10話(最終話):永遠の庭、そして新しい春
第十話(最終話)「永遠の庭、そして新しい春」
満月の夜から、三ヶ月が経った。
季節は初夏を迎え、エーデルシュタイン公爵家の庭は、今や王国で最も美しい庭園の一つとして知られるようになっていた。
薔薇園には、色とりどりの薔薇が咲き誇っている。赤、白、黄色、ピンク――その香りは、屋敷の窓という窓から漂ってきた。
記憶の庭園は、かつての荘厳さを完全に取り戻していた。噴水は勢いよく水を吹き上げ、東屋は蔦と花で美しく飾られている。
そして、温室では――
月樹が、青々とした葉を茂らせていた。三ヶ月前に咲いた花は散ったが、今は小さな実をつけている。銀色に輝く、神秘的な実だった。
「この実、食べられるのかしら……」
リディアは、脚立に登って実を観察していた。
「危ないぞ、リディア」
下でヴェルナーが、心配そうに脚立を支えている。
「大丈夫ですよ。これくらい」
「お前は、いつも『大丈夫』と言って無茶をする」
ヴェルナーは、ため息をついた。
でも、その顔には笑みが浮かんでいた。
リディアは、脚立から降りると、ノートに観察記録を書き込んだ。
「月の実、六個確認。大きさは親指大。色は銀色で、触ると温かい……」
彼女は、この三ヶ月、庭の全ての植物を記録していた。成長の過程、開花の時期、必要な手入れ――全てを、丁寧にノートに綴っていた。
「何のために、そんなに詳しく?」
ヴェルナーが尋ねると、リディアは微笑んだ。
「いつか、この庭を訪れる人のために。そして――」
彼女は、お腹に手を当てた。
「いつか生まれるかもしれない、私たちの子供のために」
ヴェルナーの目が、優しく輝いた。
「そうか……」
彼は、リディアを抱き寄せた。
「お前は、本当に――先のことまで考えているんだな」
「当たり前です」
リディアは、ヴェルナーの胸に顔を埋めた。
「これから、ずっとヴェルナー様と一緒にいるんですから」
二人の幸せな時間を、優しい風が吹き抜けた。
***
その日の午後、屋敷に一通の手紙が届いた。
王宮からだった。
アーデルベルトが、書斎にいるヴェルナーに手紙を届けた。
「国王陛下からでございます」
ヴェルナーは、封を切って中身を読んだ。
そして、表情を変えた。
「……そうか」
「何か、問題でも?」
リディアが尋ねると、ヴェルナーは手紙を彼女に見せた。
それは、招待状だった。
一ヶ月後、王都で「大浄化の儀」が行われる。それは、王国全土の淀みを浄化し、新しい時代の到来を祝う、盛大な儀式だった。
そして、その儀式の中心となるのは――
リディア・フォン・エーデルシュタイン。
月の巫女として、彼女が王国全土に祝福を与えることになっていた。
「こんな大それたこと……」
リディアは、手紙を震える手で持った。
「私一人では、無理です」
「一人じゃない」
ヴェルナーは、彼女の手を握った。
「俺がいる。そして、この屋敷の皆がいる。王国中の人々が、お前を支えてくれる」
「でも……」
「リディア」
ヴェルナーは、真剣な眼差しで彼女を見つめた。
「お前は、もう逃げられない。月の巫女として、王国の人々に希望を与える存在になったんだ」
彼は、優しく微笑んだ。
「でも、それは重荷じゃない。お前が望んだことだろう? 人々を助けたい、淀みを払いたいと」
リディアは、ヴェルナーの瞳を見つめた。
その瞳には、揺るぎない信頼があった。
「……はい」
彼女は、深く息を吸った。
「やります。ヴェルナー様が一緒なら、きっとできます」
「ああ」
ヴェルナーは、彼女を抱きしめた。
「二人で、やろう」
***
その夜、リディアは一人で庭を歩いていた。
月明かりの下、庭は幻想的な美しさを見せていた。
彼女は、記憶の庭園の東屋に座った。
