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13.豪雨・1

実弥子がまだ幼い頃、弟になりたての啓の手を引いて土手の近くを歩いた。啓が弟になったばかりなのだから、対する実弥子もまだお姉ちゃん初心者だった。


しかし弟という存在が嬉しかった実弥子はいつもあちこち連れ回して、結果迷って母や父に怒られることなど、もはや日常茶飯事だった。怒られる度に泣く実弥子の代わりに謝る啓の姿は、もう弟を連れて歩く歳ではなくなった今でも鮮明に覚えている。


しかしそんなものは本当に最初の頃だけで、実弥子が小学校の高学年になれば啓とはすぐに遊ばなくなっていった。啓は啓でその頃から習い事をしており、小さい実弥子は子供ならではの薄情さからか、弟と遊ぶことはほとんどなくなっていった。毎日友達と遊んで泥々になって帰る、明かりのついた実弥子の家。


案の条、実弥子は母に怒られる。しかしその頃にはただ泣くだけではなくふて腐れるようになっていった。そんな中、一緒に遊ばなくなった啓が実弥子の代わりに謝る事はなくなったが、母のように心配するようになっていった。


『また男の子と遊んだの?』


いつも玄関先で、リビングで、小さくこう聞いてくる啓。女の子のくせに男の子のように泥だらけの実弥子が心配だったのか、そんな姉に呆れていたのかは不明だったが、姉であることを振りかざしたかった当時の実弥子はただ一言「知らない!」弟を突っぱねるだけだった。思い起こせばこの頃から、実弥子は啓が心配していることに対する真意を上手に読み取れていなかったのかもしれない。




携帯が、今実弥子が気に入っている歌手の歌を目覚ましとしてワンフレーズ程歌った所で目が覚めた。手探りでどうにかそれを止めて、覚醒しない瞼を抉じ開ける。掠れた声でこう呟いたのは、完全に無意識だった。


「…なんで…目覚まし?」


起き抜けの、布を被せた電球のようにぼんやりした頭でもわかる。今日は土曜で、休日である。授業もなければバイトもない日だ。では何故昨日、わざわざこの時間に起きる事を選んだのだろうと実弥子は疑問符を辺りに散らせながらのそのそとベッドから降りた。その時に漸く気付いたのは今自分が眠っていたのは自分の部屋ではなかったことである。しかし何故そうなったのかは、霞掛かった頭では答えを得られない。一つ唸って首を傾げながらリビングに出ると、実弥子は思わず瞠目した。見知らぬ女性がキッチンに立っているではないか。


「えっ!?」


実弥子は思わず叫んだ。とは言っても寝起きでザラザラな声では大した威力などなく、せいぜいそこにいた女性が驚かずに振り向く程度にしかならなかった。すっと音もなく振り返った女性は、少し驚いたように、しかし実弥子の目覚めを待っていたかのように微笑んだ。


「おはようございます。お姉さん」


まだ午前中と呼ぶには早い時間なのに、その人の声はとても爽やかで、とても涼やかだった。その声で実弥子はようやく思い出す。そうだ、この人は


「あっ、え、えっと、啓の…」


「昨日は大変お世話になりました。ケイ君の専属スタイリストをやらせて頂いております、糸井静香と申します」


スルリと絹が滑るようなお辞儀は、普段からやり慣れた香りがする。既に着替え、メイクも済ませている完璧な社会人女性を前に、かたや今しがた起きたばかりのパジャマ姿の女子大生。実弥子の中で謎の勝敗が決した瞬間だった。勿論、パジャマ大学生の敗けである。


「あっ、弟がいつも、お世話に…」


「とんでもありません。私こそケイ君にはお世話になってばかりで。お姉さんにもお世話になってしまって、申し訳ありません」


「いえいえ…体調は大丈夫、ですか?」


実弥子がおずおずと聞けば、糸井はおかげさまで、と答えた。


「ここ最近忙しくて睡眠もしっかり取れていなかったせいかもしれません。本当にありがとうございました」


「大変、ですね。でも具合よくなったのなら、良かったです」



「恐れ入ります。…大変厚かましいとは思ったのですが、朝食を作らせてもらっています。よろしかったら食べて頂けますか?」


糸井の背中越しに見えるキッチンには、レタスの入ったザルや皿が乗っているのが見えた。もう少しで完成といった所なのだろう。


「キッチンの使い方、ケイ君に教えてもらって…すいません」


という申し訳なさそうな台詞と共に糸井はまたキッチンへと立った。

昨日の顔色が悪い状態でも綺麗だって糸井は、一晩経って体調が元通りになると、数倍洗練された空気を纏っていた。圧倒的な差のせいで女として敗北感すら湧いてこない実弥子は、自分の爪先を見つめる。そこで、今実弥子はパジャマのままだったことを思い出した上に、顔すら洗っていないことに気付いた。そこで漸く頭が覚醒する。


「わ、私着替えてきます…!!」


羞恥心を振り払うように、実弥子は洗面所へと転がり込んだ。



いつもよりほんの少し気を遣った部屋着に着替えてリビングに戻ると、既に朝食のセッティングは終わっており、その前で実弥子を待つ糸井だけ彼女の方を見た。糸井の作った料理たちは、皆行儀よく天井を見つめている。


