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21.インスタント・ブルー

車の中は、カーラジオと英恵の鼻歌、それから啓がしゃくりを上げる声と鼻を啜る音で埋め尽くされた。一度崩れたダムがその場で修復不可能なように、啓の涙腺は瓦解の一途を辿る。結果、号泣という形でそこに形作られたのだった。


「私ちょっと煙草買ってくるから、あんたここで待ってなさい」


啓は無言で頷いた。車は右に曲がったかと思えば停止して、英恵はそのまま車から出ていく。啓はなるべく身を屈めて、コンビニを出入りする客の視線を避けた。モデルのケイがいることを悟られたくないと言うより、これ以上他人に泣き顔を見られたくないだけだった。


不意に、携帯がメール着信を告げる。中を開けば送信者の所には糸井の名前が映し出された。


『ケイ君大丈夫?最近忙しかったから、心が疲れてるのかもね。今日はゆっくり休んでください』


糸井のメールは、予想外にもシンプルな作りである。絵文字や顔文字は一切ない辺りは、仕事の範疇として送ってきたのだろうか。それとも彼女の趣味か。シンプルなメール画面を見ると、ふと実弥子が以前送ってきたたった十文字のメール画面を思い出して、また涙を瞳に溜めそうになる。ぐっと堪えたつもりだったが、一足遅かったのかそれはポロリとこぼれ落ち、啓の情けない膝を叩いた。


後悔なのか、それとも悲観なのか。実弥子を思って溢れる涙の理由は理解出来るのに、その涙の詳細は十分に理解出来ているわけではなかった。混乱の渦の中でも啓の前に皮肉に踊るのは、「実弥子に嫌われたら生きていけない」という絶対的な一文である。

 反面、欲張りにもなっている自分がいたのだろう。手に入れたいのに、捨て身で行動する度胸もなくて。でも実弥子が他の男のものになるのは耐え難い衝動なのだ。


そんなことを考えれば考えるほど、涙は溢れて止まらなかった。自覚がある分だけを換算すると、人生の中で一番泣いているのではとすら思えるほど、瞼が震えては涙を作り出して啓の頬を滑っていく。

不意に声を上げて泣き叫びたい衝動が襲ってくるけれど、耐えた。こんな所でそんなことは出来ないというなけなしのプライドがそれを許してくれないのだった。

喉に力が入って、ぐ、と音が鳴る。勢いそのまま飲み込んだ唾液が変な所に入って、むせ込んだ。



情けなさを実感すればするほど、溢れた涙がこぼれ、啓の呼吸を苦しめていく。ぐずぐずだった。



「おまたせ」


ものの数分で、英恵はコンビニ袋をぶら下げて車のドアを開けた。英恵の方を見ずにいれば、ずいとコンビニの袋を突き出される。しかし啓は受け取ろうとせずに顔を逸らせば、英恵は低い声で「ほら」と更に差し出してくる。観念して中を開けると、袋の中には新品の下着が入っていた。予想外の買い物に思わず赤い瞼で英恵を見れば、今度は英恵が啓を見ずにシートベルトを締めている。


「うちにあんた用の下着なんかないからね」


「……?」


「今日は私の所に泊まりなさい。どうせ、そんな状態じゃみやの所には帰れないでしょ」


啓はぎくりとした反動で、俯けていた上半身を起こして英恵を見た。見開いた目は滲むままだが強く英恵を捉え、その背筋には冷たい何かか這い回る。じわりとした、嫌な冷や汗さえ出てきそうだった。英恵はそんな啓を、剣呑とした瞳で見つめる。


「…やっぱりね。ちょっとその辺に関しても話、しましょ。みやには私から言っておくから」


車、出すわよ。


一言ぶっきらぼうに言って、英恵はステアリングを握った。




啓は英恵の住むマンションには行ったことがなかったものの、マンション周辺は比較的見慣れていた。啓と実弥子が住んでいる場所からは近い場所にそのマンションはあったのだ。英恵の住まいのメモを受け取ったのは実弥子で、啓は興味すら湧かなかったものだから純粋に知らなかったのだ。


部屋の中は、啓が予想した遙か上を行くほどに整頓されていた。無機質さを感じる程に片づいている所を見ると、ハウスキーパーでも呼んでいるのだろう。実母の家だというのに、どうにも居心地が悪い。


