第2話 魔法少女契約はクーリングオフ対象外
ドシュッ!!
風を切り裂く音と共に、殺意に満ちた黒い触手が、呆然と立ち尽くす俺の眉間めがけて振り下ろされた。
人間の脳というのは、極限の生命の危機に瀕すると、これまでの記憶が走馬灯のように駆け巡ると言われている。
あるいは、時間の流れが極端に遅く感じられる『タキサイキア現象』というものに陥るらしい。
確かに、俺の体感時間は限界まで引き延ばされていた。
迫り来る真っ黒な触手の表面の蠢きまでが、ハッキリとスローモーションで見える。
しかし、俺の脳裏を駆け巡ったのは、家族との温かい思い出でも、かつて抱いていた壮大な夢でもなかった。
脳内を猛烈な勢いでスクロールしていたのは、『労働者死傷病報』のフォーマットと、労災保険の休業補償給付の計算式だった。
(……通勤途中の災害だから、通勤災害として認定されるはずだ。給付基礎日額の八割が支給されるとして、今の俺の基本給から計算すると……)
目の前の怪物が何者であるかなど、もはやどうでもよかった。
この触手が頭を直撃すれば、間違いなく重傷を負う。あるいは死ぬかもしれない。
だが、骨の二、三本が折れて全治三ヶ月の入院となれば、あの氷室玲奈の『地獄の朝礼』から三ヶ月間も合法的に逃れられるのだ。
痛みと引き換えに、有給休暇すら凌駕する絶対的な休息が手に入る。
そう結論づけた俺の顔には、死への恐怖ではなく、不気味なほどの安堵の笑みが浮かんでいたかもしれない。
俺は抵抗することをやめ、目を閉じてその「救済の一撃」を受け入れようとした。
――ズドォォォォォォンッ!!
その時、俺のささやかな休息の夢は、暴力的な轟音によって粉々に打ち砕かれた。
突如として、俺の真横のレンガ壁が爆発したかのように吹き飛んだ。
もうもうと舞い上がる土煙とコンクリート片の中を突き破り、黒塗りの巨大な軍用装甲車が路地裏に乱入してきたのだ。
装甲車はブレーキをかけることなく、俺に触手を振り下ろそうとしていた怪物の横っ腹に凄まじい勢いで激突した。
『ギァ、アァァァァァァッ!?』
怪物は、車と壁の間にサンドイッチにされ、耳をつんざくような悲鳴を上げて黒い体液を撒き散らした。
その巨体が路地の奥へと弾き飛ばされ、ゴミ捨て場のポリバケツを巻き込みながらひっくり返る。
「……は?」
俺は目を開け、間抜けな声を漏らした。
目の前には、アイドリング音を低く響かせるゴツい装甲車。壁を突き破ってきたというのに、その分厚いフロントガラスにはヒビ一つ入っていない。
プシューッ、と油圧式のドアが開く音がした。
運転席から、一人の女が降りてきた。
「ちょ、ちょっと! 今の観た!? 計測器の針が振り切れたわよ! 限界突破、いや、測定不能じゃないの!!」
女は手元のタブレット端末のようなものを食い入るように見つめながら、バンバンと装甲車のボンネットを叩いて興奮していた。
年齢は三十代半ばくらいだろうか。
ボサボサに乱れた髪を無造作に後ろで束ねており、目の下には俺といい勝負の深いクマが刻まれている。白衣を羽織っているが、その下に着ているのは『萌え萌えキュン♡』という謎の美少女アニメキャラがプリントされたヨレヨレのTシャツと、ジャージのズボン。
口には火のついていないタバコを咥えている。
一言で言えば、徹夜明けの限界オタクとマッドサイエンティストを悪魔合体させたような風貌だった。
「あ、あの……?」
俺が声をかけると、女はバサッと白衣を翻し、猛禽類のような鋭い目でこちらをギロリと睨みつけた。
そして、ズンズンと鼻先が触れ合いそうな距離まで近づいてくる。
「アンタね! さっきの信じられない数値を出したのは!」
「数値? いえ、俺はただ帰宅途中で……」
「間違いないわ、この反応! 絶望耐性、驚異の9999オーバー! システムがエラーを吐くレベルの、完全なる感情の死滅状態! 素晴らしいわ、アンタ、一体どれだけの地獄をくぐり抜けてきたの!?」
女は俺の肩をガシッと掴み、目を血走らせてまくしたてた。
「いや、地獄というか、今日は東アジア市場の分析レポートをフォントのズレから全部作り直させられまして……」
「どうでもいいわそんなこと!」
女は俺の言葉を強引に遮ると、白衣のポケットから一枚の薄い電子ペーパー(タブレット)を取り出し、俺の顔の前に突きつけた。
「いい? 時間がないから単刀直入に言うわよ。世界を救うために、軍と契約して魔法少女になりなさい!」
「……は?」
疲労のせいだろうか。日本語の文法として完全に破綻した単語の羅列が聞こえた気がした。
軍? 魔法少女?
