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17.根こそぎ掠め取って・2

マンションのエントランスが柔らかな光を湛えながら二人をを出迎えるのをぼんやりと見つめながら、啓は実弥子を背負っているせいで見えない腕時計に意識を向けた。今は一体何時なんだろうか。啓が家を飛びたしてから、恐らく大した時間は経っていない。けれど気が遠くなる程の時間を費やしたような感覚が、啓を離さんとばかりに包み込んでいた。それだけ心身ともに疲れている。


それは実弥子を背負って帰ってきたから、というのもあるかもしれないが、それ以上に疲れている頭や心が疲労を訴えているはずなのに、どこかで何かが激しく暴れまわっているような感覚は離れてくれなかった。沸騰した水がやかんの蓋を持ち上げるように忙しない頭の中をどうにか整理しようと足掻きながら、背中で未だ頻繁に鼻をすすっている実弥子に、啓は首が回る所まで顔を向ける。勿論彼女の表情は見えないけれど、啓の肩に手を置かずにその辺りの服を強く握っている手の感覚から察するに、まだ涙は止まらないようだ。


啓が知る実弥子は、昔から泣き虫だった。子供の頃はよく泥だらけになって遊んで帰ってきて英恵に叱られて、啓の分までいつも泣いていたはずだ。もう少し大きくなってからは啓を連れて歩くのに飽きてしまったであろう実弥子がいつもいつも男の集団に混じってあちこち傷を作って遊んでいたのが習い事を重ねていた啓には少し羨ましい反面、この頃から既に彼女を姉として見られなくなってきていた啓は幼心に心配で仕方なかった。


まだ小学生の半ば辺りだったにも関わらず、啓は嫉妬という感覚を知っていた。勿論その頃は自覚などない。しかし実弥子が男に混じって遊んでいることに嫌悪を抱いていたのは確かだった。どうにかして止めて欲しいけれど、一体どう言ったらいいかまではわからなかった、仕方なしに啓はいつも「また男の子と遊んだの?」などと嫌味ったらしく言っていたものだった。


その頃になると英恵に怒られたくらいでは泣かなくなった実弥子だったが、それより更に成長しても、流石に十年一緒に暮らした両親が離れる時は、自分の意思とは全く無関係に涙が出る。と形容出来そう程の涙を零していた。しかし啓はというと、その場でどう発言すれば実弥子と離れずに済むかを模索することに必死だったせいで、涙を零す暇もなければ泣く理由もなかったのである。


思えば、その頃から既に啓は実弥子の涙はわりと見慣れていた。勿論彼女の涙には弱いことは確かである。涙目で何かをおねだりされれば否が応にも叶えてあげたくなってしまうだろう。そしてもし、また何か泣く事があっても優しく慰める役は自分だけのものだと思っていた。実弥子に泣き止むような言葉を掛けられるのは啓自身だけで、その涙の意味を理解出来る唯一の存在だと信じて疑わなかったというのに。


啓は、苛立ちを隠せないでいた。

その苛立ちの対象は、未だ背中で燻るように泣く実弥子である。理由は単純であり、また明解だ。啓の預かり知らない所で別の男の前で泣いているのが気に入らない。勿論彼女を何らかの形で泣かせたあの男にも苛立ちは募るどころか火柱を上げているし、無責任な事を吐かして去って行った行動も酷く気に入らない。けれどそれ以上に、そんな男の前でこんなにも無防備になったことと、男の前でこんなにも泣いている実弥子、の誰にでも見せてしまう弱さが、とても気に入らなかった。


啓は、深い深いため息を一つ吐いた。彼女に向かってわざと苛立ちを見せるようにすると、背中の実弥子が、少し反応した。啓の思惑通り、自分が怒っていることが理解出来たのだろう。すると突如エレベーターの前で、実弥子が啓の背中を降りると愚図り始めた。勿論そんなもの予想の範囲内の彼は煩いと彼女を一蹴し、黙らせる。それが引き金になったのか、そこからまたしゃくりを上げ始めた実弥子を啓は背中と耳で感じると、少しばかりの罪悪感に襲われる。泣かせたいわけではないのだ。ただ、あの男に弱い所を見せたのが気に食わないだけなのだから。しかしそんな啓の感情に気付くはずのない実弥子はまた一つ。弱弱しい声で唸って、額を啓の背中に押し付けた。


