3話:記憶の庭園と、解けない呪縛
第三話「記憶の庭園と、解けない呪縛」
温室での出来事から三日が経った。
リディアは毎日、朝食を終えると庭に出た。最初は薔薇園、次は温室、そして徐々に範囲を広げていった。彼女が手を入れた場所は、確かに変わっていった。枯れた黒から土の茶色へ、そして少しずつ、緑の気配が戻り始めていた。
屋敷の空気も変わった。使用人たちの表情が明るくなり、廊下を歩くのが苦痛でなくなったと、エリーゼは嬉しそうに語った。料理長のマルタは、リディアのために栄養のある食事を作ることに喜びを見出しているようだった。
そして、ヴェルナーは――毎晩、食堂に姿を現すようになった。
二人の会話は、まだぎこちなかった。リディアが庭の様子を報告し、ヴェルナーが短く答える。それでも、確かに何かが動き始めていた。
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四日目の朝、リディアは温室で月樹の手入れをしていた。
根元の土を掘り起こし、新しい肥料を混ぜ込む。幹の黒ずみを丁寧に拭い、枯れた枝を切り落とす。単調な作業だったが、彼女の手は慈しむように木に触れていた。
「リディア様」
声をかけてきたのは、アーデルベルトだった。老執事は、いつもの厳格な表情を少し緩めていた。
「はい、何でしょう」
「少し、お話ししてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
リディアは手を止め、立ち上がった。アーデルベルトは、月樹をじっと見つめていた。
「この木が植えられた日のことを、私は覚えております」
老執事は、静かに語り始めた。
「二十三年前の春でした。公爵様がお生まれになった翌日、アリシア様はこの木の苗を手に、温室にいらっしゃいました。まだ産後でお体も辛かったでしょうに、ご自分の手で土を掘り、丁寧に植えられたのです」
リディアは、黙って聞いていた。
「『この子が大きくなる頃には、きっとこの木も立派になっているわ』と、アリシア様は仰いました。『ヴェルナーと一緒に、この木を育てるの』と」
アーデルベルトの声が、わずかに震えた。
「ですが、アリシア様は、公爵様が十六歳の時に亡くなられました。ご病気でした。最期まで、この木のことを心配しておられた」
「そうだったのですね……」
「アリシア様が亡くなられてから、公爵様の魔力が暴走し始めました。悲しみが、あまりにも深すぎたのです。公爵様は母君を深く愛しておられた。その喪失に、若い心が耐えられなかった」
リディアは、月樹に目を向けた。ヴェルナーが十六歳の時に、母を失った。そして、魔力が暴走した。つまり、この木が枯れ始めたのも、その頃だったのだろう。
「公爵様は、ご自分を責めておられます」アーデルベルトは続けた。「母君の大切にしていたものを、自分の力で枯らしてしまったと。この屋敷を、使用人たちを、全てを不幸にしてしまったと」
「でも、それはヴェルナー様のせいではありません」
リディアは、強い口調で言った。
「淀みは、悲しみから生まれます。でも、それは自然なことです。誰かを愛していたからこそ、失えば淀みが生まれる。それを責めることはできません」
アーデルベルトは、リディアを見つめた。その目には、深い敬意が宿っていた。
「リディア様は……本当に、不思議なお方です」
「私は、ただ――」リディアは月樹に手を置いた。「目の前にあるものを、放っておけないだけです」
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その日の午後、リディアは初めて屋敷の北側に足を踏み入れた。
ここは、他の場所よりもさらに荒れていた。庭というよりは、もはや森のようになっており、背の高い雑草と、絡み合った蔦で覆われていた。
「ここは、かつて『記憶の庭園』と呼ばれていた場所です」
案内してくれたエリーゼが説明した。
「歴代の当主が、大切な記念の木や花を植えた場所だと聞いています。でも、今は……」
確かに、この場所の淀みは濃かった。リディアの肌に、じっとりとした重さが纏わりつく。でも、彼女は怯まなかった。むしろ、その濃密な淀みの向こうに、何か大切なものが眠っているのを感じた。
