番外編7:月樹を植えた母 ~アリシアの愛と祈り~
番外編7「月樹を植えた母 ~アリシアの愛と祈り~」
-二十三年前、春-
アリシア・フォン・エーデルシュタインは、温室で一本の苗木を見つめていた。
『月樹の苗木』
札にはそう書かれていた。
「月樹……」
彼女は、小さな苗木を優しく撫でた。
まだ細く、頼りない幹。でも、その中には――確かな生命力が宿っていた。
「あなたを、植えるわ」
アリシアは、苗木に語りかけた。
「私の大切な息子が生まれた記念に」
彼女は、微笑んだ。
昨日、彼女は男の子を出産した。
ヴェルナー・フォン・エーデルシュタイン。
小さな、でも元気な産声を上げた赤ん坊。
「ヴェルナー……」
その名前を口にするだけで、胸が温かくなった。
***
アリシアは、まだ産後で体が辛かった。
医者は、安静にするよう言った。
でも、彼女は――
この木を、自分の手で植えたかった。
「奥様、無理をなさらないでください」
執事のアーデルベルトが、心配そうに声をかけた。
「大丈夫よ、アーデルベルト」
アリシアは、優しく微笑んだ。
「これは、母親としての――私の、最初の仕事なの」
彼女は、小さなシャベルを手に取った。
そして、温室の中央、一番日当たりの良い場所に――
穴を掘り始めた。
***
土を掘る手が、震えた。
まだ、体力が戻っていない。
でも、アリシアは止まらなかった。
一掬い、また一掬い。
丁寧に、愛情を込めて。
やがて、十分な深さの穴ができた。
アリシアは、月樹の苗木を持ち上げた。
そして、そっと穴に入れた。
「ここが、あなたの場所よ」
彼女は、苗木に語りかけた。
「ヴェルナーと一緒に、大きくなってね」
土をかけ、優しく押し固める。
最後に、たっぷりと水をやった。
「大きくなあれ、大きくなあれ」
アリシアは、子供のように笑った。
***
作業を終えると、彼女は苗木の前に座り込んだ。
疲労が、どっと押し寄せてきた。
でも、その疲労感は――
心地よいものだった。
「これで、よし」
彼女は、満足そうに頷いた。
そして、木の幹に手を当てた。
「あなたに、名前をつけるわ」
アリシアは、少し考えた。
「『アリシアの月樹』――どう?」
風が、温室を吹き抜けた。
まるで、木が「いいね」と答えているかのように。
アリシアは、微笑んだ。
そして、木に額をつけた。
「ヴェルナーを、見守ってあげてね」
「私が見られなくなっても――」
彼女の声が、わずかに震えた。
「ずっと、ずっと――」
***
その時、背後から声がした。
「アリシア」
振り返ると、夫が立っていた。
ディートリヒ・フォン・エーデルシュタイン。
公爵であり、騎士団長であり――
そして、アリシアの愛する夫だった。
「ディートリヒ」
「また、無理をして」
ディートリヒは、困ったように笑いながら妻に近づいた。
「医者が安静にと言っただろう」
「ごめんなさい。でも――」
アリシアは、月樹を見た。
「どうしても、今日植えたかったの」
ディートリヒは、木を見つめた。
「月樹か」
「ええ。ヴェルナーが生まれた記念に」
「そうか……」
ディートリヒは、妻の隣に座った。
そして、二人で月樹を見つめた。
「立派に育つといいな」
「ええ。きっと育つわ」
アリシアは、夫の手を握った。
「この子が大きくなる頃には、この木もきっと――立派な木になっているわ」
***
しばらく、二人は黙って座っていた。
やがて、ディートリヒが口を開いた。
「アリシア」
「何?」
「ありがとう」
アリシアは、驚いて夫を見た。
「何が?」
「ヴェルナーを、産んでくれて」
ディートリヒの目には、涙が浮かんでいた。
「俺は、昨日――息子の顔を見た時、初めて泣いた」
「あら、見てたの?」
「ああ」ディートリヒは、照れたように笑った。「こっそりと」
彼は、妻の手を両手で包んだ。
「お前と結婚して、五年。毎日が幸せだった」
「でも、昨日――息子が生まれて、その幸せが何倍にもなった」
「ディートリヒ……」
「だから、ありがとう」
ディートリヒは、妻の額にキスをした。
「お前は、俺の宝物だ。そして、ヴェルナーも」
アリシアの目から、涙が溢れた。
「私も、ありがとう」
「何が?」
「私と結婚してくれて。ヴェルナーのお父様になってくれて」
二人は、抱き合った。
月樹の前で。
新しい命の誕生を祝うように。
***
**五年後**
ヴェルナーは、五歳になっていた。
好奇心旺盛で、優しい少年に育っていた。
そして、母の温室が大好きだった。
「母上、これ何?」
幼いヴェルナーが、花を指差して尋ねた。
「それはね、薔薇よ」
アリシアは、息子に優しく教えた。
「綺麗でしょう?」
「うん! 綺麗!」
ヴェルナーは、目を輝かせた。
