19.『彼』を知る・2
「あれ、大橋さんだ。珍しいね。この時間に来るの」
お預かりしますー。と気だるそうに言いながらCDケースのロックを外す桐山さんに、途端に実弥子は全身を冷たくした。残念ながら記憶に残る自分の数々の蛮行により弟にまであれだけ迷惑掛けたのだから、桐山には一体どれほどの迷惑を掛けた事だろう。もはや考えても答えには辿りつけそうにない。
文字通り言葉どころか声も出てこなくて、実弥子は声も無いままパクパクと口を動かした。それに気がついたのか桐山は困ったように笑いながら、大丈夫?と首を傾げる。表情はいつもと変わらず何を考えているのかわからないようなぼんやりとした顔である。大して実弥子は昨日の惨事の後遺症については大丈夫だが、今の状況に関しては全く大丈夫ではない。しかしそれも伝えることは出来なくて、どうにか口から漏れ出た「あの」とか、「その」というたった数文字を桐山は「うんうん」と頷いてきながら飲み込んで、「あと10分待ってて」と、柔らかい笑顔で指示してきた。立場上頷くしかできなかった実弥子の背筋は冷たくなるばかりである。
「ごめんごめん」
15分後、何事も無かったかのように、いつもの桐山がバックヤードの中へと戻ってきた。そんな彼にほぼ条件反射で「お疲れ様です」と言ってから、実弥子は思い出したかのように冷や汗を掻く。あれだけの失態を晒した自分に用事があるというなら、それは間違いなく平謝りしなければならない用事だろう。
「あ、あの…」
「とりあえずここじゃ話できないからさ、どっか行かない? 時間大丈夫? 」
「だ、大丈夫…です」
「じゃ、行こ」
桐山はあっという間に私服に着替えると、さっさとバックヤードを出て店の自動ドアを潜っていった。実弥子はカウンターに預けていた、先ほど借りたCDを受け取りに行くと、社員さんに頑張れ、という不可解な言葉付きでレンタル用の小さなナイロンバックを受け取る。一瞬実弥子の昨夜の事情を桐山が話したのかと疑ってはみたものの、そんな空気は微塵も感じられなかった。そんな社員の言葉に実弥子は首を傾げていると、桐山がガラスの扉越しにこちらを見ているのがわかった。一応社員に礼を伝えてから、実弥子は意味もわからずにその場を後にしたのだった。
「夕飯にしては少し早いから、ここでいい?」
桐山が足を止めたのは駅前のコーヒーショップの前だった。夕暮れ時のせいか、買い物帰りの主婦や学校帰りの高校生、大学生たちが集まるカフェの喧騒は丁度良いくらいである。
カウンターで私の財布を制してくる彼の主張をどうにか蹴散らしてカフェラテを頼めば、同じものを頼んだ桐山が少しの沈黙の後に二つケーキを注文した。嫌な予感がする、と思ったが人の注文にケチをつける訳もいかず、結局実弥子のトレーには桐山が頼んだケーキの一つが行儀よく乗った。
「すっ、すいません…あの、」
「俺が誘ったんだから気にしないで。というかね、俺が食べたかったの。一人で食べるの嫌だし」
「は、はい…」
禁煙席の一番端のテーブルに着くと、桐山はケーキを一口、口に運んだ。店のポップを見る限り、今日から発売されたであろうガトーショコラのケーキ。実は実弥子も発売されたら来ようと思っていたので、ラッキーと言わざるを得ない。
「うん。やっぱ美味い。ここのケーキって結構美味いよね」
「あ、私もよく来ます。学校の帰りとか」
「毎日食べたら太るだろうけどねぇ」
「うっ…」
「冗談だよ。…嘘じゃないけど」
「うう…」
残念でした、と軽く笑った桐山がカフェラテを一口啜って、そのまま息を吐いた。実弥子は計りかねてたタイミングを的には、今、だ。
「あの、この前は本当にすいませんでした!!勝手に飲んで、酔っ払って迷惑掛けて…」
勢いそのままに思い切り頭を下げれば、自分のケーキのクリームが前髪に付きそうになった。なるべく自然にトレーを横へずらせば、桐山さんがケーキを口に運んだ気配を感じ取る。言葉がなくって、顔が上げられない。
「…とりあえず、顔上げない?俺女の子に謝らせてる最低な野郎みたいだから…もう遅いけど」
