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第5話 悪魔が堕ちた夜

『ギシャァァァァァァァァッ!!』


 深夜の中央公園に、再生した蜘蛛型ノワールの鼓膜を劈くような怒号が響き渡った。


 先ほど、俺の『ドリーム・ステッキ』(重量二トン)の直撃を脳天から受け、一度は完全にペシャンコになったはずの巨体。

 だが、周囲の噴水や土壌を汚染していたヘドロ状の泥を急速に取り込み、奴は元のサイズよりもさらに一回り大きく、禍々しく膨れ上がっていた。


 八本の脚は鋼鉄の槍のように鋭く太く変異し、節々からは毒々しい黄色の粘液が滴り落ちている。

 胴体部分に無数に浮かび上がった複眼が、ギラギラと赤黒い殺意の光を放ち、俺という明確な『敵』を捕捉していた。


「……チッ。しぶといですね」


 俺は、通信機に向かってボソリと呟きながら、超高密度合金製のステッキを無造作に肩に担ぎ直した。


 クレーム対応でも、一度収束したと思った案件が、顧客のさらなる怒りを買って炎上(再燃)した時が一番厄介だ。

 目の前の化け物も同じ。一度殺された怒りと屈辱で、完全に『クレーマー』として限界突破している。


「これ、残業代の申請、深夜割増と危険手当、それに再出撃リトライの特別手当まで全部乗せても文句は言われませんよね、マキ博士」


『当然よ! あいつは大型の中でもかなり上位の個体だわ。無事に倒せば、アンタの今の会社の基本給、三ヶ月分は軽く飛ぶわよ!』


 三ヶ月分。

 その甘美な響きに、俺の死んだ深海魚の目の奥で、一瞬だけ『野心』という名のギラついた火花が散った。


 ボーナスすらまともに出ない、残業代は固定の『みなし残業』で誤魔化されている今の会社(クロノス商事)で、基本給三ヶ月分を貯金するにはどれほどの血反吐を吐かなければならないか。

 それを思えば、目の前で毒液を撒き散らしている醜悪な化け物すら、俺にとっては歩く札束の山、いや、ボーナス袋の塊に見えてくる。


『シャァァァァッ!!』


 蜘蛛が動いた。

 巨体に似合わぬ恐るべきスピードで地を這い、二本の鋭利な前脚を、俺の小さな身体めがけて左右から挟み込むように突き出してくる。

 並の鋼鉄ならバターのように易々と切り裂き、建物の柱すら一撃でへし折るであろう凶器。


 しかし、毎晩終電までパソコンのモニターを睨み続け、一ミリのフォントのズレすら見逃さないように鍛え上げられた徹夜明けの社畜の動体視力(というより、死に対する極度の無頓着さ)の前では、その動きはひどく単調で、予測可能なものに見えた。


「――遅いですね」


 俺は、一切の表情を変えることなく、一歩だけ半身を引いた。

 空を切った蜘蛛の巨大な鎌が、俺の鼻先数ミリを通り過ぎ、そのままアスファルトに深く突き刺さる。


 動きが止まった、その一瞬の隙。

 俺は肩に担いでいたステッキを両手でしっかりと握り直し、腰の捻りと遠心力を極限まで利用して、横薙ぎのフルスイングを見舞った。


「ドォォォォォォォォォンッ!!」


 空気を極限まで圧縮したような破裂音が、深夜の公園に弾けた。


 ステッキの先端にあしらわれたピンク色のハートが、蜘蛛の右側の脚三本を根元からまとめて粉砕した。

 魔法の光弾も、浄化のビームも一切ない。

 無駄にキラキラした星屑やハートのエフェクトが飛び散っているが、実際にやっていることは、圧倒的な質量と運動エネルギーによる、純度百パーセントの物理法則に基づく暴力だ。


『ギギィィィィィッ!?』


 右半分の脚を一気に失い、バランスを崩した蜘蛛の巨体が、ゴロゴロと無様に横転する。


「な……っ……」


 少し離れた場所でへたり込んでいたルビィが、呆然とした顔でその光景を見つめていた。

 彼女の常識では、魔法少女の戦闘とは、華麗に空を舞い、美しい光の魔法を放ち、「愛と正義の名のもとに!」などと高らかに叫びながら敵を浄化するものだったはずだ。


 だが、目の前の現実はこれである。

 フリフリの純白ドレスを着た幼女が、自分の身長より大きな二トンの鈍器で、怪物の関節を一つ一つ物理的にへし折っていく、極めて野蛮かつ泥臭い解体作業。


(まぁ、エクセルの終わらないデータ入力と、上司の終わらない説教に比べれば、物理的に叩き潰せるだけマシか)


