15.未だ覚めやらぬ
駅前でのんびりと立って実弥子を待っていた桐山は、実弥子を見つけても特に表情を変えることなく、ただ一つ片手を上げた。
実弥子も簡単に会釈をするだけでその場の挨拶を終え、そのままどちらからともなく歩きだして向かう先は、駅前の居酒屋の集まるビルだった。外の看板を見ながら立ち止まった実弥子に対して桐山はすいすいとエレベーターに乗りこんだ。
実弥子も慌ててそれに乗り込むと、既に階のボタンが押されている。もう店を決めていたのだろう。入り口で出迎えてきた店員に向かって禁煙席を案内させることに驚きながら、二人は半個室の席へと座る。桐山は、実弥子の記憶が正しければなかなかの愛煙者のはずなのに何故か禁煙席を選んだ。
一言「煙草、いいんですか?」と告げると、桐山も同じく一言で「この方がいいでしょ?」と返された。煙草を吸わない実弥子への配慮と気遣いをありがたく受け取って、また一言「ありがとうございます」と軽く頭を下げた。
お待たせしましたー。と、少し間延びする語尾を引き摺りながらバイトのウエイトレスが持ってきたのは、ビールの中ジョッキとカクテルの入った細身のグラスだった。実弥子は迷う事なくジョッキを持ったバイトに向かって手を上げる。自分から飲みに誘ってきた桐山さんは実は下戸である。以前バイトの飲み会で、ビールとサワーを二杯飲んだ所で男性社員にもたれかかって眠ってしまったのを、実弥子は不意に思い出した。
「大丈夫ですか?」
ふと心配になって桐山に声を掛ければ、桐山はいつもの緩んだ目元で答える。
「一杯くらいなら大丈夫だよ。もしダメだったら…そうだね。大橋さん俺の事、おんぶして持って帰ってよ」
「桐山さんみたいな大きい人、無理に決まってます」
「え?俺より小さい男なら出来るの?大橋さんはすごいなぁ。力持ちだね」
「そういう意味じゃないですってば…!!」
そんな戯れのような前振りを簡単に終えると、どちらからともなくお疲れ様ですと言うなりグラスとジョッキを合わせて乾杯をて、実弥子はビールを思いきり煽る。苦いといえば苦いが、この喉越しは炭酸のジュースでは味わえない。この最初の一口がたまらなく美味しいのだ。実弥子はジョッキをコースターに置いて、ふと桐山を見た。
女の子の飲み物の代名詞とでも言えそうなカシスオレンジのカクテルが、運ばれてきた時と全くと言っていいほど変わらぬ量でコースターの上で行儀よく正座している。そうしてその後に自分のコースターの上を見れば、ぐっと減った中身。汗をかいたジョッキと内側に残った泡がズルズルとジョッキの下の方に流れていく。お世辞にも綺麗な光景とは言い難い。
「大橋さんてさ、お酒飲めるようになったばっかりの歳でしょ?なんか飲み方が堂に入ってるよね」
桐山がお通しを箸を器用に扱って突つきながら少し楽しそうにこちらを見た。反面、実弥子はキョトンと桐山を見る。
「そうですか?」
「うん。もう何十年も嗜んでそうな雰囲気出てる。お酒好きなの?」
好きか、と言われれば正直そんなことはない。遺伝なのかお酒には強いみたいだが、好き好んでガブガブ飲むかと言えば違う気がする。そう、言うなれば今日は『やけ酒』というやつだろう。糸井のせいで頭の中は派手に散らかっている。それを上手に整理出来ないのが歯がゆくて、いっそ酒で流しまいたいだけなのである。
「そういうわけじゃないか。俺何回か飲みに誘ったけどさ、OKくれたの初めてだもんね」
実弥子が「そんなことないですよ」と言おうかと口を開いた瞬間、桐山の言葉によってそれは阻止されてしまい、思わず閉口しながら俯く。以前、何度か誘いを受けたことがあったが、なんやかんやと断っていたのを思い出した。
理由は簡単なことで、桐山と二人きりで数時間一緒にいることに少しばかり緊張を覚えるからだった。桐山が嫌いなわけではない。ただ彼は人より少し変わった雰囲気を持っていて、そんな空気が二人で飲むということを敬遠させていた。彼の持つ独特な雰囲気が、余計にそんな苦手意識を増長させていたのだろう。
「きょ、今日は予定が空いてたんです。こう見えても私が忙しいんです!」
ちょっとおどけるようにそう言ってから、実弥子はジョッキの底を天井へと向けた。
桐山さんの「おお」という歓声にも似た声を浴びながら、店員を呼んで同じ物を注文する。まだ飲み物とお通しの小鉢しか来ていないテーブルには、店員がジョッキを片づけたせいで桐山の少ししか減ってないカシスオレンジが妙に映える。
空き腹に流し込んだビールがジワジワと胃を浸食している感覚を噛みしめながら桐山の他愛ない話に耳を傾けるが、残念ながら実弥子の目の前に壁でもあるかのように言葉が突き抜けてくることはなかった。それよりもじっとりと耳に残るのは、糸井の声。目を細めるだけで浮かんできそうなのは、糸井さんの柔らかく上がる口角。
