第7話 ダブルブッキング(残業&出撃)
ヴヴヴヴヴヴッ!!
静まり返った夜のオフィスに、俺の胸ポケットから発せられる不吉な振動音が低く響いた。
壁に掛けられたアナログ時計の針は、無情にも午後八時三十分を指している。
定時(午後六時)などという甘美な概念は、ここクロノス商事営業部においては、遠い神話の時代の伝承でしかない。フロアに残っている数十名の社員たちの顔は一様に土気色で死んでおり、ただひたすらにエンターキーを叩くターンッ!という音だけが、彼らがまだ生きていることを示す唯一の鼓動の代わりに鳴り続けていた。
俺のデスクの右側には、明日の朝十時までにベースラインを完成させなければならない、A社の超大型コンペ用企画書の山(未処理)。
そして左側には、先ほど玲奈部長から「息抜きにこれもやっておいて」というサイコパスな笑顔と共に叩きつけられた『顧客満足度向上のための新規施策案(※ただし予算はゼロ円)』のバインダー。
そんな絶望的なタスクの壁に四方を囲まれた俺の胸元で、軍から支給された偽装スマホが、けたたましく出撃アラートを鳴らしているのだ。
(……チッ。空気を読め、化け物どもめ)
俺は舌打ちを噛み殺し、周囲の目を盗んでスマホの画面を手のひらで覆うようにして盗み見た。
真っ赤な画面に『ALERT:NOIR DETECTED(ノワール出現)』の文字が明滅している。場所は、ここから数キロ離れた港区の大型商業施設付近。
無視するという選択肢は、俺の辞書には存在しない。
なぜなら、ノワールを放置すれば被害が拡大し、最悪の場合、新東京市の一部が汚染されて俺の会社ごと吹き飛ばされる可能性があるからだ。会社が吹き飛ぶこと自体は一向に構わない(むしろ喜ばしい)のだが、今まさに血反吐を吐きながら作っているこの企画書のデータが提出前に消し飛ぶのだけは、俺の三十年の人生における最大の徒労となるため、絶対に許せなかった。
しかし、問題はどうやってこの席を外すかだ。
斜め後ろにあるガラス張りの部長室をチラリと盗み見ると、氷室玲奈部長もまた、手元のスマホを見て顔を険しくさせていた。
(よし、アラートを受信したな……)
案の定、玲奈はバンッ!とデスクを叩いて立ち上がると、個室のドアを開けてフロアに出てきた。
「……ちょっと、急遽役員から呼び出しがかかったわ。神堂、私が戻るまでに企画書のベースラインは絶対に終わらせておきなさい。いいわね?」
「承知いたしました。いってらっしゃいませ」
俺は深く頭を下げ、彼女が足早にフロアから出て行くのを見送った。
ヒールの音がエレベーターホールの奥へと消える。おそらく、監視カメラのない非常階段あたりから転送するつもりだろう。
鬼の居ぬ間に洗濯、ではないが、上司が席を外した今こそが俺のチャンスだ。
「……腹痛だ。これしかない」
俺は一瞬で覚悟を決め、急に顔をしかめてお腹を両手で押さえる三文芝居を打った。
「う、うぅっ……」と、極力リアルな(徹夜明けの胃痛を思い出しながら)呻き声を上げ、椅子から立ち上がる。
「し、神堂主任、大丈夫ですか? 顔色、便器より白いですよ?」
隣の席の後輩が、本気で心配そうな声をかけてくる。
「あぁ……ちょっと、昼に食ったコンビニの弁当が……いや、冷えたかな。トイレに行ってくる。部長が戻る前に戻るから……」
俺は油汗を拭う素振りをしながら言い残し、背中を丸めて小走りでフロアを後にした。
目指すは、フロアの最奥にある男子トイレ。
その中でも、一番奥の壁際にある個室である。そこが一番、Wi-Fiの電波(と魔力の通り)が良いのだ。
しかし。
