番外編6:父の涙 ~娘を嫁がせる日~
番外編6「父の涙 ~娘を嫁がせる日~」
オーウェン子爵、エドワードは、書斎で一通の手紙を握りしめていた。
差出人は、エーデルシュタイン公爵家の執事、アーデルベルト。
縁談の正式な申し込みだった。
「ヴェルナー・フォン・エーデルシュタイン公爵が、貴家の令嬢リディア様を妻に迎えたい」
エドワードは、手紙を机に置いた。
そして、顔を両手で覆った。
「神よ……」
彼の声は、震えていた。
「どうして、こんな選択を――私に、強いるのですか」
***
オーウェン子爵家は、没落していた。
かつては王都でも名の知れた家柄だったが、先代の放蕩と、エドワード自身の商才のなさで、借金が膨らんでいた。
屋敷は抵当に入り、使用人は次々と辞めていった。
残されたのは、エドワードと三人の子供たち。
長女のリディア、十八歳。
長男のアルフレッド、十五歳。
次男のセバスチャン、十二歳。
妻アイリーンは、五年前に病で亡くなっていた。
「アイリーン……」
エドワードは、亡き妻の肖像画を見上げた。
優しく微笑む妻。
彼女がいれば、どうしただろうか。
きっと、何か別の道を見つけてくれただろう。
でも、彼女はもういない。
エドワードは、一人で――
この家族を、守らなければならなかった。
***
借金の返済期限は、迫っていた。
あと三ヶ月。
その間に、十万ゴールドを用意しなければ、屋敷は競売にかけられる。
そして、一家は路頭に迷う。
エドワードは、あらゆる手段を試した。
王都の貴族たちに、融資を頼んだ。
でも、没落した家に金を貸す者はいなかった。
商人たちにも頭を下げた。
でも、担保にできるものは、もう何も残っていなかった。
「どうすれば……」
エドワードは、毎晩悩み続けた。
そして――
ある日、一人の男が訪ねてきた。
***
「オーウェン子爵」
その男は、オットー・フォン・エーデルシュタインと名乗った。
公爵家の分家筋の男だった。
「突然の訪問、お許しください」
「いえ……どのようなご用件でしょうか」
エドワードは、不安を覚えた。
この男の目には、何か――冷たいものがあった。
「実は、ご提案がございまして」
オットーは、にやりと笑った。
「貴家の長女、リディア様を――我が一族の当主、ヴェルナー公爵の妻として迎えたいのです」
エドワードは、息を呑んだ。
「ヴェルナー公爵……?」
「ええ。ご存知でしょう? 呪いに苦しむ、あの公爵です」
オットーは、わざとらしく言った。
「もちろん、相応の持参金をお支払いいたします。二十万ゴールド、いかがでしょうか」
二十万ゴールド。
それは、借金を返済し、さらに家族の生活を立て直すのに十分な額だった。
でも――
「お断りします」
エドワードは、即座に答えた。
「娘を、呪いの館に送るわけにはいきません」
「ほう」
オットーは、肩をすくめた。
「では、借金を返済できずに、一家で路頭に迷われるおつもりですか?」
「それは……」
「お考えになってください。娘一人の犠牲で、家族全員が救われるのですよ」
オットーは、立ち上がった。
「一週間、お時間を差し上げます。それまでに、お返事を」
***
オットーが去った後、エドワードは一人、書斎に座り込んだ。
「リディアを……呪いの館に?」
それは、考えられないことだった。
娘は、まだ十八歳だ。
これから、幸せな人生が待っているはずだった。
良い家に嫁ぎ、愛する夫と子供を持ち――
でも、この縁談では――
娘は、死を待つ公爵の世話をするだけの人生になる。
「できない……」
エドワードは、頭を抱えた。
「そんなこと、できるわけがない」
でも――
息子たちの顔が、脳裏に浮かんだ。
アルフレッドは、学費が払えず学院を中退していた。
セバスチャンは、まだ幼く、これから教育が必要だった。
そして、リディア自身も――
日々、家計を心配し、少ない食事で我慢していた。
「どうすれば……」
***
その夜、エドワードはリディアの部屋を訪れた。
ノックをすると、娘の声がした。
「はい、どうぞ」
部屋に入ると、リディアは古い服を繕っていた。
「お父様」
彼女は、微笑んだ。
でも、その笑顔は――どこか、疲れているように見えた。
「リディア……夜遅くまで、何をしているんだ」