 俺は、完全に作業タスクをこなすビジネスマンの思考に切り替え、倒れて身動きが取れなくなった蜘蛛の胴体めがけて跳躍した。


 この『純白のエトワール・ブラン』というふざけたアバターの身体能力は凄まじい。

 軽くアスファルトを踏み込んだだけで、地上十メートルの高さまで易々と到達する。


 俺は空中から、ステッキの石突き(持ち手の底の部分)を、蜘蛛の無数にある複眼のど真ん中へ向けて、脳天から振り下ろそうとした。


 だが、大型のノワールもただの的ではない。


『シュルルルルッ!!』


 怪物の口から、黄色い強酸性の糸が大量に吐き出された。

 それは空中にいる俺を絡め取ろうと、巨大な投網のように扇状に広がって迫ってくる。

 空中で回避行動をとることはできない。このままでは網に捕まり、強酸で全身を溶かされてしまう。


(チッ、面倒な反撃を……)


 俺が空中で舌打ちをした、まさにその時だった。


「――『氷結フリーズ』ッ!!」


 凛とした、しかし魔力切れ寸前の限界まで掠れた女の叫び声が、背後の地上から響いた。


 直後、俺の背中を通り抜けるようにして、絶対零度の冷気の塊が放たれた。

 冷気は、俺に襲いかかろうとしていた酸の投網に真正面から直撃し、一瞬にして空中でカチンコチンに凍結させる。

 凍りついた網は自重と冷気に耐えきれず、俺に届く前に空中で粉々に砕け散り、無害な氷の粒となって降り注いだ。


 見下ろすと、地面に片膝を突いたままのルビィが、残された最後の力を振り絞って、氷の長杖を俺の方へと突き出していた。


 彼女の魔力は完全に底を尽きかけており、周囲を漂っていた美しい冷気のオーラは跡形もなく消え去っている。

 今の援護魔法は、まさに彼女の命そのものを削って放たれた、文字通りの『決死のアシスト』だった。


「……シロ、ちゃん。今よッ!!」


 ルビィが、血を吐くような悲痛な声で叫ぶ。


「――承知しました。ナイスアシストです」


 俺は空中で、平坦な業務連絡のトーンで応えた。


 自分の部署だけでは解決できない厄介な事案に対して、他部署のエースが絶妙なタイミングでヘルプに入ってくれた。

 ならば、その期待パスに完璧に応えてプロジェクトを完遂させるのが、優秀なビジネスマンというものだ。


 酸の網という障害をクリアした俺は、自由落下の勢いをそのまま二トンのステッキに乗せた。


「これで、本日の残業は終了フィニッシュです」


 俺は死んだ魚の目をカッと見開き、両手で握り締めた巨大な鈍器を、大上段からの唐竹割りの軌道で振り下ろした。


 ――ズドォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!


