2話:淀みを払う手と、忘れられた温室
第二話「淀みを払う手と、忘れられた温室」
翌朝、リディアが目を覚ましたのは、小鳥のさえずりだった。
いや、正確には「さえずりのようなもの」だった。窓の外から聞こえてくるその音は、どこか掠れていて、まるで長い間声を出していなかった者が、ようやく喉を震わせたかのようだった。
カーテンを開けると、朝日が差し込んだ。昨日よりも、ほんの少しだけ、光が部屋の奥まで届いているような気がした。
「お嬢様、朝食の準備ができております」
扉をノックしたのは、昨日アーデルベルトと共にいた若いメイド、エリーゼだった。彼女はこの屋敷に残った数少ない使用人の一人で、二十歳ほどの控えめな女性だった。
「ありがとう、エリーゼ。すぐに行くわ」
身支度を整えながら、リディアは窓の外の庭を見下ろした。昨日、自分が手入れをした薔薇園の一角が、他の場所よりもわずかに色が明るく見える。枯れた黒ではなく、土の持つ本来の茶色が顔を覗かせていた。
ああ、やっぱり。
リディアは小さく微笑んだ。淀みは、確かに動いている。
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食堂は、予想以上に広かった。長いテーブルには、リディア一人分の朝食だけが用意されている。
「ヴェルナー様は?」
給仕をするアーデルベルトに尋ねると、老執事は少し躊躇ってから答えた。
「公爵様は、お部屋でお召し上がりになります。ここ数年、食堂には……お出になられません」
「そう」
リディアは、それ以上は聞かなかった。ヴェルナーが自室に籠もる理由は、おそらく想像がついた。人と顔を合わせることさえ、彼にとっては苦痛なのだろう。呪いの淀みが、彼の生きる意欲そのものを奪っているのだから。
朝食は質素だったが、丁寧に作られていた。パンは温かく、スープは優しい味がした。
「とても美味しいわ」
リディアが言うと、エリーゼの表情がほんの少し明るくなった。
「ありがとうございます。料理長のマルタが、お喜びになられます」
「料理長は、どうしてこの屋敷に残られたの?」
エリーゼは一瞬、言葉に詰まった。それから、小さな声で答えた。
「マルタは、公爵様が幼い頃からこの屋敷におりました。どんなに皆が逃げても、マルタだけは『坊ちゃんを置いていけない』と……」
リディアの胸が、ぎゅっと締め付けられた。
この屋敷には、ヴェルナーを見捨てなかった人々がいる。わずかな人数でも、彼らはここに留まり、主人を支えているのだ。
「マルタさんに、お会いできるかしら」
「はい。きっと、お喜びになられます」
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朝食を終えたリディアは、再び庭に向かった。今日は昨日よりも道具を増やしている。剪定鋏、熊手、それに水桶。ベルンハルトが心配して用意してくれたものだった。
「お嬢様、本当に大丈夫なのですか。昨夜、少しお疲れのご様子でしたが……」
「大丈夫よ、ベルン。私、こういうことをしている方が元気になるの」
それは本当だった。リディアは子供の頃から、庭仕事や掃除が好きだった。没落した子爵家には使用人も少なく、彼女は自然と自分で屋敷の手入れをするようになっていた。そして、彼女が手を入れた場所は、なぜか他の場所よりも明るく、清々しくなるのだった。
それを「才能」だと気づいていたのは、幼い頃に亡くなった母だけだった。
『リディア、あなたには特別な力があるのよ。物事に溜まった淀みを、払うことができる』
でも母は、それを誇るのではなく、むしろ秘密にするように言った。
『この力は、人を妬ませる。だから、ただの「お手入れが上手な娘」でいなさい』
だからリディアは、自分の力を特別なものだとは思わなかった。ただ、目の前の「気になるもの」を、丁寧に手入れしているだけ。それが、彼女のやり方だった。
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昨日手をつけた薔薇園の続きに取り掛かる。枯れた枝を切り落とし、絡まった蔦を解き、土を掘り起こす。単調な作業だったが、リディアの手は迷いなく動いた。
そして、彼女が触れた場所から、確かに何かが「抜けて」いくのを感じた。
それは目には見えない。けれど、空気が軽くなり、土の匂いが戻ってくる。まるで、長い間息を止めていたものが、ようやく呼吸を取り戻すかのように。
「……すごい」
背後から、驚きの声がした。
振り返ると、エリーゼが目を丸くしてこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「あの、リディア様。その、昨日から不思議だったのですが……リディア様が手入れをされた場所、本当に空気が違うのです」
「そう?」
「はい。私、庭に出るのが怖かったのですが、今日はここまで来られました。リディア様がいらっしゃる場所は、呪いが薄いような……」