三十歳、ヒゲの生えかけた独身男性の営業部主任に向かって、この女は何を言っているのだろうか。
「あの、人違いではないでしょうか。俺はクロノス商事の……」
『ギ、ギギギ……コロス……ヤスミ、ヨコセェェェ……』
俺の言葉を遮るように、路地の奥で装甲車に撥ね飛ばされた怪物が、再び蠢き始めた。
先ほどのダメージでどす黒い泥のような体が半分崩れかけているが、その分、怒り狂ったように全身から無数の鋭い棘を生やし始めている。
「チッ、しぶといわね。ノワール(あいつら)は人間の負の感情を餌にしてるから、この街の労働環境じゃ無限湧きなのよ」
女は舌打ちをすると、装甲車のキーについたボタンを押した。
すると、装甲車の屋根から自動追尾式のガトリング砲のようなものがウィーンとせり出し、怪物に向けて凄まじい勢いで火を吹き始めた。
ガガガガガガガガッ!!
路地裏に薬莢の雨が降り注ぎ、怪物の体がハチの巣にされていく。
しかし、撃たれた端から泥が再生し、怪物は少しずつこちらへとにじり寄ってきていた。通常兵器では足止めにしかならないらしい。
「ほら、見ての通りよ! あいつを根本的に消滅させるには、反・絶望エネルギー……つまり『魔法』の力が必要なの!」
女はガトリング砲の轟音に負けない大声で叫んだ。
「でも、その魔法を行使するには、術者自身に致死量の精神的負荷がかかる! 普通の人間なら一発撃っただけで発狂して廃人よ! だから、その負荷に耐えられる『心が完全に死に絶えた人間(極限の絶望耐性保持者)』が必要なのよ!」
なるほど、理屈は分かった。
つまり、毒を以て毒を制す。ストレス怪物を倒すための兵器を動かすには、既にストレスで心が壊れきっている人間が適任だということだ。
実に合理的だ。ビジネスの基本、適材適所である。
「状況は理解しました。しかし、俺には明日の昼十二時までに提出しなければならない決裁書類が……」
「バカ言ってる場合!? あいつを取り逃がしたら、この区画一帯が汚染されて、アンタの会社ごと消し飛ぶわよ!」
「会社ごと?」
俺の死んだ目に、一瞬だけ光が宿った。
「それなら、放っておけば俺は明日会社に行かなくて済むのでは……?」
「ダメよ! 世界が滅ぶの!」
「俺にとっては、明日の役員会議のほうが世界滅亡より恐ろしいイベントなんですが」
「この究極の社畜ッ!!」
女は俺の胸ぐらを掴んで揺さぶった。
怪物の棘付き触手が、ガトリング砲の弾幕を掻い潜り、俺たちの頭上スレスレを通り抜けて後ろの壁を粉砕した。パラパラとコンクリートの粉が降ってくる。
もはや一刻の猶予もない。
女は俺の目の前に、再び電子ペーパーを突きつけた。
「いいからこれにサインしなさい! 軍の特務機関、対ノワール殲滅部隊への入隊誓約書よ!」
俺は飛んでくる瓦礫を避けながら、ビジネスマンの習性として、反射的にその誓約書の文面に目を走らせた。
「……給与体系は?」
「完全歩合制! 倒したノワールのランクに応じて支払うわ!」
「基本給ゼロですか? それは労働基準法に抵触する恐れが……」
「軍の超法規的措置よ! でも単価は高いわ。一体倒せば、アンタの会社の月給分くらいは軽く稼げるわよ!」
月給分。
その言葉に、俺の指がピクッと反応した。住宅ローンの残高と、いつまで経っても上がらない俺の手取り額が脳裏をよぎる。
「……勤務時間は?」
「基本は二十四時間オンコール! 敵が出現したら、専用アプリで現在地から現場へ即時転送するわ!」
「休日出勤手当は?」
「世界が滅びかけてるのに休む気!? 有給なんてないわよ!」
「変身時の肖像権、および戦闘中のプライバシー権は軍に帰属……つまり、顔バレしたらどうなるんです?」
