20.足が竦んで立ち止まれない
それが嫉妬だと気づかれたとき、果たして良い方に転ぶのか、それとも間逆の道へとひた走るのか。
啓は死刑宣告といっても過言ではない言葉を脳内で何度も反芻させながら、カメラの前では努めて冷静な目線を送り続けた。
ちょうど母のブランドとコラボレーションすることになった新曲のPV撮影が押したのもあって、数日は各地でロケをしたりとホテル暮らしを余儀なくされたのはちょうどよかった。今家に帰れと言われても、足がすくんでしまいそうな気がしたのだ。
「はい、ケイ君休憩でーす」
今日は久々にスタジオでの撮影となった。スタッフが緊張の溶けたような声を出したことに、啓は一息ついてカメラマンに礼をする。そのまま用意されているベンチに腰掛けると、常温に馴らされたミネラルウォーターを口に含んだ。携帯をこっそりと見ると、目に飛び込んできたのは日付。あれからもう、4日は経っている。
「4日…」
思わず呟いた言葉にはっとして周囲を見回したが、スタッフは忙しく駆け回っている。誰も啓の独り言に反応すること暇など、それこそないくらいであった。途端に安心したようなため息が口からこぼれ落ち、それを飲み込むようにペットボトルに口を付けた。
家に帰ることがこんなに怖かったことなど、今までになかった。
実弥子に会いたい。そんな思いばかりが先行する帰路ならば、それこそ数え切れないくらい噛みしめてきた。しかしこんなにも帰りたくないと思ったことがあっただろうか。自分の中に必死に答えを求めても、それは所詮自分の中に用意された答えしか浮かび上がってこない。
もちろん、啓自身が用意した答えはこうだ。
『実弥子に自分の想いがバレたかもしれない』
『もし、バレていたら気持ち悪がられる』
結果、
『今度こそ嫌われたかもしれない』
『もう一緒に居られない』
この世で一番好きな声に、この世で一番聞きたくない言葉を吐かれることばかり想像しては目頭が一気に熱くなり、震えそうになる。
実弥子に気持ちが悟られて離れられてしまうのと、悟られぬまま一緒に過ごすのでは、一体どちらが幸福なのか。
ここ最近よく考えるようになった、啓の脳内を浸食していく疑問だった。以前なら即座に後者を選んだだろう。たとえ自分が満足のいく形でなかったとしても、実弥子の側にいることさえ出来れば自分にとっては幸福なのだと。それより先をねだるには、少し欲が過ぎると。
しかし、実弥子が自分の知らない男と一緒にいる時、何も考えられなくなったのも事実だった。その後から沸き立ってきた、粘つく嫉妬の情。抑えきれなかった感情はより劣悪な状況のまま停戦状態だ。啓は頭を抱えざるを得ない。
もし実弥子が啓の持つ感情に気が付いたとしても、あんな醜態を晒しておいて実弥子が恋慕の情を向けてくれる可能性なんて、考えるまでもない。
『いっそ彼女の前で泣いて、縋って、全てを晒した方が楽になるのではないか??』
考えるだけ考えて、啓は思考を走らせることを止めた。想像だけで泣いてしまいそうになったからだ。刹那、染み渡るように目頭が熱くなる。
「ケイ君…?大丈夫?」
そんな中不意に聞こえた声に、啓は顔を上げた。そこには糸井がいつもと変わらない透明感を保ったまま、綺麗な形の眉を歪めて啓を見つめていた。
「ああ…うん、大丈夫」
問われた質問に対してほぼ反射のようにそう答えれば、彼女の眉が先ほどとは違う感情を織り交ぜて歪められた。心配そうに下がっていたそれが、怒りを含んだようにつり上がる。
「全然大丈夫って顔じゃないんだけど…夜、ちゃんと眠れてる?」
これもまた反射的に、肩が揺れてしまった。勿論彼女は見逃さない。少しわざとらしく腕を組みながら、啓を心配そうな目で睨みつけてくる。
「忙しいのはよくわかってるけど、寝れる時はしっかり寝なきゃだめよ。倒れちゃったら元も子もないでしょう?」
「…わかってるよ」
「もう、ケイ君のマネージャーさんって結構大変な思いしてるのね」