「す、すいません」
そのまま顔を上げれば、桐山は何事も無かったかのような顔でカップを口にしている。やがてカフェラテを飲み下した桐山さんが一息ついて、また口を開く。
「別に、そんなに謝らなくていいよ。酒の席にはよくあることだし。飲ませた俺も悪いし」
「す、すいません…」
「だからもういいって。というか俺はそっちについては全然気にしてないしね」
「そっち…?」
うん、と返事をした桐山がケーキにフォークを入れた。つられて実弥子も、ようやくケーキを口にする。
「うん。俺があの時イラッとしたのはそっちじゃないよ。…俺さ、今日であのバイト、最後だったんだ」
「え…?」
「ようやく本職の方の仕事が上手くいきそうなんだ。そっちに集中するために、もうあそこのバイトは辞めたの。だからあの日はセルフプロデュースの送別会だったんだよね。実は」
言ってなかったし、言う暇さえなかったけどね、と一言付け加えられる。まさかの事実に、実弥子は言葉も出ない。
「ど、どうしてもっと前に言ってくれなかったんですか…?! 」
彼の言葉は全て真摯な気持ちで受け止めようと挑んでこの場にいる実弥子でも、まさかこんな展開になるとは思っていなかった。バイト仲間の中では比較的仲がよい方だと思っていた分、何も言ってくれなかったことへのショッキングな思いが頭にべったりと貼りつく。
「…俺の本職さ、何か知ってるっけ? 」
桐山がもう大学を卒業して少し経つ人物であるのとも、何か本職があるけどそれだけでは食べていけないからという理由でバイトをしていたことも知っていた。けれどその本職が何かは、一度聞いてみたけど教えてくれなかったのである。実弥子は素直に首を横に振った。それを見た桐山さんが「だよねー」と、場に不釣り合いな程朗らかに笑った。その度に揺れる彼のウェーブ掛かった黒髪が、コーヒーショップの温かな色味を帯びた蛍光灯に反射して艶々と光った。彼はそうだ、と手をぽんと叩くと、鞄を探って手のひらサイズのシンプルな箱を手にした。
名刺入れと思しきそれの中から出てきたのはやはり一枚の名刺で、それを無言で差し出してくる。テレビドラマで見たように両手で素直に受け取ると、文字をじっくりと読んだ。
「え…事務所所属…?」
そこには聞いたことのない事務所の名前と、桐山恭輔の名前が印刷されていた。
「そう。その事務所、芸能事務所」
「えぇ…っ!?」
「俺の本職、売れないモデル」
「ええええ!? 」
「大橋さん静かに静かに」
しーっと、口元に長い人差し指を当てた桐山が辺りを見回しながら実弥子の叫び声を制した。もう遅いのに思わず両手で口を押さえながら謝れば「もう遅いよ」なんていう忠告を受ける。
「驚くのも無理ないよね。こんなのがいっぱしにモデルやってるなんて聞いたら」
びっくりさせてごめん、と頭を掻く桐山を、実弥子が改めてまじまじと見た。確かに身長が高く、スラッとした体型はモデルと言われても全く違和感がない。独特な魅力を持つ彼がいる時間を狙って来店するお客様もいれば、堂々と連絡先を渡したり上がりの時間を聞いてくる人もいるようだった。全てを緩い雰囲気であしらう様はよく見ていたけど、まさかその魅力を商売にしている人だとは思わなかったのである。
「い、いえ…びっくりしましたけど、なんとなく納得です。桐山さん、かっこいいですし…」
「おお、大橋さんからそんな言葉出てくるとは思わなかったよ。ありがとう」
なんか大橋さんに言われると恥ずかしいかも、と桐山は情けない表情で頭を掻いた。
「でね。俺、この前大きい仕事のオーディションに受かったんだ。そっちに集中する為に、バイトは終わり」
「す、すごい!!おめでとうございます!!」
「ありがとう」
正当な理由でしょ?と笑う桐山は、あのレンタルショップのカウンターに立っている時よりも数倍輝いて見える。
ふと、実弥子の脳裏に、母のブランドがメンズを出すと知った時の啓の嬉しそうな表情が蘇ってきた。あの頃の実弥子は啓の仕事にほとんど興味なくて、ただぼんやりと時を過ごしていたように思う。もったいなかったと、今は後悔している。後悔出来る。