急いでトイレに駆け込んだ俺を待っていたのは、最悪の事態だった。
『清掃中』
黄色のプラスチック看板が、男子トイレの入り口を無情にも塞いでいたのだ。中から、清掃のおばちゃんがモップをかける音が聞こえる。
「……マジかよ」
俺は舌打ちをし、一つ下の階のトイレへと非常階段を駆け下りた。しかし、そこも個室が全て埋まっているという社畜の悲しい生理現象(ストレス性胃腸炎の群れ)の壁に阻まれ、結局、さらに下の階のトイレまでダッシュする羽目になった。
バタン、と個室のドアを閉め、厳重に鍵をかける。
便座の蓋を下ろし、その上に土足のまま立ち上がると、俺はスマホの偽装アプリを立ち上げた。
すでにアラートから五分以上が経過している。
「マキ博士、聞こえますか」
個室の外に漏れないよう、小声で通信を入れる。
『遅いわよシロ!! 何やってたの! ルビィが先に着いて交戦中よ! 大型だから一人じゃ厳しいわ、早く援護に向かいなさい!』
「すいません、個室の確保に手間取りまして。今から出ます、手短に終わらせますよ」
俺はスマホの画面に表示された『強制転送』の赤いボタンをタップした。
次の瞬間、トイレの個室という極めてプライベートな空間が、極彩色の魔法陣の光に包み込まれる。
ヨレヨレのスーツが光の粒子となって分解され、代わりに純白のシルクと過剰なレースのフリルドレスが、俺の身体(145センチの幼女体型)を締め付けるように包み込んでいく。
一瞬の、内臓が浮き上がるような浮遊感。
トイレの芳香剤の匂いが消え、代わりに焦げたゴムと、生ゴミを煮詰めたようなヘドロの悪臭が鼻を突いた。
――港区の商業施設・連絡通路。
転送された俺の視界に飛び込んできたのは、三階建てのビルほどの大きさがある、巨大な『カマキリ型』のノワールだった。
そして、それを相手に苦戦……いや、完全に防戦一方になっている真紅の魔法少女の姿。
「キャァァァッ!」
ルビィが、カマキリの電柱のように太く鋭い鎌の一撃を、咄嗟に展開した氷の盾で防ぐ。
だが、ノワールの圧倒的な質量と威力を殺しきれず、氷の盾はパリンと乾いた音を立てて粉砕され、彼女はそのまま後方へと激しく吹き飛ばされた。
彼女の華奢な身体が地面をバウンドし、あわやコンクリートの壁に激突するかというところで――俺は、猛スピードで間に割って入り、その背中をガシッと両手で受け止めた。
「遅いぞ!!」
ルビィが、俺の腕の中で振り返りざまに怒鳴りつけてくる。
その怒声は、昼間の会社で玲奈部長に「遅いわね、神堂! 資料の提出期限は一分前よ!」と怒鳴られるのと同じ、絶対零度のトーンだった。俺の胃が条件反射でキュッと縮み上がり、思わず「申し訳ありません」と謝りそうになる。
しかし、彼女の怒声はそこまでだった。
「――って、シロちゃん!! 来てくれたのね! 会いたかったぁぁぁぁッ!!」
先ほどまでの厳しい『氷山の悪魔』の表情が一変。
ルビィは、俺の姿(プラチナブロンドのツインテール幼女)を確認した瞬間、目の前で鎌を振り上げているカマキリの化け物の存在など完全に脳内から消去したかのように、俺の首に両腕を回して力一杯抱きついてきた。
「ちょ、ルビィさん、敵が! 敵がすぐそこまで来てますから!」
「はぁぁぁん、シロちゃんの匂い、落ち着くぅ〜。今日はずっと仕事で使えない部下にイライラさせられることばっかりだったから、めっちゃ癒されるわぁ……すーはーすーはー!」
使えない部下にイライラさせられたこと、とは十中八九、俺(神堂)が提出したデータ算出根拠の甘さのことだろう。