「エリーゼ、この庭の地図はある?」
「はい、古い資料室に残っているはずです。お持ちいたしましょうか」
「お願い」
エリーゼが屋敷に戻っていく間、リディアは庭園の中を歩いた。雑草を掻き分け、蔦をくぐり抜けながら、彼女は注意深く周囲を観察した。
そして、庭園の中央で、彼女は足を止めた。
そこには、石造りの小さな東屋があった。蔦に覆われ、屋根の一部は崩れかけているが、その優美な曲線は、かつての美しさを物語っていた。
リディアは、東屋に近づいた。淀みが、さらに濃くなる。でも、それは悪意のある淀みではなかった。むしろ、深い悲しみと、諦めきれない思いが、幾重にも重なって澱んでいるような感覚だった。
東屋の中に入ると、中央に石のベンチがあった。そこに座り、リディアは目を閉じた。
手のひらを石に当てる。
瞬間、彼女の心に、様々な光景が流れ込んできた。
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――笑い声。
若い女性の笑い声が、庭園に響いている。
「ヴェルナー、こっちよ!」
少年が走ってくる。黒い髪、青灰色の瞳。幼い頃のヴェルナーだ。彼は母親の元へ駆け寄り、その手を取った。
「母上、見て。新しい花が咲いたよ」
「まあ、本当。綺麗ね」
アリシアは、優しく息子の頭を撫でた。二人は東屋に座り、庭を眺めている。
「ヴェルナー、この庭園はね、あなたのひいおじい様が作られたのよ」
「ひいおじい様が?」
「そう。大切な人との思い出を、ずっと忘れないようにって。それぞれの木や花には、全て物語があるの」
幼いヴェルナーは、目を輝かせて母を見上げた。
「僕も、いつか大切な人との思い出を、ここに植えるんだ」
「ええ、きっとね」
アリシアは微笑んだ。でも、その微笑みには、どこか儚げな影があった。
――
ヴェルナーは、十代半ばになっていた。彼は東屋に一人で座り、一冊の本を読んでいる。
「ヴェルナー」
アリシアが現れた。でも、彼女は以前よりも痩せており、顔色が悪かった。
「母上、また無理をして……」
「大丈夫よ。あなたと、この庭にいたかっただけ」
アリシアは息子の隣に座った。二人は、しばらく黙って庭を眺めていた。
「ねえ、ヴェルナー」
「何?」
「私がいなくなっても、この庭のことを覚えていてくれる?」
「何を言ってるんだ、母上」
ヴェルナーは、慌てて母を見た。
「母上は、ずっと一緒にいるじゃないか」
「ええ、そうね」アリシアは、悲しそうに微笑んだ。「ずっと、あなたと一緒にいるわ。たとえ、形が変わっても」
――
ヴェルナーは、一人で東屋に立っていた。十六歳か、十七歳くらいだろうか。彼の周囲の空気が、揺らめいている。
「母上……」
彼の声は、震えていた。
「どうして、僕を置いていったんだ。どうして……」
彼の手から、黒い霧のようなものが溢れ出した。それは魔力の暴走だった。制御できない力が、周囲の植物を枯らしていく。
「やめろ、やめてくれ……!」
ヴェルナーは自分の手を見つめ、絶望の声を上げた。でも、力は止まらなかった。母の愛した庭園が、彼の力によって枯れていく。
「僕は、何もかも壊してしまう……」
ヴェルナーは、東屋の床に膝をついた。
「母上の大切にしていたものを、僕の手で……」
彼は、そこで泣いた。誰にも見られないように、一人で。
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リディアは、目を開けた。
頬に、涙が流れていた。それが自分のものなのか、それともヴェルナーの涙の記憶なのか、分からなかった。
「ああ……」
彼女は、小さく声を漏らした。
この東屋には、ヴェルナーの悲しみが深く刻まれていた。母を失った悲しみ。自分の力で全てを壊してしまった自責の念。そして、もう二度とこの場所に来られないという諦め。
全てが、淀みとなって澱んでいた。
「リディア様!」
エリーゼの声が聞こえた。彼女が地図を持って戻ってきたのだろう。でも、リディアは立ち上がることができなかった。
この淀みは、あまりにも深い。今までのどの場所よりも、濃密で、複雑で、痛々しい。
でも――
「放っておけない」
リディアは、呟いた。