ここは、かつてヴェルナーが一人で泣いた場所。
でも今は――
二人の思い出の場所になっていた。
「不安なのか?」
背後から声がして、振り返るとヴェルナーが立っていた。
「追いかけてきたんですか?」
「お前が一人で出て行ったから、心配で」
ヴェルナーは、隣に座った。
「大浄化の儀のことか?」
「……はい」
リディアは、正直に答えた。
「王国全土の淀みを払う。そんな大きなこと、本当にできるのか不安で」
「できる」
ヴェルナーは、断言した。
「お前なら、できる」
「どうして、そんなに確信できるんですか?」
「だって、お前は――」
ヴェルナーは、リディアの手を取った。
「俺を救ってくれた。この屋敷を救ってくれた。北の辺境を救ってくれた。全て、お前の力だ」
「それは、ヴェルナー様がいたからです」
「ああ、俺もいた」
ヴェルナーは、微笑んだ。
「だから、今度も一緒だ。俺の魔力と、お前の力を合わせれば――何だってできる」
リディアは、ヴェルナーに寄りかかった。
「ヴェルナー様は、いつも私を信じてくれますね」
「当たり前だ」
ヴェルナーは、彼女の髪を撫でた。
「お前は、俺の全てなんだから」
二人は、しばらく黙って月を見上げていた。
やがて、リディアが口を開いた。
「ねえ、ヴェルナー様」
「何だ?」
「もし、大浄化の儀が終わったら――」
リディアは、少し照れたように言った。
「この庭に、新しい木を植えませんか?」
「新しい木?」
「はい。月樹は、アリシア様の木。ならば、私たちの木も欲しいなって」
ヴェルナーは、その提案に目を輝かせた。
「いいな、それ」
「どんな木がいいですか?」
「そうだな……」
ヴェルナーは、少し考えた。
「桜はどうだ? 春に咲く、美しい花」
「桜……いいですね」
リディアは、微笑んだ。
「では、儀式が終わったら、二人で桜を植えましょう」
「ああ。約束だ」
二人は、小指を絡めた。
そして、キスをした。
月明かりの下で。
未来への誓いを込めて。
***
一ヶ月は、あっという間に過ぎた。
その間、リディアは毎日、力の制御を練習した。ヴェルナーと共に、地下の修練場で魔力を高め、共鳴を深めた。
マルタは、リディアの体力を保つために、栄養満点の食事を作り続けた。
エリーゼは、儀式のための衣装を丁寧に準備した。
ベルンハルトとアーデルベルトは、王都への旅の手配を完璧に整えた。
そして、運命の日が訪れた。
***
王都の中央広場は、人で埋め尽くされていた。
何万という民衆が、大浄化の儀を見るために集まっていた。
広場の中央には、巨大な魔法陣が描かれていた。それは、王国の魔術師たちが一ヶ月かけて準備したものだった。
「すごい人……」
リディアは、馬車の窓から外を見て、息を呑んだ。
「大丈夫だ」
ヴェルナーは、彼女の手を握った。
「俺が、ずっと傍にいる」
馬車が止まり、二人は降り立った。
民衆から、歓声が上がった。
「月の巫女様だ!」
「公爵様!」
「我らの英雄!」
人々の声援に、リディアは緊張しながらも、手を振った。
国王フリードリヒ三世が、玉座から立ち上がった。
「よくぞ参られた、エーデルシュタイン公爵夫妻」
「陛下」
二人は、膝をついた。
「本日、ここに集いし民よ」
国王の声が、広場に響いた。
「我らが王国は、長きにわたり、淀みに苦しめられてきた。病、飢饉、絶望――全ては、大地に溜まった負の力によるものであった」
「しかし、月の巫女の帰還により、我らに希望がもたらされた」
国王は、リディアを見た。
「リディア・フォン・エーデルシュタイン。そなたは、月の女神の祝福を受けし者。本日、この王国全土を浄化し、新しい時代を切り開かれよ」
「御意」
リディアは、立ち上がった。
彼女は、純白のローブを纏っていた。胸には、月の紋章が刺繍されている。
