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第6話 地獄の朝礼と昨夜の残り香

 ジリリリリリリリリリッ!!


 安アパートの薄い壁を震わせる無慈悲な目覚まし時計の音が、俺のささやかな――時間にしてわずか二時間半の――睡眠を切り裂いた。


「……あ、あぐっ……」


 目を覚まし、体を起こそうとした瞬間、全身の筋肉がブチブチと悲鳴を上げた。

 特に右腕から背中にかけての激痛は尋常ではない。まるで全身を大型トラックで轢かれた後、そのままロードローラーで引き伸ばされ、仕上げにハンマーで殴打されたような感覚だ。

 四十肩などという生易しいものではない。筋繊維の一本一本が、大炎上するクレーム案件のように赤く燃え盛っている。


「いてててて……ッ!」


 ベッドから這い出るだけで、脂汗が滲んだ。

 壁掛けの鏡に映った自分の顔は、相変わらず血の気を失った深海魚のそれだったが、目の下のクマは昨日よりも一層色濃く、深く刻み込まれていた。


 昨夜の出来事が夢ではなかったことを、この破滅的な筋肉痛が証明している。


 重量二トンの超高密度合金製『ドリーム・ステッキ』。

 極限の絶望耐性によって、痛覚と疲労は変身中には完全にシステム側でマスク(隠蔽)されていたらしいが、元の三十歳の社畜ボディに戻った途端、その物理的な反動リバウンドが一気に押し寄せてきたのだ。

 考えてみれば当たり前だ。運動不足の三十男が、二トンの鈍器を大車輪のように振り回して化け物を粉砕したのだ。身体が崩壊していないだけマシと言える。


「……あのポンコツ博士、魔法少女の労災申請書って、どこからダウンロードできるんだ……」


 俺は呻きながら、鉛のように重い身体を引きずって洗面所に向かった。

 冷たい水で顔を洗い、無理やり脳のスイッチを入れる。


 魔法少女? 怪物を倒して世界を救う?

 そんなファンタジーな副業よりも、俺にとって今この瞬間の最大の脅威は、あと一時間後に迫った『クロノス商事・営業部の朝礼』である。

 昨日、氷室玲奈部長から叩きつけられた市場予測データの修正案は、夜中のうちに(化け物に襲われる前に)一応完成させて、部長のデスクの上に置いてきた。

 だが、あの『氷山の悪魔』が、あれで一発OKを出すとは到底思えない。


 這うようにしてスーツを着込み、俺は満員電車という名のもう一つの戦場へと身を投じた。


 新東京市の通勤ラッシュは容赦がない。

 押し合い圧し合いの車内で、誰かの硬いビジネスバッグの角が、炎症を起こしている俺の広背筋にクリーンヒットするたびに、俺は声にならない悲鳴を飲み込んだ。

 ノワールと戦うより、この通勤ラッシュを生き抜く方が、よっぽど命懸けなのではないだろうか。


 午前八時四十五分。

 いつものように、重苦しい沈黙が支配する営業部フロア。

 パソコンのキーボードを叩く乾いた音だけが響く中、その足音が近づいてきた。


 カツ、カツ、カツ、カツ。


 磨き上げられたピンヒールが大理石を正確なリズムで叩く音。

 誰もが息を潜め、モニターから目を逸らさないようにする。獲物を探す肉食獣から身を隠す草食動物の群れ、それがクロノス商事営業部の朝の日常風景である。


 営業部長、氷室玲奈。

 今日も彼女は、一切の隙のない完璧なダークネイビーのスーツに身を包み、長い黒髪をピシッとまとめている。切れ長の冷酷な瞳がフロアを見渡し、少しでも気の抜けた社員がいれば、即座にその首を刎ねるような鋭いプレッシャーを放っていた。


 ……放っている、はずだった。


「おはようございます」


 玲奈が口を開いた。

 いつも通りの、氷のように冷たく、温度を持たない声。

 周囲の社員たちが「「「おはようございます!!」」」と軍隊のように返事をする。


 だが、俺は違和感を覚えていた。


(……ん?)


