9話:満月の夜に咲く花
第九話「満月の夜に咲く花」
北の辺境から戻って、二週間が経った。
ヴェルナーとリディアが屋敷に帰り着いた時、使用人たちは涙を流して二人を迎えた。王国中に広まった英雄譚を、彼らも聞いていたのだ。
「お嬢様、公爵様!」
エリーゼは、リディアに抱きつくと、声を上げて泣いた。
「ご無事で……本当に、本当に……!」
「ただいま、エリーゼ」
リディアは、優しく彼女の背中を撫でた。
「心配かけて、ごめんなさい」
マルタは、二人の痩せた顔を見て、すぐに厨房へ駆け込んだ。
「すぐに、栄養のあるものをお作りいたします! お二人とも、お痩せになって……!」
アーデルベルトは、深々と頭を下げた。
「お帰りなさいませ。この屋敷に、再び光をもたらしてくださいました」
ヴェルナーは、使用人たちを見回した。
「ただいま、皆。そして――屋敷のこと、ありがとう」
屋敷は、二人が留守の間も、美しく保たれていた。庭には新しい花が植えられ、窓ガラスは磨かれ、全てが整然としていた。
「皆で、お二人のお帰りを待っておりました」
ベルンハルトが、誇らしげに言った。
「この屋敷は、もう『呪いの館』ではございません。『希望の館』です」
***
その夜、リディアは久しぶりに自室でゆっくりと休んだ。
温かい風呂に入り、マルタが作ってくれた料理を食べ、柔らかなベッドに横たわる。
窓の外では、月が輝いていた。
あと三日で、満月だ。
リディアは、月を見つめながら、この二ヶ月のことを思い返していた。
呪いの屋敷に嫁いだ日。
初めて庭に出て、鎌を手にした日。
ヴェルナーと、初めて心を通わせた日。
王宮での試練。
そして、北の辺境での戦い。
全てが、夢のようだった。
でも、これは夢ではない。
現実だ。
そして、これからも続いていく、彼女とヴェルナーの人生だ。
コンコン、とノックの音がした。
「リディア、起きているか?」
ヴェルナーの声だった。
「はい、どうぞ」
扉が開き、ヴェルナーが入ってきた。彼もまた、風呂上がりで髪が少し湿っていた。
「少し、話したいことがあって」
「何でしょう?」
リディアは、ベッドから起き上がった。
ヴェルナーは、窓辺に立ち、月を見上げた。
「三日後、満月の夜だ」
「はい」
「その夜に――」
ヴェルナーは、リディアを振り返った。
「月樹が、咲く」
リディアは、息を呑んだ。
「本当ですか?」
「ああ。今朝、温室に行った時、蕾が大きくなっているのを見た。このまま順調にいけば、満月の夜に開花する」
ヴェルナーの目が、柔らかく輝いた。
「母が植えた木が、七年ぶりに花を咲かせる。それは――」
彼の声が、わずかに震えた。
「それは、全てが報われた証だ。母の愛が、無駄ではなかったという証だ」
リディアは、ヴェルナーに近づいた。
「アリシア様、きっと喜んでいらっしゃいますよ」
「ああ……」
ヴェルナーは、リディアの手を取った。
「そして、リディア。その夜に――俺は、お前に改めて誓いたい」
「誓い……?」
「ああ」
ヴェルナーは、真剣な眼差しでリディアを見つめた。
「俺たちの結婚は、最初は政略的なものだった。お前の家を救うため、俺は形だけの夫だった」
「ヴェルナー様……」
「でも、今は違う」
ヴェルナーは、リディアの両手を握った。
「今、俺は心から、お前を愛している。お前と共に生き、お前と共に歩みたいと思っている」
リディアの目に、涙が浮かんだ。
「だから、満月の夜――月樹の下で、改めてお前に誓いたい。今度は、心からの誓いを」
「ヴェルナー様……」
リディアは、涙を流しながら微笑んだ。
「私も、同じです。私も、ヴェルナー様を――心から、愛しています」
二人は、抱き合った。
月明かりが、二人を優しく照らしていた。
***
翌日から、屋敷は準備で大忙しになった。
満月の夜の儀式――いや、それは儀式というよりも、祝祭だった。
アーデルベルトの提案で、使用人たちだけでなく、近隣の村人たちも招待することになった。
「公爵様とお嬢様の幸せを、皆で祝いましょう」
老執事は、嬉しそうに言った。
「この屋敷は、長い間、死と絶望の象徴でした。でも、今は違う。希望と愛の象徴です。それを、皆に見ていただきたいのです」
ヴェルナーは、少し戸惑った。
「しかし、俺は長年、村人たちを遠ざけてきた。今さら招いても……」
「大丈夫ですよ、公爵様」
エリーゼが、明るく言った。
「村の人たち、皆、公爵様とお嬢様のことを応援しています。北の辺境を救った英雄だって、誇りに思っています」
リディアも、賛成した。
「せっかくですから、皆さんと一緒に祝いましょう。月樹の開花は、私たちだけのものじゃありません。この土地全体の、新しい始まりです」
ヴェルナーは、リディアの笑顔を見て、頷いた。
「……分かった。盛大に祝おう」
