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第1話 死んだ魚の目をした男と氷山の悪魔

 心というものは、どうやら筋肉と同じ構造をしているらしい。


 急激な負荷をかければ悲鳴を上げ、断裂すれば激しい痛みを伴う。

 休ませて栄養を与えれば超回復して強くなるのかもしれないが、限界を超えた負荷をじわじわと、休むことなく三十六万五千時間ほどかけ続ければどうなるか。


 やがて、一切の痛みを感じなくなるのだ。

 神経が焼き切れ、ただの硬いゴムの塊のようになる。


 痛くない。

 悲しくない。

 怒りも湧かない。


 絶望すらも擦り切れ、ただ目の前のタスクを処理するだけの自動機械オートマトンが完成する。


 深夜二時十四分。


 静まり返った『クロノス商事』の営業部フロアで、俺は一人、その真理を噛み締めていた。


 フロアの主電源はとっくに落とされており、空調も切れている。十一月の冷え込みがコンクリートの床から這い上がってくるが、唯一の光源である俺のデスクに置かれたデュアルモニターから放たれる青白い光だけが、妙な熱を持っていた。

 PCの冷却ファンが排気する乾いた音が、やけに鼓膜に響く。


 俺の名前は神堂誠しんどう・まこと。三十歳。役職は営業部主任。


 世間一般では中堅総合商社と呼ばれるこの会社に入社して、もうすぐ八年になる。

「世界を股にかけるビジネスマンになる」なんて希望に胸を膨らませていた新入社員時代もあった気がするが、そんな前世の記憶は、日々の過酷なノルマと理不尽な顧客のクレーム、そして慢性的な睡眠不足の底に沈んで久しい。


 右側のモニター画面には、果てしなく続くエクセルのセルが並んでいる。

 明日――いや、日付が変わっているから今日の朝十時が期限の、大規模な市場予測データだ。マクロを組む余裕すらないまま、手作業で数千行のデータをコピペし、VLOOKUP関数が吐き出す「#N/A」のエラーを一つ一つ潰していく単純作業。


 左側のモニターには、競合他社の動向をまとめたパワーポイントが開かれている。


 机の端には、タワーのように積み上げられた未処理の決裁書類と、飲み干されたエナジードリンクの空き缶が五本。

 高麗人参エキス配合だの、アルギニン増量だのといった文句が踊っているが、カフェインなど、とうの昔に俺の自律神経に対して何の影響力も持たなくなっている。

 ただ、シュワッとした強炭酸の刺激で胃を荒らし、「自分はまだ生きている」と錯覚するための儀式のようなものだ。


 ブルーライトに照らされた窓ガラスに、自分の顔がうっすらと反射している。


 焦点の合っていない、濁りきった目。血の気のない肌。頬は少しこけ、無精髭がうっすらと生えかけている。

 控えめに言っても、スーパーの鮮魚コーナーで三日ほど売れ残り、見切り品のシールを貼られた魚の目玉だった。


「……よし、三十五ページ目、完了」


 誰もいないオフィスに、ひび割れた自分の声が落ちる。


 帰るという選択肢は存在しない。

 終電はとうの昔に線路の彼方へ消え去り、タクシー代を会社に請求しようものなら、経理部の鬼軍曹からコンプライアンス違反だと小一時間問い詰められる。

 自腹を切るには、俺の薄給と重い奨学金の返済、そして見栄を張って組んでしまった住宅ローンがそれを許さない。


 俺は引き出しの奥から、長年の相棒である安物の寝袋を引っ張り出した。デスクの下のわずかなスペースこそが、現在の俺にとって唯一の安住の地である。


 床の硬いカーペットに身を横たえ、目を閉じる。


 あと五時間で、再びこの戦場に「悪魔」が降臨する。

 それまでに、一秒でも長く脳の電源を切らなければならない。夢も見ない、ただの気絶に近い睡眠へと、俺は泥のように沈んでいった。


 翌朝、午前八時三十分。


 クロノス商事営業部のフロアは、すでに殺伐とした空気に包まれていた。

 出社してくる社員たちの顔は一様に暗く、胃薬をペットボトルの水で流し込む者、ため息をつきながらネクタイを締め直す者、虚ろな目で宙を見つめながらマウスを無意味にクリックし続ける者など、まるでドナドナと屠殺場へ運ばれていく仔牛のような悲壮感が漂っている。