 ステッキの先端のハート部分が、蜘蛛型ノワールの頭頂部から胴体にかけて、一切の抵抗を許さずに真っ二つに叩き割った。


 ルビィの放った冷気によって表面の装甲が脆くなっていたこともあり、怪物の巨体は、まるで薄いガラス細工か飴細工のように、いともたやすく粉々に砕け散った。


 爆発的な衝撃波が全方位に円心状に広がり、公園の周囲を包んでいた炎を完全に吹き消す。


 後には、パラパラと砂のように崩れ落ちる黒い泥の破片と、深々と抉られたアスファルトの巨大なクレーターだけが残された。

 砕け散った泥の破片は瞬く間に黒い霧(呪い)へと変わり、スルスルと俺の小さな身体へと吸い込まれていく。


「ふぅ……」


 俺はステッキを地面に下ろすと、空間に収納し、軽く首を回した。


 大量の呪いを吸収したせいか、少しだけ右の肩甲骨のあたりが重い。

 四十肩が悪化したような、あるいは長時間パソコンのモニターを睨み続けた後の眼精疲労のような感覚だ。明日、仕事帰りにドラッグストアで少し高めの湿布を買って帰ろう。


 炎が消え、完全な静寂が戻った公園で、俺は一つ息を吐き、振り返った。


「――っ……」


 そこには、氷の長杖を杖代わりにして、辛うじて立ち上がろうとしているルビィの姿があった。


 しかし、彼女の体力と魔力の限界は、とうに超えていたのだ。

 俺のアシストのために最後に無理をしたツケが、一気に押し寄せてきたのだろう。

 ガクン、と膝の力が抜け、彼女の身体が糸の切れた操り人形のように、前方へと崩れ落ちる。


「危ない」


 俺の身体は、思考よりも先に動いていた。


 それは、社畜として培われた、極限の無意識の気遣い(接待スキル)だった。

 得意先の社長がゴルフ場の傾斜でよろけた時。

 あるいは、酒癖の悪い役員が飲み会帰りの駅の階段で倒れそうになった時。

 誰よりも早く駆けつけてスマートに支え、相手に恥をかかせないようにフォローしなければ、翌日の社内評価に響く。


 その悲しきサラリーマンの条件反射が、異常な身体能力を持つ魔法少女の身体で発動した結果。


 ルビィの顔面が地面に激突する寸前、俺はまるで瞬間移動のような速度で彼女の懐に滑り込んでいた。


 スッ、と。

 俺の細く白い右腕が彼女の背中を優しく抱きとめ、左腕が腰のあたりをしっかりと、しかし相手に負担をかけないように支える。

 身長差があるため、俺が下から支え、ルビィが俺の肩に寄りかかるような、いわゆる『お姫様抱っこ』の変形のような形になった。


「お疲れ様です。お怪我はありませんか?」


 俺は、一切の感情を排した無表情のまま、彼女の顔を覗き込んで声をかけた。

 声は鈴を転がすような可愛らしいロリボイスだが、その行動は、疲れ果てた女性をスマートに支える、手慣れた大人のイケメンのそれだった。


 ルビィの長いまつ毛が震え、ゆっくりと、その切れ長で気高い瞳が見開かれた。

 至近距離で、俺の顔と彼女の顔が向かい合う。


「あ……」


 ルビィの桜色の唇から、小さく、吐息のような声が漏れた。


 彼女の美しい顔が、みるみるうちに熟れた林檎のように真っ赤に染まっていくのが分かった。

 瞳孔が開き、呼吸が荒くなり、俺の肩に置かれた彼女の手が微かに震え始める。


(ん? なんだ? 魔力切れの副作用か? それとも呪いにあてられて具合が悪くなったのか?)


 俺が不思議に思って、救急車を呼ぶべきか、それともマキ博士に緊急ワープを要請すべきかと、労働災害の処理手順について真剣に考えていた、その時だった。


「か……かかか、かかかか……ッ!!」


 ルビィが、プルプルと全身を震わせながら、呻くような、言葉にならない声を出した。


「か……可愛いぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃッ!!!!」


「…………はい?」


 鼓膜が破れそうなほどの、狂気に満ちた絶叫。


 次の瞬間、俺は凄まじい力で、ルビィの両腕に抱きしめられていた。


「なにこの子!? なにこの生き物!? お人形さんみたい! 真っ白でフワフワで、こんなに小さいのに、戦うとあんなに野蛮で強くて! でも最後に私を助けてくれる時の、あの超絶イケメンムーブ!! ギャップ! ギャップの暴力ぅぅぅ!! 私を殺す気!?」


