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16.根こそぎ掠め取って・1

 ダンスのレッスン帰りに啓の携帯に来ていたメールは糸井から来ている一件だけだった。昨日今日のお礼との後に次も機会があれば、なんて言葉が添えてあったのだけれど、それは見なかったふりをして当たり障りのない返信をした。

正直に答えると、もう来て欲しくないというのが本音だ。糸井の女性としての面が苦手なのもあるが、それよりも実弥子が気を遣いすぎてしまうと思ったからだった。

糸井は名実共に啓の仕事のパートナーである。そんな彼女と実弥子が二人きりになるなんて、緊張するに決まっている。第一、あまりあの家に他の人間が容易に入ってくるのは啓自身が嫌悪を感じる。実弥子と自分だけの空間を、啓は何より愛している。


 啓はメールの返信を終えた携帯をポケットにしまうと、マンションのエントランスをくぐった。もう夕飯の時間に差し掛かりそうである。啓が知る限り、実弥子は今日完全の休日だったはずだから家にいるだろうと、啓はわざと玄関の外でインターフォンを押した。鍵を出すのが面倒だったとか言っておけば、少しばかり察しの甘い実弥子には怪しまれないだろう。彼女からの「おかえり」が欲しいからという真実は、きっと上手に隠れてしまう。

 しかしいくら待って誰も出てくる気配などなく、啓は思わず首を傾げた。もしかしたら自分のベッドじゃなかったせいで昨日は眠れなくて今、寝入ってるのだろうかと考えを、巡らせた。人よりも少し繊細な部分がある実弥子である。その可能性は十分にあった。

啓は一つ小さな溜息を吐いてから鞄を探って鍵を取り出すと、鍵穴に差して軽く捻った。妙に響いた扉を開錠する音にまた違和感を抱きながら玄関に足を踏み入れると、中は真っ暗で人のいる気配がしない。

夕飯の買い物にでも行っているのだろうかと、啓は再び首を傾げながらリビングへと足を運ぶ。キッチンは片づいていて、リビングもいつもと変わらない雰囲気を醸し出している。それが何故逆に啓を不安の渦に巻き込み、そんな不安感をかき消すように携帯を一度確認する。勿論着信はおろかメールすら入っていない。

テーブルをくまなく眺めても、お目当ての手紙などは出てこなかった。ほんの少しの不安がやがて広がり始め啓の胸を支配し始めるけれど、どこかへ少し出かけているだけだと自分に言い聞かせた。念の為実弥子の部屋も啓の部屋も扉を開けてみたけれど、やっぱりそこに、啓の愛する影は見当たらなかった。




 時計をちらりと窺うのは、もう何度目になるのだろう。時計は既に23時を知らせているというのに、玄関から実弥子の声で「ただいま」という声が聞こえてこない。数時間前に作った夕飯はラップに掛けたまま、もう何時間そこにいるのだろう。先に食べることも考えたが、喉に通らない気がして手が付けられなかった。結局二人分の夕飯が力なくその場に居座っている。携帯をチェックする回数は時計を見る回数を越えているのではないかと思う。我慢できずにメールを一件、着信を一件残してはみたけれど勿論返答はない。啓の背中を、嫌な汗が伝った。


実弥子の帰りが遅いことなど、バイト以外にはほとんどないと言っても過言ではない。啓がこんなに不安で押し潰されそうになるのは、実弥子と一緒に住み初めてからは初めてだった。

啓の憶測に過ぎないが、恐らく頑なな程に家族の形を願う彼女は『弟』である啓に寂しい思いをさせまいと、大学の友人達ともあまり羽目を外さないよう努めてきたに違いない。それに関しては、啓にとってはいっそ好都合だった。自分の知らない所で他の男とどうにかなる機会がぐっと減るのだから、彼女の思い込みをいっそ思い切り利用させてもらっていた。

いつだったか啓は、「お帰り」といつものように言ってきた実弥子にわざと嬉しそうな表情を浮かべて小さく礼を言った事があった。その時の彼女の、自分の演技で表現した嬉しそうな笑顔では到底かなわないような微笑みは啓の瞼にしっかりと焼き付いている。その顔が見たかった、といっそ厭らしく笑ったくらいである。

 だから、この状況に啓が動揺するのは仕方ない事だった。もう一度時計を不安そうな瞳を隠さずに臨む。時間は先程より15分過ぎた所だ。再度携帯を見るも、相変わらず沈黙を守っている。啓の中で、あっという間に限界が訪れた。