 そして、午前八時四十五分。


 その音がフロアに響き渡った瞬間、オフィスの室温が体感で五度ほど下がった。


 カツ、カツ、カツ、カツ。


 磨き上げられたピンヒールが、大理石の床を正確なリズムで叩く音。

 その足音が近づくにつれ、若手社員たちはキーボードを叩く手をピタリと止め、息を潜めた。中堅社員はPCのモニターを食い入るように見つめ、「私は背景の観葉植物の一部です」とでも言わんばかりに気配を消そうと必死になっている。


 営業部長、氷室玲奈ひむろ・れいな


 俺より二つ年下でありながら、その圧倒的な業績と冷徹なマネジメント能力で、異例のスピード出世を遂げた女傑だ。

 かつて、横領の疑いがあった役員を役員会議の場で完膚なきまでに論破し、泣きながら辞表を書かせたという伝説すら持っている。


 彼女がフロアの中央を通路に沿って歩いてくる。


 完璧に仕立てられたダークネイビーのパンツスーツが、彼女のモデルのようにスレンダーなプロポーションを際立たせている。艶やかな漆黒の長い髪は後ろでキツくまとめられ、一糸の乱れもない。切れ長で知的な瞳、形の良い鼻筋、そして決して笑うことのない薄い桜色の唇。


 間違いなく、誰もが振り返るほどの絶世の美女である。もし彼女が街を歩けば、芸能プロダクションのスカウトが群れをなして名刺を差し出すだろう。


 しかし、このオフィスで彼女に魅了される者など一人もいない。

 彼女の周囲には常に絶対零度のオーラが渦巻き、近寄る者すべてを凍らせるからだ。


 社内での彼女の通り名は『氷山の悪魔』。


 ミスを犯した部下を、一切の感情を交えず、ただ純粋な論理と冷徹な事実のみで一時間以上詰め続けるその姿は、多くの社員の心を物理的かつ精神的にへし折ってきた。今月だけでも、彼女の直属になった新入社員がすでに二人、胃潰瘍で休職に追い込まれている。


「おはようございます」


 玲奈が透き通るような、しかし一切の温度を持たない声でフロア全体に挨拶をする。


「「「おはようございます!!」」」


 軍隊の朝礼のような、悲壮なほどの声量の返事が響き渡る。

 俺はデスクの下から這い出し、皺くちゃになったスラックスの膝を整えながら、自分の席で生返事をした。


 玲奈のヒールの音が、一直線に俺のデスクへと向かってくる。


 周囲の同僚たちが、あからさまに視線を逸らした。

(あぁ、今朝の生贄は神堂主任か。南無三)という心の声がビリビリと伝わってくるようだ。隣の席の後輩に至っては、呼吸すら止めているのが分かる。


 カツ、カツ、ピタリ。


 俺のデスクのすぐ脇で、ヒールの音が止まった。

 ふわりと、ブルガリの微かな香水の匂いが鼻をかすめる。高級で、どこか近寄りがたい凛とした香りだ。


「神堂主任」


「はい、おはようございます、氷室部長」


 俺は一切の感情を排した、営業スマイルの最終形態――無表情のまま顔を上げた。


 玲奈の冷酷な瞳が見下ろしてくる。彼女の手には、俺が昨夜、命を削って仕上げたはずの分厚い資料の束が握られていた。


 バサァッ。


 玲奈は躊躇なく、その資料を俺のデスクの上に投げ落とした。ホッチキスで留められた紙の束が、無残に散らばる。


「……これは、何のつもりかしら」


 氷の刃のような声だった。フロアの空気がさらに一段階、凍てつく。


「昨日ご指示いただきました、来期の東アジア市場における新規開拓ターゲットの予測データと、競合他社の動向分析レポートですが」


「そんなことは聞かなくても表紙を見れば分かるわ」


 玲奈は冷たく言い放ち、散らばった資料の三ページ目を艶やかなマニキュアを塗った指先で弾いた。


「私が聞いているのは、なぜこのデータにあなたの個人的な『推測』が混ざっているのかということよ。第三四半期の見込み利益の算出根拠、これ、前年同期比からの単純なスライド計算よね? 現在の為替変動リスクと、現地の法改正による関税への影響が全く加味されていない。加えて、現地パートナー企業のアライアンス状況に関するKPIの設定が甘すぎる。こんな小学生の足し算みたいな資料を、今日の午後、役員会議に出せと言うの?」


「申し訳ありません。早急に修正いたします」


 俺は反射的に頭を下げた。心拍数は一ミリも変動していない。

 玲奈の言葉は続く。


「それだけじゃないわ。競合の動向分析も浅すぎる。表面的なプレスリリースをまとめただけで、裏で彼らが動かしているペーパーカンパニーの資金の流れが追えていない。昨日、私が『徹底的に洗え』と言った言葉の意味、理解しているのかしら?」