「ちょっと鍵取って」


エレベーターを降りてから、啓は背中の実弥子に声を掛ける。生憎両手は彼女の膝裏を抱えるので精一杯な為、パーカーのポケットに手が届かない。こっち、とポケットの右側を首で示してやれば、少し怯えたような、のろのろとした動作で啓のポケットに手を入れて、鍵を肩越しに差し出してくる。彼の両手が塞がっていることを、アルコールと涙で侵食された脳では瞬時に忘れてしまったらしい。わざとそこからまた数歩進んで少し屈む啓の動作でやっと気がついたのか、少したどたどしい手で彼女は鍵穴を捻った。そのままドアノブを回してくれたので、あとは啓が足を使って器用に中へ入る。玄関の電気はつけっぱなし、出かける際に慌てて奥の方に置いてあったサンダルを履いたせいか、手前にあった自分のスニーカーや姉さんのパンプスは一暴れしたかのように飛び散っていた。これを見ただけでも、いかに自分が慌てていたかがわかる。


「もう、おりる…」


不意に実弥子が背中越しに、先ほどより一層弱った声音を吐き出してきた。対して啓は先ほどと変わらない、怒ったような声音で彼女の言い分をもう一度一蹴する。


「玄関で寝られたら困るんだよ。ほら、いいから靴脱げ」


何度も己の主張を却下され続け、いい加減観念したのだろう。啓におぶさったままブラブラと足を揺らして落とすように靴を脱ぐ実弥子を気配で感じ取りながら、サンダルを後ろに蹴り上げるように脱いで、啓はリビングにたどり着いた。腕の怠さは拭い去れないが、啓はなるべくゆっくりとした動作で、後ろにへばりつく彼女をソファーに座らせるように腰を落とした。実弥子が手を離した途端に軽くなる啓の背中と腕。しかし肝心な部分は、ちっとも軽くなってなどくれないのである。


「ほら、水」


その募る苛立ちをどうにか散らせたくて、キッチンへ向かってグラスに汲んだ水を実弥子に差し出せば、涙で腫れた目をぼんやりと上げ、ほとんど力が入っていないような腕を伸ばしてきた。その危なっかしい手つきに普段ならば一言注意してしっかりとグラスを握らせるまで世話してやるが、今回はそんな余裕などなかった。彼女の手からグラスが離れる直前に押しつけるようにすれば、案の定アルコールと今まで俺の背中にへばりついていたせいで失われた彼女の握力は、あっという間にグラスを床へと吸い込ませていった。


「あ…っ、」


泣きすぎて鼻声な彼女の口から出た反射的な言葉は何の役にも立たず、グラスは床へと真っ逆さまに落ちた。啓が全てを見越してわざとグラスいっぱいに水を汲んでこなかったのが功を奏したのか、床への被害はごく少量である。


啓は、動かない。実弥子もアルコールと涙で犯された脳じゃまともな反応は出来ないことを悟ったのか、グラスを拾おうともせずにそのままソファーの上に膝を抱えて座った。涙は止まったようであるも、何故泣いているのかは知ったことではないと言ってしまいたい。あんな男の前でメソメソと泣いた理由なんて、啓は聞きたくもなかった。しかし、


「…なんで泣いてんだよ」


普段より何倍も低いだろう声を引きずり出して聞くと、彼女の薄い肩が跳ねた。怒られると思っているのかはたまた純粋に驚いたのかは、彼女しか知らない。


「聞いてんの?」


もう一度、啓は彼女の返答も待たずに感情のままに挑発するように言うと、実弥子からは小さく「聞いてるもん…」と拗ねた返答が返ってきた。まるでお互いの年齢が逆になってしまったようだ。このまま問いつめても、啓が満足出来るような回答が返ってこないことなど目に見えている。しかし今の啓には、まず彼女を落ち着かせてから話させるなんてことは出来そうにない。その煮えきらない態度に、衝動そのまま先に動いてしまったのは予想通り、啓からだった。


「なぁ、わかってんの?俺めちゃくちゃ心配したんだけど。手紙もない連絡もない、挙げ句の果てに俺の知らない男に連れられて泥酔状態?馬鹿なんじゃないの?」


面と向かって乱暴とも言える言葉を吐いたが、実弥子からは薄いリアクションしか返ってこなかった。つまり彼女は今日の行為が女としていかに愚かな行為か解っていなかったのだ。それが更に啓の苛立ちを増長させる。一旦点いた火はもう、消えない。


