7話:帰郷、そして待ち受けるもの
第七話「帰郷、そして待ち受けるもの」
王都での騒動から一週間が経った。
ヴェルナーとリディアは、ようやく屋敷へ帰ることを許された。国王は二人に、「王国の守護者」としての正式な任命書を与え、同時に多くの要請も託した。
各地に広がる呪いの浄化。病に苦しむ人々の救済。荒廃した土地の再生。
全て、リディアの力が必要とされる仕事だった。
「すまない、リディア」
帰路の馬車の中で、ヴェルナーは申し訳なさそうに言った。
「お前を、自由にさせてやれない」
「いいえ」
リディアは、首を横に振った。
「私は、嬉しいんです。自分の力を、隠さずに使えることが。そして、困っている人を助けられることが」
彼女は、窓の外を見た。
「でも……」
「でも?」
「でも、一番したいことは――」
リディアは、ヴェルナーを見た。
「屋敷の庭の手入れです。月樹が、どうなっているか。記憶の庭園が、どれだけ回復したか。早く、見たくて」
ヴェルナーは、思わず笑った。
「お前は、本当に……」
「何ですか?」
「いや」ヴェルナーは、優しく彼女の頭を撫でた。「お前らしいと思って」
リディアは、頬を染めて微笑んだ。
馬車は、懐かしい屋敷の門をくぐった。
***
「お帰りなさいませ!」
屋敷の使用人たちが、総出で二人を出迎えた。
アーデルベルト、エリーゼ、マルタ、ベルンハルト――皆、満面の笑みを浮かべている。
「ただいま、皆」
リディアは、馬車から降りると、すぐにエリーゼに抱きつかれた。
「お嬢様! ご無事で、本当に……!」
エリーゼは、泣きながら言った。
「王都で、魔女として告発されたと聞いて、私たち、どれだけ心配したか……」
「ごめんなさい、心配かけて」
リディアは、エリーゼの背中を優しく叩いた。
「でも、もう大丈夫よ。全部、解決したから」
マルタが、涙を拭いながら近づいてきた。
「お嬢様、お痩せになられて……すぐに、栄養のあるものをお作りいたします」
「ありがとう、マルタ」
アーデルベルトは、ヴェルナーに深々と頭を下げた。
「公爵様、王都からの知らせを受けました。公爵様とお嬢様が、王国の守護者に任命されたと」
「ああ。面倒なことになった」
ヴェルナーは、苦笑した。
「でも、悪いことばかりではない。これで、この屋敷に対する偏見も消えるだろう」
「はい。既に、近隣の村々から、お祝いの使者が来ております」
「そうか」
ヴェルナーは、屋敷を見上げた。
一週間ぶりの我が家。でも、何かが違う。
空気が、明るい。
屋敷を覆っていた重苦しい淀みが、完全に消えている。
「リディア、これは……」
「はい。あの日、王都で力を解放した時――」
リディアは、不思議そうに屋敷を見回した。
「おそらく、その影響が、ここまで届いたんだと思います」
確かに、屋敷の石壁は、以前より明るい色をしていた。窓ガラスは輝き、空気は清々しい。
「では、庭も……」
二人は、同時に庭へ駆け出した。
***
庭は、変わっていた。
いや、「変わった」という言葉では足りない。
完全に、生まれ変わっていた。
かつて枯れ果てていた薔薇園には、新しい芽が無数に吹いていた。黒ずんでいた土は、豊かな茶色を取り戻し、所々に緑の草が芽吹いている。
「すごい……」
リディアは、信じられないという顔で庭を歩いた。
記憶の庭園も、大きく変化していた。絡み合っていた枯れ蔦は姿を消し、代わりに若々しい緑の蔦が、東屋を優しく包んでいた。
噴水には、水が流れていた。
「水が……誰が?」
「私たちです、お嬢様」
エリーゼが、嬉しそうに答えた。
「お嬢様が王都に行かれた翌日、不思議なことが起こったんです。庭全体が、急に明るくなって。淀みが消えたような気がして」
「それで、私たちも勇気を出して、庭の手入れを始めたんです」
マルタが続けた。
「お嬢様が教えてくださった通りに。水を引き、草を刈り、土を耕して」
リディアの目に、涙が浮かんだ。
「ありがとう……皆、ありがとう」
「いいえ」
アーデルベルトが、穏やかに微笑んだ。
「私たちは、ただ――お嬢様と公爵様が戻られる日を、楽しみにしていただけです」
ヴェルナーは、使用人たちを見回した。
かつて、恐怖と絶望に支配されていたこの屋敷。でも今は――
希望と、温かさに満ちている。
「皆、本当にありがとう」
ヴェルナーは、心からの言葉を口にした。
「お前たちがいてくれたから、この屋敷は――俺は、生き延びることができた」
使用人たちは、涙ぐんで頭を下げた。
