エピローグ
エピローグ
それから二十年後――
エーデルシュタイン公爵家の庭園は、今や王国の至宝として、歴史書にも記されるようになっていた。
「月の巫女の庭園」
人々はそう呼んだ。
春には桜が、夏には薔薇が、秋には紅葉が、冬には雪景色が――四季折々の美しさを見せるこの庭は、王国中から訪れる人々の心を癒し続けていた。
***
リディアは、四十歳になっていた。
髪には、わずかに白いものが混じり始めていたが、その瞳は相変わらず優しく輝いていた。
彼女は今日も、朝早くから庭に出ていた。
薔薇園を見回り、記憶の庭園の噴水を確認し、温室で月樹の様子を見る。
二十年間、一日も欠かさず続けてきた習慣だった。
「お母様」
声がして、振り返ると、長女のエリーゼが立っていた。
二十三歳になった娘は、母によく似た優しい顔立ちをしていた。そして、母と同じく、月の巫女の力を受け継いでいた。
「おはよう、エリーゼ」
「おはようございます。今朝も早いですね」
「ええ。庭が、呼ぶのよ」
リディアは、微笑んだ。
「『手入れをして』って」
エリーゼは、くすりと笑った。
「お母様らしい」
二人は、並んで温室へ向かった。
月樹は、二十年の歳月を経て、さらに立派になっていた。幹は太く、枝は天井近くまで伸びている。
そして、その隣には――
若木が育っていた。
リディアが最初の子供を授かった時、月の実を植えた木。今では、五メートルほどの高さになっている。
「この木も、大きくなったわね」
「はい。私が生まれた時は、まだ苗木だったんですよね」
「そうよ」
リディアは、若木に手を当てた。
「あなたと一緒に、育ってきた木」
エリーゼも、木に手を当てた。
すると――
木が、淡く光った。
「あ……」
二人は、驚いて顔を見合わせた。
「お母様、これは……」
「月の祝福ね」
リディアは、優しく微笑んだ。
「この木が、あなたの力を認めたのよ。あなたは、もう立派な月の巫女だわ」
エリーゼの目に、涙が浮かんだ。
「お母様……」
「これから、あなたが人々を救っていくのね」
リディアは、娘の頭を撫でた。
「でも、無理はしないこと。自分を大切にすること」
「はい」
「そして――」
リディアは、娘の目を見つめた。
「いつか、あなたも愛する人と出会うでしょう。その人を、大切にしなさい」
エリーゼは、頬を赤らめた。
「お母様……」
二人は、抱き合った。
母から娘へ。
月の巫女の力が、確かに受け継がれていく。
***
その日の午後、屋敷に客人が訪れた。
長男のアレンが、騎士団の休暇を利用して帰ってきたのだ。
「ただいま!」
二十五歳になったアレンは、立派な青年騎士に成長していた。父に似た黒い髪と、母に似た優しい目を持つ、頼もしい息子だった。
「おかえりなさい、アレン」
リディアは、息子を抱きしめた。
「元気にしていた?」
「ああ、もちろん。ディートリヒ副団長の下で、みっちり鍛えられてるよ」
アレンは、少し疲れた顔で笑った。
「でも、やっぱりこの屋敷が一番落ち着くな」
「お前の部屋は、いつでも綺麗にしてあるわ」
ヴェルナーが、書斎から出てきた。
四十八歳になった公爵は、髪に白いものが混じっていたが、相変わらず凛とした雰囲気を持っていた。
「父上!」
「よく戻った、アレン」
父と息子は、握手を交わした。
「騎士団での仕事は、どうだ?」
「順調です。来月、正式に騎士団長補佐に任命される予定です」
「そうか。立派になったな」
ヴェルナーは、誇らしげに息子の肩を叩いた。
「母上が生きていたら、きっと喜んだだろう」
「母上……」
アレンは、空を見上げた。
「俺、アリシア様には会ったことないけど、いつも見守ってくれている気がするんだ」
「ええ、きっとそうよ」
リディアは、優しく微笑んだ。
「アリシア様は、いつもこの屋敷を、私たち家族を、見守ってくださっているわ」
***
夕方になり、末っ子のカイも王都から帰ってきた。
二十歳になったカイは、宮廷魔術師団で頭角を現していた。父の魔力を強く受け継ぎ、若くして高位の魔術師となっていた。
「ただいま!」
「おかえり、カイ」
リディアは、末っ子を抱きしめた。
「また痩せたんじゃない? ちゃんと食べてる?」
「大丈夫だよ、母上。魔術師団の食堂、結構美味しいから」
カイは、屈託なく笑った。
「でも、やっぱりマルタの料理が一番だけどね」
「まあ、嬉しいこと!」
厨房から、マルタの声が聞こえた。