「僕も、お花を育てたい!」
「いいわよ。一緒に育てましょう」
アリシアは、息子の手を取った。
そして、月樹の前に立った。
木は、五年でかなり大きくなっていた。
幹は太く、枝も伸びている。
「ヴェルナー、この木を覚えてる?」
「うん! 僕が生まれた時に植えた木でしょ?」
「そうよ。よく覚えていたわね」
アリシアは、息子を抱き上げた。
「この木はね、あなたと一緒に育っているの」
「一緒に?」
「ええ。あなたが大きくなれば、この木も大きくなる」
ヴェルナーは、木の幹に手を当てた。
「すごい! 温かい!」
「そうでしょう? この木は、生きているのよ」
「生きてる……」
ヴェルナーは、不思議そうに木を見つめた。
「母上、僕――この木、大好き」
「そう」アリシアは、微笑んだ。「大切にしてあげてね」
「うん!」
***
**十歳**
ヴェルナーは、立派な少年に育っていた。
学院での成績も優秀で、友人も多かった。
でも、彼が一番好きだったのは――
やはり、母と過ごす温室の時間だった。
「母上、見て! 薔薇が咲いたよ!」
十歳のヴェルナーが、嬉しそうに報告した。
「まあ、本当! 綺麗ね」
アリシアは、息子が育てた薔薇を見て微笑んだ。
「よく頑張ったわね、ヴェルナー」
「えへへ」
ヴェルナーは、照れたように笑った。
「母上が教えてくれたから」
二人は、月樹の下に座った。
木は、さらに大きく育っていた。
「ねえ、母上」
「何?」
「僕、いつか――大切な人と、ここに木を植えるんだ」
アリシアは、驚いて息子を見た。
「大切な人?」
「うん。母上と父上みたいに、愛する人と」
ヴェルナーは、真剣な顔で言った。
「そして、その木を、ずっと育てるんだ」
アリシアの目に、涙が浮かんだ。
「そうね……きっと、素敵ね」
彼女は、息子を抱きしめた。
「あなたなら、きっと素敵な人と出会えるわ」
***
**十三歳**
ヴェルナーが十三歳の時――
父、ディートリヒが戦で亡くなった。
アリシアは、悲しみに暮れた。
でも、息子の前では――
決して、泣かなかった。
「母上、大丈夫?」
ヴェルナーが、心配そうに尋ねた。
「ええ、大丈夫よ」
アリシアは、無理に微笑んだ。
「お父様は、立派に戦われたわ。誇りに思いましょう」
でも、夜――
アリシアは、一人温室で泣いた。
月樹の前で。
「ディートリヒ……」
彼女は、木の幹を抱きしめた。
「どうして、私を置いていったの」
「ヴェルナーは、まだ子供なのに」
「私一人で、育てられるかしら……」
涙が、止まらなかった。
でも――
木が、温かかった。
まるで、夫が抱きしめてくれているかのように。
「ディートリヒ……あなた、ここにいるの?」
風が、温室を吹き抜けた。
「そうね……あなたは、ずっとここにいるのね」
アリシアは、涙を拭った。
「ありがとう」
「私、頑張るわ。ヴェルナーを、立派に育ててみせる」
***
**十六歳**
ヴェルナーは、立派な青年に育った。
父を失った悲しみを乗り越え、公爵としての責務を学んでいた。
そして、母を深く愛していた。
「母上、今日も温室に?」
「ええ。月樹の手入れをしなくちゃ」
アリシアは、微笑んだ。
でも、その笑顔は――
どこか、疲れているように見えた。
「母上、最近疲れてない?」
「大丈夫よ」
アリシアは、息子の頬を撫でた。
「あなたが元気でいてくれれば、私は大丈夫」
でも、本当は――
アリシアは、病に侵されていた。
医者からは、あと数ヶ月だと告げられていた。
でも、息子には――
言えなかった。
***
ある日、アリシアはヴェルナーを温室に呼んだ。
「ヴェルナー」
「何、母上?」
「この庭のこと、覚えていてね」
「え?」
ヴェルナーは、不安そうに母を見た。
「どうして、急に……」
「何でもないの」
アリシアは、月樹を見上げた。
「ただ――この木も、この温室も、この庭園も」
「全部、あなたへの愛を込めて、育ててきたの」
「母上……」
「だから、私がいなくなっても――」
「母上!」
ヴェルナーは、母の手を握った。
「何を言ってるんだ! 母上は、ずっと一緒にいるじゃないか!」
アリシアは、悲しそうに微笑んだ。
「そうね……ずっと、一緒よ」
「たとえ、形が変わっても」
***
**アリシアの最期**
それは、冬の寒い日だった。
アリシアは、ベッドに横たわっていた。
もう、起き上がる力もなかった。
ヴェルナーは、母の傍にいた。
「母上……」
十六歳の少年は、涙を流していた。
「行かないで……」
「ヴェルナー」
アリシアは、か細い声で言った。
「泣かないで」
「でも……!」
「いい? あなたは、強い子よ」
アリシアは、息子の手を握った。
「お父様の血を引く、立派な公爵になるわ」