「俺があの時来なかったらどうなってたか分かんないだろ!?あの男の家に連れ込まれてたかも知れないんだぞ!なぁ、それ自覚してんの?女なんだから少しは余所の男に警戒心持てって言ってんだよ!!」 


実際に口にした途端、啓の背筋を冷たい何かが通り過ぎる。そう、もしあの時啓が実弥子を見つけていなかったら、あの桐山という男の家に連れ込まれていたかもしれない。考えるだけで、全身を掻きむしりたくなるような衝動に襲われた。そう思えば思うほど実弥子を責め立てる言葉は止まらない。啓は既に、アルコールとは違う何かで脳を浸食されていた。

目の前など、とうの昔から赤く染まったままである。


「だいたい何で男と二人っきりで飲みになんて行ってんの!?そうやって向こうに期待を持たすようなことしてんじゃねーよ!!」


そんな啓の言葉に、とうとう実弥子が癇癪を起すように叫んだ。


「もう!うるさいうるさいうるさい!!」


実弥子がソファに上げていた足を思い切り地面に叩きつけて、その反動のままに立ち上がった。既に赤く腫れ上がったその目からはまた涙を溢れさせ、頬は先ほどより一層涙の筋を作っている。しかし言葉は獰猛に、啓に牙を剥いていた。


「なんで啓にそんなこと言われなくちゃいけないのよ!!私が勝手に飲もうが何しようが勝手じゃない!なんでそこまで言われなきゃ…いけないの!?」


「だから、心配させんなって言ってんだよ!!あんな男と二人で飲みに行ったのがそもそもの元凶なんじゃねーのかよ!!」


「あんたに心配してもらう筋合いなんかない!!」


瞬間、啓は凍り付いた。実弥子は涙声を更にひどくしながら、叫ぶように言葉を続ける。


「そうだよ!なんで弟のあんたがそんなこと心配する必要があるの?私の方が年上でお姉ちゃんなんだから、あんたに心配なんかしてもらわなくてもいい!!今回だって何にも…何にも知らないくせに!知った風な口利かないでよ!!」


もういい!!と両腕を思い切り空で振り下ろすと、実弥子は自分の部屋へとふらついた、しかしどこか荒々しい足取りで戻って行ってしまった。激しい音を立てて閉まった部屋の扉。しかし直後に声を出して泣いているのが、まるで扉なんてないかのように聞こえてくる。一方啓はというと、今そこに立っているのが精一杯だった。

彼女の言葉は、酔いに任せた一言だった。

啓の言葉に対して意地になって言った言葉だった。

頭では解っている。

だけど、


「弟のあんたが、そんなこと心配する必要があるの…は、言うなよ…」


当たり前に傍にあった事実で、けれどどこか期待していたせいで見ようとしていなかった事実だった。実弥子にとって啓の存在がまだ、弟以上でも以下でもない。そんな真実を、啓はナイフの切っ先を眼前に突き付けられたように噛みしめさせられた。処理しきれない哀愁めいた衝動が、啓の中で、苦しみながら暴れ回っている。


「くそ、くそっ…」


先ほど、どうしても聞けなかったことだ。苛立ちで煮えたぎった頭でも、「姉さんはあの男のこと、気になってんの?」という言葉だけは避けたのは、単純に怖かったからだ。今もその恐怖が拭えない。思い切り噛みしめた下唇からは、血の味がした。しかし、そんなのも気にならない程の痛みが啓を襲っている。どこが痛いのか、他人には説明し難く、けれど自分では一番わかりやすい痛み。嫉妬、後悔、悔恨、全てを抱え込む胸が、痛くて仕方ない。


そのまま啓は半分無意識に、自室の扉を開けてベッドに寝転んだ。壁を隔てた隣からは、深夜の静まり返った空気のせいで、小さくすすり泣くような声が聞こえている。啓自身もパンクしそうな頭をどこかへやりたくて、半ば強引に眠ろうと目を閉じようとして思い出した。



確か昨日は、実弥子が一晩、このベッドで寝たのだ。



途端に熱くなる体と、シーツに残っているかもしれない彼女の香りを探して寝返りを打った自分に嫌気が射す。けれど高く鳴っている心臓なんて無視したかった。自分でもどうしたらいいか解らないほど、感情が混ざる。苦しい。怖い。悲しい。辛い。けれど、甘い。


「助けて…」


無意識に呟く。瞬きをした瞬間に零れた涙は枕が器用に吸い取った。

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