「この服、まだ着られそうだったので。繕えば、あと一年は持ちますから」
エドワードの胸が、痛んだ。
娘は、新しい服を買う余裕もないのだ。
「リディア」
「はい?」
エドワードは、娘の隣に座った。
「お前は……幸せか?」
リディアは、驚いた顔をした。
「もちろんです。お父様と、アルフレッドと、セバスチャンと一緒にいられますから」
「でも……」
エドワードの声が、震えた。
「お前は、もっと良い暮らしができたはずなんだ」
「母上が生きていれば。俺が、もっと有能な当主であれば」
リディアは、父の手を握った。
「お父様、自分を責めないでください」
「でも――」
「私は、幸せです」
リディアは、真剣な目で言った。
「確かに、お金はありません。でも、家族がいます。それだけで、十分です」
エドワードは、娘を抱きしめた。
そして、涙を流した。
「ごめん……ごめんな、リディア」
「お父様?」
「お前に、こんな苦労をさせて……」
リディアは、父の背中を優しく叩いた。
「大丈夫ですよ、お父様。私たち、きっと何とかなります」
でも、エドワードは知っていた。
もう、時間がないことを。
***
一週間、エドワードは悩み続けた。
夜も眠れず、食事も喉を通らなかった。
そして――
ついに、決断の日が来た。
エドワードは、アーデルベルトに返事の手紙を書いた。
『縁談を、受け入れます』
ペンを置いた瞬間、エドワードの目から涙が溢れた。
「許してくれ、リディア……」
彼は、顔を両手で覆った。
「許してくれ……」
***
リディアに、縁談の話をしたのは、その翌日だった。
「リディア」
エドワードは、娘を書斎に呼んだ。
「はい、お父様」
「座ってくれ」
リディアは、椅子に座った。
エドワードは、深く息を吸った。
「リディア……縁談の話が来ている」
「縁談……ですか?」
「ああ。エーデルシュタイン公爵家から」
リディアの目が、わずかに揺れた。
公爵家の名前は、彼女も知っていた。
そして――その公爵が、呪いに苦しんでいることも。
「お父様……それは」
「ヴェルナー・フォン・エーデルシュタイン公爵が、お前を妻に迎えたいと」
エドワードは、娘の目を見られなかった。
「でも、これは――お前の意思に任せる。嫌なら、断ってくれ」
嘘だった。
もう、断る選択肢はなかった。
持参金の契約書には、既にエドワードのサインがあった。
でも、エドワードは――
娘に、選択の自由があると思わせたかった。
***
リディアは、しばらく黙っていた。
やがて、彼女は静かに尋ねた。
「お父様……この縁談を受ければ、持参金がもらえるのですか?」
エドワードは、娘の聡明さに驚いた。
そして、悲しくなった。
「……ああ」
「それで、借金が返せますか?」
「ああ」
「アルフレッドは、学院に戻れますか?」
「……ああ」
リディアは、微笑んだ。
「なら、私、行きます」
「リディア!」
エドワードは、立ち上がった。
「お前は、自分が何を言っているか分かっているのか! あの屋敷は、呪いに包まれているんだぞ!」
「分かっています」
リディアは、落ち着いて答えた。
「でも、それで家族が救えるなら――私は、喜んで行きます」
「リディア……」
「お父様」
リディアは、父に近づいた。
「私、お母様から教わりました。家族のために、自分ができることをするって」
「でも――」
「それに」
リディアは、優しく微笑んだ。
「もしかしたら、私にできることがあるかもしれません」
「何?」
「お掃除です」
リディアは、自分の手を見つめた。
「お母様は、私に特別な力があるって言ってました。物事の淀みを払う力が」
「それは……」
エドワードは、妻アイリーンのことを思い出した。
確かに、妻はリディアに何か特別なものを見ていた。
「もしかしたら、その力で――公爵様を、助けられるかもしれません」
「リディア……」
エドワードは、娘を抱きしめた。
そして、声を上げて泣いた。
「ごめん……本当に、ごめん」
「お父様、泣かないでください」
リディアは、父の背中を撫でた。
「私、大丈夫です。きっと、何とかなります」
でも、エドワードは――
自分が娘に、何をさせようとしているのか、分かっていた。
***
出発の日が、来た。
リディアは、質素な荷物をまとめていた。
