8話:古代の遺物と、月の巫女の真実
第八話「古代の遺物と、月の巫女の真実」
北の辺境へ向かう道のりは、険しかった。
王都を出て三日。馬車は、次第に荒れた土地へと入っていった。緑は減り、代わりに灰色の岩肌が広がる。空気も冷たく、まるで生命を拒絶するかのようだった。
「ひどい……」
リディアは、窓から見える光景に息を呑んだ。
道端には、枯れ果てた木々。干上がった川。そして、所々に――奇妙な黒い霧が、地面から立ち上っていた。
「これが、淀みか」
ヴェルナーも、眉をひそめた。
「いや、これは淀みというより――」
「呪い、ですね」
リディアは、震える声で言った。
「ものすごく強い、負の感情が固まっている。まるで、何百年分もの憎悪と絶望が、一箇所に集まっているような……」
馬車が、揺れた。
御者台から、ベルンハルトの声がした。
「お嬢様、公爵様。前方に、検問所が見えます」
二人は、窓から顔を出した。
確かに、街道に騎士たちが陣取っている。そして、その中心に――見覚えのある人物がいた。
「ディートリヒか」
***
馬車が止まると、ディートリヒが近づいてきた。
騎士団副団長の彼は、いつもの精悍な顔に疲労の色を浮かべていた。
「よく来てくれた、ヴェルナー」
「状況は?」
「最悪だ」
ディートリヒは、苦い表情で答えた。
「三日前から、さらに二つの村が飲み込まれた。住民は避難させたが、土地そのものが死んでいる」
彼は、北の方角を指差した。
「淀みの中心は、古代遺跡『月の神殿』だ。そこに、何かがある」
「月の神殿……」
リディアは、その名前を聞いて、胸騒ぎを覚えた。
「そこは、かつて月の巫女たちが祈りを捧げた場所だ」
ディートリヒは、二人を見た。
「伝説によれば、神殿の最深部には『月の心臓』と呼ばれる遺物がある。それは、月の女神の力の源だという」
「月の心臓……」
「ああ。そして、リディア様が王都で力を解放した時――」
ディートリヒの表情が、さらに厳しくなった。
「その遺物が、共鳴して目覚めたらしい。しかし、三百年の封印によって歪められ、今や――莫大な淀みを生み出している」
ヴェルナーは、拳を握った。
「つまり、放っておけば、北部全体が死の大地になる」
「その通りだ。だから、宮廷魔術師団も来ている。ヴァルター卿が指揮を執っている」
「ヴァルターが?」
「ああ。彼は、この事態を何とかしようと必死だ。だが――」
ディートリヒは、首を横に振った。
「魔術師たちは、誰も神殿に近づけない。淀みが強すぎる。近づいた者は、意識を失うか、発狂するかだ」
リディアは、決意を込めて言った。
「私が、行きます」
「リディア様……」
「私は、月の巫女。ならば、月の心臓と対峙できるのは、私だけです」
ヴェルナーは、リディアの肩に手を置いた。
「一人では行かせない。俺も行く」
「ヴェルナー……」
「お前の力と、俺の力は共鳴する。二人でなら、きっと何とかなる」
ディートリヒは、二人を見つめた。
「……分かった。だが、無理はするな。もし、危険だと判断したら、すぐに撤退しろ」
「ああ」
***
月の神殿は、断崖の上にあった。
かつては荘厳な建造物だったのだろう。白い大理石の柱が、今も空に向かってそびえている。しかし、その周囲は――
「うっ……」
リディアは、思わず膝をついた。
淀みが、あまりにも濃い。空気そのものが重く、呼吸するだけで苦しい。
「リディア!」
ヴェルナーが、すぐに彼女を支えた。
「大丈夫か?」
「はい……ただ、予想以上に……」
リディアは、深呼吸をした。
そして、自分の内なる力に意識を向ける。月の巫女の力が、体の中で脈動している。
「いけます。行きましょう」
二人は、神殿の入り口へと歩を進めた。
後方では、ディートリヒとヴァルターが、騎士と魔術師たちを率いて待機している。
「公爵、お嬢様」
ヴァルターが、珍しく真剣な顔で声をかけた。
「どうか、ご無事で。そして――この王国を、お救いください」
リディアは、頷いた。
かつて自分を魔女として告発した男が、今は自分に頼っている。それは、皮肉なようでもあり、同時に――人は変われるのだという希望でもあった。
