23.ひとりのじかん
その後のアルバイトは卒なく終えた。ただ一つ、桐山の少し間延びしたような、けれど甘めに響く声が聞こえなくなっただけだ。そのことに関しては、あまり考えないようにした。コーヒーショップで言われた一言はまだ実弥子の脳裏から離れてくれなかったけれど、桐山にその真意を問いただすには時間が足りない上に、実弥子の中に新たに生まれた未解明な靄が晴れるまでは、考えたくないとさえ思ってしまう。自分の薄情な部分が露呈しているとは思う。けれど実弥子は器用ではないのだ。このくらいは、許して欲しい。それに、それよりも、
「すいません。ケイのCD,返却されていませんか?」
バイトの最中、何度もカウンター越しに聞かれて、実弥子はその度に小さな電流を受けたようにドキリとした。こんな風な問い合わせはよくあることで、更にケイのCDを求める客も少なくない。いつものことなのである。そう、いつものことだ。
なのに、実弥子はその名前を聞くたびにどうしていいか解らない感情を抱いた。啓が仕事で家を空けるなんて、日常茶飯事と言っても過言でないくらいのいつものことである。けど、何故いつものように日常を過ごしながらフラットな面持ちで待つことが出来ないのだろう。答えは、ここ最近の事を考えてみればすぐ辿りついた。
まずは啓に謝りたい。きちんと目を見て謝って、この前の礼を言いたい。そうして出来れば許しを得たい。それから啓を、ケイをこれからきちんと知っていくから色んなことをこれから教えて欲しいということを伝えたい。姉であることを笠に着て実質今の啓のことを何一つ知らないのではないかとも思える自身の怠惰を改めたい。ケイではなく啓に一番近いのは自分である、ということに自信を持ちたいのだ。
しかしとにかく啓に会う、ということが大前提で叶う実弥子の欲求も、その根本が押さえつけられているせいで行き場をなくしていた。英恵から、啓に仕事に集中させる為に連絡は取るな、と出鼻から挫かれてしまったせいで、余計に実弥子の中のフラストレーションはふつふつと溜まっていく。どこかで一度、英恵と連絡を取ろうと、実弥子はどんどん肌寒さを増していく駅前を一人ゆっくりと歩きながら、誰も待たない家路についたのだった。
誰もいないのに、ほぼ無意識に「ただいま」と言いながら、実弥子は玄関で靴を脱いだ。
啓のスニーカーは相変わらず見当たらない。暫くは英恵のマンションにいるらしいので食事などのことは何も心配していないが、いつまで帰って来れないのかは、最低限知りたかった。帰って来る日にちが解れば、バイトのシフトを調整してその日はいつもより豪華な夕飯を作って出迎えたい。お疲れ様、とねぎらった後。きちんと謝りたい。そのことしか実弥子の脳裏には浮かばなかった。
「暇、だな…」
思わず呟いた言葉は、一人で住むには広すぎるマンションのリビングに綻ぶように溶けていく。いつもは居なくても特に気にならなかったのに、いざ早く会いたいと願うとこんなにも手持ち無沙汰になるのだろう。暇つぶしに携帯を開き、実弥子は総合ニュースをまとめたアプリを開いた。経済ニュースや政治のニュースは飛ばし、エンタメのニュースに目を通す。するとそこによく見慣れた、けれどほんの少し久しぶりの顔を見つけ、実弥子は思わず携帯を近づけた。
『有名ブランドHAMAE SAGAMI、メンズカジュアルを日本初出店。イメージモデルはデザイナー相模英恵の実子であるモデルのケイが抜擢』
そんな謳い文句と一緒に、英恵と啓が二人並んで沢山のカメラフラッシュを笑顔で浴びているような写真が添付されており、実弥子は思わず「わぁ…!!」と独り言を漏らした。
記事の内容は、あおり分の詳細が細かく書かれている。親子でのコラボレーションの実現に英恵が喜んでいることや、これからケイがCMソングも歌うことが決まっていること。啓の意気込みを記者が端的に纏めたような文章も踊っている。そして何より実弥子が驚いたのは、写真の中のケイが実弥子に買ってくれたワンピースと同じ柄のジャケットを羽織っていたことだった。白地にネイビーの花をメインに描かれたジャケットを着こなす啓に、実弥子は思わず小さく「あれっ?」と呟く。あの柄は今期の新作だったのか、と思う片隅で、学校で友人の早坂有紀が零していた言葉を思い出した。