ヴェルナーも、隣に立った。彼は、深い青のローブを着ていた。
二人は、魔法陣の中央に歩いていった。
***
魔法陣の中央で、リディアは深く息を吸った。
「準備はいいか?」
ヴェルナーが尋ねた。
「はい」
リディアは、頷いた。
そして、二人は手を繋いだ。
瞬間、魔法陣が輝き始めた。
リディアの体から、金色の光が溢れ出す。ヴェルナーの体から、青白い光が溢れ出す。
二つの光が混ざり合い、眩い白銀の輝きとなった。
光は、魔法陣を伝って、広場全体に広がっていった。
そして――
王都全体を包み込んだ。
人々は、その光に包まれた瞬間――
全てを理解した。
これが、浄化の力。
これが、月の巫女の祝福。
光は、さらに広がっていった。
王都を超え、周辺の村々へ。
森へ。川へ。山へ。
やがて、王国全土を包み込んだ。
***
その瞬間、王国中で奇跡が起こった。
長年病に苦しんでいた老人が、突然立ち上がった。
「痛みが……消えた!」
不毛だった土地に、緑の芽が吹き出した。
「作物が……育つ!」
干上がっていた井戸から、清らかな水が湧き出した。
「水だ! 水が戻った!」
人々は、歓喜の声を上げた。
そして、全ての人々が――
希望を感じた。
未来への、希望を。
***
王都の広場では、リディアとヴェルナーが、まだ光を放ち続けていた。
でも、二人の顔には苦痛の色はなかった。
むしろ、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「ヴェルナー様」
リディアが、囁いた。
「見えますか? 皆の笑顔が」
「ああ」
ヴェルナーも、微笑んだ。
「見える。そして、感じる。人々の喜びが」
二人の力は、完全に一つになっていた。
もはや、どちらがリディアの力で、どちらがヴェルナーの力か、区別がつかないほどに。
二人は、一つだった。
心も、魂も、力も――全てが、一つに。
『よくやった、我が子らよ』
月の女神の声が、二人に語りかけた。
『あなたたちは、予言を成就した。月の巫女と月の王が結ばれし時、世界は浄化される――と』
「これで……終わりですか?」
リディアが尋ねると、女神は優しく答えた。
『いいえ、これは始まり。あなたたちの、本当の人生の始まり』
『もう、大きな試練はない。これからは、ただ――幸せに生きなさい』
光が、ゆっくりと収まっていった。
魔法陣の輝きが消え、二人の姿が現れた。
民衆は、一瞬の沈黙の後――
爆発的な歓声を上げた。
「月の巫女様、万歳!」
「公爵様、万歳!」
「王国に、平和を!」
リディアは、その歓声に包まれながら、ヴェルナーを見上げた。
「やりましたね」
「ああ」
ヴェルナーは、彼女を抱きしめた。
「お前は、素晴らしかった」
「ヴェルナー様も」
二人は、民衆の前でキスをした。
それは、愛の証。
そして、新しい時代の幕開けを告げる、祝福のキスだった。
***
大浄化の儀から一週間後、リディアとヴェルナーは屋敷に戻った。
王都では英雄として扱われたが、二人にとっては――やはり、この屋敷が一番落ち着く場所だった。
「ただいま!」
リディアが玄関で声を上げると、使用人たちが飛び出してきた。
「お帰りなさいませ!」
エリーゼは、泣きながらリディアに抱きついた。
「王都での儀式、成功したんですね! 村中が、お嬢様の噂で持ちきりですよ!」
「ありがとう、エリーゼ」
マルタは、二人の顔を見て、すぐに厨房へ向かった。
「お二人とも、お疲れでしょう。すぐに、温かいものをお持ちいたします!」
アーデルベルトは、深々と頭を下げた。
「王国を救われた英雄のお帰りを、心よりお待ちしておりました」
「大げさだよ、アーデルベルト」
ヴェルナーは、苦笑した。
