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14.豪雨・2

弟の好みも、知らないんですね。


糸井が言ったこの言葉に思わず固まってしまった実弥子は、沈黙するということで自ら答えを出してしまっているも同然だった。テレビの音が、内容は聞き取れずともBGMとして耳に流れてくるリビングは、その雰囲気から朝であることを無自覚に認識させてくれる。カーテンの隙間から洩れる白い光は柔らかいのに、その逆をひた走るかのように実弥子の中では暴風雨が吹き荒れていた。自分が今まで怠ってきたことへの報いだ。冷たい嫌な空気が、ドロリと零れるように体内を巡っていった。


「あ、いえ…あの…」


先程の問いに答えられないまま、ただ無意味に声を出す実弥子の情けない様子を見て、糸井はまた微笑んだ。爽やかだけど、どこか強気な瞳が貫くように見つめてくる。どうしてもそれを真正面から受けることができなくて、実弥子は震わせた瞼をどうにか反らせた。糸井のピンクベージュの唇が艶めかしく開く。


「ケイ君は最近忙しいし、朝から晩まであちこち飛び回ってるんですもの。会話も儘ならない状況なのも当然ですよね」


やがて凍りついたように動けなくなりそうな頬を無理やり動かして、実弥子はわざと作り笑いを浮かべた。ただの虚勢であることは、糸井には気付かれているかもしれない。けれどここで引くには、実弥子の性格では少し難しかった。


「そうです、ね…起きると既に弟がいないことの方が多いですから、朝は何を食べてるかわからなくて…」


情けない言い訳しか出て来なくて、いっそ逃げ出したくなる。そんな自分を自覚しているからこそ悔しくて、実弥子は姉としてのプライドを守るように口を開いた。


「あっ、でも啓は結構和食好きですよ。煮物とか、よく食べるので」


啓がいる普段の食事風景を思い出しながら、実弥子は糸井が作ったお手製のドレッシングがかかったレタスを頬張った。さっぱりとした味が、よくレタスに馴染んでいる。

糸井はそっか、と一人言のように柔らかく返事をした。そんな彼女に、実弥子は何故か妙にホッとしながら次を言葉を待った。


「ケイ君いつもロケ弁は和食のお弁当を食べてるイメージがあるんです。結構量を摂るからカロリーを気にして和食を選んでるのだと思ったけど、純粋に和食が好きなのね。じゃあ今度、今日のお礼も兼ねて筑前煮でも作って持ってきますわ」


「えっ?」


「ケイ君、煮物は煮物でも筑前煮が好きなんですね」


お姉さんの得意料理なんですか?と聞かれて、実弥子は素直にも首を横に振った。


「あら、そうなんですか?じゃあ相模さんの得意料理かしら?あのデザイナーの相模さんが、煮物が得意料理ってすごく意外ね」


少し可笑しそうに話す糸井は、どうやら英恵とも知り合いのようだった。確かに英恵は料理をする機会こそ少なかったものの、たまにやる料理の味はとてもよかった。だから煮物もすごく美味しかったし、啓が和食好きなのは実弥子も知っていた。だけど、どうして糸井が煮物を啓に作ってくることに繋がるのだろう。それが実弥子には、いまいち理解出来ずにいた。


「そう、ですね…」

「えぇ」


一度に沢山の感情が押し寄せた反動とも言えるだろうか。実弥子は曖昧な返事しか出来ずにフォークを置いた。何か引っ掛かることはあれど、それが何かはわからない。すると糸井はすかさず席を立ち、食後のコーヒーを実弥子に注いでくれる。コーヒーは牛乳を入れないと飲めない実弥子だけどそんなことを言えるわけでもなく、ましてや今席を立って冷蔵庫に牛乳を取りに行くことも出来なかった。目の前の砂糖とミルクを多めに入れて飲み込めば、やはり苦い。一口飲んでは苦い表情をしないように我慢するしかなかった。

その時実弥子の口からから出た言葉といえば「ありがとうございます」ではなく、「すいません」だった。糸井さんはそれを満足そうな声音で「いいえ?」と答える。実弥子は背筋を寒くさせる。糸井静香という女性の、真意が読めない。


