24.帰宅
携帯と財布だけ持って、啓は英恵のマンションから転がるように飛び出た。足を縺れさせながら大通りに出て、深夜の道路を徘徊するように走るタクシーを捕まえて、実弥子の待つマンションの住所を告げた。寡黙なタクシーの運転手は一言「はい」と告げると、静かに車を発進させる。街は少しずつ店の電気が消え始め、街灯が寂しげにポツポツと点く程度になっていた。
タクシーの中は、静かだった。啓がラジオを着けるように頼むと、やはり運転手は一言だけ返事をしてラジオのスイッチを押す。なるべく明るいMCが話しているラジオがいい。でないと、自分の心臓の音が、期待の余り上がる呼吸が運転手に聞こえてしまいそうだったからだ。
啓は目を固く閉じ、跳ね上がり続ける心臓を思い切り掴んだ。切なくて、嬉しくて死んでしまいそうなくらいだ。十年間欲していた言葉を期待している自分がいる。以前、英恵と話したことなんて、啓の頭からは既に弾き飛んでしまっていた。
―啓、ゆっくりひとつずつ、話をさせてちょうだい―
そう言った英恵の目は怒りというよりも、自らの失態を責めるように細められていた。泣きすぎて頭がぼうっとする啓をきちんとソファーに座らせ、英恵自身もその横に座ると、小さな子をあやすような口調で英恵は啓に質問を始めた。
「みやは、あんたがみやのことを好きなこと、知ってるの?」
啓はゆっくり首を振る。実弥子は啓のことを弟としてしか見ていないことは、英恵もなんとなく気づいているはずだが、あえて聞いてきたのだろう。啓が思い込みという暴走をしていないか、恐らく確認したのだ。
「知ってたら、きっと一緒に住んだりしてくれない」
「…そうね」
英恵はふと視線を外した。その流れで一口コーヒーを啜る音を聞きながら、俯いた。重力に従って落ちる涙が、英恵の家の絨毯を遠慮なしに叩いていく。
「啓は、これからどうしたいの?」
「……」
難しい質問だった。
啓の感情と願望だけを織り交ぜて話していいならば、実弥子を啓のものにしたい、啓が実弥子のものになりたいというのが、本音である。しかし実弥子の感情を優先したいのも真実なのだ。啓はとにかく、実弥子の傍にいたかった。もし、実弥子の気持ちが少しずつ家族と言う枠から出てきてくれるのなら、何年でも待つつもりでいた。啓は実弥子の一番でいたいのである。
その為に、啓はモデルを本格的に始めるということを手段の一つにした。未成年である啓が稼いで親からの援助を断ち切り、真の意味で実弥子と一緒にいるという事実が欲しかったのである。だからこそ、両親が離婚したのと同時期に啓は本格的に芸能の世界に飛び出した。両親を見返してやりたいという願望が無かったわけではないが、単純に何年かしてから実弥子を養う為にはどうするかを彼なりに考えた結果だった。
実弥子は啓の仕事にあまり関心を持っている様子はなかったが、それはそれで構わないと思っていた。少しずつ『弟』ではなく『男』として見てもらうには、普段とは違う自分も見て欲しい。それも急がずに実弥子のペースで。他に男が寄り付かないのならば、啓はいくらでも待てる気すらしていた。
しかし、不意に現れた桐山恭輔という男には、未だかつてないほどの焦燥感を植え付けられ、自身でも抑制が効かないほどに焦り、嫉妬し、暴走した。そこで初めて啓は、力ずくでもいいから実弥子が欲しいと思ってしまったのである。そんな何をしでかすかわからない自分に、恐怖すら覚えた。
これからどうしたいか。そんなもの、実弥子の傍にいたいに決まっている。けれど。
「…実弥子に、嫌われたくない」
切なる願いなど、これしかなかった。なりふり構っていられない。傍にいたい。でも、嫌われたくない。でも今の状況では、どうしていいかわからない。
混乱が、啓の頭を更に混ぜ返していく。英恵は一つ溜息を吐くと、真剣な目つきで啓を見た。
「ねぇ啓。信じてもらえないかもしれないけれど、私、今でもみやのことはかわいい娘だと思ってるの」
「そんなこと、どの口が言うんだよ」
「そう言われても仕方ないのは解ってるわ。私は家族より仕事を優先した冷血女ですものね。でもこれは私の本心よ」
「……」
「でね、そんなかわいい娘が泣くようなことには、なって欲しくないの。今のあんたじゃ、確実にみやにとっても啓にとってもプラスになれない。だから暫く家に帰るのはやめなさい。少し距離を置いて、冷静になることが今のあんたに必要なことだと思う」