持っていけるものは、わずかだった。
エドワードは、娘の部屋を訪れた。
「リディア」
「お父様」
「これを」
エドワードは、小さな革表紙の本を差し出した。
「日記帳です。お前の母が、大切にしていたものだ」
リディアは、本を受け取った。
「お母様の……」
「ああ。母上も、日記をつけていた。そして、いつもこう言っていた。『書くことで、心が整理できる』と」
エドワードは、娘の頭を撫でた。
「辛いことがあったら、書いてくれ。そうすれば、少しは楽になる」
「はい……」
リディアの目に、涙が浮かんだ。
「お父様、ありがとうございます」
***
玄関で、家族全員が見送りに来ていた。
アルフレッドは、涙をこらえていた。
「姉上……」
「アルフレッド、ちゃんと勉強するのよ」
リディアは、弟の頭を撫でた。
「はい……」
セバスチャンは、姉のスカートにしがみついていた。
「リディア姉様、行かないで……」
「セバスチャン」
リディアは、幼い弟を抱きしめた。
「大丈夫よ。また、会えるから」
「本当?」
「本当よ」
でも、その約束を守れるか――
誰にも、分からなかった。
***
馬車が、出発しようとした時。
エドワードは、娘を呼び止めた。
「リディア」
「はい?」
エドワードは、娘を強く抱きしめた。
「もし、辛くなったら――すぐに戻って来い」
「お父様……」
「金のことは、気にするな。お前の命の方が、大切だ」
エドワードの声が、震えた。
「頼む。無理だけは、するな」
リディアは、涙を流しながら頷いた。
「はい……分かりました」
「そして」
エドワードは、娘の顔を見つめた。
「お前は、良い子だ。本当に、良い子だ」
「こんな父で、本当にすまない」
「お父様、そんなこと――」
「でも、忘れないでくれ」
エドワードは、娘の頬に手を当てた。
「お前は、愛されている。父に、弟たちに、そして――天国の母にも」
リディアは、声を上げて泣いた。
「お父様……!」
二人は、しばらく抱き合っていた。
やがて、御者が咳払いをした。
時間だった。
***
リディアは、馬車に乗り込んだ。
窓から、家族に手を振った。
「行ってきます!」
「気をつけてな!」
エドワードも、手を振った。
でも、馬車が動き出すと――
彼は、その場に崩れ落ちた。
「リディア……!」
彼は、地面に手をついて、声を上げて泣いた。
「許してくれ……!」
アルフレッドとセバスチャンが、父に駆け寄った。
「父上……」
「ごめん……」
エドワードは、息子たちを抱きしめた。
「俺は……お前たちの姉を、売ってしまった……」
「父上!」
アルフレッドが、強く言った。
「姉上は、自分で決めたんです。誰も、姉上を売ったわけじゃありません」
「でも――」
「姉上は、強い人です」
アルフレッドは、涙を拭った。
「きっと、大丈夫です。姉上なら、何とかします」
エドワードは、長男の成長に驚いた。
そして――
息子の言葉に、わずかな希望を見出した。
「そうだな……」
彼は、立ち上がった。
「リディアなら、きっと――」
***
それから数週間、エドワードは落ち着かない日々を送った。
リディアから、手紙は来なかった。
大丈夫なのだろうか。
無事に着いたのだろうか。
公爵は、彼女を受け入れてくれたのだろうか。
エドワードは、毎日神に祈った。
「どうか、娘を守ってください」
***
そして、ある日――
一通の手紙が届いた。
差出人は、リディア。
エドワードは、震える手で封を開けた。
『お父様
無事に屋敷に着きました。
ヴェルナー様は、噂通り冷たい方でしたが、悪い人ではないと思います。
屋敷は、確かに淀みに包まれています。
でも、お母様が教えてくれた通り――私の力で、少しずつ払えています。
庭は、荒れ果てていました。
でも、それが逆に――私には、やりがいに感じられます。
毎日、庭の手入れをしています。
疲れますが、楽しいです。
使用人の方々も、優しくしてくれます。
マルタさんの料理は、とても美味しいです。
お父様、心配しないでください。
私は、大丈夫です。
むしろ――少しずつですが、この屋敷に必要とされているような気がします。
アルフレッドとセバスチャンによろしくお伝えください。
二人とも、元気にしていますか?