***
神殿の内部は、予想以上に広かった。
高い天井、崩れかけた柱、床に描かれた複雑な魔法陣。全てが、かつてここで行われていた儀式の荘厳さを物語っていた。
しかし、その全てが――黒い霧に包まれていた。
「これは……」
ヴェルナーは、周囲を見回した。
霧は、生きているかのように蠢いている。そして、その中から――囁き声が聞こえてくる。
『憎い……』
『許さない……』
『裏切り者……』
「誰の声?」
リディアは、震える声で尋ねた。
「かつての月の巫女たちだ」
ヴェルナーは、厳しい表情で答えた。
「封印され、火刑に処され、忘れ去られた――彼女たちの怨念が、ここに溜まっている」
リディアの胸が、痛んだ。
月の巫女たちは、人々のために力を使った。病を治し、大地を浄化し、希望をもたらした。
なのに、その報いは――迫害と死だった。
「ひどい……」
リディアの目に、涙が浮かんだ。
「なんて、ひどいことを……」
その時、霧の中から、人影が現れた。
いや、人影ではない。
幽霊――かつての月の巫女の残留思念だった。
『あなたは……新しい月の巫女』
透き通るような声が、リディアに語りかけた。
『どうして、ここに? あなたも、私たちと同じ運命を辿るために?』
「違います」
リディアは、まっすぐに幽霊を見つめた。
「私は、あなたたちの無念を晴らすために来ました」
『無念……?』
幽霊の姿が、揺れた。
『私たちの無念は、晴らせない。人々は、私たちを恐れた。力を使えば使うほど、妬まれ、憎まれた。そして最後には――』
幽霊の声が、悲鳴のようになった。
『焼かれたのよ! 私たちを頼った人々の手で! 助けた人々の手で!』
リディアは、胸が張り裂けそうだった。
彼女たちの痛み、悲しみ、絶望――全てが、この場所に溜まっている。
「でも」
リディアは、震える声で言った。
「でも、それでも――あなたたちの力は、美しかったはずです。人を救い、希望をもたらした。それは、決して無駄ではなかったはずです」
『美しい……?』
幽霊は、嘲笑するように言った。
『美しさに、何の意味がある? 私たちは、裏切られた。愛した人々に、見捨てられた』
「それでも!」
リディアは、声を張り上げた。
「それでも、私は信じます。人々の中には、あなたたちを覚えている人がいる。感謝している人がいる。そして――」
彼女は、ヴェルナーを見た。
「あなたたちの力を、正しく理解してくれる人がいる」
ヴェルナーは、前に出た。
「俺は、ヴェルナー・フォン・エーデルシュタイン。月の魔力を継ぐ者だ」
彼は、手のひらを掲げた。青白い光が、溢れ出す。
「月の巫女たちよ。あなたたちは、裏切られたかもしれない。しかし、あなたたちの力は――今も、この世界に必要とされている」
幽霊たちが、ざわめいた。
『月の魔力……? エーデルシュタインの……?』
「そうだ。かつて、月の巫女と月の王は、共に世界を守った。それは、伝説ではない――真実だ」
ヴェルナーは、リディアの手を取った。
「そして今、再び――月の巫女と月の継承者が、手を取り合っている」
二人の手が触れ合った瞬間、光が溢れた。
青白い光と、金色の光が混ざり合い、神殿全体を包み込んだ。
幽霊たちは、その光に照らされ――
『これは……温かい』
声が、変わった。
憎悪と怨念ではなく、驚きと、そして――懐かしさを含んだ声。
『この光……覚えている。かつて、私たちが人々を守っていた時の……』
幽霊の姿が、ゆっくりと変化していった。
怨霊の姿から、穏やかな女性の姿へ。
『ありがとう……新しい月の巫女よ』
最年長と思われる幽霊が、リディアに微笑みかけた。
『あなたは、私たちができなかったことを成し遂げようとしている。一人ではなく、誰かと共に』
「はい」
リディアは、涙を流しながら頷いた。
「私は、一人じゃありません。ヴェルナー様がいます。そして、私たちを信じてくれる人々がいます」
『ならば――私たちの力を、受け取ってください』
幽霊たちが、リディアに向かって手を伸ばした。
