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18.『彼』を知る・1

頭の痛みで、実弥子は目を覚ました。 

うっすらと目を開こうとすると、瞼が異様に重たい。意識して思い切り開こうとしても、瞼の方が上がっていかないのだ。そこで気が付いた。鏡を見なくても分かる。昨夜泣きすぎて瞼が腫れているのだ。

 そこで実弥子は一気に鏡を見る気を無くした。これだけ目が開かないということは、もう今日中に修復は不可能であることは間違いない。しかし、修復不可能なのは実弥子の瞼だけではなかった。


「どうしよう…」


 呟いたつもりでいたけれど、その声は殆ど出て来なかった。乾いた喉を冷たい空気が通り抜け、ひりひりと痛む。水が欲しくて、ふらつくような足取りで部屋の扉を開ければ、そこには弟の気配がない、いつも通りのリビングがそこにあった。いつも通りのソファーに、いつも通りの窓の外。重たい体のせいで、実弥子だけ別世界にいるような不思議な感覚がよぎる。そんな感覚を抱えたままおもむろに水道に手を伸ばせば、視界に中身のないコーヒーメーカーが目に入った。いつもは実弥子がカフェオレを飲む分だけ残しておいてくれるのに、そこにはつるりときれいなガラスの容器。


「……」


無性に泣きたくなってしまって、実弥子は震えそうな瞼を閉じた。コーヒーが残ってないことにショックを受けているわけではない。啓が怒っていると言う事実が目に見えて解るこの現状にショックを受けているのだ。実弥子はそのまま朝食は水と、焼かなかったせいで少し噛みにくい食パンだけで終わらせた。


ソファーの上で寝転がりながら、実弥子は気が付けば昨夜のことを考えていた。

あの時は自分のことで精いっぱいで、弟の抱えた真意に気が付けなかったが、深夜に家の周りを探しに来てくれたのは心配してくれたからに他ならないではないか。

啓は怒っているのは間違いない。実弥子が酔っぱらって情けない姿を他人に見せたことに対しての恥辱からする怒りと、遅くまで家に帰らなかったことによって啓を心配させたことに対する怒り。しかしそこには怒りの感情だけではなく心配の念も込められていたというのに、実弥子はその優しさを勘違いして、癇癪を起こした。それこそ啓の姉である自覚があるのかと、今の実弥子ならあの時の自分に鋭い言葉を突きつけられるだろう。


アルコールのせいにしてしまえば、責任を全てそれに押しつけられるかもしれないと一瞬でも思ってしまったのは、結果的に嫌悪感と更なる反省しか湧いてこなかった。

「今日は啓、仕事なのかな…」


 コーヒーが残っていないことよりも、テーブルの上にメモがないことの方がショックで、実弥子は無駄なことだと思いつつもリビングをぐるりと見回して彼が何かしらの痕跡を残していないかを探した。しかし、勿論何も見つからない。そんなことに寂しさを感じた実弥子の瞼はやがてじわじわと涙が滲んでいく。一度泣いてしまうと完全に泣きやむまで時間が掛かるのは、いつものことであった。

何度も一番悲しくなった瞬間を思い出しては、自分のことをわかってもらえなかったショックで瞼を滲ませる。悪い癖だとは思っていても、そんなに切り替えが上手ではない人もいるのだから許して欲しいなんて不貞腐れると、また自己嫌悪で目が熱くなるの繰り返しなのだ。

 キッチンのシンクに食パンの粉のついた皿と水を飲み終えたカップを置いて、冷凍庫に眠る保冷剤を手にソファーへと寝転がった。目を治そうと思ったことは、実弥子にとっては前向きに考えた証拠である。タオルに包んだ保冷剤が柔らかくなる頃には、自身が抱える陰鬱とした気持ちも柔らかくなっていることを祈った。


 


ふと目が覚めてから窓の外を見れば、濃い橙色の太陽が薄いレースのカーテン越しに低い角度でこちらを見ていた。一つ唸ってそろそろと身体をよじれば実弥子を再び襲う鈍い頭痛。しかし朝とは違う種類の頭痛であることはわかっている。単純に、寝すぎたのである。コチコチと時計の針の音が部屋に響くほどの静寂に身体を起こして時計を見れば、時刻は既に夕方を迎えており、夕食の準備をしなければならない時間が差し迫っていた。実弥子は一度携帯を開く。そこには勿論啓からの着信もメールもない。わかりきっていたことだが、一応確認したかったのだ。