俺は心の中で「その原因を作ったのは今あんたが抱きしめて匂いを嗅いでいる俺だよ!」と猛烈に毒づきながら、必死にルビィの豊満な胸(昼間のスーツ姿では隠されているが、魔法少女の衣装だとやたらと自己主張が激しい)から顔を引き剥がした。
『シャァァァァッ!!』
完全に無視された挙句、目の前で百合百合しいイチャつきを見せつけられたことに激怒したのか、カマキリノワールが両手の鎌を高く振り上げ、俺たちごと真っ二両断しようと跳躍して飛びかかってきた。
「時間がないんです。さっさとタスクを消化しますよ」
俺は、ルビィの腕から抜け出すと、死んだ魚の目でそう言い捨てた。
そして、何もない空間に右手を突き出し、重量二トンの『ドリーム・ステッキ』を召喚する。
ズンッ!という重低音とともに、俺の小さな手にピンク色のハートがあしらわれた巨大な鈍器が収まる。
俺は、迫り来る巨大なカマキリに向けて、一切の感情を排したまま、右手一本でそのステッキを大上段からフルスイングで振り下ろした。
「――残業、消去」
ドゴォォォォォォォォォンッ!!
空気を圧縮したような凄まじい破裂音。
カマキリノワールの硬い脳天に、二トンのハート型鈍器がジャストミートする。
怪物の巨体は、一瞬の抵抗すら許されず、まるでスイカ割りのように縦に真っ二つに叩き割られ、そのまま黒い泥の雨となって周囲に飛び散り、霧散した。
魔法もクソもない。一撃必殺。完全なるオーバーキルである。
「キャァァ! シロちゃんかっこいい!! その無機質な瞳でゴミを見るような目つき、お姉ちゃん痺れちゃう!」
ルビィが、俺の背後で身をよじって両手を頬に当て、歓声を上げている。
(……この人、本当に昼間は「氷山の悪魔」と呼ばれてるあの女と同一人物なのか? 多重人格を疑うレベルなんだが)
俺は深い溜息をつき、ステッキを空間に収納した。
「じゃあ、俺はこれで」
「えっ、もう帰っちゃうの!? せっかく会えたのに! これから一緒に深夜のパフェでも食べに……」
「転送」
ルビィの甘い懇願を無慈悲に切り捨て、俺はスマホを操作した。
再び極彩色の光に包まれ、俺の意識は戦場から男子トイレへと一直線に引き戻される。
「ふぅ……」
便座の上に立ち尽くす俺。
姿は再び、ヨレヨレのネクタイを締めた三十歳の疲れたサラリーマンスーツ姿に戻っている。
俺はネクタイの結び目を直し、個室を出て、何食わぬ顔で鏡の前で手を洗うと、急いで自分の営業部のフロアへと階段を駆け上がった。
ルビィを残して先にワープしたとはいえ、彼女は部長室から直接出入りできる。俺がトイレからフロアに戻る間に、先回りされている可能性があるのだ。
自分のデスクに座り、マウスを握ろうとした瞬間。
「神堂」
背後から、絶対零度の冷気が首筋を撫でた。
振り返ると、腕を組んだ玲奈部長が、氷のような冷酷な瞳で俺をねめつけていた。
つい数分前まで、俺に抱きついて「シロちゃぁん♡」と黄色い声を上げていた限界オタクと、細胞レベルで同一人物である。脳の処理が追いつかず、俺の表情筋がピクピクと引き攣る。
よく見れば、彼女の完璧なまとめ髪から一筋だけ後れ毛が垂れ落ちており、胸の上下動が普段よりもわずかに荒い。先ほどまで巨大カマキリと死闘を繰り広げ、俺に抱きつき、そして急いでワープで帰還して涼しい顔を装っている証拠だ。
「……はい、部長」
「ずいぶんとトイレが長かったわね。たかが十分、されど十分。あなたのその十分の空白が、明日のコンペの勝敗を分けるかもしれないという危機感は、あなたのその小さな脳みそには存在しないのかしら?」
(……その十分の大半は、あんたの命を巨大カマキリから救うために使ったんですけどね!!)
