番外編1:冷たい公爵の、密やかな動揺 ~ヴェルナー視点・第一話~
番外編1「冷たい公爵の、密やかな動揺 ~ヴェルナー視点・第一話~」
俺は、死を待っていた。
ヴェルナー・フォン・エーデルシュタイン。二十三歳。公爵家の当主。
そして――呪われた男。
七年前、母を失った悲しみで魔力が暴走して以来、この屋敷は死の淀みに包まれた。使用人は次々と逃げ出し、残ったのはわずかな者たちだけ。
俺は、それでよかった。
誰も傷つけたくなかった。近づく者を、この忌まわしい力で苦しめたくなかった。
だから、一人で――静かに、死を待つことに決めたのだ。
***
「公爵様、本日、リディア・オーウェン嬢がお見えになります」
アーデルベルトがそう告げた時、俺は何も感じなかった。
ああ、そうか。
縁談の話は聞いていた。没落貴族の娘を、形だけの妻として迎える。オーウェン家は金を得て、俺は――世間体を保てる。
それだけの、取引だ。
「分かった。応接室で待つ」
「かしこまりました」
アーデルベルトは、少し心配そうな顔をしていた。
この老執事は、俺が幼い頃から仕えてくれている。母が生きていた頃から、ずっと。
だから、分かっているのだろう。
俺が、どれほど人と接することを恐れているか。
***
応接室で待っていると、馬車が到着する音が聞こえた。
窓から見下ろすと――一人の娘が、降りてきた。
栗色の髪。華奢な体。年は十八くらいだろうか。
彼女は、屋敷を見上げた。
その瞳に、俺は――驚きを見た。
恐怖ではなく。嫌悪でもなく。
ただ、純粋な驚き。
そして、次の瞬間――
彼女は、庭を見た。
荒れ果てた、枯れた庭を。
俺は、彼女の表情を観察した。
嫌悪か。失望か。それとも――
だが、彼女の顔に浮かんだのは、俺の予想を裏切るものだった。
心配、だった。
まるで、放置された子供を見つけた母親のような、あの表情。
「ああ……」
彼女の唇が、小さく動いた。
声は聞こえなかったが、その表情から読み取れた。
彼女は、庭を――心配していた。
***
やがて、彼女は応接室に案内された。
「ようこそ、リディア・オーウェン嬢」
俺は、できる限り冷淡な声で言った。
距離を置くために。彼女を、この呪いから遠ざけるために。
「お初にお目にかかります、ヴェルナー様」
彼女は、丁寧に礼をした。
その仕草は、貴族の娘として教育されたものだったが――どこか、温かみがあった。
形式的ではない。心からの、礼儀。
俺は、椅子に座るよう促した。
彼女が座ると、俺は単刀直入に言った。
「君が、ここへ来ることを承諾した理由は聞いている。オーウェン家の窮状を救うため、だろう」
「……はい」
彼女は、正直に答えた。
嘘をつかない。
それは、好ましかった。俺は、嘘が嫌いだ。
「正直で、よろしい」
俺は、淡々と続けた。
「ならば話は早い。この屋敷で君に求めることは何もない。公爵夫人の名を持ち、好きに暮らしてくれればいい。私は――おそらく、長くはない」
自分の死を、感情を込めずに語る。
それは、七年間で慣れたことだった。
だが――
彼女の目が、わずかに揺れた。
悲しみ、だろうか。
いや、違う。
それは――何かを決意したような、強い光だった。
「一つだけ、お願いがあります」
彼女が、口を開いた。
「何だ」
「この屋敷の庭を、手入れさせていただけないでしょうか」
俺は、一瞬、耳を疑った。
「庭を?」
「はい。私、手入れをするのが好きなのです。お庭が、とても……気になってしまって」
気になる?
荒れ果てた、死の淀みに包まれた庭が?