 睡眠を取ったおかげか頭痛と反比例するように、頭の中は妙にすっきりしていた。そうしてそのすっきりとした頭で考えついたことは、啓が帰ってきたらまっすぐに謝ればいいという、単純なことだった。その影に爽やかなボブカットが揺れる糸井が見え隠れする上に、悔しい思いも何かを噛み締めたように滲んでくる。けれど泣くだけ泣いて落ち込むまで落ち込んだ実弥子の脳は、もう考えたって仕方がないという極論にまで達していた。極論と言えば聞こえはいいが、端的に言うと開き直ったのだ。 


あれだけ意地を張ったけれど、現実問題、実弥子は最近の啓のことをなんにもわかっていないことが今回の事で露呈した。朝ご飯はご飯派なのかパン派なのかから始まって、今どんな仕事をしているのか、どんな交友関係を持っているのか。変に膜を張って啓のことを知っていると思ってたそれを破いてしまえば、こんなに質問が浮かんでくる。それをわかっている振りをして知ろうとしなかったのは、実弥子なのだ。

実弥子は一言「よし」と呟くと、勢いよく顔を上げた。知らないのなら、今から知る努力を始めればいい。でもやっぱり情けなくまた少し滲んできた涙を、溶けた保冷剤の水滴を吸って少し重くなっているタオルで拭った。今の自分の様子なら、もう涙が出ることもないだろう。

実弥子は足にしっかり力を入れてソファーから飛び起きた。その足で洗面所に行けば、なんとか見るに耐えないレベルから脱出した自身の瞼と目が合う。これなら出かけられると判断して部屋へと着替えに走ったのだった。



家を出る頃には、すっかり夕日が辺りを包んでいるせいで外の風景は穏やかな色を放っていた。リビングには一応、メモを残しておく。おそらく実弥子が帰るまでには戻ってこないであろう弟に向けた一枚のメモには、買い物に行ってくる、ということを書いておいた。ほんの少し丁寧に書いた文字と、小さく添えた「ごめんね」の文字。もしかしたら啓が読まないかもしれないけれど、それはそれで構わない。自分の中で心を整理するためにも書いておきたかったのだ。


駅前を目指して歩を進めれば、やがて昨夜桐山と別れたであろうコンビニの前へたどり着く。自身の記憶が正しければ、確かここで啓が実弥子を捜しに来て、そのままどうしようもない泥酔状態の自分を家まで背負って帰ってくれたのである。今思い出すととんでもなく恥ずかしいけれど、残念ながら事実だ。


 家からコンビニまでは決して遠くはないが、決して近くもない。極めつけに決して軽くはないであろう実弥子を背負ったせいで、どこか痛めてないか不意に心配になった。仕事に差し障っていないだろうかと不安になるけれど、今更後悔したって遅い。それもこれも全部啓が帰ってきたら謝ろうと、実弥子は胸に決める。けれどどうしても昨日の惨事がフラッシュバックしてしまう。実弥子は恥ずかしさの余り一瞬目を思い切り閉じてそのコンビニをやり過ごした。無意識に早足になったせいで道の窪みに足を取られそうになったけれど、なんとかやり過ごしてその場を後にしたのである。


 夕方の駅前は、いつもと同じ喧騒と穏やかさをまとったまま、ゆっくりとした時間が流れていた。スーパーや商店街の入り口は夕飯の食材を買い求める主婦たちのおかげで少しだけ活気が付き始めている。その流れに上手に流されながら本屋に寄って、実弥子は雑誌コーナーにたどり着いた。そこからファッション雑誌を一冊引出しパラパラとめくってみれば、目標はいとも簡単に見つかった。

 そこには啓が以前したキャラメルの広告が載っていた。白いシャツと黒い衣装を着た啓がケイの顔をしてキャラメルをかじっている。その雑誌のページの両脇に二人のケイが向き合うようにレイアウトされた広告の真ん中には、『どっちが好き?』と書かれたキャッチコピーが載っていた。