既に、気が付いていた。実弥子は気に食わないのだ。糸井が、きっと本能的に。
糸井が啓のことを好きなのかもしれないというのは、所詮恋愛経験の浅い実弥子の考える事であり、それが真実とは限らない。しかし糸井が、彼女が考えるに啓の一番近くにいるであろう実弥子に何かを挑んだ事は紛れもない事実であり、彼女はそんな実弥子に見事勝利して帰っていった。まるであの体調不良でさえも見越していたかのように。
なんともいえない感情が、大きな波のように一気に押し寄せてくる。それを受け流す為に外へ出たのに、これではなにも変わらないではないか。実弥子は思わず正面で今しがた運ばれてきたおつまみを食べる桐山さんをじっと見た。そんな視線に気が付いた桐山は、つまみを一度嚥下してから薄く唇を開いた。
「大橋さんさぁ、なんか嫌なことあったんでしょ?」
えっ、と反射的に小さく声を上げる代わりに、丁度運ばれてきたジョッキから手を離して、実弥子は桐山を見た。彼の瞳は、いつものように読めない色をして、実弥子を見ている。
「どうせだからお兄さんに話してごらん?もしかしたら、少し心が軽くなるかもよ?」
その言葉が、この時のどれだけ甘く感じたかわからない。アルコールと感傷的な気分が入り交じったせいで頭の中が少しばかりフラフラする中で、実弥子は昨日から今日に掛けて起こった事を桐山にぶつけるように話し始めた。勿論、弟の啓があの『ケイ』であることはどんなに酔いが回ったとしても言わない自信はある。
実は高校生の弟がいることと、最近とある年上の女性は弟を気になっているのではないかと思っていること。実際対面したその女性の底の知れぬ感じが怖いこと、それだけを掻い摘んで話していく。いつの間にか実弥子はあれから相当数のジョッキを空にしていたようで、ふわふわとした感覚だった頭は確実にぐるぐると渦巻くように回っていた。
「なるほど、ねぇ…。それで実弥子お姉ちゃんは不機嫌だったってわけか」
ぽつりと言った桐山の声はもはや実弥子にはそこいらの喧騒と変わりなくなっていたのに、その言葉だけは聞き逃さなかった。言いたい事を全て言わせてもらえた甘えからか、はたまた酔いのせいか。だんだんと乱暴になっていく言葉を止められるような自制心は、既に残っていなかった。
「だって、だってあの人感じ悪いんだもん!!いちいち弟のこと、こんなこともわかんないの?って…!!」
地を這うような暑さを持った頭や頬をそのままに、実弥子の負け惜しみは止まる所か加速の一途を辿った。桐山さんはさも冷静そうに相づちを打ちながら聞いていたが、実弥子が一通り話し終えたのを見計らうと、それはもう極上の笑みでこう言った。その笑みは北上であるのに、どこか暗く冷たい。いつもの桐山の柔らかい印象は、どこかに消え失せていた。実弥子は一瞬だけ、表情を固まらせる。
「…ていうか、別にいいじゃん。そんくらい」
いきなり告げられた言葉に実弥子は思わず耳を疑った。桐山は未だ、ニコニコと普段以上に人当たりの良い表情を崩さないものの、その唇が発する言葉は実弥子の心臓にナイフを突き立てんとする勢いだ。恐ろしく鋭く、刃渡りの長いナイフが実弥子に突き刺さる。
「ていうかね、弟からしたらそんなの放って置いてくれって感じなんじゃないのかなぁ…ちょっと実弥子お姉ちゃん、お節介すぎたね」
「え、だ、だって…、」
「だって、じゃないよ。俺がもし大橋さんの弟だったら絶対に姉ちゃんうざいなーって思ってるよ。恋愛事くらい好きにさせてくれって言っちゃうかもね」
実弥子の口が徐々に天の岩戸と化していくのとほぼ同じタイミングで、桐山は文字を書くようにすらすらと言葉を並べていった。それが実弥子の元に届く頃にはすっかりささくれだった言葉に姿を変えて。
「もうこんな年齢なんだしさ、弟のことなんてそんなに知らなくても支障ないでしょ?でもなんでそんなに負けたくないの?お姉ちゃんより一緒にいる時間がその人の方が長いならもうその人の方が弟君のこと知ってて当たり前だよねぇ」
だんだんと、瞼が滲んでいく感覚がする。泣くな、泣くなと必死に自身の涙腺に訴えかけるが、効果はない。せめてもの抵抗にと桐山を睨みたかったが、桐山の何を考えているかわからないような色の瞳を見たら怯んで我慢出来なくなりそうだった。そんな衝動に耐えるために実弥子は必死に俯いていた。涙を我慢すればするほど身体が熱くなって酔いが回っていく感覚。目が、回りそうだ。
「なんにも、わかってないくせに…」
情けないことに、結局実弥子から唯一出た反論の言葉が、これだった。