 テーブルの上に投げていた変装用の眼鏡と、ソファーの上に放っていたパーカーを手にして、啓は玄関を出た。眼鏡をしてパーカーのフードを被れば近所を出歩くには丁度いい変装だろう。鍵と携帯、それから念の為財布を持ったことを確認して外へと繰り出す。こうなっては形振りなど構わない。なんとか連絡が取れないかと何度も着信をしてみるけれど、やはり返答はなかった。不安が更に啓を押しつぶしては圧迫してくる。マンションを出て辺りを見回すも、人の影すら見当たらない。とにかくガムシャラに足を進めていけば、家から一番近いコンビニに辿りついた。寄ってみるも実弥子はいなかった。携帯で何度目か着信を試みていると、コンビニの外から男女が寄り添うように歩く影が見えた。コンビニの中が明るいせいでしっかりとは見えないが、女の方のシルエットは見覚えがあった。目を凝らす。間違いない。


「姉さん!!」


 コンビニをすぐに出て、時間帯も気にせず叫ぶように近寄った。そんな啓の声に気がついたのは男の方が早く、こちらを向きはしたが特に驚いたような表情も見せず啓を見ている。しかし啓の視界には彼の事など入らなかった。横にいる実弥子の足下はややおぼつかない様子で男に寄りかかって漸く立っているようだった。瞬間啓の目の前は怒りで真っ赤になるけれど、どうにかそれを押さえながら実弥子の両肩を掴んだ。


「おい、姉さん!!」


もう一度彼女を呼ぶと、実弥子はゆっくりとした動作で俯いていた顔を上げた。その目は明らかに酔っているのと同時に、泣きはらした跡が見受けられた。瞬間的に男から彼女を引き離すと、今度は男の方を見た。見た、というよりは本能的に強く睨んだ。長身で痩せた体型をした、鼻筋の通った精悍な顔付き。黒髪に緩いウェーブのかかった髪はその男の持つ独特な雰囲気を更に濃くしている。誰だこいつはと、啓は警戒を強める。


「あーよかったよかった。俺大橋さんの家までの道ここまでしか知らないんだ。君が大橋さんの弟君?」


「そうだけど、あんた誰だよ。なんで姉さんこんなに酔ってんの?」


啓の口調に、自然と棘が生えた。実弥子はまだ涙を止められないのか、苦しそうに鼻を啜りながら呼吸を重ねていた。


「俺は桐山恭輔。大橋さんのバイト仲間だよ。大橋さんが自分でがぶがぶ飲んでそんな風になったんだけど、止めなかったのは俺だからね。すまなかった」


本当にすまないと思っているかはわからない表情で緩く答えた桐山という男は、実弥子の肩をぽんと叩くとじゃあね、また。と言う言葉を残して去ろうとしている。啓の怒りは頂点に達した。男の肩を乱暴に掴んで、強く引いた。声も自然と荒くなる。深夜だということと自分が芸能人だということは、もはや啓の意識の中から飛んでしまっていた。


「待てよ!あんた、人の姉貴こんなになるまで放って置いてそれだけかよ!!」


啓の荒げた声を聞いて、コンビニから出てきた客が驚いたようにこちらを見ているのが視界に入った気がしたけれど、啓にそちらを構っている余裕などない。男はそんな啓の力を軽々しくいなすように振り返ると、少し笑うような口元でこう言ったのだ。


「それね、君のせいなんだよ」


「…は?」


「うん。君のせい」


短くそれだけ吐くと、桐山は手を振って逆の道に消えていった。

啓の混乱と怒りは頂点に達したまま、そのエネルギーのやり場を無くしてしまった。意味の分からない単語を吐くだけ吐いて消えた桐山のせいで、胸の中がぐしゃぐしゃと音を立てながら色々な詮索が渦巻いていく。そうしてそのまま深夜の道端で暫く動けなくなってしまった啓の意識を引き戻したのは、掠れてほとんど聞き取れないような声で自分を呼ぶ実弥子の声だった。


「けい…?」


 啓は実弥子を見た。流れる涙を拭うこともせずにいたからか、瞳から頬、顎に掛けて何筋もの線が伝う彼女の頬をパーカーで少し強めに拭ってから、ゆっくりしゃがんで、実弥子に自身の背中に負ぶさるように促した。何故かまためそめそと泣き出した実弥子を早く、と叱るように急かせば大人しくなって啓に体を預けてくる。背中越しに伝わる体温が異常に熱い。肌寒い深夜の空気と真逆の温度を作り出す実弥子は一つ唸って啓の背中にしがみ付いた。こんな体温を作ったあの男が憎い。あんな男と飲みに行った実弥子が憎い。二人は本当にバイト仲間という関係なのだろうかと強く疑う自分が憎い。自分でもはっきりとわかるほどの嫉妬をゆらゆらと煮立たせながら、啓はマンションまでの道を歩く。グスグスと泣く実弥子の気配を背中で感じていると優しく甘やかしてあげたい気持ちが溢れてくるのだが、今回は、その感情よりも遙かに勝る感情が啓を支配していた。熱い背中と反比例するように、啓の胸の中の何かは深々とただ、冷たくなりつつあった。

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