「私の認識不足でした。申し訳ありません」


「神堂主任。あなたは入社八年目でしょう。新入社員ならまだしも、主任という肩書きを持っている人間が、こんな粗末な仕事で私の時間を奪うことの罪深さを分かっているの? あなたのその無能な処理能力のせいで、部全体のパフォーマンスが低下しているのよ。給料泥棒という言葉を知っているかしら」


 周囲の空気が完全に凍りつく。

 隣の後輩などは、自分まで飛び火しないように顔面を蒼白にして震え、一心不乱に意味のないタイピングをしている。


 しかし、俺の心は凪いでいた。


 痛くない。悲しくない。怒りもない。


 玲奈の口から発せられる罵倒の言葉は、俺の耳のフィルターを通ると、単なる「環境音」に変換される。

 ああ、今日は「無能」のバリエーションが少し多いな。言葉のチョイスに切れ味がある。朝食はパン派なのだろうか、などという頓珍漢な感想しか湧いてこない。


「……聞いているの、神堂」


 玲奈の声が、さらに一段階低くなった。俺が全くダメージを受けていないことを、彼女の鋭い勘が察知したのだろう。


「はい。深く反省しております」


「反省? あなたのその目は、反省している人間の目じゃないわ。ただ嵐が過ぎ去るのを待っているだけ。思考を停止させて、言われたことだけをこなそうとする、ただの機械よ」


 玲奈がデスクに身を乗り出し、顔を近づけてくる。彼女の冷たい吐息が届きそうな距離だ。完璧な造形の顔が目の前にあるが、恐怖しか感じない。


「あなたは本当に、自分の仕事に責任を持っているの? この会社の未来に、自分の人生に、何も感じないの!?」


 その問いかけには、普段の冷徹な論理とは違う、何か感情的な棘が混ざっていた。怒りというよりは、もどかしさのようなもの。


 だが、俺の心は微塵も揺らがない。ゴムの塊に針を刺しても無駄なのだ。

 俺はゆっくりと、デスクに散らばった資料の一枚を手に取った。


「はい、承知いたしました。ご指摘の通り、算出根拠の甘さと競合分析の深掘り不足につきましては、私の完全な落ち度です。ただちに修正作業に入ります。……ところで氷室部長」


「……何?」


 玲奈が訝しげに眉をひそめる。見え透いた言い訳でもする気か、と身構えたのが分かった。

 俺は資料のある一点を指差し、極めて平坦な、業務連絡と同じトーンで言った。


「この資料の四ページ目の中段なのですが、指定のコーポレートフォントである『MSゴシック』ではなく、一部『游ゴシック』が混ざっております。さらに、図表下の注釈のフォントサイズが規定の10.5ptではなく、11.5ptになっておりまして、全体的にレイアウトが右に1ミリほどズレています」


「…………は?」


 玲奈の口から、間抜けな声が漏れた。


「先ほどのデータ算出根拠と競合分析の修正は直ちに行いますが、このフォントの1ptのズレと、1ミリのレイアウトのズレにつきましては、このまま修正なしで役員会議に提出してよろしいでしょうか。それとも、本質的なデータの修正と併せて、こちらの体裁的な不備も修正すべきでしょうか。部長のご判断を仰ぎたく存じます」


 俺は真顔で、死んだ魚の目のまま玲奈を見つめ返した。


 静寂。


 フロア中の社員が息を呑む音が聞こえた。

(あいつ、この絶体絶命の状況で何を言っているんだ? ついに頭が狂ったのか?)という心の声がビリビリと伝わってくる。


 玲奈の完璧な能面の仮面が、一瞬だけピキリと崩れた。


 彼女は信じられないものを見るような目で俺を見つめ、少しだけ口をパクパクとさせた後、顔をサッと赤くして(怒りなのか、完璧な説教のペースを乱されたせいなのかは分からないが)バンッ!とデスクを叩いた。


「……っ! 当たり前でしょう! そんなみっともない体裁の資料を出せるわけないわ! 内容も体裁も、全部、全部一からやり直し! 今日の昼十二時までに完璧なものを私のデスクに持ってきなさい! 一分の遅れも許さないわよ!」


「承知いたしました。直ちに取り掛かります」


 俺は深く頭を下げ、すぐにキーボードに手を伸ばした。


 玲奈は荒々しい足音を立てて、自分の個室である部長室へと去っていった。その後ろ姿を見送りながら、周囲の社員たちはホッと安堵の息を吐き出し、それぞれの業務に戻っていく。