「あ、そうそう」


音もなく席を着いた糸井が、まだまだ歌うように口を開く。それにギクリとしたのは間違いなく実弥子だ。


「ケイ君、今度お母様のブランドとコラボレーションをするんですが、ご存知かしら?」


いつもは冷たい牛乳を入れるおかげですぐ覚めるコーヒーも、今日はなかなか冷めてくれない。何度か息を吹きかけてから口内に含むも、やはり苦い。そんなコーヒーを我慢しながら飲み込んでいると、糸井が実弥子にも実見覚えのある話題を持ち出した。それはきっと、以前啓と一緒に母に会った時に話していたことだろう。

つまり、あの場の口約束が真実になったのだ。実弥子は啓からは何にも聞いていなかったが、糸井にこれ以上弟に無関心な姉だと思われたくない、思いたくないと咄嗟に思った実弥子は、いかにも知っていたようにはい、と返事をした。陳腐な、プライドである。


「とても大きな仕事ですから、ご家族が知っているのも当たり前ですね、失礼しました。ケイ君、それにあたってイメージソングも歌うんですよ。これから大忙しで、私としても嬉しい悲鳴なんです」


腕が鳴るわ、と嬉しそうにコーヒーを一口含む糸井の言葉の全ては、所詮学生の実弥子には共感出来る部分は少ないながらも、こんなに仕事を楽しめるのはとてもいいことだと思う。純粋に、憧れを感じた。思わずはい、と返事をする。


「ですから私、これからもっともっとケイ君の支えになりたくて」


そんな言葉を不意に口にした糸井の声に艶が溶けたような気がして、実弥子は思わずコーヒーをテーブルへ置いて糸井を見つめた。その唇は、先程とは少し違う空気を纏いながら動く。


「それって、どういう…」


実弥子は一瞬にして緊張感に体を乗っ取られた気分になりながら、それを隠すようにぎこちなくマグカップを口に寄せる。もうコーヒーの苦みなど解らない。糸井はふふ、と柔らかく微笑みながらまだまだその色の乗った唇を止めない。


「お姉さん、知ってますか?ケイ君っていつも眠くならないようにミント菓子持ち歩くんですけど、辛すぎるのは食べられないからってフルーツ味のもの持ってるんです。それじゃ意味ないじゃないって言っても意地張って同じものを買ってきたりするんですよ。それからレコーディングの時は…」


糸井は次々と実弥子の知らない啓を実弥子の喉元に突きつけた。

聞く話はどれもこれも少し啓らしくない部分も垣間見える外での顔や、様子ばかり。しかしその中に見え隠れするいつもの啓の表情を、糸井はしっかりと拾って見つめているようだった。その話の隙間に「家でのケイ君は?」という質問が何度も飛び交う。そして実弥子は糸井も想像したであろう通り、なにも答えられないままマグカップの中身を減らすことしか出来ないのだ。


もう耐えられないと、そう思った時だった。実弥子の携帯がけたたましく叫び声をあげる。糸井にすいませんと一言告げてから、席を立って電話に出た。幸か不幸か、電波の向こうにいるのは啓だった。糸井との応酬にそろそろ限界を迎えていた実弥子は、思わずあからさまに安堵の息を吐くと、通話ボタンを押した。

「なに?」となるべく平静を保ちながらいつものような声を出すように努めると、雑音に紛れて普段と変わらないような弟の声が聞こえた。


『姉さん?糸井さん帰った?』


その言葉に実弥子がチラリと糸井の方を見ると、ニッコリと微笑まれた。どうやら彼女も、受話器の向こうの人物が誰なのか読めたのだろう。


「ううん、まだいるよ。朝ごはん作ってもらった」


『そっか、よかったな。俺このままレッスン行くから昼ごはんいらない』


「うん、うん。わかった」


『…大丈夫姉さん?声変じゃない?』


ドキリと、した。


「え、変?そうでもないよ。それより早くレッスン行きなって」


啓の『はいはい』という返事を最後に、ぷつりと電波は途切れた。

席に戻って糸井にすいません、と言うと、彼女は静かに首を横に振った。


「私もそろそろお暇しますね」


長居しては失礼だわ、と告げながら食器を片付けようとする糸井を、実弥子は必死になって制した。これ以上惨めになりたくないという自分本意な考えと、よく解らない闘争心からだ。なんとか糸井を言いくるめれば糸井は眉を下げて「すいません」と呟く。その言葉が本心かさえ分からない実弥子からしてみれば、早くこの場からいなくなって欲しいという思いが本音だった。