距離を置いたところで啓の長年の感情の濃度が薄まるはずもないが、英恵の意見はあまりに正論だった上に、実質啓は怖がっていた。あんな風にあからさまに桐山恭輔に嫉妬してしまった自分に実弥子が気付いてしまい、結果嫌われるかもしれないという疑念。どうしてもそんな思いが拭えないままでは、仕事も満足にこなせそうになかった。それはきっと英恵が次に心配したことだろう。それ故に彼女は啓と話をする場所を設け、実弥子と距離を置くよう勧めたのだろうから。
英恵の提案に、啓は一つ、頷いた。実弥子のことも勿論気になっているが、仕事に身が入らないのでは、本末転倒もいい所だ。実弥子に頼られたい、実弥子を養えるようになりたいが故に始めたモデルの仕事を全力で楽しみ打ち込みたいのは本音以外の何物でもないのだ。また歌に関してはもっともっと昇華していきたいとさえ思う。
そこから啓は実弥子との接触を断つことで、どうにかモデルのケイを保ち続けた。連絡が来ないのは、救いだったかもしれない。メールの一通、着信の一通でも、今の啓を翻弄するのは十分すぎるのだから。やがて今回のコラボレーションの発表や新曲の発表を半ば力技で推し進めていけば、啓はその時だけは実弥子を一瞬だけ忘れていられた。その方が心が軽かったのは確かではあったが、実弥子の顔が見られないのは、声が聞こえないのは苦しい。何度も携帯の着信履歴を呼び出しては閉じた。
そんな啓にとって、その日掛かってきた実弥子からの着信は、寝耳に水では済まされないような衝撃で、啓は思わず、携帯を持つ手が震えた。そのまま形携帯を落としそうになる程度には慌て、その着信を受けるか否かを瞬時に悩んだ。その間、およそ10秒程。
そのままやり過ごしてしまうことも出来たのに、出来なかった。
啓も実弥子の声が聴きたくて仕方なかったのである。
そうして啓は、高鳴る心臓もそのままに通話ボタンを押した。それから英恵の家を飛すまでに、啓は一つの決意をしていた。その意志が緩く解けてしまわないように、母に連絡はしなかった。
既に遅い時間なのもあって、道路はほとんど込むこともなく、あっという間に啓の見慣れた場所へと近づいていた。その間に実弥子からメールが一通来ていたので開いてみる。
『本当に、今帰って来るの?』
何を今更、と啓は一つ溜息を吐くように笑うと、たった一言『もう着くよ』と返信した、既に後戻りなど出来ない位置まで来ていると、啓ですら思っている。しかしもう遅い。躊躇するには、少し彼女は刺激し過ぎたのだ。
やがて家の前でゆっくりとタクシーが止まった。支払いを済ませて外へと出れば、そのままエントランスまで走る。会ったら何をどう話せばいいのかも、啓自身がどんな行動を取ってしまうかも、全てが予測できない渦の中だ。でも一言実弥子が「寂しい」と言った。その言葉が、啓を此処まで突き動かした。十年分溜めに溜めこんだ実弥子に対する感情が全て弾けてしまわないように。そんな理性だけは、留めておかねばならない。
久し振りに帰ってきた。大切な我が家。自分で鍵を開けると言う行為すらもどかしくて、啓はインターフォンを焦るような手つきで数回押した。早く早くと焦る気持ちがどんどん先へ行ってしまわないように一つ深呼吸をしてみたけれど、効果は大して得られはしなかった。
そんな啓を嗤うように、玄関の扉は小さな音を立てて開いた。
中から少しだけ隙間を開けて啓を見る実弥子の瞳は可哀想なくらい赤くて、啓の奥底に眠らせていた感情が噴き出てしまいそうになる。それだけはと必死に抑えて、啓は薄く開いた扉に手を掛けて実弥子が扉を閉めないように、阻止をした。そのまま少しばかり力任せに扉を開けば、いとも簡単に玄関へと滑り込んだ。
「ただいま。実弥子」
啓はあえて、実弥子を名前で呼ぶ。そんな啓に実弥子は一瞬だけ反応するように顔を上げたが、特に訂正を求めて来なかった。代わりに小さな声だったが確かに聞こえた、「おかえり」という言葉。すぐさま振り返って背中を見せる実弥子の腕を掴んで引き寄せたくなった衝動は、ポケットの携帯が震えて英恵の着信を知らせてきたことにより、どうにか収まる。
そのまま啓は携帯の電源を落とすと再びポケットにそれを突っ込んで、いつものように玄関に足を踏み入れる。ただいつもと違うのは、高鳴る心音と、自身が口にする、姉の名前だけだった。