そして、彼女たちの姿が光となり、リディアの体に吸い込まれていった。
リディアは、体中に温かさが広がるのを感じた。
それは、代々の月の巫女たちの記憶。知識。そして――願い。
『どうか、私たちの分まで――人々を救ってください』
***
幽霊たちが消えた後、神殿の奥から、眩い光が漏れ出した。
「あれが……」
「月の心臓だ」
二人は、光の方へ歩いていった。
神殿の最深部。そこには、祭壇があった。
そして、祭壇の上に――
透明な水晶のような球体が、浮かんでいた。
それは脈動していた。まるで、本当に心臓のように。
『よくぞ、ここまで辿り着いた』
水晶から、声が響いた。
それは、女性の声。でも、どこか人間離れした、神々しい響きを持っていた。
『私は、月の女神の意思の一部。かつて、月の巫女たちに力を授けた存在』
「月の女神……」
リディアは、思わず膝をついた。
『立ちなさい、娘よ。あなたは、私の前で跪く必要はない』
「でも……」
『あなたは、私の後継者。いや――私を超える存在になりうる者』
水晶が、一層強く輝いた。
『三百年前、人々は月の巫女を封印した。そして、私の力の源であるこの心臓も、封じられた』
『しかし、封印は完全ではなかった。歪められ、淀みとなり、怨念を集めてしまった』
「それを、浄化すればいいんですね」
リディアは、立ち上がった。
「私が、月の心臓を浄化します」
『待ちなさい』
女神の声が、警告するように響いた。
『この心臓を浄化することは、並大抵のことではない。あなたの全ての力を使い、そして――あなた自身の命を削ることになる』
リディアは、息を呑んだ。
「命を……?」
『そうだ。月の心臓は、三百年分の淀みを溜め込んでいる。それを一人で浄化すれば、あなたは――』
「リディア!」
ヴェルナーが、彼女の肩を掴んだ。
「させない。お前一人に、そんなことはさせない」
「でも、ヴェルナー様……」
「俺も力を使う」
ヴェルナーは、決意を込めて言った。
「お前の力と、俺の力を合わせれば、負担は分かち合える」
『月の継承者よ』
女神の声が、ヴェルナーに向けられた。
『あなたもまた、命を削ることになる。それでも?』
「構わない」
ヴェルナーは、迷わず答えた。
「リディアのためなら、俺は何だってする」
彼は、リディアを見た。
「お前と出会ってから、俺は初めて生きる意味を見つけた。お前がいなければ、俺はただ死を待つだけの存在だった」
ヴェルナーは、リディアの両手を取った。
「だから、お前を一人で危険な目に遭わせるくらいなら――俺も一緒に、その運命を受け入れる」
リディアの目から、涙が溢れた。
「ヴェルナー様……」
『……分かった』
女神の声が、柔らかくなった。
『あなたたちの絆は、本物だ。ならば、私もあなたたちに賭けよう』
水晶が、祭壇から浮き上がった。
『二人の力を合わせなさい。そして、私を――本来の姿に戻してください』
***
リディアとヴェルナーは、祭壇の前に立った。
二人は、手を繋いだ。
「準備はいいか?」
「はい」
リディアは、深く息を吸った。
そして、二人同時に――力を解放した。
リディアの体から、金色の光が溢れる。ヴェルナーの体から、青白い光が溢れる。
二つの光が、螺旋を描きながら混ざり合い、月の心臓へと向かっていった。
光が心臓に触れた瞬間――
神殿全体が、激しく揺れた。
「うああああ!」
リディアは、激痛に叫んだ。
三百年分の淀みが、彼女の体に流れ込んでくる。憎悪、絶望、苦痛、悲しみ――全てが、一度に押し寄せてくる。
「リディア!」
ヴェルナーも、苦痛に顔を歪めた。
でも、彼は手を離さなかった。リディアの手を、強く握り続けた。
「一人じゃない……俺がいる!」
彼の魔力が、リディアを包み込んだ。淀みの一部が、ヴェルナーの方へと流れていく。
「ヴェルナー様、無理を……!」
「お前も無理をしている!」
ヴェルナーは、歯を食いしばった。
「二人で、分かち合うんだ。痛みも、苦しみも、全て!」
二人の力が、さらに強くなった。
金色と青白の光が、完全に一つになり、眩い白銀の輝きとなった。
その光は、月の心臓を包み込み――