喉まで出かかった正論を胃酸と共に飲み込み、俺は深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。少し、腹の具合が悪く……長引いてしまいました。役員からの呼び出しは、もう終わられたのですか?」
「ええ、手短に済ませてきたわ」
玲奈は、微かに息を整えながら冷たく言い放つ。
「体調管理も社会人の基本よ。体調不良を言い訳にしてパフォーマンスを落とすなら、プロ失格ね。さっさとA社の企画書のグラフを上げなさい。あと三十分でチェックするわ」
「承知いたしました」
玲奈はカツカツとヒールを鳴らして部長室へと戻っていった。
俺は安堵の息を長く吐き出し、キーボードに向かう。
よし、これでしばらくは集中してエクセルと戦えるはず――。
ヴヴヴヴヴヴッ!!
再び、胸ポケットでバイブレーションが狂ったように鳴り響いた。
「…………は?」
俺は完全に固まった。
スマホの画面を盗み見ると、またしても赤い文字で『ALERT:NOIR DETECTED』。今度の場所は新宿区の裏路地。
(マジかよ……連戦!?)
部長室を見ると、玲奈もまたスマホを見て顔をしかめていた。彼女は舌打ちをすると、再びフロアに出てくる。
「……また役員から呼び出しよ。まったく、使えない連中の尻拭いばかりで嫌になるわ。神堂、私が戻るまでに……」
「はい、グラフの作成ですね。承知いたしました」
玲奈が苛立たしげにフロアを出ていくのを見送り、俺は再び苦悶の表情を浮かべてお腹を押さえた。
「う、うぅ……また、波が……」
立ち上がった俺に、隣の後輩がドン引きしたような、心底哀れむような視線を向ける。
「神堂主任、それ、マジで一回救急車呼んだ方がいいっすよ……ストレス性胃腸炎の末期症状じゃないですか……」
「だ、大丈夫だ……すぐ戻るから」
俺は再び、別の階の空いているトイレの個室へと猛ダッシュした。
――第二ラウンド。
新宿区の路地裏。
転送された俺の目の前には、ドブ川のヘドロを集めたような巨大なスライム型ノワールと、またしてもそれに絡め取られそうになっているルビィの姿があった。
「遅いぞ!!」
ルビィが怒鳴る。
「すみません、ちょっと手が離せなくて(空いている個室を探していて)」
俺は挨拶もそこそこにステッキを召喚し、スライム型ノワールを大根おろしのようにゴリゴリと粉砕した。
「シロちゃぁん! 今日も助けてくれてありがとう! すーはーすーはー!」
敵を倒した瞬間に抱きついてきて、俺の銀髪の匂いを嗅ぐルビィ。
「ちょ、やめ、マジで時間ないんで帰ります!」
俺は彼女の顔面をステッキの柄で無理やり押し返し、再びワープのボタンを叩いた。
――トイレの個室から帰還。
息を切らして自分のデスクに戻ると、今度は玲奈が俺の席に座り、腕組みをして待っていた。
俺の心臓がヒヤリとする。俺が別の階のトイレから戻る間に、彼女は部長室から直接戻り、俺の帰りを待ち伏せしていたのだ。
「神堂」
声の温度が、先ほどよりもさらにマイナス五度下がっている。しかし、よく見ると彼女の額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「……はい」
「またトイレ? あなた、本当に腹痛なの? まさか、個室でスマホのゲームの周回でもしているんじゃないでしょうね。それとも、転職活動のエージェントにメールでも打っているのかしら?」
「滅相もございません。正〇丸を三粒ほど追加で飲んできたので、もう大丈夫です」
「……次は、病院の診断書を持ってきなさい。いいわね」
玲奈が不機嫌そうに立ち上がり、去っていく。
俺は冷や汗でワイシャツをぐっしょりと濡らしながら、企画書のグラフ作成を震える手で再開する。
ヴヴヴヴヴヴッ!!