七十歳を超えた料理長は、さすがに若い頃のような機敏さはなくなっていたが、相変わらず料理への情熱は衰えていなかった。
「今夜は、特別なご馳走を用意していますよ!」
***
その夜、久しぶりに家族全員が揃った。
食堂には、ヴェルナーとリディア、三人の子供たち、そして使用人たちも同席していた。
アーデルベルトは、八十歳を超えていたが、まだ現役の執事として屋敷を取り仕切っていた。
エリーゼ(使用人)は、今では屋敷の家政婦長として、若い使用人たちを指導していた。
ベルンハルトは、引退して村で悠々自適の生活を送っていたが、今日は特別に呼ばれていた。
「では、乾杯を」
ヴェルナーが、グラスを掲げた。
「家族が揃ったことを祝して」
「乾杯!」
皆が、グラスを合わせた。
笑い声と、会話が、食堂に溢れた。
アレンは、騎士団での武勇伝を語り、カイは、魔術の新しい発見について熱弁し、エリーゼは、最近浄化した村の話をした。
リディアは、その光景を見ながら、幸せで胸が一杯になった。
こんなに賑やかで、温かい家族。
二十年前には、想像もできなかった。
「リディア」
ヴェルナーが、小声で囁いた。
「幸せそうだな」
「はい」
リディアは、夫の手を握った。
「こんなに幸せでいいのかと思うくらい」
「いいんだよ」
ヴェルナーは、優しく微笑んだ。
「俺たちは、苦労して手に入れた幸せだ。存分に味わおう」
***
宴が終わり、子供たちが自分の部屋に戻った後。
リディアとヴェルナーは、二人で庭を歩いた。
満月が、空に輝いていた。
「また、満月ですね」
「ああ。俺たちにとって、特別な月だ」
二人は、桜の木の下に辿り着いた。
二十年の歳月を経て、桜の木は見事な大樹に育っていた。太い幹、広がる枝、春には無数の花を咲かせる。
「この木、立派になりましたね」
「ああ。俺たちと一緒に、育ってきた」
ヴェルナーは、木の幹に手を当てた。
「この木は、俺たちの愛の証だ」
「そして、子供たちの思い出の木でもあります」
リディアは、微笑んだ。
「アレンが初めて木登りしたのも、この木。エリーゼが初めて花を摘んだのも、この木の下。カイが初めて魔法を使ったのも、ここでした」
「そうだったな」
ヴェルナーは、懐かしそうに笑った。
「全ての思い出が、ここにある」
二人は、木の下のベンチに座った。
そして、手を繋いだ。
「ねえ、ヴェルナー様」
「何だ?」
「二十年前、この木を植えた時――まさか、こんな幸せな未来が待っているなんて、思いませんでした」
リディアは、夫を見つめた。
「三人の子供に恵まれて、皆それぞれ立派に育って。屋敷も、庭も、こんなに美しくなって」
「ああ」
ヴェルナーは、妻の手を握り返した。
「全て、お前のおかげだ」
「いいえ、ヴェルナー様のおかげです」
「いや、俺たち二人のおかげだ」
ヴェルナーは、微笑んだ。
「俺一人では、何もできなかった。お前一人でも、ここまで来られなかった。二人で、一緒だったから――ここまで来られたんだ」
リディアは、涙を拭った。
「そうですね……」
「リディア」
ヴェルナーは、妻の顔を優しく持ち上げた。
「二十年前、お前に誓ったこと、覚えているか?」
「はい」
「永遠に、お前を愛すると」
「覚えています」
「その誓いは、今も変わらない」
ヴェルナーは、リディアの目を見つめた。
「いや、むしろ強くなっている。お前への愛は、年々深まっていく」
リディアの目から、涙が溢れた。
「私もです。ヴェルナー様への愛は、日に日に深くなっています」
二人は、キスをした。
長く、深く、優しく。
二十年の歳月が刻んだ、全ての思い出を込めて。
やがて、唇を離すと、ヴェルナーは立ち上がった。
「来てくれ。見せたいものがある」
「何ですか?」
「秘密だ」
ヴェルナーは、リディアの手を引いて歩き出した。
***
二人が向かったのは、記憶の庭園の奥だった。
そこには、小さな石碑が建てられていた。
「これは……」
リディアは、石碑に近づいた。
そこには、こう刻まれていた。
『ここに眠るは、愛と希望の記憶
アリシア・フォン・エーデルシュタイン
愛する息子ヴェルナーへ
そして、未来の家族たちへ
この庭を愛し、育ててください
私は、いつもあなたたちと共にいます』
「これは、いつ……」
「今日、アーデルベルトと一緒に建てた」
ヴェルナーは、石碑に手を当てた。
「母の墓は、別にある。でも、母が本当に愛したのは、この庭だった。だから――」
彼の声が、わずかに震えた。
「この庭に、母の記念碑を建てたかったんだ」