俺は、彼女の目を見た。
嘘をついている様子はない。本気だった。
「好きにしてくれ。ただし、庭も呪いに侵されている。近づけば、気分を害するかもしれない。それでも構わないなら」
「ありがとうございます」
彼女は――心から、笑顔を浮かべた。
その笑顔を見た瞬間、俺の胸に、奇妙な感覚が走った。
温かさ、だろうか。
いや、違う。
動揺、だった。
七年間、誰の笑顔も見ていなかった。
誰も、この屋敷で笑わなかった。
なのに、この娘は――
呪いの館で、初めて会った絶望の公爵に、笑いかけた。
***
彼女が部屋を出た後、俺は一人、窓辺に立った。
下では、彼女が早速庭に向かっているのが見えた。
物置から、古びた鎌と手袋を見つけ出している。
「本気なのか……」
俺は、呆れと共に――何か、別の感情も覚えた。
期待、だろうか。
いや、そんなはずはない。
庭が蘇るなど、ありえない。
母が愛した庭は、俺の力で全て枯れた。もう、二度と戻らない。
だが――
彼女は、袖をまくった。
そして、一番荒れ果てた薔薇園に向かい、鎌を握った。
俺は、その姿を見つめていた。
なぜだろう。
目が、離せなかった。
***
彼女が、蔦を掴んだ瞬間――
俺は、息を呑んだ。
何かが、動いた。
淀みが、動いた。
俺の魔力が、七年間作り出してきた死の気配が――彼女の手のひらから、流れ出していくのを感じた。
「まさか……」
俺は、窓に手をついた。
ありえない。
誰も、この淀みを払うことはできなかった。
王国一の治療師も、宮廷魔術師団も、誰もが匙を投げた。
なのに、この娘は――
ただ、鎌を振るっているだけなのに。
淀みが、薄れていく。
***
日が傾き始めても、彼女は作業を続けていた。
黙々と、丁寧に、一本ずつ蔦を切り、枯れた枝を取り除いていく。
その姿は――
母を、思い出させた。
母も、あんな風に庭の手入れをしていた。
愛情を込めて、一つ一つの植物に語りかけるように。
俺の目に、涙が浮かんだ。
「くそ……」
俺は、手で顔を覆った。
泣くものか。
七年間、泣かないと決めたんだ。
でも――
彼女が働いている場所だけが、確かに明るくなっている。
淀みが、薄れている。
そして、俺の体も――少しだけ、軽くなっている気がした。
***
夕食の時間になっても、俺は食堂には行かなかった。
ここ数年、人と食事を共にすることを避けていた。
でも――
アーデルベルトが、報告に来た。
「公爵様、リディア様が、お庭の手入れをされた場所ですが……」
「分かっている」
俺は、窓から庭を見下ろした。
「淀みが、薄れている」
「はい。それだけではございません」
アーデルベルトの声には、驚きが含まれていた。
「私も、エリーゼも、マルタも――皆、体調が良くなっております」
「何?」
「今まで、頭痛や倦怠感に苦しんでいたのですが、今日は嘘のように楽なのです」
俺は、自分の手を見た。
確かに、黒い痣が――少しだけ、薄くなっている。
「あの娘は……一体」
「リディア様は、不思議なお方です」
アーデルベルトは、穏やかに微笑んだ。
「もしかしたら、公爵様に――いえ、この屋敷に、光をもたらしてくださる方かもしれません」
俺は、何も答えられなかった。
光?
そんなものが、まだこの屋敷に差すことがあるのか。
***
その夜、俺は廊下を歩いていた。
リディアの部屋の前を、通りかかった時――
扉の隙間から、光が漏れていた。
まだ起きているらしい。
俺は、立ち止まった。
中の様子を、盗み聞きするつもりはなかった。
ただ――
「ふう……」
彼女の、安堵の息が聞こえた。
「今日は、たくさん働いたわね」
誰かと話しているのだろうか。
いや、独り言だった。
「でも、まだまだ。明日も、頑張らないと」
彼女は、疲れているはずだ。
一日中、庭仕事をしていたのだから。
なのに、その声には――
喜びが、含まれていた。
「ヴェルナー様、どんな方なのかしら」
俺は、息を呑んだ。
「冷たそうに見えたけど……あの瞳、悲しそうだった」
俺の、瞳?