 ヒールの音が、いつもよりわずかに軽快な気がするのだ。

 メトロノームのように正確無比だった歩調が、ほんの少しだけ弾んでいるというか……極端に言えば、スキップの一歩手前のようなリズムを刻んでいる。

 さらに、彼女の唇に引かれたルージュの色。いつもは威圧感を与える深紅や落ち着いたローズ系だが、今日は少しだけ明るい、ピンクがかったコーラル系ではないか。


 そして、何よりも。


 俺のデスクの横を通り過ぎる時、彼女の身体からふわりと漂ってきた高級香水『ブルガリ・オムニア・クリスタリン』の香り。

 爽やかでありながら、どこか冷たく気高いその香りは、普段なら「近寄るな、無能」という威嚇のフェロモンとして機能している。

 しかし、今の俺の鼻腔がその香りを捉えた瞬間、脳内ハードディスクから強制的に一つの録画データが再生されてしまった。


『――はぁぁぁぁ、可愛い! シロちゃんっていうの!? いい匂い! 赤ちゃんの匂いがするぅぅ!』


 昨夜の、あのだらしなく蕩けた顔。

 俺のロリボディの胸元に顔を埋め、よだれを垂らさんばかりにスリスリと頬擦りをしてきた、あの重度の変態魔法少女ルビィの姿が、目の前の完璧なキャリアウーマンの姿に、バッチリと重なってしまったのだ。


「神堂主任」


 ピタリ、とヒールの音が止まり、俺のデスクの脇に玲奈が立った。

 ビクッと肩が跳ねる。


「は、はい。おはようございます、氷室部長」


「昨日、私のデスクに置いてあった修正資料……一通り目を通したわ」


 玲奈の冷酷な瞳が見下ろしてくる。

 いつものように、ここからネチネチと一時間近いダメ出しが始まる。俺は無意識のうちに、防御の姿勢(心を無にする儀式)を取ろうとした。


「データの算出根拠は、まあ、昨日よりはマシになったわね。競合のペーパーカンパニーの資金フローも、最低限のところまでは追えている。……でもね、神堂」


 玲奈がデスクに手をつき、顔を近づけてくる。

 完璧な造形の顔。冷徹な美貌。

 だが、至近距離で嗅ぐ彼女の香水の匂いが、俺の脳内プロセッサの処理能力を著しく低下させる。


『――お姉ちゃんが何でも買ってあげる! ねえ、今夜は私のお家に来る? 一緒にベッドで寝ちゃおうか!』


 ……ダメだ。

 目の前で、厳しい表情で資料の不備を指摘している上司の顔が、どう見ても「推しの幼女をお持ち帰りしようとする限界オタク」の顔にしか見えない。

 説教の言葉が、右耳から入って左耳へとツルツルと滑り抜けていく。


「特に、この七ページ目のリスクヘッジの項目。なぜここだけ抽象的な表現に逃げているの? 具体的な撤退ラインの数値目標が設定されていなければ、役員を説得できるわけがないでしょう。あなたは本当に、このプロジェクトを成功させる気があるの?」


 玲奈の言葉は正論だった。

 だが、俺の意識は、彼女の言葉の意味ではなく、彼女の首筋や、ほんのりと赤みを帯びているように見える頬に向かっていた。


(あの時、俺の頭を撫で回してハァハァ言ってた手で、今は資料を弾いてるんだな……)


「……ちょっと、神堂。聞いているの?」


 玲奈の声が一段階低くなった。


「はい。聞いております」


「嘘ね。あなたのその目、全くこちらにフォーカスが合っていないわ。いつもは嵐が過ぎ去るのを待つだけの死んだ目をしているくせに、今日は……何か、別のことを考えているような、不気味な目よ」