――第三ラウンド。
もはや言葉を発する気力すらなかった。
三度目のアラート。
部長室から出てきた玲奈は、もはや取り繕う余裕もないのか、「……ちょっと、下のコンビニでブラックコーヒー買ってくるわ」という極めて苦しい言い訳を残してフロアから駆け出していった。
俺もまた、三度目のトイレ駆け込みである。周囲の社員からは、「あいつ、ついに過労とストレスで胃腸が完全に崩壊したな」という、同情を通り越した畏怖の視線が向けられている。
ワープした先は、建設途中のビルの工事現場。
H鋼の鉄骨を振り回す、四メートルはある巨大なゴーレム型ノワール。
ルビィが「遅いぞ!」と叫び、俺が無言でステッキを振り抜いて鉄骨ごとゴーレムを粉砕し、ルビィが「カッコいい! 結婚して!」と飛びついてくるのを華麗なステップで躱し、即座にワープで帰還。
――帰還、そして限界。
三度目の往復を終え、俺がトイレからヨロヨロと幽鬼のように出てきた時だった。
通路の角を曲がったところで、ブラックコーヒーの入ったマグカップを持った玲奈部長と、完全に鉢合わせになった。
「あ……」
「神堂」
玲奈は、足を止め、じっと俺の顔を見た。
その視線は、単に「サボっている部下を叱責する」ものではなく、何か正体の分からない獲物を観察する猟犬のような、鋭く、深く探るような冷たい光を帯びていた。
彼女の息は少し荒く、コーヒーを持つ手が微かに震えているのが分かった。連戦の疲労は、確実に彼女の肉体を蝕んでいる。
「……その、申し訳ありません。これで本当に最後にしますので。企画書はあと十分で完成します」
俺がペコペコと頭を下げて横を通り抜けようとした、その瞬間だった。
ピタリ、と。
玲奈が、俺の横をすれ違う寸前で足を止めた。
彼女の美しい鼻先が、微かにピクンと動いた。
「……神堂」
玲奈の声が、普段のオフィスでの冷酷さとは違う、どこか低く、腹の底を探るようなトーンに変わった。
「はい」
「あなた……何か、変な匂いがするわね」
ドクン、と俺の心臓が不快な、致命的な音を立てた。
「変な匂い、ですか? 汗臭かったらすみません」
「違うわ。単なるタバコや汗の匂いじゃない。火薬……いえ、もっとこう、焦げたゴムと、生臭い硝煙が混ざったような匂い。それに、これは……」
玲奈が、俺のスーツの右袖をジッと見つめた。
俺も、恐る恐る視線を落とす。
……しまった。
先ほどの第三ラウンドで、ゴーレム型ノワールを粉砕した際、飛び散った黒い泥(ノワールの体液)の微小な飛沫が、ワープの瞬間にスーツの袖に付着してしまっていたらしい。
魔法少女の衣装はワープ時に浄化されるが、衣服に染み込んだ微粒子レベルの悪臭までは、完璧に消し去れなかったのか。
この匂い。
ルビィとして日常的にノワールと戦っている玲奈にとって、それは絶対に嗅ぎ間違えるはずのない、敵の体液の悪臭そのものだ。
「……気のせいじゃないわね。どこでこんな匂いをつけてきたの? ずっとトイレにいたんじゃないの?」
玲奈が、マグカップを持ったまま一歩距離を詰めてくる。
彼女の瞳の奥に、明確な『疑念』が渦巻いていた。
俺の脳内コンピュータが、かつてない速度でオーバーヒートしながら、言い訳のアルゴリズムを検索する。
「あー……その、実はお恥ずかしい話なんですが」
俺は、極力情けない、ダメな大人の声を出して、後頭部を掻いた。
