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12.突風が前髪を撫でるように優しく


「助けて欲しいんだけど」


と、どこか焦ったような口振りの、受話器越しの弟の声に、実弥子は混乱するように「どうしたの?」と聞く。思えば暫く顔も合わせなかった気がするが、久しぶり、なんていう定番な挨拶を交わしている状況ではないのが、啓の焦ったような声から感じ取れた。


「あ、あのさ…」


不意に、啓が狼狽え始める。言いにくいのか、なんとか言葉を探しているような雰囲気を電話越しに感じ取り、実弥子は「なに?どうかした?」と質問を重ねるようにして、彼の言葉の先を急かした。啓は暫く唸りながら言い淀んでいたが、やがて決心したのか妙に小さく、周りに聞こえないよう注意しているみたいな声で話始めた。


「…俺と組んでるスタイリストが、貧血で倒れちゃいそうなんだ。どうしたらいい?」


今相談出来そうな女の人が、姉さんしか思い付かなくて…、と力なく呟いた辺りで実弥子は瞬時に察した。そのスタイリストさんが苦しんでいるのは女性にしか解らない貧血なのだろう。そして啓は彼女が倒れた所にでも、遭遇したのだろう。


「少し休むっていってもさ、そろそろここ閉まっちゃうし…。病院とかは行っても意味ないんだろ?かといって俺が家に行くのは…」


小さく唸る啓の声が実弥子の耳に届いた。啓もいっぱしの芸能人である。そんな彼が深夜に仕事仲間の女性の家に行くなど、マスコミの餌食になるだけなのは火を見るより明らかだった。実弥子は一瞬、啓につられるように狼狽えたものの、自分も同じ苦しみを知っている分、頭の回転は普段より早く回った。その時何をしてほしいのかは、自分にもよくわかる。とにかく温かい所で休みたいだろうと考えた実弥子は、その時名案が浮かんだのだ。


「そうだ!じゃあうちに連れてきなよ」


それでも人気モデル・ケイの家に女性が泊まる、という事実は変わらないのだが、ケイの家には実弥子がいるのだ。タクシーを降りた時点で実弥子が二人を出迎えれば、疑いを向けられる必要もなければそのスタイリストもゆっくり休めるだろうと、実弥子は考えた。偶然にも明日は土曜で大学もないから、その人を朝急がせることもない。実弥子は自信満々、といった風に提案したのだが、啓は小さく驚いたような声を出しただけで、黙りこんでしまった。そんな弟の煮え切らない態度に、実弥子は小さくムッとした。


「ね、聞いてる?スタイリストさん大丈夫なの?」


「…ん、あぁ…」


歯切れの悪い返事が返ってきて、実弥子は眉間に皺を寄せた。当たり前だがあの苦痛を知らない啓にはわからないのかもしれない、と徹底的にスタイリストの味方を始めた実弥子が啓をまくし立てる。


「啓ってば!いい?家に連れてきてあげてよ!早く温かい所で休ませてあげないと!!」


「……うんわかった。連れてくから、よろしくな」


最後まで言い淀むような声を出しながらも、漸く啓は実弥子の提案に乗ったようだった。

最後に、「何時くらいに着くかはメールして」と言ってから実弥子はほぼ一歩的に電話を切って、携帯をソファーの上に放り投げた。啓が何をそんなに躊躇うのかが実弥子には理解出来なかったのだが、これでもう彼女をこのマンションに連れてくるしかなくなっただろう。


「準備しよっと」


実弥子は一言呟いて、鎮痛剤やらブランケットやらをリビングに集め始めたのだった。


暫くして、ソファーの上の実弥子の携帯が着信を知らせた。そろそろ連絡がくるだろうと踏んでいた実弥子が上着を羽織った瞬間のことだった。もう家の近くにいるというので、サンダルを引っかけて少し空気の沈んだ外へと飛び出す。実弥子達の住むマンションは住宅街の中にあるせいか、いつも夜は寂しいくらいに静かだ。そんな状況だからか妙にタクシーのエンジン音が響く。実弥子はとりあえずマンションから周りをぐるりと見回して、怪しい車やカメラでも構えてそうな人がいないかを確認した。誰もいなく、また何もない事をしっかり見てから、サンダルをパタパタ鳴らして階下へと降りたのである。


「大丈夫ですか?」


マンションの真下に着いていたタクシーは、やはり啓とスタイリストであろう女性だった。実弥子はまずスタイリストの方に声を掛ける。ゆっくり首を動かしてこちらを見た瞬間、彼女の前髪がサラリと額を滑った。化粧でも隠せないくらい顔色は青いが、彼女の持つ大人の女性らしい艶やかな雰囲気は以前変わっていないのだろう。その女性は、とても綺麗な人だった。


実弥子は一瞬、今は関係の無い方向へ意識を飛ばしていたが、啓が実弥子を呼ぶ声でふと現実に戻ってきた。慌てるように彼女にタクシーから降りるよう促し、啓と二人で彼女の肩を担ぐ。明るいエントランスに差し掛かり、ポーンと軽い音を立てて降りてきたエレベーターに乗った所で「すいません」と小さく呟いた声が聞こえた。勿論啓の声でも、実弥子の声でもない。女性らしい艶を持った、涼しい声だった。