リディアは、ヴェルナーの手を握った。
「素敵です」
「ありがとう」
ヴェルナーは、妻を見た。
「母は、きっと喜んでくれている」
その時――
風が吹いた。
温かく、優しい風。
まるで、誰かが二人を抱きしめるような風。
「アリシア様……」
リディアは、空を見上げた。
満月が、優しく輝いていた。
「見ていますよ。私たちが、あなたの庭を、こんなに美しく育てたこと」
風が、再び吹いた。
それは、「ありがとう」という言葉のようだった。
***
二人は、ゆっくりと屋敷に戻った。
寝室に入ると、リディアは窓を開けた。
月明かりが、部屋に差し込んでくる。
「綺麗な月ですね」
「ああ」
ヴェルナーは、妻の後ろから抱きしめた。
「この月が、俺たちを見守ってくれている」
「はい」
リディアは、夫の腕の中で微笑んだ。
「これからも、ずっと」
「ああ、永遠に」
二人は、抱き合ったまま、月を見つめた。
そして――
どこからか、声が聞こえた気がした。
『幸せに、リディア。ヴェルナー』
『あなたたちは、よくやったわ』
『これからも、愛し合って、支え合って』
『そして――』
『この庭を、愛し続けて』
リディアは、涙を流しながら、心の中で答えた。
「はい。約束します」
「永遠に」
月が、一層明るく輝いた。
そして、その光の中に――
かすかに、女性の姿が見えた気がした。
微笑んでいる、優しい女性の姿が。
アリシアだった。
彼女は、二人を祝福するように――
静かに、手を振った。
***
それから何年も、何十年も。
エーデルシュタイン公爵家の庭は、変わらず美しく保たれ続けた。
リディアとヴェルナーは、白髪になり、皺が増えても、相変わらず仲睦まじく庭の手入れを続けた。
子供たちは、それぞれの人生を歩み、やがて結婚し、孫たちが生まれた。
孫たちもまた、この庭で遊び、育ち、愛を学んだ。
月樹は、変わらず温室で輝き続けた。
桜の木は、毎年春に美しい花を咲かせ続けた。
そして、この庭園は――
「愛の庭園」「希望の庭園」「奇跡の庭園」
様々な名で呼ばれながら、王国の人々に愛され続けた。
***
そして――
リディアとヴェルナーが、この世を去った後も。
庭は、残った。
彼らの子孫たちが、丁寧に手入れを続けた。
月の巫女の力は、代々受け継がれていった。
そして、この物語も――
語り継がれていった。
呪いの屋敷に嫁いだ、一人の娘の物語。
淀みを払い、庭を蘇らせ、絶望していた公爵を救った物語。
そして、二人の愛が、どれほど強く、美しく、永遠であったかという物語。
***
何百年後の、ある春の日。
一人の少女が、この庭園を訪れた。
「わあ……綺麗」
彼女は、満開の桜の木を見上げた。
「この木、何百年も前からあるんだって」
少女の祖母が、優しく微笑んだ。
「そうよ。この木は、月の巫女リディアと、ヴェルナー公爵が植えた木なの」
「リディア様と、ヴェルナー様……」
少女は、聞いたことのある名前だと思った。
「あの、伝説の?」
「そう。二人の愛の物語は、今でも語り継がれているわ」
祖母は、桜の木の幹に手を当てた。
「この木には、二人の愛が込められている。だから、何百年経っても、こんなに美しく咲き続けるの」
少女も、木に手を当てた。
すると――
温かかった。
まるで、誰かに抱きしめられているような、温もり。
「おばあちゃん、この木……温かい」
「そうでしょう? 愛の温もりよ」
祖母は、微笑んだ。
「この庭全体が、二人の愛で満たされているの」
少女は、庭を見回した。
薔薇が咲き、噴水が輝き、温室が光っている。
全てが、生命に満ち、愛に満ちていた。
「おばあちゃん、私も――」
少女は、決意を込めて言った。
「いつか、こんな素敵な庭を作りたい」
「あなたなら、きっとできるわ」
祖母は、孫娘の頭を撫でた。
「愛する人と一緒なら、何だってできるのよ」
二人は、手を繋いで庭を歩いた。
桜の花びらが、風に舞っている。
まるで、祝福のように。
そして――
風の中に、声が聞こえた気がした。
『ありがとう』
『この庭を、愛してくれて』
『これからも、ずっと』
少女は、空を見上げた。
青い空に、白い雲が浮かんでいる。
そして、その向こうに――
きっと、リディアとヴェルナーがいる。
愛する庭を、今も見守っている。
永遠に。
~ 死を待つ公爵の庭掃除 ~
完
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