「あ、はは…お揃い、かぁ…」
仕方ないことではあると思うが、何故だかとても恥ずかしい上にケイのファンである有紀の先をケイ自身の手で越してしまったことに謎の罪悪感を抱きながら、実弥子は写真の向こうで笑うケイを見た。画面で見ると元気そうではあるが、ほんの少し痩せたかもしれない。ご飯も不規則になるし、第一忙しい母と生活している状態ならば、食事は簡単に済ませてしまっているだろう。
「大丈夫かな」
一日でもいいから、帰ってくればいいのに。と、実弥子は無意識に呟いたが、それと同時に今まで考えていなかったことが、急に浮かぶ。そしてそれを声に出してしまえば、先ほどの微かとも言える啓への心配は、大きく膨れ上がって実弥子自身への心配へと変貌した。
「この仕事が終わればここに、帰って…くる、よね」
もしかして、英恵に頼んで連絡させないよう指示したのも英恵の家から仕事場へ向かうことを決めたのも啓なのだとしたら、実弥子の不安は急に目に見える影となった。もし、帰ってこなかったら、どうしよう。そんな考えを吹き飛ばすような決定的な事実も思考も啓の言葉も、実弥子は何も持っていない。啓に聞きたくても、彼の仕事の邪魔になってしまうと英恵に止められた電話やメールという通信ツールは使えない。
早く帰ってきて。とニュースの記事に映る仕事用の微笑みをした啓に念じてみたが、そんなもの届くわけもない。実弥子は一つ解消した心配事を更に重くして、一人リビングで座り込んだのだった。
実弥子の日常から啓が抜け落ちたままでも、それでも時計の針はコツコツと歩みを進めた。
大学へ行って、授業を受けて、バイトがあればバイトに出て、家に帰れば真っ暗な玄関にただいまと告げる。バイトの日は、だんだんと夕飯を作るのも億劫になってきていた。たった一人での食事は慣れているはずなのに、連続してしまうとどうにも味気なくて、結果バイト帰りにスーパーへと寄って惣菜を買って済ませる日も少しずつ増え始めていた。
そこで漸く、啓がいたからきちんと食事を作っていた自分に気が付いた。いつだったか、デビューシングルのPVを沖縄で撮影してきた啓が実弥子のカレーを食べて「帰ってきたんだ、俺」と呟いたことがあった。あの時実弥子は照れ隠しに怒ってみせたけれど、あの言葉がなにより嬉しかったかを、今になって思い出してしまった。
啓は今何をしているだろう。睡眠は、きっとあまりとれていないかもしれない。英恵と一緒に居て、気まずい思いをしていないだろうか。
…糸井も一緒にいるのだろう。あの、啓のことを誰より知りたがっている、ボブカットの綺麗な女性も。
不意に、絡まった糸を飲み込んでしまったような苦しさとむず痒さが実弥子の胸を埋め尽くした。水を飲み込んで、それを流し込んでしまいたくなるような衝動。
水に成り得る解決策が、今の実弥子にはたった一つしか思いつかなかった。けれどそれは英恵によって固く蓋をされている。けれど実弥子がそれに大人しく従うには時間が経ち過ぎていた。我が儘に塗れた行為なのも解っているし、もしかしたら彼の集中を削いでしまうかもしれないのも解っている。けれど、それを全て綺麗に飲み込んでしまえるほど、実弥子は器用ではなかった。謝るなら一つも二つも同じ、だなんて極論さえ浮かんでいる彼女の判断力は、もはや時間の経過と共に薄弱になっていたのだ。
実弥子は意を決して、携帯の着信履歴を引っ張り出した。ついこの前、糸井が倒れてしまったと困り果てた声で助けを求めてきた啓が実弥子に電話してきた痕跡は、実弥子の携帯にも残っている。その履歴を一つ軽く指で押せば、あっという間に電話回線は啓の元へと走って行った。
そのまま携帯を耳に押し当てずに、実弥子は画面を見つめたまま表示が『通話中』となるのを自身でも気付かない内に跳ね上がっていた心臓を余所に見つめ続けた。
時間にして10秒。呼び出し音がプツリと切れた代わりに聞こえてきたのは、少し躊躇うような声の啓だった。
「…もしもし?」
『…姉さん?』
「うん」
実弥子が急に、ごめんねと言えば、啓は感情の読み取れない声で一つ頷いた。
今、大丈夫?と言えば、先ほどよりも湿ったような声で、また「うん」と聞こえた。
実弥子は小さく服の胸元を掴むと、そっと携帯を耳に押し当てたのだった。