全然わかってないくせに、と呟く糸井をぼんやり見つめながら、ケイの思考は遙か彼方に飛び去っていた。熱気の籠もるスタジオ内、眩しいライトを先ほどより遠い位置で見つめながら、ケイは薄暗いスタジオの端で携帯を握りしめる。
無視されるのが怖くて、自分から連絡を取ることは出来ない。しかしそれと同時に不安も押し寄せるのは確かだった。
自分のいない間に実弥子があの男と会っていたらどうしようとそんなことばかり考えてしまって、夜は寝るための時間として成立しなかった。想像して恐怖して携帯を開くも臆して握りしめる。そうして寝返りを一つ。そんなことをしている間に窓の外は白んでくるのだ。啓のことを滑稽だと笑うように、光が射してくる。そんな風にして一日が始まってしまうのだから、寝不足はますます進行していく。仕事の前に最高のコンディションに持っていけないのは、あってはならないことなのはわかっている。しかし、啓の全てを動かす原動力と言っても過言ではない人に拒絶の意を示されたら、などと考えたままコンディションを頂に持っていけるほど、啓は大人ではなかった。
不意に、啓の瞼が震えた。目頭が熱くなり、音がしそうなほどじっとりと、涙が溢れる。それは見る見るうちに嵩を増やし、とうとう頬を滑って落ちた。自分でも驚いて目を見開くように力を入れたけれど、栓の開いてしまったそれを止めることなど出来なかった。小さな滴のような涙が、ポロポロと音がするように啓の頬を伝って、ベンチに座っている啓の膝にこぼれていく。
「え…け、けい、くん?」
動揺した糸井の声に顔を上げる余裕もない。啓は涙を拭うことなくポタポタと零しながら、無意識に頬の内側を噛んでいた。痛い。でも、痛いのは頬の内側だけじゃない。
こころが、いたい。
「ケイ君、ケイ君…、ちょっと、どうしたの…?」
啓の鼻腔が、糸井の付けている香水の香りが近くなったことだけ感じ取った。頬に柔らかな綿の感触がする。彼女が自身のハンカチでケイの頬を拭ってくれているようだ。しかし啓はそれを拒むこともしなければ、礼すら言えない。今彼の脳内を占めているのは目の前のソーダ水のような女性ではないのだ。
何が彼女にヤケを起こさせたかは知らないが、まっすぐ歩けないくらい酔っぱらって、自分以外の男に支えられながらなおも泣き続け、「弟のあんたに心配される筋合いなどない」と叫んでいた心の幼い彼女が、頭から離れてくれない。
いやだ。
いやだ。
お願いだから、離れていかないで。
「……っ、」
一度溢れたら止まらなくなってしまった涙と感情が、打ち寄せる波のように不安定に揺れては押し寄せた。今は仕事中だ。わかっている。わかっている。わからずやなのは、啓の両の目だけなのだ。
「あらやだ啓。何泣いてるのよ」
不意に右側から、昔から聞き慣れている声がした。誰かは、残念ながら顔を上げなくてもわかった。糸井が驚いたように声を出しながら、慌てたように立ち上がる。
「相模さん…!お、お疲れ様です」
「えぇ。アナタ、啓のスタイリストだったかしら。息子が迷惑かけてごめんなさいね」
「い、いいえ。とんでもございません…」
糸井は少し臆したように謙遜の言葉を繰り返している。英恵は一つため息を吐くと、プロデューサーの名前を大声で呼びながら何かを伝えている。そのまま「ごめんなさいねー!」と大声で叫ぶと、高いピンヒールをカツカツと鳴らして啓の元へと戻ってきた。
「啓。今日はこれでおしまい。帰るわよ」
『帰る』。この言葉に、啓は強く反応した。いやだ。まだあの家には、
帰りたくない。
「い、いやだ…」
「デカい図体してワガママ言ってんじゃないわよ。ほら、」
英恵がぐい、と強く啓の腕を引けば、啓は弱々しく抵抗する。そんな頼りない反抗心に、先に苛立ちを覚えたのは母である英恵だ。
「子供みたいなこと言ってるんじゃないわよ!私の家の方が近いんだから、そこに帰るの!!そんな目ぇ赤くしたあんたがここに居ても出来ることなんてないでしょう?!プロ失格よ、全く!!」
母の言葉は、ストレートに息子の胸に突き刺さる。啓はそのまま引きずられるように英恵の車に乗り込んだ。