、このグランドピアノ自身が癒されるかどうかなんて、全く見当も付かないが。
それでも僕は、このグランドピアノを弾こうと思うのだ。
【是が非でも弾いてくださいませ、グランドピアノという、この『あたし』を。】
寂しい想いはさせないよ、我が家のグランドピアノ。
それじゃあ、何の曲を弾こうかな。
うふふふ。
楽しみだなぁ。
【あたしも楽しみにしているわ。】
昔からずーっと憧れだったピアノ。
たとえ小さくても本格的なグランドピアノ。
今でも我が家の居間に大きな顔をして鎮座しているのだ。
ホントに、ほんの少しだけアンニュイな表情で。
最後までお読みくださり、誠にありがとうございます。
何か感じるモノがありましたら作者冥利に尽きます。