「えっ、ちょっ、ルビィさん!? あの、苦し……ッ!」


 先ほどまで、炎の中で「氷の女王」「気高い戦乙女」という近寄りがたいオーラを放っていた彼女の姿は、そこには微塵もなかった。

 完全に限界を突破した変質者、あるいは、推しのアイドルのファンサを至近距離で浴びて語彙力を完全に喪失した、重度の限界オタクのそれである。


「はぁぁぁぁ、可愛い! シロちゃんっていうの!? いい匂い! 赤ちゃんの匂いがするぅぅ!」


「いや、俺は別にいい匂いなんかじゃ……って、嗅ぐな! 首筋に顔を埋めるな!」


 ルビィは俺の抗議など全く意に介さず、俺の髪に顔を突っ込み、スリスリと激しく狂ったように頬擦りをしてくる。


 彼女の豊満な胸が、俺の顔面に容赦なく押し付けられている。

 三十歳の健全な(ただし疲弊しきって枯れかけている)独身男性としては、かなりまずい、というか法的にアウトな状況だ。


 だが、問題はそんな倫理観の欠如ではなかった。


「お姉ちゃんが何でも買ってあげる! パフェ? クレープ? それともおもちゃ!? ねえ、今夜は私のお家に来る? 一緒にベッドで寝ちゃおうか!」


「離し、離してください! 完全に事案ですよこれ! 警察呼びますよ!」


「ふふふっ、警察なんて呼ばせないわよぉ。だってシロちゃん、私から全然離れようとしてないじゃない♡」


「物理的に力が強すぎて抜け出せないんです!!」


 俺は必死に彼女の腕から逃れようと、小さな手足をジタバタともがいた。

 しかし、先ほどの魔力切れで倒れそうになっていた弱々しい姿は一体どこへやら、現在のルビィは火事場の馬鹿力(あるいは変態の執念)を発揮しており、万力のような凄まじい力で俺をホールドしていた。


 その時。

 もがく俺の顔が、彼女の首筋のあたりに押し付けられた瞬間。


 ふわりと。

 汗の匂いに混じって、強い香水の香りが俺の鼻腔を突いた。


(――ッ!?)


 俺のもがく動きが、ピタリと止まった。


 戦闘の汗や土埃の匂いじゃない。血の匂いでもない。

 爽やかなフローラル系でありながら、どこか冷たく、人を寄せ付けないような凛とした威厳を感じさせる、高級で特徴的な香り。

 『ブルガリ・オムニア・クリスタリン』。


 間違いない。絶対に間違いない。

 それは、毎朝、俺のデスクの横に立って、氷のような冷酷な声で俺の資料をゴミ箱に叩き込む、あの女から常に漂っている香りと同じだ。


 俺の脳内で、バラバラだったいくつかのピースが、カチリ、カチリと恐ろしい音を立てて組み合わさっていく。


『――こんな粗末な仕事で私の時間を奪うことの罪深さを分かっているの?』

(今朝の玲奈部長の、あの氷のような冷酷な声)


『――彼女、無駄にプライドが高いのよ。自分が完璧でなければならないって、強迫観念みたいに思い込んでる』

(先ほどマキ博士が語っていた、ルビィに対する評価)


『――ねえ、今夜は私のお家に来る? 一緒に寝ちゃおうか!』

(今、俺を抱きしめてよだれを垂らしそうになっている、この変態魔法少女の声)


 完璧なプロポーション。

 艶やかな黒髪。

 極端な完璧主義と、他者を寄せ付けないクールな態度。

 そして、この冷たくて気高い香水。


 信じたくない。信じたくないが、論理的帰結として、一つの最悪な答えしか導き出せない。


(こいつ……うちの鬼部長だ……ッ!!)


 俺は、彼女の豊かな胸の谷間に顔を埋められたまま、完全に絶望の、暗く冷たい深淵へと叩き落とされていた。


 全身の血の気が一気に引き、心臓が氷のように冷たくなるのを感じる。

 もし。もし万が一、今の俺の正体が、彼女が昼間ゴミのように扱っている「神堂誠(三十歳)」だとバレたらどうなる?


 この異常な溺愛ぶりから一転、絶対零度の氷結魔法で全身をバラバラに砕かれ、新東京湾に沈められるのは間違いない。

 そして、明日の朝には、会社で「神堂は一身上の都合により退職しました」と事後報告され、社会的に完全に抹殺される。


「……シロちゃぁん、どうしたの? 急に大人しくなっちゃって。お姉ちゃんの胸の中、落ち着く?」


 ルビィ(氷室玲奈部長)が、蕩けるような甘い声で、俺の頭を優しく撫でてくる。

 普段彼女が放つ氷結魔法よりも、今の彼女のこの猫撫で声の方が、俺にとっては致死性の猛毒だった。


「……い、いえ。なんでもありません」


 俺は、必死に顔の引き攣りを隠し、極限までフラットなロリボイスを保って答えた。

 絶対に。何があっても、絶対にバレてはならない。


 昼間は会社で「無能」と罵られ、理不尽な残業を強いられる。

 そして夜は、魔法少女に変身して、同じ上司から「可愛い!」と異常な溺愛とセクハラを受ける。


 逃げ場のない、完璧な地獄。

 

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