リディアは、エリーゼの言葉を静かに受け止めた。やはり、この屋敷の人々は「呪い」と呼んでいるのだ。でも、彼女の感覚では、それはただの「溜まった淀み」だった。
「エリーゼ、この庭には、他にも手入れが必要な場所がある?」
「はい。たくさん……あまりにも、たくさん」エリーゼは悲しそうに目を伏せた。「特に、温室が。あそこは、公爵様のお母様が大切になさっていた場所でした。でも、今は……」
「温室?」
リディアの目が輝いた。温室があるなら、きっと様々な植物が植えられていたはずだ。そして、長年放置されていれば、相当な淀みが溜まっているに違いない。
「案内してくれる?」
エリーゼは一瞬躊躇したが、リディアの真剣な眼差しに押されるように頷いた。
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温室は、屋敷の東側、庭の奥まった場所にあった。
ガラスと鉄骨で作られた美しい建物は、しかし今や黒ずみ、ガラスの多くが割れていた。中からは、何か重苦しいものが漏れ出しているように感じられた。
「ここです。でも、リディア様、あまり近づかない方が……」
エリーゼの警告を聞きながらも、リディアは温室の扉に手をかけた。
錆びついた取っ手を回すと、軋んだ音を立てて扉が開く。
中は、予想以上に酷かった。
かつては色とりどりの花々が咲き誇っていたであろう温室は、今や枯れた植物と、腐敗した土と、割れたガラスで埋め尽くされていた。空気は淀み切っており、リディアの肺に重くのしかかってくる。
でも、リディアは一歩、また一歩と中に入っていった。
「ああ……」
彼女は、小さく声を漏らした。
ここには、かつて誰かの深い愛情があった。丁寧に配置された鉢植えの跡。計算された水路。温度を保つための工夫。全てが、植物を愛する者の手によるものだった。
それが、こんなにも長い間、放置されている。
リディアの胸に、やるせない思いが込み上げた。
「リディア様……?」
エリーゼが心配そうに呼びかけるのも聞こえないほど、リディアは温室の奥へと進んだ。そして、中央の大きな花壇の前で、彼女は足を止めた。
そこには、一本の木が立っていた。
いや、立っているというよりは、辛うじて朽ちずにいた、と言うべきだった。幹は黒ずみ、枝は全て枯れ落ちている。でも、その根元には、小さな名札が残されていた。
『アリシアの月樹』
リディアは、その名前を読み上げた。
「これは……」
「公爵様のお母様の、お名前です」エリーゼが小さな声で言った。「アリシア様。この木は、公爵様がお生まれになったときに、奥様が植えられたものだと聞いています」
リディアは、枯れた木に手を触れた。
瞬間、彼女の手のひらに、激しい淀みが流れ込んできた。それは今までに感じたどんなものよりも深く、重く、悲しかった。
まるで、長年抑え込まれてきた悲嘆が、一気に溢れ出してくるかのようだった。
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その頃、屋敷の二階では、ヴェルナーが窓辺に立っていた。
彼の視線の先には、温室に入っていくリディアの姿があった。
「まさか……」
ヴェルナーの表情が、初めて大きく揺れた。
温室は、この屋敷で最も淀みが濃い場所だった。母が亡くなってから、彼の魔力が暴走し始めてから、あの場所には誰も近づけなくなっていた。
使用人たちは、温室に入ろうとすれば吐き気と目眩に襲われた。ヴェルナー自身も、あの場所に近づくことができなかった。自分の魔力の暴走が、母の思い出の場所を汚してしまったことが、何よりも苦痛だったから。
なのに、あの娘は中に入っていった。
「アーデルベルト」
ヴェルナーは、部屋の外で控えていた老執事を呼んだ。
「はい、公爵様」
「リディアを、止めてくれ。温室は危険だ」
「かしこまりました。ですが公爵様……」アーデルベルトは、わずかに躊躇してから言った。「昨日から、屋敷の空気が変わっております。リディア様が庭に出られてから、使用人たちの体調が良くなっているのです」
ヴェルナーは、黙って執事を見た。
「それに」アーデルベルトは続けた。「公爵様ご自身も、昨夜は少しお休みになられたと聞いております」
確かに、昨夜は久しぶりに眠れた。ここ数年、淀みが体を蝕み、眠ることさえ苦痛だったのに。
「……分かった。だが、もし彼女の様子がおかしければ、すぐに引き上げさせろ」
「かしこまりました」
アーデルベルトが部屋を出た後、ヴェルナーは再び窓の外を見た。
温室の中で、リディアが何かに向かって膝をついているのが、遠くから見えた。
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リディアは、枯れた月樹の前で膝をついていた。
手のひらを幹に当て、目を閉じる。流れ込んでくる淀みは、確かに重かった。でも、その奥底に、かすかな温かみを感じた。
それは、愛情の残滓だった。
この木を植えた人の、この木を見守った人の、この木に語りかけた人の、全ての思いが、淀みの下に眠っている。