「俺たちは、ただ――」
「ただ、自分たちにできることをしただけです」
リディアが、言葉を継いだ。
「それより、庭の様子はどうですか?」
「ああ、それが!」
エリーゼは、目を輝かせた。
「お嬢様が留守の間に、薔薇園がさらに綺麗になったんです! 見てください!」
***
庭に出ると、リディアは息を呑んだ。
薔薇園は、満開だった。
赤、白、ピンク、黄色――無数の薔薇が、競い合うように咲き誇っている。
「すごい……」
リディアは、薔薇の間を歩いた。
一つ一つの花が、健康的で美しい。
「お嬢様が王都で浄化の力を使われた時、この庭も影響を受けたようです」
ベルンハルトが、説明した。
「全ての植物が、一斉に成長を始めました。まるで、何かに祝福されたかのように」
リディアは、薔薇の花びらに触れた。
柔らかく、温かい。
「ありがとう」
彼女は、花に囁いた。
「綺麗に咲いてくれて」
ヴェルナーは、リディアの後ろから抱きしめた。
「約束、覚えているか?」
「約束……?」
「桜を植えるという」
リディアの顔が、ぱっと明るくなった。
「はい! 覚えています!」
「なら、今から植えよう」
ヴェルナーは、微笑んだ。
「場所は、もう決めてある」
***
ヴェルナーが選んだ場所は、記憶の庭園の一角だった。
東屋が見える、日当たりの良い場所。
「ここに、俺たちの木を」
既に、穴が掘られていた。そして、その傍らには――立派な桜の苗木が用意されていた。
「いつの間に……」
「お前が王都にいる間に、準備しておいた」
ヴェルナーは、少し照れたように言った。
「早く、お前と一緒に植えたかったから」
リディアは、感動で胸が一杯になった。
「では、植えましょう」
二人は、苗木を穴に入れた。
ヴェルナーが土をかけ、リディアが水をやる。
そして、最後に――
二人は、同時に木に手を当てた。
リディアの浄化の力と、ヴェルナーの月の魔力が、木に流れ込んだ。
苗木が、震えた。
そして――
みるみるうちに、成長していった。
幹が太くなり、枝が伸び、葉が茂っていく。
使用人たちは、その光景に目を丸くした。
「すごい……」
「魔法だ……」
やがて、成長が止まった。
そこには、立派な桜の木が立っていた。まだ花は咲いていないが、来年の春には――きっと、美しい花を咲かせるだろう。
「私たちの木……」
リディアは、木を見上げた。
「ずっと、ここに立っていてね」
ヴェルナーは、木の幹に手を置いた。
「この木が、俺たちの愛の証だ」
彼は、リディアを見た。
「そして、これから生まれるかもしれない子供たちも、この木の下で遊ぶだろう」
リディアは、頬を赤らめた。
「子供たち……」
「ああ。まだ先のことだが」
ヴェルナーは、リディアを抱き寄せた。
「でも、俺は――お前との未来を、楽しみにしている」
「私も」
リディアは、ヴェルナーの胸に顔を埋めた。
「ずっと、ずっと、ヴェルナー様と一緒にいたいです」
二人の周りで、使用人たちが拍手をした。
そして、アーデルベルトが声を上げた。
「公爵様、お嬢様の末永いお幸せを祈って、乾杯といたしましょう!」
マルタが、シャンパンを運んできた。
皆がグラスを手に取り、掲げた。
「公爵様とお嬢様に、乾杯!」
「乾杯!」
笑い声が、庭に響いた。
温かく、幸せな笑い声が。
***
その夜、リディアは日記を書いていた。
『今日、ヴェルナー様と桜の木を植えました。私たちの木。私たちの愛の証。
この三ヶ月、いろいろなことがありました。
呪いの屋敷に嫁いだ時は、正直、不安でした。でも、今は――この屋敷が、世界で一番好きな場所です。
ヴェルナー様と出会えて、本当に良かった。
この人となら、どんな困難も乗り越えられる。どんな未来も、幸せにできる。
母上、見ていますか?
