表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/25

22.ドリップ・フラワー

啓が暫く家に帰ってこないということを本人の口からではなく間接的にしか聞けなかったのが、実弥子はほんの少しだけ不満だった。

携帯のディスプレイに着信中の表示と、そこに映った着信先の名前に実弥子が驚いたのは言うまでもない。前回決して爽やかに別れたわけではなかった母、英恵の名前がそこに映し出されていたからである。恐る恐る電話に出てみれば、「みや?」となんでもないような英恵の声が聞こえて、実弥子は小さく返事をしたのだ。


「急にごめんね。今大丈夫かしら」


「うん。家にいるし…どうかした?」


少しだけ強ばりそうな声をなんとか平静に保たせながら、実弥子は出来る限り明るい口調を電話越しに投げかける。一体なんの用事なのだろうと、純粋な好奇心と一緒に考えてしまう皮肉めいた感情は電話回線では伝わらないだろう。だからこそ少しばかり露呈してしまった言葉の棘も上手に隠せたのだ。

しかしそんな実弥子の思惑を更に上回るような言葉を、英恵は吐いたのだ。


「啓のことなんだけどね」


「え…啓?」


「ええ。今ちょうど私のブランドの仕事をしてもらってるんだけど、仕事場からだと私の家の方が近いから、暫く私の家で寝泊まりしてもらおうと思ってるのよ。みやにも言っておこうと思って」


帰るのは相当先になると思うんだけど、と続けた母の声は、あまりちゃんと聞こえなかった。実弥子は何度か相づちと返事を繰り返しながら、部屋に置いてあるケイのCDを思い出す。ようやく啓ではなくケイのことも知っていこうと決心した矢先、まさか啓と暫く会うことが出来なくなるなんて思わなかったのだ。


「かなり過密なハードスケジュールになるのよ。啓の体調のことも考えるとその方がいいってことになってね」


啓と英恵が相談して出した結果だというのは、話を聞いていれば明らかだった。海外で活躍している母のブランドの仕事となれば、啓にとっては大きな仕事だろう。きっと、以前食事をした際に出た話題が実現したのだ。全て実弥子の知らない間に。


「そっか。わかった。啓に頑張れって言っといて」


なるべくショックを受けている風でも、喜んでいる風でもないような反応を努めて、実弥子は電話を切った。ショックでもなくて、嬉しいわけでもなくただそれを事実として受け止めるだけの反応は、今までの実弥子の反応だった。


「ええ、伝えとく。…それとね、みや」


「…?何」


言いにくいんだけど、という言葉を一番初めに貼り付けて英恵は言った。


「啓が落ち着いたら連絡させるから、それまではみやの方から連絡しないようにしてあげてくれる?今回の仕事、あの子相当気合い入ってるみたいなの。だからなるべく集中させてやらなきゃいけなくて」


鈍器で頭を殴られるような衝撃を、実弥子は受けた。


「…わかった。ていうか、今までも啓が仕事してた時は連絡なんかしたこと無かったし。いつも通りにしてるよ」


そう?と軽い反応と挨拶もそこそこに、英恵からの通信は切れた。

携帯を軽く握りながら、実弥子はぼうっと宙を見る。やろうと思っていたことを取り上げられて、一気に手持ちぶさたになったような感覚。否、実際そうだったのだ。初めに英恵から啓が仕事の都合で帰ってこない、ということを聞いた瞬間実弥子の脳を横切ったのは、「応援がてら連絡を入れよう」という思考だった。しかしそれを次の瞬間取り上げられて、そのままお預けを食らってしまった。そもそもの目的、啓に会ったら謝ろうということさえ実行出来ない。


「どのくらい、帰ってこないのかな…」


ぽつりと呟いた声は、虚しく響いて壁紙から跳ね返ってきた。少しふて腐れるような口調になってしまったな、と今更ながらに思ったけれど、それくらいなんてことない。ただ、やっぱり英恵は仕事のことしか考えてないんだな、と考える。しかし、あの時ほどのショックはなかった。予測済みだったのは勿論のこと、それ以上に啓が帰ってこないという事実が実弥子の脳内を占領したのだった。


べつに、寂しくはないけど。


無意識に呟いた声は、誰の耳にも入らなかった。



啓が仕事の都合で学校に暫く出てこないとしても、一介の大学生である実弥子じゃそうもいかない。いつも通り月曜は一限があるので、相応の時間に目を覚ます。なかなか目の覚めてくれない頭を無意識に動かしながら菓子パンを手にし、そのままコーヒーメーカーに目を遣って、一瞬で逸らした。そう、啓はいないのだから、コーヒーが準備されているわけがないのだ。