 鋭い。

 さすがは氷山の悪魔、部下の些細な変化を見逃さない。

 だが、彼女は俺が『不気味な目』で何を見ているのか、その正体を知る由もない。


「神堂! どこを見ているの!」


 玲奈がバンッ!とデスクを叩き、怒声を上げた。

 周囲の社員たちがビクッと身をすくめ、「ああ、今朝も神堂主任が血祭りに上げられる」と震え上がる。


 しかし、俺の口から飛び出したのは、自分でも制御不能な、完全にピントのずれた言葉だった。


「いえ……部長。今日は随分、ご機嫌ですね」


「…………は?」


 時間が止まった。

 いや、営業部フロア全体の酸素が一時的に消失したかのような、絶対的な真空状態が訪れた。


 隣の席の後輩が、椅子から滑り落ちそうになりながら、目を見開いて俺を見ている。

「神堂主任が狂った!」「ついに過労で脳のストッパーが壊れたんだ!」という無言の悲鳴が、フロア中からビリビリと伝わってくる。


 玲奈は、目を丸くして俺を見つめ返した。

 怒りで顔を真っ赤にして怒鳴り散らすかと思いきや、彼女の反応は、周囲の予想を裏切るものだった。


「な、何を言っているの。私が……機嫌が良い、ですって?」


 玲奈の声が、微かに上擦った。

 完璧な能面の仮面がひび割れ、その奥から、明らかな『動揺』が漏れ出していた。


「ええ。リップの色もいつもより明るいですし、先ほど歩いていらっしゃる時の足音も、普段のBPMより若干テンポが速かったように思われます。何か、プライベートでとても良いこと――例えば、運命的な出会いのようなもの――でもあったのかと推察いたしまして」


 俺は、死んだ魚の目のまま、淡々と事実を(少しカマをかけながら)述べた。


 図星だった。


 玲奈の顔が、みるみるうちに耳の先まで真っ赤に染まっていく。

 昨夜の「シロちゃん」との劇的な出会い。自分を助けてくれた、天使のように可愛くて、でもどこか庇護欲をそそる純白の魔法少女。

 その思い出を反芻して、今朝の玲奈は内心、推し活の翌日のオタクのようにウキウキしていたのだ。それを、よりによって普段一番叱り飛ばしている部下に見透かされた。


「……っ!!」


 玲奈は、口をパクパクとさせ、反論の言葉を探しているようだったが、やがてゴホンッ!と不自然なほど大きな咳払いを一つした。


「ば、馬鹿なことを言っていないで、さっさとこの七ページ目を修正しなさい! 昼までに私のデスクに持ってくること! いいわね!!」


 それだけを早口で捲し立てると、玲奈は逃げるように――しかし、やはり少しだけ足取りが軽く――自分の個室である部長室へと駆け戻っていった。

 バタンッ!と、少し乱暴にドアが閉まる音が響く。


「……」


 フロアは、嵐が嘘のように去ったことに唖然としていた。

 いつもなら、最低でもあと三十分は続くはずの説教が、たった一言で打ち切られたのだ。


「し、神堂主任……今のは、一体……?」

 隣の後輩が、恐る恐る話しかけてきた。


「気にするな。猛獣使いのテクニックだ」

 俺は適当にごまかしながら、再びエクセルの画面へと向き直った。


(危なかった……)