「母上がいなくなったら、僕は――」
「大丈夫」
アリシアは、微笑んだ。
「私は、いつもあなたと一緒よ」
「どこに?」
「温室に。庭園に。月樹に」
アリシアの声が、弱くなっていく。
「あなたが庭を歩く時、風が吹くでしょう? それが、私よ」
「花が咲く時、優しい香りがするでしょう? それも、私よ」
「母上……」
「そして――」
アリシアは、最後の力を振り絞って言った。
「いつか、あなたが愛する人と出会った時――」
「その人と、一緒に庭を歩いてあげて」
「その人に、この温室を見せてあげて」
「そして――」
アリシアの目から、涙が落ちた。
「幸せになって」
「母上……!」
「愛しているわ、ヴェルナー」
それが、アリシアの最期の言葉だった。
***
アリシアが亡くなった後――
ヴェルナーは、温室に行けなくなった。
母の思い出が、あまりにも強すぎて。
そして、悲しみで――
魔力が、暴走した。
庭は枯れ、屋敷は淀みに包まれた。
月樹も、黒ずんでいった。
***
**二十三年後、リディアが来た日**
アリシアの魂は、温室にいた。
月樹と共に。
庭園と共に。
そして、息子を見守っていた。
彼女は、ヴェルナーの苦しみを見ていた。
でも、何もできなかった。
ただ、祈ることしか。
「ヴェルナー……」
「どうか、幸せになって」
「どうか、光を見つけて」
そして、ある日――
一人の娘が、屋敷に来た。
栗色の髪の、優しい瞳の娘。
リディア・オーウェン。
アリシアは、彼女を見た瞬間――
分かった。
「この子だわ」
「この子が、ヴェルナーを救う」
リディアは、庭に出た。
そして、鎌を手に取った。
アリシアは、見守った。
娘が、丁寧に庭の手入れをするのを。
淀みを払うのを。
そして――
温室に来た時。
月樹に触れた時。
アリシアは、リディアに語りかけた。
『ありがとう』
『この木を、愛してくれて』
リディアは、聞こえたかもしれない。
彼女は、木に優しく語りかけた。
「大丈夫よ。ちゃんと、手入れをするから」
アリシアの魂は、温かくなった。
『ヴェルナーを、お願いね』
『この子は、優しい子なの』
『ただ、一人で抱え込みすぎるだけ』
リディアは、微笑んだ。
「分かっています」
「必ず、ヴェルナー様を――幸せにします」
***
**満月の夜、月樹が咲いた時**
アリシアの魂は、完全な形で現れた。
光の中で。
ヴェルナーとリディアの前に。
『ヴェルナー』
「母上……!」
『よく頑張ったわね。一人で、長い間』
アリシアは、息子に微笑みかけた。
『もう、大丈夫。あなたには、素敵な伴侶がいる』
彼女は、リディアを見た。
『リディア。私の息子を、よろしくね』
「はい……!」
リディアは、涙を流しながら答えた。
『二人とも、幸せになって』
アリシアの姿が、光に溶けていった。
『私は、いつもあなたたちを見守っているわ』
光が、月樹の花に吸い込まれていった。
そして――
静寂。
でも、それは悲しい静寂ではなかった。
全てが満たされた、穏やかな静寂だった。
***
**現在**
月樹は、今も温室で育っている。
毎年、満月の夜に花を咲かせる。
そして、その度に――
アリシアの温もりが、感じられる。
ヴェルナーとリディアの子供たちも、この木を愛している。
「この木は、おばあちゃんが植えた木なんだよ」
ヴェルナーは、子供たちに教える。
「おばあちゃんは、ずっとここにいるんだ」
「本当?」
「ああ。お前たちを、見守ってくれている」
子供たちは、木を抱きしめる。
「おばあちゃん、ありがとう!」
風が、温室を吹き抜ける。
それは、まるで――
アリシアの「どういたしまして」という言葉のようだった。
***
リディアは、月樹の手入れをしながら、語りかける。
「アリシア様、見ていますか?」
「ヴェルナー様は、幸せです」
「子供たちも、元気に育っています」
「だから、安心してください」
風が、リディアの頬を撫でた。
温かく、優しく。
「ありがとうございます」
リディアは、微笑んだ。
「この木を、残してくれて」
「ヴェルナー様を、産んでくれて」
月樹の葉が、キラキラと光った。
まるで、アリシアが笑っているかのように。
***
-アリシアの日記より-
『ヴェルナーが生まれた日、私は月樹を植えた。
この木が、息子と共に育つように。
そして、私がいなくなった後も――
息子を、見守り続けるように。
木は、人よりも長く生きる。
だから、この木が――
私の代わりに、ヴェルナーを見守ってくれる。
愛しているわ、ヴェルナー。
いつまでも、永遠に。
母より』
***
【番外編7 了】
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