「心配ないわ! 変身中はシステムがアンタの存在確率を弄るから、認識阻害がかかるの! それに、あの姿なら絶対にバレないわ!」
俺は迫り来る触手と、タブレットの画面を交互に見比べた。
完全歩合制、24時間オンコール待機、有給なし、福利厚生不明、命の危険あり。
文字通りのデスマーチ。紛うことなきブラック労働の極みである。
普通なら、こんな契約書にサインする奴は頭のネジが数本飛んでいる。
だが。
「……なるほど。倒した分だけ、ちゃんと報酬(残業代)が出るんですね」
「は?」
女がポカンと口を開けた。
「残業代が未払いでないだけ、今の会社(クロノス商事)よりはるかにホワイトですね」
俺の頭のネジは、入社三年目の時点でとっくに全て吹き飛んでいた。
どうせ毎日深夜まで身を粉にして働いているのだ。そこに『怪物退治』という副業が追加されたところで、大した違いはない。むしろ、金払いが良い分だけ優良企業に見えてくるという、恐ろしい社畜のバグが生じていた。
「サインします」
俺は迷うことなく、自分の指を突き出した。
先ほど、壁が崩れた際に飛んできた破片で、右手の人差し指が少し切れて血が滲んでいた。
俺はその血の滲んだ指先を、タブレットの認証パネルに押し付けた。
ピッ、と電子音が鳴り、画面に『契約成立』の文字が浮かび上がる。
「よしっ! 言質は取ったわよ! クーリングオフは対象外だからね!」
女は狂喜の声を上げ、タブレットを白衣のポケットに突っ込んだ。
「あ、自己紹介が遅れたわね。私は御堂マキ。この『M.A.G.I.C.システム』の開発責任者よ」
「神堂誠です。それで、武器か何か支給されるんでしょうか? あいつ、もう目の前まで来てますが」
俺の言葉通り、ガトリング砲の弾切れと共に、全身を棘だらけにした巨大なノワールが、俺たちを押し潰そうと大きくのしかかってきていた。
しかし、御堂博士は全く焦る様子を見せなかった。
彼女はメガネの奥の目をギラリと光らせ、俺の全身を舐め回すように見て、酷薄な笑みを浮かべた。
「心配ないわ。アンタのその常軌を逸した絶望耐性なら……私が用意した『あの姿』でも、絶対に精神崩壊しないわね」
「……あの姿?」
嫌な予感がした。
ビジネスにおいて、契約直後に相手が浮かべる不敵な笑みは、大抵の場合、約款の細かい字を見落としていた時に発せられるものだ。
「システム『M.A.G.I.C.』、適格者承認!」
御堂博士が、手首に巻いたデバイスのボタンを力強く押し込んだ。
『――System Standby. Mana-Amplified Gloom Intercept Catalyst, Overwrite Start.』
無機質な機械音声が鳴り響いた瞬間。
俺の足元のアスファルトに、極彩色のピンクとイエローが入り混じった、魔法陣のような幾何学模様が展開された。
「な、なんだこれは……っ!?」
次の瞬間、俺の身体は視界を奪うほどの圧倒的な光の奔流に飲み込まれた。
ただの光ではない。無数のキラキラとした星屑や、ピンク色のハートマーク(物理)が周囲を乱舞している。
痛覚はない。
しかし、自分の肉体が、骨格から筋肉、細胞の一つ一つに至るまで、強制的に別の「何か」へと再構築されていく強烈な感覚があった。
視座が急速に低くなっていく。
スーツの生地が消滅し、代わりに何かフリフリとした、過剰な布地の感触が肌を包み込んでいく。
「ちょ、御堂博士! なんか身長が縮んでる気がするんですが!? それに、服の装飾が邪魔で動きにくっ……!」
抗議の声を上げようとした俺は、自分の口から発せられた『その音』に、生まれて初めて本当の絶望を味わうことになった。
光の中で、新たな戦士が産声を上げる。