「さあ、リディア」
ヴェルナーは、彼女の手を取った。
「温室に行こう。月樹が、待っている」
***
温室への道は、以前とは比べ物にならないほど歩きやすくなっていた。
雑草は刈られ、石畳が顔を出している。ガラスの破片も片付けられ、安全に歩ける。
「皆、本当に頑張ってくれたのね……」
リディアは、感動しながら呟いた。
温室の扉を開けると――
二人は、息を呑んだ。
月樹が、そこにあった。
いや、「あった」という言葉では足りない。
月樹は、生きていた。
幹は、完全に生木の色を取り戻していた。黒ずみは消え、健康的な茶色の樹皮が、力強く輝いている。
そして――
枝。
無数の新しい枝が、幹から伸びていた。それらの枝には、小さな葉が芽吹き、緑の輝きを放っている。
「信じられない……」
ヴェルナーは、木に近づいた。
これは、母が植えた木。七年間、枯れたと思われていた木。
それが、今――こんなにも生き生きと。
「ヴェルナー様、見て」
リディアが指差した先には、木の頂上近くに、小さな蕾があった。
「蕾……?」
「はい。月樹の、花の蕾です」
リディアは、驚きと喜びが混ざった声で言った。
「まだ小さいですけど、きっと――もうすぐ咲きます」
ヴェルナーは、木を見上げた。
母が植えた木。母が愛した木。
それが、再び花を咲かせようとしている。
「母上……」
彼は、呟いた。
「見ていますか。あなたの木が、生き返りました」
風が、温室を吹き抜けた。
それは、まるで――誰かの優しい手が、ヴェルナーの頬を撫でたかのような、温かな風だった。
リディアは、そっとヴェルナーの手を握った。
「アリシア様、きっと喜んでいらっしゃいますよ」
「ああ……」
ヴェルナーの目から、涙が一筋、流れ落ちた。
でも、それは悲しみの涙ではなかった。
七年間、抱え続けてきた罪悪感と後悔が、ようやく――浄化された涙だった。
***
その夜、屋敷では久しぶりの晩餐会が開かれた。
使用人たちも全員参加する、賑やかな食事会だった。
マルタが腕によりをかけて作った料理が並び、ベルンハルトが持ってきた古いワインが開けられた。
「では、乾杯を」
ヴェルナーが、グラスを掲げた。
「この屋敷に、光が戻ったことを祝して」
「乾杯!」
皆が、グラスを合わせた。
笑い声が、食堂に響く。
リディアは、その光景を見ながら、胸が熱くなるのを感じた。
つい二ヶ月前まで、この屋敷は死の館だった。誰も笑わず、誰も希望を持たず、ただ終わりを待つだけの場所だった。
でも今は――
「お嬢様」
エリーゼが、隣に座った。
「お嬢様がいらしてから、本当に全てが変わりました」
「私だけの力じゃないわ」
リディアは、首を横に振った。
「皆が、諦めなかったから。ヴェルナー様も、アーデルベルトも、マルタも、ベルンも、エリーゼも――皆が、この屋敷を愛していたから」
「でも、最初の一歩を踏み出してくれたのは、お嬢様です」
エリーゼは、微笑んだ。
「お嬢様が、庭に出て、鎌を手に取って、草を刈り始めた。その姿を見て、私たちも――勇気をもらったんです」
リディアは、エリーゼの手を握った。
「ありがとう。これからも、一緒に、この屋敷を守っていきましょうね」
「はい!」
宴は、夜遅くまで続いた。
***
翌朝、リディアは早起きをして、一人で庭に出た。
朝露に濡れた草が、朝日を浴びて輝いている。
彼女は、記憶の庭園を歩き、東屋に辿り着いた。
ベンチに座り、目を閉じる。
この場所には、もう重苦しい淀みはなかった。代わりに、穏やかな温もりが満ちている。
「アリシア様」
リディアは、呟いた。
「私、ヴェルナー様をお守りします。だから――」
風が、優しく吹いた。
リディアは、微笑んだ。
その時、背後から足音がした。
「やはり、ここにいたか」
ヴェルナーだった。
「おはようございます」
「ああ。早いな」
ヴェルナーは、リディアの隣に座った。
「眠れなかったのか?」
「いいえ。ただ、庭を見たくて」
二人は、しばらく黙って庭を眺めた。
やがて、ヴェルナーが口を開いた。
「リディア、話がある」
「何でしょう?」
「王国から、多くの要請が来ている。各地の浄化、治療、再生――」
ヴェルナーは、真剣な顔で続けた。
「それらは、全てお前の力を必要としている。でも、俺は――」
彼は、言葉を切った。
「お前を、危険な目に遭わせたくない」
「危険?」
「ああ。淀みを払うことは、お前の生命力を消耗する。それを、何度も繰り返せば――」