不意に実弥子は、桐山がキャラメルを買ってくれたことや、どこかいつもと違う雰囲気を抱えた彼が冷たい口調で言った言葉を思い出していた。 あの時の言葉を鮮明に思い出すことは出来ないけれど、一瞬感じたケイへの嫌悪感。その正体は結局掴めていない。掴む必要など全くないのだが、一度ケイのことが気になるとそこから水に落した一滴の絵の具のように気になることが増えていく。今度桐山に、ケイについて何か聞いてみようと実弥子は思った。


そのまま目線を再度雑誌に落とし、誌面に写る二人のケイを見つめる。白いシャツの爽やかなケイと、黒い衣装の色気付いたケイ。客観的に見てみようと目を細めてその広告を見てみるけれど、家にいる時よりもスッと伸びた背筋に、少しばかり貼り付けたような笑顔。目元は計算されたように良い形をしていて、顎や首のラインが男の子っぽさをより演出している。第三者の目線で見れば、ケイはかっこいい。けれど姉の目線で見ればやっぱりケイは啓で、だけど啓はケイじゃない。だんだんと自分でもよくわからなくなるような哲学的な感想しか浮かばなかった。


 そんな自分でも疑問符しか散らせないような哲学の中から一つ言えたのは、自分はケイよりも啓の方が好きだと思うことだろう。こんな余所行きの顔よりも、家で実弥子に悪戯を仕掛けて楽しそうにしている方がずっといい。情けない顔して疲れた、と零している方がいい。実弥子を全然姉として敬ってなさそうなのに、いつもきちんと「姉さん」と呼んでくれる彼の方が、いい。


一つ納得をしてその雑誌を閉じた。


 その雑誌はそれ以上の成果はなく、今度はおもむろに音楽雑誌を手にする。後ろの方に照準を寄せてページを軽くめくれば、やはりここでも彼の姿を見つけることが出来た。

記事によると、どうやらまた歌をリリースするらしい。三枚目となる彼のシングルは何かとコラボレーションをするらしいが、雑誌にはそれしか書かれていなかった。きっと、まだまだ先のことになる、ということだろう。

今までなら軽い返事一つで納得していたような情報でも、今の実弥子からすれば歯痒く感じる程度の情報だった。ファンの子であるならばその想いもひとしおだろう。でも知らなかったことを一つ知れたことは、実弥子にとって見れば大きな成果だ。

 結局雑誌を買うまでの情報は得られず、実弥子は本屋を出た。そしてその足を今度は大通りに向ける。行き先は決まっていた。バイト先のレンタルCDショップだ。自動ドアの前に立てば、妙に元気な声で店員の挨拶が聞こえてきた。


いらっしゃいませーとよく通る、時間が合わないせいで見たことのない仕事仲間への挨拶もそこそこに、実弥子は真っ先にシングルCDのランキングが並ぶ棚まで床にまっすぐな線を引くように歩いた。

実弥子の身長よりもっと高くそびえる棚の左上の方に見える、見慣れているようで全然見慣れていない弟の姿。ケイが黒い衣装を着て写っているジャケットを持つ彼のセカンドシングルは、レンタルを開始ばかりしたなのもあるのか随分と上位に位置していた。


実弥子は少し背伸びして、固いCDケースを手にしてみる。そのジャケットをじっと見つめてみれば、目の前で艶のある表情をする弟がだんだんと別人に見えてきて、無意識に頭を振った。


バイト中に時折流れてくるサビしか知らないケイのセカンドシングル。声も普段と少し違うせいでどうにも違和感があったが、けれどこれも実弥子が知らない弟の一部分だ。それを知るにはいい媒体だ、と自分を納得させ、実弥子はそのままカウンターへと足を運んだのである。


カウンターへ着いた後カードを出そうとすると妙に慌ててしまうから、歩きながら財布を開き、会員カードをカウンターに、CDと一緒に置いた。間髪入れずにいらっしゃいませー。と聞こえた声に顔を上げて挨拶をしようと口を開く直前で、残念ながら聞き慣れている声であることを思い出してしまい、実弥子は文字通り固まらざるを得なくなった。


桐山恭輔がそこにいたのである。


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