この場所を、このままにはしておけない。ヴェルナーの悲しみを、このまま澱ませておくわけにはいかない。
彼女は深く息を吸い、両手を東屋の床に置いた。
そして、目を閉じ、集中した。
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淀みを払う力。
それは、リディアが生まれながらに持っていた力だった。
母は、それを「祝福」と呼んだ。でも同時に、「呪い」にもなりうると警告した。
なぜなら、この力は無限ではないから。
淀みを払うとき、リディアは自分の生命力を使う。小さな淀みなら問題ない。でも、深く重い淀みを払おうとすれば、彼女自身が消耗する。
母は、リディアに言った。
『自分を犠牲にしてまで、淀みを払ってはいけない。あなたの命は、あなただけのものではないのだから』
でも、リディアは今、その警告を忘れていた。
いや、忘れていたわけではない。ただ、この淀みを放っておくことが、どうしてもできなかったのだ。
彼女の手のひらから、温かな光が流れ出した。それは淀みの中に染み込み、ゆっくりと、ゆっくりと、重なり合った悲しみを解きほぐしていく。
リディアの額に、汗が浮かんだ。呼吸が荒くなる。でも、彼女は手を離さなかった。
もう少し。もう少しだけ。
この場所に光を。ヴェルナーの悲しみに、少しでも救いを。
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「リディア様!」
エリーゼの悲鳴が聞こえた。
「大丈夫、よ……」
リディアは答えようとしたが、声が出なかった。視界が揺れる。体から力が抜けていく。
まずい、と彼女は思った。やり過ぎた。
でも、淀みは確かに動いた。東屋を覆っていた重苦しさが、少しだけ薄れた。それだけで、十分――
「リディア!」
違う声がした。低く、切迫した男性の声。
ヴェルナーだ、とリディアは思った。どうして、ここに?
意識が遠のく直前、彼女は誰かに抱き上げられるのを感じた。その腕は、驚くほど温かかった。
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リディアが目を覚ましたとき、そこは自分の部屋だった。
天蓋付きのベッドに寝かされており、窓からは夕日が差し込んでいた。体が重く、頭がぼんやりしている。
「……気がついたか」
声のした方を見ると、ベッドの傍らの椅子に、ヴェルナーが座っていた。
「ヴェルナー、様……」
「無茶をするな」
彼の声は、怒っているようにも、心配しているようにも聞こえた。
「あの東屋の淀みが、どれほど深いか分かっていたのか。君一人で、あんな場所に……」
「でも……」リディアは、か細い声で言った。「あの場所を、放っておけなくて」
ヴェルナーは、言葉を失った。
彼は、リディアをじっと見つめた。その瞳には、複雑な感情が渦巻いていた。
「君は……本当に、愚かだな」
でも、その言葉には、どこか優しさが滲んでいた。
「私のせいで、君が傷つく必要はない。あの庭園は、もう戻らない。私が全てを壊してしまったのだから」
「違います」
リディアは、ヴェルナーを見つめ返した。
「ヴェルナー様は、何も壊していません。ただ、悲しかっただけです。お母様を愛していたから、失って悲しかったんです。それは、当たり前のことです」
「当たり前……?」
「はい。愛していたから、悲しい。大切だったから、失えば心が壊れそうになる。それは、人として当然のことです。誰も責められません」
ヴェルナーの目が、わずかに揺れた。
「でも、私の魔力が……」
「魔力が暴走したのは、悲しみが強すぎたから。でも、それはヴェルナー様が悪いわけじゃありません」リディアは、必死に言葉を紡いだ。「淀みは、誰かのせいで生まれるものじゃないんです。感情が溢れて、行き場を失って、それが溜まっただけです」
「ならば、なぜ」ヴェルナーの声が震えた。「なぜ、私だけが……」
「一人で抱え込んだからです」
リディアは、ゆっくりと言った。
「悲しみを、一人で抱え込んだから。誰にも見せず、誰にも言わず、ただ自分を責め続けたから。だから、淀みが溜まったんです」
ヴェルナーは、唇を噛んだ。
「私には、母以外に……誰もいなかった。父は私が幼い頃に亡くなり、親族は権力争いばかりで、使用人たちには迷惑をかけたくなかった。だから……」