***
準備は、順調に進んだ。
マルタは、厨房で腕によりをかけて料理を作った。ベルンハルトは、ワイン蔵から最高級のワインを運び出した。エリーゼは、温室を飾り付けた。
そして、リディアは――
庭の最終的な手入れをしていた。
薔薇園、記憶の庭園、噴水、東屋――全ての場所を、一つ一つ丁寧に見て回った。
「ここも、綺麗になったわね」
彼女は、かつて最初に手入れをした薔薇園を見つめた。
あの時は、枯れた黒い蔦しかなかった。でも今は――
新しい薔薇の苗が、青々と葉を茂らせている。まだ花は咲いていないが、蕾がいくつもついていた。
「来月には、きっと咲くわね」
リディアは、薔薇の葉を優しく撫でた。
記憶の庭園では、噴水が元気よく水を吹き上げていた。周囲には、様々な花が植えられ、蝶が舞っている。
東屋も、蔦で美しく飾られ、ベンチは磨かれていた。
「ここで、ヴェルナー様は一人で泣いていたのね……」
リディアは、ベンチに座った。
でも、もうこの場所に悲しみはない。
ヴェルナーは、もう一人で泣かない。
彼には、リディアがいる。
そして、リディアにも――ヴェルナーがいる。
「お嬢様」
声がして、振り返ると、一人の老婆が立っていた。
見覚えのない顔だった。
「どなたですか?」
「失礼いたしました。私は、隣村の治療師、グレーテと申します」
老婆は、深々と頭を下げた。
「お嬢様に、どうしてもお礼を申し上げたくて」
「お礼……?」
「はい。お嬢様が北の辺境で成し遂げられたこと――その影響は、この地方全体に及びました」
グレーテは、目を輝かせて言った。
「長年治らなかった病が、治りました。不毛だった土地が、実りを取り戻しました。絶望していた人々が、再び笑顔を取り戻しました」
老婆の目に、涙が浮かんだ。
「これは、お嬢様のおかげです。月の巫女様のおかげです」
リディアは、恥ずかしそうに首を横に振った。
「私だけの力じゃありません。ヴェルナー様も、皆さんも――」
「いいえ」
グレーテは、リディアの手を取った。
「お嬢様は、希望そのものです。どうか、これからも――私たちに、光を与え続けてください」
リディアは、老婆の手を握り返した。
「はい。できる限り、頑張ります」
グレーテが去った後、リディアは温室へ向かった。
***
温室では、月樹が静かに佇んでいた。
幹は完全に回復し、枝には青々とした葉が茂っている。
そして、その頂上近くに――
大きな蕾が、一つ。
「もうすぐね……」
リディアは、木に近づいた。
蕾は、今にも開きそうなほど膨らんでいた。花びらの縁が、わずかに開いている。
「あと少し。あと少しで、咲くわね」
リディアは、木の幹に手を当てた。
温かかった。
生命の温もりが、確かにそこにあった。
『ありがとう』
リディアには、そんな声が聞こえた気がした。
アリシアの声だろうか。
それとも、木そのものの声だろうか。
『あなたが来てくれて、本当に良かった』
『ヴェルナーを、よろしくね』
リディアは、涙を拭った。
「はい。必ず、幸せにします」
彼女は、木に約束した。
その時、温室の扉が開いた。
「リディア」
ヴェルナーだった。
「ここにいたのか」
「はい。月樹の様子を見に」
ヴェルナーは、木を見上げた。
「……大きくなったな」
「ええ。あと少しで、咲きますよ」
二人は、並んで木を見上げた。
「なあ、リディア」
「はい?」
「俺は、長い間、この木を見ることができなかった」
ヴェルナーの声が、静かに響く。
「母の思い出が詰まったこの木を、自分の力で枯らしてしまった。その罪悪感で、近づくことさえできなかった」
「ヴェルナー様……」
「でも、お前が来て、全てが変わった」
ヴェルナーは、リディアを見た。
「お前は、この木を救ってくれた。俺を救ってくれた。この屋敷を救ってくれた」
彼は、リディアの頬に手を添えた。
「だから、俺は――お前に、全てを捧げたい」
リディアは、ヴェルナーの手に自分の手を重ねた。
「私も、ヴェルナー様に全てを捧げます」
二人は、キスをした。
月樹の下で。
母の愛が込められた木の下で。
それは、誓いのキスだった。
***
満月の夜が、訪れた。
空には、完璧な満月が輝いていた。雲一つない、澄み切った夜空。
温室には、百人以上の人々が集まっていた。
使用人たち、村人たち、そして――王都から駆けつけた客人たち。
ディートリヒは、騎士団の制服姿で。ヴァルターは、魔術師のローブをまとって。
さらに、リディアの父、オーウェン子爵も来ていた。
「リディア……」
父は、娘の姿を見て、涙を流した。
「お前が、こんなに立派になって……父は、嬉しいよ」
「お父様」
リディアは、父を抱きしめた。
「心配かけて、ごめんなさい。でも、私、幸せです」
「ああ、分かっている」
子爵は、娘の頭を撫でた。