済まなそうに荷物をまとめた糸井を見送る為に玄関へ行くと、彼女は最後にまた、咲く番に対するキッチリとしたお辞儀と謝罪、丁寧なお礼と、それから挨拶をして、一枚名刺をくれた。実弥子はそれを力なく受け取りながら社交辞令として「またよかったら」と呟く。糸井はその言葉に艶っぽく笑いながら「えぇ、また」と告げてきたことに、何故か実弥子は大きな失態を犯したような気分になった。そうして、玄関の重い扉は閉まった。その瞬間、実弥子は足の骨を抜かれたように座り込んだ。緊張が解けたのもあるが、何より悔しかった。


「こ、こわかった…」


思わず呟いた言葉も、情けないことこの上ない。一人だけれど恥ずかしくなって。実弥子は頬を赤くした。そのままふらふらとリビングに戻れば、当たり前ではあるが食事をした後が食卓にそのまま残っていた。それを見ていると、先ほどの糸井とのやり取りがダイレクトに実弥子を襲ってくる。

糸井は姉の実弥子よりも啓のことを知っているという事実。勿論啓の仕事のパートナーなら当たり前なのかもしれない。しかし何より悔しくて何より絶望したのは、実弥子が最近の啓のことを余りに知らないという事実の方だった。糸井の半ば挑戦的な瞳に、唇に太刀打ちすら出来なかった。啓の事をどれくらい知っているかなど、そんなもの勝負することではない。しかし、糸井はあえてそれを勝負として持ち出してきた。それは、何故か?答えは実弥子に解る程、単純明快である。


糸井は、啓に恋をしているのかもしれないという憶測。啓を一人の男として好きだからこそ、たとえ姉である実弥子よりも啓のことを知っていたいのかも、しれない。


実弥子の頭の中がグラリと揺れた。糸井の年齢は知ることは出来なかったが、どう見ても啓どころか実弥子よりも歳でることは間違いない。更には糸井自身も言っていたように、啓は今が大事な時期だ。母のブランドといえど大きな仕事だと、彼女は言っていた。なのに、何故糸井はあんな風に振る舞えるのか。

実弥子の思考は、やがて純粋な思考から邪推に近いそれへと変化していっていった。

もしかして体調崩したっていうのすら、利用したのではないだろうか。

そんなことを考えたって実弥子に真実が掴めるわけもない。むしろ、考えたくもなかった。


何かを打ち消すように、実弥子は食器の片付けを始めた。


何故、自分でもこんなに動揺してるかはわからない。とにかく今日のことを忘れたいと純粋に切望していることはだけは頭がはっきりと理解していた。啓の話をしている時の糸井をふと思い出す。啓の話をしながらも、実弥子に向かって「私の方がケイ君のことを知っているのよ」と言われているようだった。

糸井と実弥子では、啓を見つめる角度が違う。しかし、実弥子は自分がこんな願望を抱いていることに気が付いた。


『自分は誰より弟を理解している立場でいたい』


なんて幼稚なのだろう、と、羞恥のあまり実弥子はまた頬を熱くした。それ故に糸井の実弥子を試すような話に耐えられなくなったのだろう。けれどそんな大それたこと、今の実弥子には言う資格も思う資格もない。その両極端な考えが摩擦を起こし、段々胸に溜まるものが悔しさから悲しみに変わってきた。


『何処かへと吐き出さないと、いずれ私はパンクする。』

直感的に、そう思った。


ほとんど無意識に食器の片づけを終え、フラフラと覚束ない足取りでキッチンからリビングに戻ると、携帯がチカチカと瞬いて実弥子にメールの着信を伝えていた。虚ろな目で無意識に開くとそこにはバイト先の先輩、桐山恭輔の名前が映し出されていた。

今日暇なら飲みにいかないか、とシンプルに書かれたそれに、実弥子もまたシンプルに行きます、とだけ返事をした。


とにかく誰かに会って、私の中に溜まった何かを掻き出して欲しい。それが何かは、解らないけれど。


今の実弥子の思考はこの一色で塗り潰されているのである。


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