「さっきトイレの個室で、ちょっとストレスが溜まってまして……百円ライターをカチカチいじっていたら、誤って胸ポケットに入れていた予備のネクタイの端を焦がしてしまったんです。慌てて手洗いの水で消したんですが、その時の焦げ臭さが残っているのかもしれません。ほら、安物の化学繊維が燃えると、ゴムみたいな変な匂いがするじゃないですか」
苦しい。
どう考えても苦しすぎる、小学生並みの言い訳だ。
玲奈は、しばらく黙って俺の目を、魂の奥底まで見透かそうとするかのように見つめていた。
その沈黙の数秒間が、永遠のように長く感じられる。
もしここで「嘘をつかないで。あなた、夜に出歩いているの? それとも……」と追及されれば、俺は完全に詰む。
やがて。
玲奈はフッと小さく鼻を鳴らし、視線を外した。
「……社内で火遊びとは、随分と余裕ね、神堂主任。そこまで気が緩んでいるなら、明日のコンペの企画書、もう一段階要求レベルを上げてもらうわよ」
「……っ! 承知、いたしました」
玲奈はそれ以上追及することなく、ヒールを鳴らして去っていった。
助かった。
だが、誤魔化しきれたわけではない。彼女の後ろ姿を見送りながら、俺は確信していた。
玲奈は、俺に対して決定的な不信感を抱いた。「神堂は何か隠し事をしている」と。
このまま二重生活を続ければ、いずれ必ずボロが出る。
「……寿命が縮む」
俺は重い足取りで自分のデスクに戻り、深夜を回るまで、必死に企画書のベースラインを叩き直した。
全ての業務(本業と副業のトリプルヘッダー)を終え、俺がボロボロの体でアパートに帰り着いたのは、午前三時のことだった。
玄関のドアを閉め、靴も脱がずに土間にへたり込む。
「終わった……。今日こそは、気絶するまで寝てやる……」
ネクタイを引き剥がし、這うようにしてベッドに向かおうとした、その時。
ヴヴヴッ、と。
軍用スマホが、無慈悲な着信を知らせた。
アラートではない。マキ博士からの、直接の通話要請だ。
「……はい」
俺は死にそうな声で電話に出た。
『お疲れ様、シロ! 今日の三連戦、見事だったわ! ボーナス弾んでおくからね!』
受話器の向こうから、マキ博士のハイテンションな声が響く。
「……もう、どうでもいいです。俺は寝ます。明日も朝から、修正地獄が……」
『まあ待ちなさい。実はね、シロ。明日の午後、あなたに特別任務があるの』
「任務? これ以上、化け物退治は……」
『違うわ。戦闘じゃないの』
マキ博士の声が、妙に楽しそうに、そして底意地悪く弾んだ。
『マスコミ向けの【魔法少女・お披露目記者会見】に出なさい。最近のノワール増加による世間の不安を払拭するための、大事な軍のプロモーションよ』
「………………は?」
俺の思考が、完全に停止した。
記者会見? マスコミ向け?
あの、フリフリの純白ロリータドレスを着て、大量のテレビカメラとフラッシュの前に立てというのか。この三十歳の、ヒゲの剃り残しを気にするおっさんが。
「ふ、ふざけるなッ! そんなこと契約書に……!」
『肖像権は軍に帰属するって、ちゃんと書いてあったでしょ? 断れば、違約金として今のボーナス全額没収よ。じゃ、明日の午後二時、軍の広報センターに直行してね! おやすみ!』
ツーツー、という無機質な電子音が、俺の耳元で虚しく響いた。
記者会見。
もし、テレビの生中継で、万が一にも俺の素の挙動が出てしまい、正体がバレたら?
会社での社会死どころか、全国、いや全世界に向けての『変態ロリコンおじさん』としての公開処刑である。
「…………俺を、殺してくれ……」
夜明け前の薄暗い部屋で、俺は、声にならない絶望の叫びを上げた。