どんな仕事をするんですか?いつからですか?なんて安易な質問を重ねる実弥子に、桐山はまた一つ違う笑みを浮かべて口を開いた。
「ごめんね大橋さん。興味持ってくれるのは嬉しいんだけど、まだ本題話してないんだ」
「あ…すいま、せん」
はしゃぎ過ぎた実弥子を諌めるように、桐山の言葉が深く刺さった。
意地悪な笑みを浮かべる桐山と対面するのは、実弥子にとってこれが二度目だった。一度目は泥酔したあの時、そして今だ。緊張しだした掌をスカートで擦るように、両膝に手を置いて、実弥子は佇まいを直した。もう中々会うことが出来なくなるかもしれない人に叱られるのは少し寂しいけれど、自分がしてしまったことを考えたら仕方ないことなのだ。無意識に、背筋を伸ばす。しかしそんな実弥子に気がついた桐山は緩やかに首を振った。
「全然。でね。俺、今日言ったことをあの日、大橋さんに伝えようと思ったんだけどさ、大橋さん弟君のことで嫌なことあったばっかりだったでしょ?俺の話が出来なかったんだ」
そうだったのか、と思えば思うほど、申し訳なくなってくる。すいません、と実弥子が、頭を下げようとした瞬間だった。
「嫉妬したんだ、俺。大橋さんの弟に」
「…え?」
「だからあんなに冷たい態度取った。ごめんね」
「…あ、あの、」
「でもどうしても大橋さんには知っておいてほしくて。今日会えてよかったよ。連絡しようと思ってたんだけど、あんな冷たい態度取った後だったからさすがの俺でも連絡取りにくくてね」
桐山が困ったような表情を浮かべてから、そのまま立ち上がった。頭に詰まった困惑塊が重く、実弥子はその場から動けない。なんとか目だけを動かして立ち上がった彼を見れば、彼も困ったように眉を寄せていた。しかし、その口元は笑っている。その表情がなんだか、目に焼き付くように実弥子の頭に貼り付いた。一瞬で枯れた喉でなんとか、あの、と声を発してみるも、桐山の耳には届かなかったように席を立ち、トレーを片づけている。その動きがスローモーションに見えて、目眩がした。
桐山の声が、頭上の高い所から惜しみなく降ってくる。
「じゃあ、これから俺忙しくなるからまたいつか飲みに行こう。この前と、今日、それから今までどうもありがとうね。じゃあ」
「ま、ま、待って、ください…!」
なんとか声が出た。桐山がぴたりと動きを止める。
「あ、あの、私はどうすればいいんですか…?」
「さっきのはどういう意味ですか」と聞くつもりだった。しかし混乱に達した実弥子の口から出た言葉は、全く会話になっていない一文で、そんな情けない自分にまたも涙腺が刺激されていく。一方桐山は、実弥子をじっと見つめた後、何秒か動きを止めてから、いつもバイト先のカウンターで見せるような笑顔を見せてくる。彼の独特な雰囲気が一層引き立つような、綺麗な笑み。そして彼はそのまま、口を開いた。
「何年か掛かってもいいからさ、」
「……??」
「バタースカッチよりも上に、俺を置いてよ」
「え?え?あの、どういう…」
「大橋さん俺はね、バタースカッチに勝ちたい。その為にも、一旦雲隠れするんだ。…また、会おうね」
じゃ、と言ったか言わないか。それすらも記憶に危うい。けれどはっきり分かったのは、最後の笑顔はわざとだ。わざと、あんな不自然な笑顔を見せてきた。そこまではわかった。彼の計算が故の笑顔だってことも。しかし駆け引きなんてもっとも苦手な部類に属する実弥子には、到底そこまでしか分からない。
動揺しているのが自分でも分かるほど目が泳いだ。ただ突いたら面白そうな実弥子で遊んだだけかもしれない。そんな可能性だって、桐山の本性から見るになくはないだろう。
しかし、もし違ったら?あれが、彼の本音だとしたら?
頭の中で完成したパズルが全部ひっくり返されたような感覚に実弥子は怖気づいた。一体どこから考え直して。どこから組み立てていいか解らなくて、途方に暮れる。彼の目的と、真意と、願望と、希望と。全てが判らないまま、彼は半ば無理やりその蓋を閉じたのだった。