「きっと、一人で抱え込んでいるのね。誰にも言えない、苦しみを」
彼女の声が、優しくなった。
「でも、もう大丈夫。私がいるから」
俺は、その言葉に――
心臓が、大きく跳ねるのを感じた。
「少しずつでいい。ヴェルナー様が、笑ってくれる日まで――私、頑張る」
***
俺は、自室に戻った。
そして、ベッドに座り込んだ。
手が、震えていた。
「何だ、これは……」
胸が、苦しい。
でも、それは――悪い苦しさではなかった。
七年ぶりに、何かが動き始めている。
凍りついていた心が、溶け始めている。
「俺が、笑う……?」
そんな日が、来るのだろうか。
母を失ってから、心から笑ったことなど一度もない。
でも――
あの娘は、そう信じているらしい。
俺が、また笑える日が来ると。
「馬鹿な……」
俺は、自分の顔を手で覆った。
でも、その手のひらに――
涙が、落ちた。
悲しみの涙ではない。
何か、別の感情の涙だった。
希望、だろうか。
いや、まだ分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
あの娘――リディア・オーウェンが来てから、何かが変わり始めている。
この屋敷が。
俺が。
「リディア……」
俺は、初めて彼女の名を口にした。
その名前は、不思議と――
温かかった。
***
翌朝、俺は早起きをした。
そして、窓から庭を見下ろした。
リディアは、もう庭に出ていた。
朝日を浴びて、昨日の続きをしている。
その姿を見ながら、俺は――
小さく、笑った。
本当に小さな、気づかれないほどの笑みだった。
でも、確かに――
七年ぶりに、俺は笑った。
「面白い娘だ……」
俺は、呟いた。
そして、決めた。
今夜は、食堂に行こう。
彼女と、向かい合って食事をしよう。
七年間、避け続けてきたことを――
やってみよう。
なぜなら――
この娘は、恐れていないから。
俺を、忌み嫌っていないから。
ならば、俺も――
少しだけ、勇気を出してみよう。
***
その日の夕方、俺は食堂に向かった。
アーデルベルトとエリーゼが、驚きの表情を浮かべた。
「公爵様!」
「リディアは、まだ来ていないか」
「いえ、今お部屋でお支度を……あ、いらっしゃいました」
扉が開き、リディアが入ってきた。
庭仕事の後で入浴したのだろう、髪が少し湿っていて、頬には健康的な紅が差していた。
彼女は、俺を見て――
目を丸くした。
「ヴェルナー様」
「こんばんは」
俺は、ぎこちなく答えた。
人と挨拶を交わすのが、こんなにも難しいとは。
「こんばんは」
彼女は、微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、俺の緊張が――
少しだけ、和らいだ。
二人は、テーブルの両端に座った。
沈黙が、流れた。
俺は、何を話せばいいのか分からなかった。
七年間、誰とも会話らしい会話をしていなかったのだ。
でも――
「今日は……温室に行ったそうだな」
俺は、なんとか言葉を絞り出した。
「はい。とても、素敵な場所ですね」
リディアは、屈託なく微笑んだ。
「アリシア様が作られた温室だと聞きました。お母様は、きっと植物がお好きだったのでしょうね」
母の名前を聞いた瞬間、俺の手が――
わずかに、震えた。
リディアは、それに気づいた。
「あ……ごめんなさい。不躾なことを」
「いや」
俺は、首を横に振った。
「……ああ。母は、あの温室を愛していた」
それだけ言うのが、精一杯だった。
でも、リディアは――
それ以上、踏み込んでこなかった。
ただ、優しく微笑んで、話題を変えてくれた。
「月樹も、とても立派な木ですね。まだ、生きていますよ」
「何?」
俺は、顔を上げた。
「あの木は、枯れたはずだ。七年前、母が亡くなってすぐに……」
「表面は枯れています。でも、根は生きています」
リディアは、確信を持って言った。
「だから、お手入れをすれば、きっとまた……」
「無理だ」
俺の声が、大きくなってしまった。
「あの木は、私の魔力で汚された。私が近づくだけで、全てが枯れる。母の大切にしていたものでさえ、私は守れなかった」
リディアは、静かに俺を見つめた。
その瞳には、憐れみでも同情でもなく――
ただ、真っ直ぐな理解があった。
「ヴェルナー様」
彼女は、静かに言った。
「淀みは、誰のせいでもありません。溜まるべくして溜まり、流れるべくして流れる。ただ、それだけです」
「淀み……?」
「はい。ヴェルナー様が『呪い』と呼んでいるもの、私には『淀み』に見えます。そして、淀みは払うことができます」
俺は、彼女の言葉を噛みしめた。
淀み。
呪いではなく、淀み。
それは――何か、違う意味を持っているような気がした。
「君は……一体、何者なんだ」
リディアは、少し困ったように首を傾げた。
「ただの、お掃除好きな娘です」
そして、彼女は本当に――
そう信じているようだった。
***
その夜、俺は久しぶりに深く眠った。
夢を見た。
母の笑顔。温室に咲く花々。幼い自分の手を引く、温かな手のひら。
目が覚めた時、頬には――
涙の跡があった。
でも、それは悲しみの涙ではなかった。
懐かしさと、そして――
ほんの少しの、希望の涙だった。
窓の外では、月が静かに輝いていた。
そして、遠くに見える温室が――
ほんのわずかに、淡い光を放っているように見えた。
それが幻なのか、それとも本当なのか、俺には分からなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
この屋敷に、変化が訪れている。
そして、その変化を連れてきたのは――
あの不思議な娘、リディア・オーウェンだということ。
「また、明日」
俺は、呟いた。
「明日も、彼女は庭に出るだろう」
「そして、俺は――」
俺は、自分の手を見つめた。
「彼女を、見守ろう」
それは、七年ぶりに持った――
未来への、小さな期待だった。
***
【番外編1 了】
完結させちゃいましたけど、もうちょっと書きたいので番外編投稿していきます。