「だから、一人で泣いたんですね」
リディアは、静かに言った。
「東屋で。誰にも見られないように」
ヴェルナーの目が、大きく見開かれた。
「君は……どうして、それを……」
「あの場所に、刻まれていました。ヴェルナー様の悲しみが」
リディアは、優しく微笑んだ。
「でも、もう一人じゃありません。私がいます」
「君が……」
「はい。私は、ヴェルナー様の悲しみを、一緒に抱えます。淀みを、一緒に払います。だから――」
リディアは、手を伸ばした。その手は、まだ少し震えていた。
「もう、一人で泣かないでください」
ヴェルナーは、その手を見つめた。
長い沈黙の後、彼はゆっくりと手を伸ばし、リディアの手を取った。
その手は、冷たかった。でも、確かに温もりがあった。
「……ありがとう」
ヴェルナーは、小さく呟いた。
それは、彼が七年ぶりに誰かに言った、心からの言葉だった。
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その夜、リディアは深い眠りについた。
エリーゼとマルタが交代で看病し、ベルンハルトは心配そうに何度も様子を見に来た。
そして、ヴェルナーは――夜通し、リディアの部屋の前の廊下に座っていた。
アーデルベルトが、毛布を持ってきた。
「公爵様、お部屋でお休みになられては」
「ここにいる」
ヴェルナーは、頑なに言った。
「彼女が目を覚ますまで、私はここにいる」
アーデルベルトは、何も言わずに毛布を手渡し、静かに立ち去った。
廊下の窓から、月明かりが差し込んでいた。ヴェルナーは、自分の手のひらを見つめた。
長年、この手は全てを枯らしてきた。触れたものを、壊してきた。だから、誰にも触れないようにしてきた。
でも、リディアは言った。
『一緒に抱えます』と。
『もう一人じゃありません』と。
ヴェルナーの目に、涙が浮かんだ。でも、今度は悲しみの涙ではなかった。
それは、長い長い闇の後に、ようやく見えた光への涙だった。
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翌朝、リディアは目を覚ました。
体はまだ重かったが、気分はずっと良くなっていた。窓を開けると、朝の爽やかな空気が流れ込んできた。
そして、彼女は気がついた。
空気が、違う。
屋敷全体の空気が、昨日よりもずっと軽くなっている。それは、東屋の淀みを少しだけ払ったからではない。もっと根本的な、何かが変わったのだ。
リディアは、窓から庭を見下ろした。
そして、息を呑んだ。
記憶の庭園の上空に、薄く光が差している。まるで、長い間閉ざされていた扉が、少しだけ開いたかのように。
その光の中を、一羽の小鳥が飛んでいった。
リディアは、微笑んだ。
「ああ……動き始めた」
淀みが、流れ始めた。
そして、この屋敷に――ようやく、風が吹き始めた。
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同じ頃、ヴェルナーは自室で目を覚ました。
明け方まで廊下にいた彼を、アーデルベルトが部屋に運んだのだろう。ベッドの上で、彼は自分の右手を見つめた。
そして、驚きの声を上げた。
手の甲に、長年あった黒い痣――魔力の暴走の証が、薄くなっていた。完全に消えたわけではない。でも、確かに色が薄れている。
それだけではない。体が、軽い。呼吸が、楽だ。
七年間、常に体を蝕んでいた淀みが――減っている。
「まさか……」
ヴェルナーは、窓辺に駆け寄った。
そして、記憶の庭園を見下ろし、彼もまた息を呑んだ。
東屋の周りの雑草が、わずかに色を変えていた。枯れた黒から、生きた緑へ。
そして、東屋の屋根の上に――小さな、本当に小さな新芽が、顔を出していた。
「母上……」
ヴェルナーは呟いた。
それは、希望の芽だった。
長い冬の後に、ようやく訪れた春の兆しだった。
そして、それを運んできたのは――リディア・オーウェン。
あの不思議な、愚かなほど優しい、彼の妻だった。
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【第三話 了】