 ふと、PCのモニター越しに、部長室のガラス張りのブラインドの隙間が見えた。


 玲奈がブラインドの隙間から、じっとこちらを見ている。

 その視線には、いつもの冷酷な「使えない部下への怒り」だけではない、何か別の感情がはっきりと混ざっているように見えた。


 焦り? 苛立ち? それとも、もっと何か深く、苦しいような、すがるような感情――。


 いや、気のせいだろう。徹夜明けの脳が見せた幻覚に違いない。


 俺はすぐに視線をモニターに戻した。他人の複雑な感情を推し量る機能など、俺の摩耗した心にはとっくに残されていない。

 ただ確かなことは、昼の十二時までにこの絶望的な量の修正を終わらせなければ、今度こそ物理的に首を絞められるということだけだ。


「……さて、やりますか」


 俺は再び、果てしないエクセルの海へとダイブした。


 その日も結局、オフィスを出たのは深夜一時を回っていた。


 昼間の玲奈の理不尽な要求は、資料の修正だけにとどまらなかった。

「ついでに明日までに、あのクレーム案件の対応策もまとめておいて。あなたならできるわよね?」という地獄の追加業務が降ってきたためだ。


 当然のように終電はない。


 十一月の冷たい風が、コートを持たない俺のペラペラのスーツ越しに肌を刺す。

 街灯が規則的に並ぶ深夜の歩道を、俺はトボトボと歩いていた。自宅の安いアパートまでは、歩いて一時間半の距離だ。少しでも睡眠時間を確保するためにタクシーに乗るべきか迷ったが、口座の残高を思い出し、今日も深夜のウォーキングを選択した。


「……腹減ったな」


 つぶやいてみたが、コンビニの煌々とした明かりに向かう気力すらなかった。レジで店員とやり取りするのすら億劫だ。家に帰って、泥のように眠りたい。明日もまた、地獄の朝礼が待っているのだから。


 チカッ、チカッ。


 通りに面した古い街灯が、接触不良を起こしたように点滅を繰り返している。

 その時だった。


 俺がいつもショートカットのために通り抜けている、雑居ビルとビルの間の細い路地裏から、強烈な腐臭が漂ってきた。

 繁華街の裏路地特有の生ゴミの臭いではない。もっと根源的な、ヘドロと鉄錆を混ぜ合わせたような、胃液が逆流するほどの吐き気を催す悪臭。


 思わず足を止める。


 街灯の光が届かない路地裏の暗がりで、何かが蠢いた。


「……野良犬か? いや、ホームレスの人が酔い潰れてるのか?」


 目を凝らした次の瞬間、俺は自分の常識が音を立てて崩れ去るのを見た。


 暗がりの中から這い出してきたのは、犬でも人間でもなかった。

 それは、真っ黒な泥が意志を持って寄り集まったような、不定形の『塊』だった。コールタールのようにどろどろとした体表から、無数の不気味な触手のようなものが伸び縮みしている。表面には、人間の苦悶の表情を象ったような模様が浮かんでは消えている。


 ズズッ、ズズズッ。


 アスファルトを溶かすような不快な音を立てて、その『怪物』が路地裏から這い出し、俺の目の前に立ち塞がった。


 見上げるほどの巨体。怪物の中心に、巨大な三日月型の黄色い亀裂が走る。まるで、俺を嘲笑う口のようだった。


『アァ……ツカレタ……シニタイ……ヤスミタイ……』


 怪物の奥底から、幾重にも重なった人間のうめき声のようなものが聞こえた。


 それは、この街に渦巻くストレスや絶望、人々の「負の感情」が具現化した、存在してはならないモノ。理屈は分からないが、直感がそう告げていた。

 真っ黒な触手が、鎌首をもたげるように高く持ち上がり、標的である俺の頭上へと狙いを定める。


 逃げなければ殺される。


 普通なら腰を抜かして悲鳴を上げ、パニックになって逃げ惑う場面だろう。脳がそう警鐘を鳴らしているはずなのに、極限まで摩耗した俺の社畜脳は、目の前の異常事態に対して、とんでもなくピントのずれた感想を弾き出していた。


(……これ、通勤途中の災害ってことで、労災おりますかね? 怪我したら明日の会議、休めるかな……)


 恐怖よりも、明日の仕事の心配と、あわよくば休めるかもしれないという淡い期待が勝っていた。


 ドシュッ!!


 風を切り裂く音と共に、殺意に満ちた黒い触手が、呆然と立ち尽くす俺の眉間めがけて振り下ろされた。

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