「あんたコーヒー飲めるわよね」


英恵がキッチンから顔を出して啓に掛けた声に、啓は無言で頷いてそのまま赤いソファに身を落とした。


「そうよね。コーヒーブラックで飲めないのは、みやの方よね。いっつも牛乳の方が多いような薄いカフェオレばっかり飲んで…あの子は今もそうなの?」


酷な質問をしてくる英恵。十中八九わざとだった。


「…好きな女の子のことでしょ。どうせ把握してるんじゃないの?」


啓の体が不自然に揺れる。やはり、見抜かれていたのだ。


英恵は盛大にため息を吐いて、今し方淹れたコーヒーを二つ、リビングテーブルの上に置いた。タワーマンションには似つかわしくない、インスタントの香りが室内に充満する。


「あんたが今そんなにぐずぐずになってるのも、みやが原因なんじゃないの?」


「……」


「ねぇ啓、ちょっと話しましょう。場合によってはあんたたちを一緒に住まわすのも考えなきゃダメなんだから」


「嫌だ」


掠れた涙声。しかし瞬時に出た言葉だった。そんな啓に、英恵は一気に眉間に皺を寄せる。剣呑な瞳は激情の瞳へと変化し、啓を責め立てるような赤い唇が攻撃的に開かれた。


「じゃあ言わせてもらうけど、あんた間違い起こさない自信あるの?」


「実弥子に嫌われるようなことは、絶対にしない…」


「あんたくらいの年でそんなこと言ったって、説得力あるわけないじゃない。みやはあんたがみやのことどう思ってるか知ってるの?そんな風には見えなかったけど」


「…知らないよ」


「ほらやっぱりね。悪いけど、娘を守る為にも私はもうあんた達の同居を認めることは出来ないわ。あの人にも相談し…」

「実弥子はもうあんたの娘じゃないだろ!!!」


英恵が携帯を取ろうと立ち上がろうとした瞬間、啓はテーブルを強く叩いた。カップが震え上がるように音を立て、中のコーヒーが動揺したように揺れる。英恵は目を見開いた。啓はそのまま立ち上がり、両拳を強く握った。ボタボタと音さえしそうな程大粒の涙が、絨毯にこぼれ落ちる。


「あんたらが実弥子から、安心できる場所を奪ったんじゃねーのかよ!!なのになんだよ、今まで連絡も寄越さなかったくせに急に母親面しやがって!!」


「な…、」


今度は英恵が言葉を詰まらせる番になった。啓が袖で強く目元を拭う。しかし言葉の波は、留まることを知らないかのように、啓の口から溢れてはリビングを浸食していく。


「俺はあんたらが離婚したこと、感謝してるよ!実弥子がもう家族じゃない。実弥子を好きでいてもおかしくない環境をくれたんだから!でも実弥子は違う!!」


不意にしゃっくりと一緒に漏れ出た嗚咽、啓を苦しめる。


「あの人は、誰よりも家族が大事だったんだよ!!知らないだろ!?最初の数ヶ月、実弥子は毎日泣いてたんだ!弟の俺が不安に思わないようにって、夜に部屋で一人で!!」


一気に涙声が加速する。


「俺は実弥子が好きだよ。もうずっと、ガキの頃から好きだった。でもそれをあんたらが禁止する権利なんてない!!あんたら大人が自分の欲を優先した結果じゃねーかよ!!」


啓に、とうとう我慢の限界がきた。衝動は声を荒げるだけでは収まらずに、氾濫した川のように押し寄せたまま、声を上げて泣き始めたのだ。


英恵は呆然とした様子で、啓を見た。啓を生んだのは自分で間違いない。しかし、こんな風に感情を暴れさせる息子を、今まで見たことがなかったのだ。

小さな頃からどこか冷めたような、冷静な一面を見せることが多かった啓。自分が離婚や再婚をしたせいで周囲の子供より数歩先に大人の考えを持ってしまったのだと思っていた。そのことに関しては少しばかり申し訳ない気持ちにはなったけれど、その頃から啓を芸能の世界に飛び込ませる気でいた英恵は、むしろ好都合とさえ思っていたのだ。


しかし、きっとその答えは間違っていた。ただ、好きな女の子の目の前、いい所を見せたくて大人っぽく振る舞うようにしていただけだったのかもしれない。


十年分の勘違い。今になると、衝撃が何倍にも膨れ上がって英恵を襲った。

もし自分と夫が離婚の道を選ばなければ、啓はその想いを秘めたままでいられたのだろうか。それはもう、啓自身にもわからないことだろう。勿論、英恵にもわからない。けれど今のままではだめだと、二人とも不幸になってしまうそんな未来しか浮かばない。不健全だとまくし立てることは出来る。けれど、啓の涙や慟哭を見ているとそんな言葉さえ飲み込まれてしまったように口に出すことが出来なくなってしまった。息子が生半可な気持ちで元義娘を愛しているわけではないということが、彼の涙に全て映り込んでいる。


けれど、


「…でも、今のままじゃダメよ。結果的に、きっとあんたが苦しくなる。勿論みやだって苦しむ。そんな姿が目に見えてるのに、黙って見過ごすことは出来ないでしょう…。頭ごなしに否定することはもうしないから、ゆっくり一つずつ話をさせてちょうだい」



息子の熱い涙でリビングが溢れる。そこに少しだけ、母の涙が混じり出す。そこで英恵は今、ようやくこう考えたのだ。


「ああ、私と夫はなんてことをしてしまったのだろう」


と。

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