『…どうしたの?』
少し躊躇うような声を耳にするのは珍しくて、実弥子は本来の目的も忘れて少しだけ笑ってしまった。そんな実弥子を怪訝に思ったのか、啓は黙ったまま実弥子の動向を探っている。
「あ、ごめん。ごめんね。…今、大丈夫?」
今度は少し躊躇うような間が開いて、それから小さな声で「…うん」と聞こえた。そのッ返事に、まずはホッとした。
「あのね、迷惑だったらすぐに言ってね。本当はお母さんに啓今すごく忙しいから連絡控えてって言われてたの。だから…」
『大丈夫。明日は午後からだし、今日はもう家にいるから』
「そうなんだ。…お疲れ様」
『うん』
確かに少し、疲れているような声である。英恵の言う通りきっと激務をこなしてきたのだろう。
「…あのね、えっと、」
『…うん』
さっきまで話したいことが沢山あったというのに、いざ啓の声を聞いたら一体何を話せばいいのかと、実弥子の頭の中はあっという間に空っぽになってしまった。啓は静かに実弥子の言葉を待っているのか、自分から話そうとはしない。疲れているであろう啓のことを考えたらすぐ電話を切った方がいいのは解っている。けれど、肝心の言葉が、何故か出て来なかった。一瞬沈黙してから、その時間を取り戻すように実弥子は慌てて唇を開く。
「…ご飯、食べた?」
『え?』
「あ、ごめん全然関係ないこと言って…」
電話の向こうで、啓が少し笑ったのが聞こえた。
『食べたよ。今日はスタジオで出た弁当』
「そっか。ちゃんと食べてるんならよかった」
『姉さんの方が、よっぽど母さんみたいなこと言ってるな』
「そうかな、…そう、かも」
だってね、と、実弥子は言葉を続ける。啓の頷いた声が、少し近くなった気がした。
「私はね、ご飯全然作らなくなっちゃった」
『…は?ちゃんと食べてないの?』
「ううん。食べてる。でも買ってきてばっかりかな」
『…なんで』
「だって、」
ここで、実弥子でさえ予想していなかったくらい一気に、瞼が熱くなった。ここ数週間で一年分くらいの涙を流したと言うのに、まだ枯れてくれない実弥子の涙の根元が少しだけ憎たらしくなる。
「……っ、」
『…どうしたの?』
待ってくれているような優しい声。それを聞いて、実弥子言いたかったことが滝のように流れ出てくる。
「だって、一人で作って食べても美味しくないよ」
『……』
「今まではね、啓がいつ帰って来るか教えてくれてたから、待つこと出来たよ。帰って来る日にはきちんとご飯作って迎えてあげようって…でも今回はいつ帰って来るかわかんないじゃん…ねぇ、啓」
『…なに?』
「ちゃんとここに、帰ってきて、くれるの?」
『…実弥子』
不意に、啓が実弥子を名前で呼ぶ。実弥子は黙ってそれを飲み込んだ。
『俺がいないの、寂しい…?』
ねぇ、と、懇願するように答えを迫る啓の声があまりに必死で、実弥子は何故か言い表せない焦燥感に襲われた。ひゅっと息を吸うと、いつもより早くなる呼吸を抑えようとも位せずに、叫んだ。
「そんなの、寂しいに決まってる…!」
自分でも驚くくらい大きな声が出て、実弥子は思わず口に手を当てた。しかし声に出してやっと気が付く。それが、この数日考え抜いた実弥子が行きついた答えだった。啓がいないマンションは、とてつもなく広い。もし帰って来なかったら、と考えると、それだけで恐怖すら感じてしまう。それだけ実弥子は、啓が大切で仕方ないのだから。
「あ、ごめ、ち、違うの。私この前のこと、啓に謝りたくて…」
『帰る』
「え?」
『今からそっちに帰るよ。ゆっくり話そう。実弥子』
そう言って啓の電話は一方的に切れた。
「あれ?啓、啓?」
切れてしまっていることに気付いてはいたけれど、啓の最後の言葉が実弥子は信じられなくて、何度か彼の名前を呼んでみる。勿論回線がつながっていない電話に啓が応答するわけもなく、実弥子の耳にはツーツーという機械音が虚しく響いた。
「え、ちょっと、どうしよう」
電話の最後、啓は今から帰る、と言っていた。母の家からは確かそう遠くなかったはずだが、実弥子たちの家に着くころには深夜に差し掛かってしまうだろう。そんな時間に疲れた体を引きずって帰ってくるのは、今後の仕事に差障らないか心配で仕方なかった。けれど心のどこかで、安心している自分がいた。