家に着くなり再度貧血でふらついた彼女を二人でなんとか支えながら、実弥子は彼女にクッキー数枚と薬を与えて、自分の部屋に半ば押し込むように貸した。病人をソファーで寝かせるわけにもいかず、かといって啓のベッドへ案内することは頭の中に無かった。実弥子のベッドに入るなり、もう一度「すいません」と呟いた彼女は失神するように眠ってしまった。体調不良に加え、仕事の忙しさで身体のバランスが崩れていたのかもしれない。少しでもよくなることを願いながら、実弥子は電気を消して、自室の扉を音も立てずに閉めた。そのままリビングへ移動すれば、まず初めに壁に掛けた時計目に入る。時刻は既に0時を超えていた。啓の姿がないと思ったら、キッチンからマグカップを二つ持って出てくる所だった。そしてそれを、実弥子の座る所を指定するように置いた。温かいココアの匂いが実弥子の鼻腔を擽る。


「ありがとう」


「ココアなら寝られなくなることないだろ」


「うん。牛乳入ってる?」


「入ってるよ」


「やった」


頂きます、と実弥子がマグカップを傾けようとすれば、啓が「熱いぞ。気をつけろ」と忠告してきた。一つ返事をしてから数度、ココアに息を吹きかけた実弥子がココアを口に含めば、啓の警告通りまだまだ熱くて、舌が少しばかりピリピリと痛む。けれど冷めるのを待つのは面倒なので、実弥子はそのままごくんと飲み込んだ。丁度いい甘さのココアは、純粋に美味しかった。


「美味しい」


「うん」


そんなやり取りを繰り返した所で、啓がポツリと呟いた。


「急にごめんな。助かった」


実弥子は首を傾げる。何故啓が謝罪を口にしたのかが、わからなかったのだ。


「なんで謝るの?」


「いや、夜遅くに悪かったなって…」


居心地悪そうに頭を掻きながら視線を実弥子から外した啓に、実弥子は疑問の目を向ける。実弥子は嬉しかった。弟に頼られたことと、啓が体調不良の人を助けてきたことが。もしそのまま放ってきたと聞いたら、それこそ正座で反省してもらう事になっただろう。


「気にしなくていいよ」


「姉さんに相談してよかった」


「でしょ?」


少しからかうような口調で返事をすれば、啓はようやく安心したのかほっとしたように息を吐いた。体調不慮の人間を解放するのは、じぶんが思っているより気力とエネルギーを消費するものである。安心した途端、肩の力と一緒に緊張感まで解けたようだった。マグカップを持ったまま、ずるずるとソファーの上に沈み込む。


そんな啓に、実弥子は母性に近いような姉心が湧いたのを感じ取っていた。弟の頑張りを不意に褒めてやりたくなったのである。実弥子はふにゃりと緊張感のない笑みを浮かべたまま、カップをテーブルに置くなり啓に近づいた。突然の姉の行動が読めないのだろう。「姉さん?」と小さく呟いた啓は、狼狽えながらも実弥子の動向を見つめていた。実弥子は啓の色素の淡い髪に頭に手を伸ばす。そうして優しい手つきで数回、形の良い頭を撫でてやった。


「偉かったね。お疲れ様」


最後にポンポンと柔らかく頭を叩いて手を離す。そしてはたと気が付けば、一瞬自分の行動が理解出来なかった。思わず首を捻る。

啓は、動かない。動かないが、代わりに彼の頬の色が、どんどん上気しているのが見て取れた。その瞬間実弥子はしまった、と口に手を当てた。普段は大人びている啓も、多感な年頃であることには変わりない。子ども扱いされたことに対して、怒ってしまったかもしれないのだ。既にやってしまったことは取り消せないも、実弥子は背筋に冷や汗を流した。


「あ、啓、あの…お、怒った?」


「この、馬鹿…!」


瞬間妙に熱を孕んだ啓の声がリビングに響いたと思えば、実弥子では敵わないような力で両腕を掴まれ、距離を取られた。そのまま腕を掴んだ姿勢で無理矢理立たされて、ぐいぐいと啓の部屋に押し込められる。いっそ放り投げられるような形で啓の部屋に詰められた反動で座り込むと、羞恥心のせいかまだまだ熱が引かないのか真っ赤な顔の啓が、


「もう寝ろ!!」


と夜中であるにも関わらず叫ぶ。啓自身はというと一枚毛布をベッドから剥ぎ取りさっさとリビングへと戻っていった。


「や、やっちゃった…」


少しの罪悪感と一緒にしてやったり感を抱える実弥子に反して、扉の向こうのリビングでは顔を赤くしながら啓が「ちくしょう」と呟いて悶絶していることを知るのは、リビングに掛かった正しいリズムを叩きだす時計だけなのである。


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