「すいません、お待たせしちゃって…」


「いえ、勝手に作ったのは私ですから」


朗らかな笑顔で食卓に着く糸井が実弥子の着席を待ってからパンを取り分けた。 


「ありがとうございます。私誰かにご飯作ってもらうの、久しぶりです」


実弥子が最後に他人の手料理を食べたのは。恐らく啓のデビュー曲がの祝いをした時に食べた啓の料理以来だ。気がつけばあれからもう、大分経っている。


「そうでしたか。簡単で申し訳ないんですけど召し上がって下さい」

どうぞ。と、そっと料理に右手を添える糸井の仕草は此処でも洗練されていた。そんな彼女に少しばかり動揺しながら、実弥子はフォークを手に取る。


メニューはオムレツ、サラダ、スープにパンと、ごくごく一般的な洋食の朝ご飯。しかしサラダにかかったドレッシン実弥子が勝ったものではない所を見ると恐らく手作りで、オムレツの中にはちょうどいい量の具が入っている。それだけ見れば、彼女は料理が得意であることは一目瞭然だった。 思わず美味しい、と無意識に呟いた実弥子の声が聞こえたのだろう。糸井は、はにかむような柔らかい笑顔で「よかった」と笑う。清潔感の溢れるボブカットが、さらりと心地よく揺れた。


「ケイ君がね、姉さん朝はパン派だからって教えてくれたんですよ」


「え?あ、そういえば啓は…」


「昨日私を運んだせいで忘れ物をしてしまったらしくて、取りに行きました」


「そ、そうですか…」


糸井さんがいるというインパクトのせいで啓のことをすっかり失念していた実弥子は、それを誤魔化すようにパンを頬張った。そういえば啓は昨日ソファーで寝たのだろうか。風邪は引いていないかな。などと今になって心配の芽が小さく発芽する。シーチキンの入った半熟のオムレツが、フォークに刺されるのを嫌がりトロリと溶けた。


「お姉さんがパンの方がお好みと聞きましたので今回は洋食作らせてもらったのですが…ケイ君は朝ごはん、どちらが好きなんですか?」


「えっ…啓ですか?」


「えぇ、是非今後の参考にさせて頂きたくて」


参考に、とは仕事にということだろうかと、実弥子は首を傾げる。啓のスタイリストである彼女は朝食を準備する機会まであるのか。その辺りは実弥子にはよくわからないが、今後の参考に、と言われてしまえば答えるしかないと踏んだ実弥子はどうにか古い記憶を掘り起こした。


「うーん、小さい頃は啓もパン派だったかと…あっ、でも中学生の頃とかはお米の方が腹持ちがいいって、ご飯沢山食べてた…ような…」


彼が中学生の頃、学ランを着たまま朝からどんぶりご飯を抱えて食べていることはよくあった。実際モデルが出来る体型であるのに、啓はよく食べる方だと実弥子は思う。それを少し憎らしく思いながら食パンをかじるブレザー姿の自分のことまでじわじわと思い出した。糸井は口元を押さえて控えめに笑い声を漏らした。


「ふふ、そうなんですか。現場でもケイ君ってよく食べるから、女性スタッフの中には羨ましがる子もいるくらいなんですよ。あんなに食べるのに、スタイルとてもいいから」


「その気持ち、すごくよくわかります」


「そうよね、肉親なら、尚更よね」


「えっ?」


思わず驚きの声を上げてしまった実弥子を、糸井はキョトンとした様子で見ている。


「やだ。私、何か可笑しなこと言いましたか?」


「あっ、い、いえ!なんでも…」


ないです、と尻すぼみに言うと、糸井はまた少し笑ってパンをちぎった。そこで実弥子は、啓は職場では自分のことを肉親と話しているのだと知った。よく考えたら元で、しかも義理の姉なんてややこしい関係を平然と口にするわけがないだろう。建前の結果だとしても、実弥子は純粋に嬉しくなった。自分は啓の姉であることを、皆から認めてもらっている気分にすらなったのである。


「で、ごめんなさい、さっきの話なんだけど…結局、今のケイ君はご飯派?それともパン派、なのかしら?」


「え?」


「いえ、ケイ君の昔の話は聞けましたけど…今はどうなのかしらって。今日は朝ご飯の話をしたら、ケイ君が開口一番お姉さんの話をしたから聞けなくって…」


「あっ、すいません、今は、ですね…」


そこで実弥子ははたと気が付いた。

今って、啓は、どっちが好き?

瞬時には出てこなくて、実弥子はいつもの朝の風景を思い出した。朝、実弥子が目を覚ます頃には大抵、リビングには朝食を食べた跡はなく片付いていて、コーヒーメーカーの中には実弥子が飲むカフェオレの分のコーヒーが残っている。そしてテーブルには一枚のメモ用紙。そこには啓が今日からいつまでいないかだけ、記述されたもの。

啓が朝何を食べているかなんて、この情報だけで読み取ることはできないではないか。


「お姉さん?」


糸井の呼び声に実弥子は一瞬怯えるように身を固くした。


「す、すいません、今はどっちが好きか、わからな…」

「わからないんですか?」


心臓が一気に掴まれる感覚がする。糸井の口調が少し、変わったような気がした。


「ケイ君のお姉さんなのに、弟の好みも知らなんですね」


ふふ、とまた糸井が笑う。その声は先ほどのはにかんだような声音ではなく、挑発の色が滲んで見えているのが、実弥子にもわかった。

先程フォークから逃げ出したオムレツが今度は逃げ損ね、フォークに刺されて実弥子の口へと運ばれる。オムレツの逃げ出したい気持ちが実弥子にも解ってしまって、躊躇いながらそれを口に運んだのだ。


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