ヴェルナーの手が、震えた。
「お前を、失うことになるかもしれない」
リディアは、ヴェルナーの手を両手で包んだ。
「大丈夫です。もう、一人じゃありませんから」
「でも――」
「ヴェルナー様の魔力と、私の力は、共鳴します。一緒なら、負担は半分になります」
リディアは、微笑んだ。
「それに、私には、ちゃんと理由があるんです」
「理由?」
「はい。私は、人々を助けたい。でも、それ以上に――」
リディアは、ヴェルナーを見つめた。
「ヴェルナー様と一緒にいたいんです。ヴェルナー様が行くところなら、どこへでも。ヴェルナー様がいる限り、私は平気です」
ヴェルナーは、しばらくリディアを見つめていた。
やがて、彼は小さく笑った。
「……敵わないな、本当に」
彼は、リディアを抱き寄せた。
「分かった。一緒に行こう。二人で、王国を救おう」
「はい」
リディアは、ヴェルナーの胸に顔を埋めた。
彼の心臓の音が、力強く響いている。
その音を聞きながら、リディアは思った。
この人のためなら、どんな困難も乗り越えられる。
この人と一緒なら、どんな淀みも払える。
***
しかし、二人はまだ知らなかった。
王国の各地で、異変が起こり始めていることを。
それは、リディアが王都で力を解放した時から、始まっていた。
封印されていた古代の力が、目覚めようとしている。
そして、その力を狙う者たちも――動き始めていた。
***
屋敷の書斎に、一通の手紙が届いたのは、その日の午後だった。
アーデルベルトが、緊迫した面持ちで持ってきた。
「公爵様、至急の書状です」
差出人は、ディートリヒ・フォン・シュヴァルツヴァルト。
ヴェルナーは、封を切って中身を読んだ。
そして、顔色を変えた。
「まずい……」
「どうしたのですか?」
リディアが尋ねると、ヴェルナーは手紙を握りしめた。
「北の辺境で、異常な淀みが発生している。それも、今までにない規模の」
「淀みが?」
「ああ。村が一つ、完全に飲み込まれたという。そして――」
ヴェルナーの目が、鋭くなった。
「その淀みの中心に、何か『古代の遺物』があるらしい」
リディアは、息を呑んだ。
「古代の遺物……」
「ディートリヒは、これは月の巫女に関係しているかもしれないと書いている」
ヴェルナーは、リディアを見た。
「お前が力を解放した時、封印されていた何かが、共鳴したのかもしれない」
「では、私のせいで……?」
「いや、お前のせいじゃない」
ヴェルナーは、きっぱりと言った。
「これは、避けられない運命だったんだ。月の巫女の力が目覚めれば、必ず起こることだった」
彼は、立ち上がった。
「リディア、準備をしろ。すぐに北へ向かう」
「はい」
リディアも立ち上がった。
「アーデルベルト、屋敷のことは頼む」
「かしこまりました。どうか、ご無事で」
***
その夜、二人は北への旅に出発した。
馬車の中で、リディアは窓の外を見つめていた。
月が、中天に昇っている。
その光を見ながら、彼女は母の言葉を思い出していた。
『リディア、あなたの力は、美しく、尊いもの。でも、同時に――大きな責任を伴うものでもあるの』
責任。
リディアは、今、その意味を理解し始めていた。
力を持つということは、それを必要とする人々の期待を背負うということ。
そして、その力がもたらす影響に、責任を持つということ。
「リディア」
ヴェルナーが、彼女の手を握った。
「怖いか?」
「……はい。少し」
リディアは、正直に答えた。
「でも、ヴェルナー様がいるから――」
「ああ。俺がいる」
ヴェルナーは、彼女を抱き寄せた。
「何があっても、お前を守る」
「はい」
二人は、抱き合ったまま、月を見上げた。
月は、静かに輝いていた。
そして、その光の中に――かすかに、女性の姿が見えたような気がした。
アリシアだろうか。
それとも、もっと古い、月の女神そのものだろうか。
リディアには、分からなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
この旅は、彼女たちの試練となる。
そして、乗り越えた先には――
真実が待っている。
月の巫女の、本当の使命が。
馬車は、闇の中を走り続けた。
北へ。
未知の淀みが待つ、辺境の地へ。
二人の新しい冒険が――今、始まろうとしていた。
***
【第七話 了】
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