ゆっくりと、ゆっくりと――
淀みを、浄化していった。
黒い霧が、光に溶けていく。怨念が、昇華されていく。
そして――
『ありがとう……』
無数の声が、二人に語りかけた。
それは、三百年の間に囚われていた、全ての魂の声だった。
『やっと……解放される』
『光が……温かい』
『ありがとう……月の巫女。月の王よ』
魂たちは、光となって天へ昇っていった。
***
どれくらい時間が経ったのか、分からなかった。
気がつくと、リディアとヴェルナーは、神殿の床に倒れていた。
「リディア……大丈夫か……?」
ヴェルナーが、か細い声で尋ねた。
「はい……何とか……」
二人は、ゆっくりと体を起こした。
全身の力が抜け、立ち上がることもできない。でも――
生きている。
二人とも、生きている。
祭壇の上では、月の心臓が静かに輝いていた。
もう、黒い霧はない。
純粋な、透明な光だけが、そこにあった。
『よくやった、我が子らよ』
女神の声が、優しく響いた。
『あなたたちは、三百年の呪いを解いた。そして、月の巫女の名誉を回復した』
水晶が、二人の前に降りてきた。
『これを、受け取りなさい』
水晶が、二つに分かれた。
一つは、リディアの胸に。もう一つは、ヴェルナーの胸に、吸い込まれていった。
リディアは、体中に温かさが広がるのを感じた。
それは、月の女神の祝福。
そして――失った生命力の回復。
「これは……」
『私の力の一部を、あなたたちに授ける』
女神の声が、満足そうに響いた。
『これからも、あなたたちは多くの困難に直面するだろう。しかし、この力があれば――必ず乗り越えられる』
「ありがとうございます……」
リディアは、涙を流しながら答えた。
『いいえ、礼を言うのは私の方だ』
女神の声が、遠ざかっていく。
『月の巫女よ。月の王よ。どうか、この世界を――愛と希望で満たしてください』
光が、消えた。
そして、神殿は――静寂に包まれた。
***
外では、ディートリヒとヴァルターが、祈るような思いで待っていた。
「もう二時間だ……」
ディートリヒが、焦燥に駆られて呟いた。
「本当に、大丈夫なのか……」
その時――
神殿から、眩い光が放たれた。
それは、空高く昇り、雲を突き抜け、天へと届いた。
そして――
周囲の黒い霧が、音もなく消えていった。
枯れ果てた大地に、緑が戻り始めた。
干上がった川に、水が流れ始めた。
「成功した……!」
ヴァルターが、歓喜の声を上げた。
「公爵と、お嬢様が……やり遂げたんだ!」
騎士たちと魔術師たちが、歓声を上げた。
そして、神殿の入り口から――
ヴェルナーが、リディアを抱きかかえて現れた。
二人とも、疲労困憊していたが、その顔には――
確かな、満足の笑みがあった。
「ディートリヒ……」
ヴェルナーが、友に呼びかけた。
「終わったぞ。全て」
「ああ……よくやった、ヴェルナー」
ディートリヒは、二人に駆け寄った。
「お前たちは、王国を救った。いや――世界を救ったんだ」
リディアは、ヴェルナーの腕の中で、幸せそうに微笑んだ。
「私たち……やり遂げましたね」
「ああ」
ヴェルナーは、彼女の額にキスをした。
「お前と一緒だったから、できた」
周囲の人々が、二人に拍手を送った。
それは、賞賛と、感謝と、そして――祝福の拍手だった。
空を見上げると、雲の切れ間から、月が顔を覗かせていた。
まだ昼間なのに、はっきりと見える満月。
それは、まるで――
月の女神が、二人を見守っているかのようだった。
***
その夜、王都に届いた知らせは、王国中を歓喜に包んだ。
北の辺境の危機が、去った。
エーデルシュタイン公爵夫妻が、古代の呪いを解いた。
月の巫女の力は、邪悪なものではなく、世界を救う力だった。
国王は、即座に二人を「王国の英雄」として讃える勅令を出した。
そして――
月の巫女の封印を、正式に解くことを宣言した。
三百年の時を経て、ようやく――
真実が、明らかになったのだ。
***
【第八話 了】
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