お父様も、お体を大切に。
いつか、必ず会いに行きます。
リディア』
エドワードは、手紙を読み終えると――
涙を流した。
でも、今度は悲しみの涙ではなかった。
安堵の涙だった。
「よかった……」
娘は、無事だった。
そして――前向きに、生きようとしていた。
「リディア……」
エドワードは、手紙を胸に抱いた。
「お前は、本当に強い子だ」
「母上に、似たんだな」
彼は、亡き妻の肖像画を見上げた。
「アイリーン、見ていますか」
「娘は、立派に育ちました」
「そして今――自分の力で、運命を切り開こうとしています」
エドワードは、微笑んだ。
「俺は、もう心配しません」
「リディアを、信じます」
***
それから数ヶ月後、王都から驚くべき知らせが届いた。
エーデルシュタイン公爵の呪いが解けた。
そして、公爵夫人リディアが「月の巫女」として認められた。
エドワードは、その知らせを聞いて――
膝から崩れ落ちた。
「リディア……!」
彼は、涙を流した。
娘は、やり遂げたのだ。
誰も成し遂げられなかったことを。
「よくやった……本当に、よくやった」
***
さらに数ヶ月後、満月の夜。
リディアとヴェルナーの正式な結婚式が、公爵家の屋敷で行われることになった。
エドワードは、息子たちと共に招待された。
屋敷に着くと――
彼は、息を呑んだ。
かつて「呪いの館」と呼ばれた屋敷が、今や――
光に満ちていた。
庭は美しく整えられ、花が咲き誇っている。
「これが……あの屋敷か」
エドワードは、信じられない思いだった。
そして、温室で――
リディアに再会した。
「お父様!」
リディアは、父に駆け寄った。
エドワードは、娘を抱きしめた。
「リディア……!」
彼は、声を上げて泣いた。
「よく頑張ったな……本当に、よく……」
「お父様」
リディアは、微笑んだ。
「私、幸せです」
「ヴェルナー様は、とても優しい方です。この屋敷も、私の居場所になりました」
彼女は、父の手を取った。
「だから、もう心配しないでください」
エドワードは、娘の顔を見つめた。
数ヶ月前よりも、ずっと生き生きとしている。
「そうか……」
彼は、涙を拭った。
「お前は、本当に――立派になったな」
その時、ヴェルナーが近づいてきた。
「オーウェン子爵」
「公爵様……」
エドワードは、深々と頭を下げた。
「娘が、お世話になっております」
「いえ」
ヴェルナーは、首を横に振った。
「世話になっているのは、こちらです」
彼は、リディアを優しく見つめた。
「リディアがいなければ、俺はまだ――闇の中にいました」
ヴェルナーは、エドワードに向き直った。
「娘さんを、ありがとうございます」
「そして――」
彼は、深々と頭を下げた。
「これからも、大切にします。命に代えても、守ります」
エドワードの目から、涙が溢れた。
「ありがとうございます……」
彼は、娘の幸せを確信した。
この男は、本物だ。
リディアを、心から愛している。
***
満月の夜、月樹の下で――
リディアとヴェルナーは、改めて愛を誓い合った。
エドワードは、その光景を見ながら――
亡き妻に語りかけた。
「アイリーン、見ていますか」
「娘は、幸せになりました」
「俺たちの決断は、間違っていなかった」
風が、優しく吹いた。
それは、まるで妻の「よくやったわ」という言葉のようだった。
エドワードは、微笑んだ。
「ありがとう、リディア」
「お前が、うちの娘で――本当に、よかった」
***
【番外編6 了】
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