「お前の選択は、正しかった。そして、ヴェルナー公爵は――素晴らしい男だ」
子爵は、ヴェルナーに向き直り、深々と頭を下げた。
「娘を、よろしくお願いいたします」
「いえ、こちらこそ」
ヴェルナーは、義父の手を取った。
「リディアがいなければ、俺は今もまだ、闇の中にいました。彼女は、俺の全てです」
***
やがて、月が中天に昇った。
その瞬間――
月樹の蕾が、動いた。
「あ……!」
エリーゼが、小さく叫んだ。
皆の視線が、木の頂上に集まった。
蕾が、ゆっくりと開き始めた。
花びらが、一枚、また一枚と開いていく。
そして――
満開になった。
月樹の花は、想像を絶する美しさだった。
真っ白な花びら。でも、ただの白ではない。月明かりを受けて、虹色に輝く白。
花の中心には、金色の雄しべ。
そして、花全体から――甘い、でもどこか懐かしい香りが漂ってきた。
「綺麗……」
リディアは、息を呑んだ。
「こんなに、綺麗な花……」
ヴェルナーは、言葉を失っていた。
涙が、頬を伝っていた。
「母上……」
彼は、震える声で呟いた。
「母上、見えますか……あなたの木が、咲きました」
月樹の花が、風に揺れた。
まるで、「ええ、見ているわ」と答えるかのように。
そして――
不思議なことが起こった。
花から、光の粒子が舞い上がった。
それは、まるで小さな星のように、温室の中を漂った。
人々は、その光景に息を呑んだ。
光の粒子が、ヴェルナーとリディアの周りを舞う。
そして、二人を包み込んだ。
リディアは、その光の中に――
女性の姿を見た。
黒い髪、優しい目、穏やかな微笑み。
アリシアだ。
『ヴェルナー』
彼女の声が、聞こえた。
『よく頑張ったわね。一人で、長い間』
「母上……!」
ヴェルナーも、その姿を見ていた。
『もう、大丈夫。あなたには、素晴らしい伴侶がいる』
アリシアは、リディアに微笑みかけた。
『リディア。私の息子を、よろしくね』
「はい……!」
リディアは、涙を流しながら答えた。
『二人とも、幸せになって』
アリシアの姿が、光に溶けていった。
『私は、いつもあなたたちを見守っているわ』
光が、月樹の花に吸い込まれていった。
そして――
静寂。
でも、それは悲しい静寂ではなかった。
全てが満たされた、穏やかな静寂だった。
***
ヴェルナーは、リディアを抱きしめた。
「ありがとう」
彼は、何度も繰り返した。
「ありがとう、リディア」
「私こそ、ありがとうございます」
リディアは、彼の胸の中で微笑んだ。
「ヴェルナー様と出会えて、本当に幸せです」
周囲の人々が、拍手を始めた。
それは、祝福の拍手。
そして、感謝の拍手。
アーデルベルトが、前に出た。
「皆様、本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
老執事の声が、温室に響いた。
「我らが公爵様とお嬢様は、この屋敷に――いえ、この王国に、光をもたらしてくださいました」
「そして、本日、月樹が開花いたしました。これは、新しい時代の始まりです」
アーデルベルトは、二人に向き直った。
「公爵様、お嬢様。どうか、末永くお幸せに」
「ありがとう、アーデルベルト」
ヴェルナーは、微笑んだ。
「そして、皆。本当に、ありがとう」
マルタが、ワインを運んできた。
「では、乾杯いたしましょう!」
皆が、グラスを掲げた。
「公爵様とお嬢様の、永遠の幸せを祝して!」
「乾杯!」
歓声が、温室を包んだ。
月樹の花は、その全てを見守るように――
静かに、美しく、咲き続けていた。
***
宴が終わり、客人たちが帰った後。
ヴェルナーとリディアは、二人きりで温室に残った。
「疲れたか?」
「少し。でも、幸せな疲れです」
リディアは、ヴェルナーの腕の中で微笑んだ。
「今日は、本当に素晴らしい日でしたね」
「ああ」
ヴェルナーは、月樹を見上げた。
「母の木が咲き、母の祝福を受けた。これ以上の日は、ない」
「これから、毎年咲いてくれるでしょうか?」
「ああ、きっと」
ヴェルナーは、リディアの額にキスをした。
「そして、俺たちの子供も、いつかこの花を見るだろう」
リディアは、頬を赤らめた。
「子供……」
「ああ。いつか、な」
ヴェルナーは、優しく微笑んだ。
「でも、焦らない。今は、お前と二人で――ゆっくりと、幸せを噛みしめたい」
「はい」
二人は、月樹の下で抱き合った。
満月の光が、二人を照らしていた。
そして、月樹の花が――
二人を、優しく見守っていた。
新しい時代が、始まった。
呪いではなく、祝福に満ちた時代が。
そして、この物語は――
まだ、終わらない。
***
【第九話 了】
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