実弥子は戸棚からインスタントのコーヒーを取り出して、沸かしたお湯をカップの中で加える。牛乳をそのまま茶色を薄めるようになみなみと注いで完成したカフェオレはいつもよりほんの少し、味が落ちる。実弥子は気にしない。そもそもそこまでコーヒーにうるさいわけではないのだ。


昨日買っておいたパンを頬張りながらテレビ本体に近付いて電源を点ける。いつもと同じ朝の番組を眺めながらコーヒーを飲めば、インスタントコーヒーを入れすぎたのか予想以上に苦かった。しかし淹れ直すのは面倒で、仕方なしにそのまま口に含んで、直後に甘い菓子パンを頬張る。

テレビの芸能ニュースも、人気俳優の結婚のニュースがほとんどの時間を締め、あっけなく終わった。

何かを期待していたのかと聞かれれば実弥子は「そんなんじゃないよ」と答えるだろう。実質、期待していたわけじゃない。芸能ニュースにケイが登場することなんて。


玄関の鍵を閉めてから、テーブルの上に携帯を忘れたことに気がついた。おかげでいつもの電車には乗れなかったが、それくないなら大したことはないのだ。そう、大したことなどない。




「おはよう実弥子!」



実弥子の友人である早坂有紀は基本、学校に来るのが早い。いつも実弥子よりずっと先に講堂にいて、携帯をいじったり雑誌を読んでいるのが彼女の大学生としてのスタンスだった。実弥子も「おはよう」と返しながら隣に座れば、今日も彼女は雑誌を開いていた。呼んでる記事にロックバンドのインタビュー記事らしきものが写っているあたり、今日は音楽雑誌でも読んでるのだろう。そして実弥子が着席して落ち着いてから、明るい声で話しかけてきてくれる。しかし今日は実弥子の方から声を掛けた。


「ケイの記事、載ってた?」


思わず漏れ出た言葉に一番驚いたのは実弥子だったが、有紀も一瞬目丸くしたかと思えばその丸くした目を一気に輝かせて実弥子を見つめてくる。


「なになに!?実弥子もようやく気になってきたの!?」


「そ、そういうわけじゃない。けど」


「いいのいいの隠さなくっても!!かっこいいよねケイ君!」


有紀はちょっと待って、と実弥子の前に手のひらを翳しながら、雑誌をベラベラとめくっていった。やはりケイ目的で買った雑誌のようだ。


「はいここ!!読んで読んで!!」


勢いそのままにずいっと雑誌を押しつけられれば、言い訳するタイミングを完全に逃してしまった。「う、うん」と小さく返事をしてからケイの載っている記事を見てみれば、英恵のブランドとのコラボレーションについてと、CMソングのタイアップについて書かれた記事だった。とうに知っている情報で、実弥子は無意識にほんの少しだけ落胆する。


「HANAE SAGAMIってかわいいけど結構値が張るんだよね~。どうしよう…」


「えっ、どうしようって、何が?」


「何がって、ケイ君が来てる服と同じデザインのレディースがあったら買うに決まってんじゃん!!お揃いだよ!?」


「す、すごいね…」


雑誌を押しつけられるより強い勢いで畳みかけられ、呆気にとられた実弥子は思わず上半身を後ろに引いた。有紀はやる気満々とでもいう風に両手に握り拳を作っている。


「セカンドシングルも超よかったし、楽しみだなぁ!あ~早く広告出てこないかなぁ。絶対かっこいいよね!!」


うきうきと離す有紀は心の底から楽しみにしているようで、実弥子はそっか、と小さく呟いた。大好きな人と同じ服を着たい。そんな有紀の願望がとても健気に感じる。それと同時に実弥子の中で小さな感情が揺れ動いたような気がしたけれど、その感情の正体は残念ながら掴むことは出来なかった。




四限までみっちりと授業を終えても。実弥子の一日はそれだけでは終わらなかった。今日はこの後バイトが入っている。昨日オーディオプレーヤーに入れておいたケイのデビューシングルを聞きながらバイト先までの道中、駅前にある大きな液晶の広告にケイが映った。シングルのランキングを流しているのだろう。音楽を小さな音量で聴いていたからか、外の喧噪に紛れて聞こえてきたケイの違う歌に反応して思わずイヤホンを外せば、セカンドシングルがランキングで未だ八位に位置していた。


デビューシングルの爽やか印象とはほぼ真逆にあるような、少年ならではの色気を意識したような歌。歌詞もどことなく色気を意識したような雰囲気で、実弥子は思わず目を逸らして大型液晶から遠ざかる。姉としてはなんとなく居たたまれない感覚を抱いたが、啓を『ケイ』として見ると、ファンにとっては最上の作品になったのではないだろうか。


実弥子でさえ、居たたまれなくなる直前、一瞬だけ思ったくらいだ。

『かっこいい』と。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