 内心では冷や汗が滝のように流れていた。

 もし、俺が「シロちゃん」の中の人だとバレていたら、今頃はこのビルから飛び降りる羽目になっていただろう。

 だが、同時に確信した。あの鬼部長の唯一の弱点は、シロに対する異常なまでの執着と溺愛だということを。


 午前中の業務は、なんとか平穏(という名のデスマーチ)に過ぎていった。

 筋肉痛に耐えながら、七ページ目のリスクヘッジの項目を具体的な数値に落とし込み、昼休みギリギリになんとか修正資料を完成させる。


「よし……これで文句はないはずだ」


 俺はプリントアウトした資料の束を持ち、玲奈のいる部長室へと向かった。

 ノックをして入室の許可を求める。


「入れ」

 中から、いつもの冷たい声が響いた。


「失礼いたします。修正した資料をお持ちしました」


 俺がドアを開けると、玲奈は広々としたデスクの奥で、真剣な表情でパソコンのモニターを睨みつけていた。

 俺の顔を見ると、彼女はスッと冷たい視線を向けた。先ほどの動揺は完全に消え去り、再び『氷山の悪魔』の仮面を被っている。


「そこに置いておいて。後でチェックするわ」


「承知いたしました」


 俺はデスクの端に資料を置こうと歩み寄った。

 その時だった。


 玲奈のデスクの上、彼女の左手の陰に隠れるようにして開かれていたシステム手帳。

 そのページとページの間に、一枚の写真が挟まっているのが、俺の目に飛び込んできたのだ。


(……ん?)


 俺の異常な動体視力(絶望耐性の副産物)が、その写真に映っているものを一瞬で捉えた。


 暗い夜の背景。

 炎の照り返し。

 純白のフリルドレスを着て、巨大なステッキを肩に担ぎ、死んだ魚の目で振り返っている、プラチナブロンドの幼女。


 ――昨夜、蜘蛛型ノワールを倒した直後の、シロの後ろ姿だった。


(……ッ!?)


 俺は心臓が口から飛び出しそうになるのを必死に堪えた。

 隠し撮りだ。

 おそらく、俺が振り返ったあの一瞬の隙に、魔法少女のデバイスかスマホでこっそり撮影したのだろう。


 しかも、ただの写真ではない。

 写真の四隅には、百円ショップで売っていそうなキラキラ光るピンク色のハート型シールが貼られ、ご丁寧に金色のラメ入りペンで『My Angel♡』という、およそこの氷山の悪魔からは想像もつかないファンシーな文字が躍っていたのだ。


 手帳に挟んで、仕事中にもこっそり眺めて癒されているというのか。中身は、今まさに目の前で頭を下げている、三十歳のおっさんだというのに。


「……神堂。何を見ているの?」


 俺の視線の動きに気づいたのか、玲奈がバサッと素早く手帳を閉じ、その上にファイルを重ねて隠した。

 彼女の目が、氷のように細められる。


「い、いえ。手帳のカバー、新しくされたのかなと思いまして。とてもセンスが良いですね」


 俺は営業スマイル(引き攣り度100パーセント)で何とか誤魔化した。


「……お世辞はいいわ。さっさと戻って、次の仕事に取り掛かりなさい」


「はい。失礼いたします」


 逃げるように部長室を後にする。

 ドアを閉めた瞬間、俺は壁に手をつき、荒い息を吐いた。


 胃が、痛い。

 尋常ではなく痛い。

 自分が隠し撮りされた写真を見せられ、しかもそれが自分の直属の上司の推し活アイテム(しかもMy Angel扱い)になっているという、この宇宙的恐怖コズミック・ホラー級の精神的ブラクラ。


 俺の平穏な社畜ライフは、完全に崩壊へのカウントダウンを始めていた。


 そして、夕刻。

 窓の外がすっかり暗くなり、帰宅する社員が一人、また一人と減っていく中。

 俺のデスクには、さらに追加の資料の山が積み上げられていた。


「神堂」


 背後から、玲奈の声が降ってきた。


「明日までに、A社のコンペ用の企画書、ベースラインだけ作っておいて。今夜も残業よ。……期待しているわ」


 期待している、という言葉には一切の温かみはなく、単なる「終わるまで帰るなよ」という死刑宣告でしかなかった。


「……承知いたしました」


 俺が絶望の溜息をついた、その瞬間。


 ヴヴヴヴヴヴッ!!


 俺のスーツの胸ポケットで、激しいバイブレーションが鳴り響いた。

 マキ博士から渡された、スマホに偽装した軍用通信機。

 画面には、赤い文字で『ALERT:NOIR DETECTED(ノワール出現)』の文字が点滅している。


「……ちっ」


 俺は舌打ちを噛み殺した。

 右には、明日までに終わらせなければならない企画書の山。

 左には、世界を救うための強制出撃命令。


 過酷すぎる二重生活ダブルブッキングは、まだ始まったばかりだった。

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