「大丈夫」
リディアは、木に向かって囁いた。
「もう大丈夫よ。ちゃんと、手入れをするから」
彼女の手のひらから、静かな温もりが流れ出した。それは魔力と呼ばれるものとは違う、もっと根源的な何かだった。
淀みを払う力。溜まったものを流す力。停滞を動かす力。
リディアは、それを「お手入れ」と呼んでいたが、本当は、それは生命そのものに働きかける力だった。
ゆっくりと、木の幹から黒ずみが薄れていく。完全に消えたわけではない。でも、確かに「流れ」が戻ってきた。
リディアが手を離したとき、彼女は深く息をついた。額には汗が浮かんでいる。
「リディア様!」
エリーゼが駆け寄ってきて、彼女を支えた。
「大丈夫、ちょっと疲れただけ」
リディアは微笑んだ。そして、もう一度月樹を見上げた。
まだ枯れている。まだ黒ずんでいる。でも、かすかに、ほんのかすかに――幹の一部が、生木の色を取り戻していた。
「エリーゼ、明日もここに来るわ。それから、水と肥料を用意してもらえる?」
「は、はい。でも、この木は、もう……」
「諦めるのは、まだ早いわ」
リディアは、優しく木の幹を撫でた。
「ね、まだ頑張れるでしょう?」
風が、温室を通り抜けた。それは、長い間この場所を吹き抜けることのなかった、優しい風だった。
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その夜、ヴェルナーは久しぶりに食堂に姿を現した。
「公爵様!」
準備をしていたアーデルベルトとエリーゼが、驚きの声を上げた。
「リディアは、まだ来ていないか」
「はい、お部屋で身支度を……あ、いらっしゃいました」
扉が開き、リディアが入ってきた。庭仕事の後で入浴したのだろう、髪はまだ少し湿っていて、頬には健康的な紅が差していた。
「ヴェルナー様」
リディアは驚いた様子で目を丸くしたが、すぐに微笑んで一礼した。
「こんばんは」
「……こんばんは」
ヴェルナーは、ぎこちなく答えた。人と食事を共にするのは、一体何年ぶりだろう。
二人はテーブルの両端に座った。運ばれてきた料理は、昨夜よりも少し豪華だった。料理長のマルタが、久しぶりに公爵が食堂に出てきたことに張り切ったのだろう。
しばらく、沈黙が流れた。食器の音だけが、静かに響く。
「今日は……温室に行ったそうだな」
ヴェルナーが、やっとのことで口を開いた。
「はい。とても、素敵な場所ですね」
リディアは、屈託なく微笑んだ。
「アリシア様が作られた温室だと聞きました。お母様は、きっと植物がお好きだったのでしょうね」
ヴェルナーの手が、わずかに震えた。
「……ああ。母は、あの温室を愛していた」
「月樹も、とても立派な木ですね。まだ、生きていますよ」
「何?」
ヴェルナーは、顔を上げた。
「あの木は、枯れたはずだ。七年前、母が亡くなってすぐに……」
「表面は枯れています。でも、根は生きています」リディアは、確信を持って言った。「だから、お手入れをすれば、きっとまた……」
「無理だ」
ヴェルナーの声が、わずかに大きくなった。
「あの木は、私の魔力で汚された。私が近づくだけで、全てが枯れる。母の大切にしていたものでさえ、私は守れなかった」
彼の声には、深い自責の念が滲んでいた。
リディアは、静かにヴェルナーを見つめた。その瞳は、憐れみでも同情でもなく、ただまっすぐな理解の色を湛えていた。
「ヴェルナー様」
彼女は、静かに言った。
「淀みは、誰のせいでもありません。溜まるべくして溜まり、流れるべくして流れる。ただ、それだけです」
「淀み……?」
「はい。ヴェルナー様が『呪い』と呼んでいるもの、私には『淀み』に見えます。そして、淀みは払うことができます」
ヴェルナーは、信じられないという顔で彼女を見た。
「君は……一体、何者なんだ」
リディアは、少し困ったように首を傾げた。
「ただの、お掃除好きな娘です」
そして、彼女は本当に、そう信じているようだった。
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その夜、ヴェルナーは久しぶりに深く眠った。
そして、夢を見た。
母の笑顔。温室に咲く花々。幼い自分の手を引く、温かな手のひら。
目が覚めたとき、彼の頬には、涙の跡があった。
窓の外では、月が静かに輝いていた。そして、遠くに見える温室が――ほんのわずかに、淡い光を放っているように見えた。
それが幻なのか、それとも本当なのか、ヴェルナーには分からなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
この屋敷に、変化が訪れている。
そして、その変化を連れてきたのは、あの不思議な娘――リディア・オーウェンだということ。
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【第二話 了】
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