あなたが言っていた通り、私の力は、美しく、尊いものでした。
そして、その力を――愛する人のために使えること。それが、何よりも幸せです。
これから、どんな日々が待っているのか分かりません。
でも、一つだけ確かなことがあります。
ヴェルナー様と一緒なら、大丈夫。
私たちは、二人で――永遠に、幸せに生きていけます。』
リディアは、ペンを置いた。
窓の外を見ると、満月が輝いていた。
そして、庭では――
桜の木が、月明かりを浴びて、静かに立っていた。
まだ花は咲いていない。
でも、来年の春には、きっと。
美しい花を咲かせるだろう。
希望の花を。
愛の花を。
***
翌朝、リディアは早起きをして、庭に出た。
朝露に濡れた草が、朝日を浴びて輝いている。
彼女は、温室へ向かった。
月樹の様子を見るために。
温室の扉を開けると――
「あ……」
リディアは、驚きの声を上げた。
月樹の実が、一つ――地面に落ちていた。
銀色に輝く、美しい実。
リディアは、それを拾い上げた。
温かかった。そして、不思議なことに――脈動していた。
まるで、生きているかのように。
「これは……」
その時、月樹から声が聞こえた気がした。
いや、声ではない。
想い。
『これは、私からの贈り物』
アリシアの想いだった。
『いつか、あなたたちに子供が生まれたら、この実を土に植えなさい』
『そうすれば、新しい月樹が育つわ』
『あなたたちの愛の証として』
リディアは、実を胸に抱いた。
涙が、頬を伝った。
「ありがとうございます、アリシア様」
彼女は、月樹を見上げた。
「大切にします。そして、いつか――」
扉が開き、ヴェルナーが入ってきた。
「リディア、朝からここに……何を持っている?」
「月の実です」
リディアは、実を見せた。
「アリシア様からの、贈り物」
ヴェルナーは、実を見て、目を見開いた。
「これは……」
「いつか、私たちに子供が生まれたら、この実を植えるんです」
リディアは、微笑んだ。
「そうすれば、新しい月樹が育つって」
ヴェルナーは、しばらく実を見つめていた。
やがて、彼は優しく微笑んだ。
「母らしいな」
彼は、リディアを抱きしめた。
「未来のことまで、考えてくれている」
「はい」
リディアは、ヴェルナーの腕の中で幸せそうに微笑んだ。
「私たちの未来は、きっと明るいです」
「ああ」
ヴェルナーは、リディアの額にキスをした。
「お前がいれば、どんな未来も明るい」
二人は、抱き合ったまま、月樹を見上げた。
木は、朝日を浴びて、優しく輝いていた。
***
それから五年後――
エーデルシュタイン公爵家の庭は、王国で最も美しい庭園として、多くの人々が訪れる場所になっていた。
リディアは、「月の巫女」として、王国各地の浄化に力を尽くした。でも、彼女が最も大切にしたのは――やはり、この屋敷の庭だった。
ヴェルナーは、公爵としての職務をこなしながら、リディアを支え続けた。二人の絆は、年月と共に深まっていった。
そして――
桜の木の下で、三人の子供たちが遊んでいた。
長男は五歳。母の栗色の髪と、父の青灰色の瞳を持つ、利発な少年だった。
長女は三歳。父の黒い髪と、母の優しい目を持つ、可愛らしい女の子だった。
そして、末っ子の次男は一歳。まだよちよち歩きだが、好奇心旺盛で、庭のあちこちを探検していた。
「アレン、エリーゼを見ていてね」
リディアが、長男に声をかけた。
「はーい、お母様!」
アレンは、元気よく返事をした。
彼は、妹の手を取り、一緒に花を摘んでいた。
ヴェルナーは、末っ子のカイを抱き上げた。
「よしよし、お前も花が見たいか?」
カイは、父の腕の中で嬉しそうに笑った。
リディアは、その光景を見ながら、幸せで胸が一杯になった。
「ヴェルナー様」
「何だ?」
「幸せですね」
「ああ」
ヴェルナーは、微笑んだ。
「お前と出会えて、本当に良かった」
「私もです」
リディアは、ヴェルナーに寄り添った。
「これからも、ずっと一緒に」
「ああ。永遠に」
桜の木が、風に揺れた。
満開の桜の花が、花びらを散らしている。
ピンク色の花びらが、家族の周りを舞った。
まるで、祝福のように。
庭の奥では、月樹も青々とした葉を茂らせていた。そして、その隣には――小さな月樹の苗木が育っていた。
五年前、リディアが最初の子供を授かった時、月の実を植えたのだ。
そして、その木は――子供たちと共に、すくすくと育っていた。
「お母様、見て!」
長女のエリーゼが、駆けてきた。
「お花、摘んだよ!」
「まあ、綺麗ね」
リディアは、娘が摘んだ花を受け取った。
小さな手で一生懸命摘んだ、野の花。
「ありがとう、エリーゼ」
「えへへ」
エリーゼは、嬉しそうに笑った。
アレンも、駆けてきた。
「お父様、僕、剣の稽古、頑張ってるよ!」
「そうか。偉いな」
ヴェルナーは、息子の頭を撫でた。
「いつか、お前も立派な騎士になれるだろう」
「うん! お父様みたいに、強くなる!」
リディアは、その光景を見ながら、涙が出そうになった。
幸せすぎて。
こんなに幸せでいいのかと思うほど。
「リディア」
ヴェルナーが、彼女の手を握った。
「泣いているのか?」
「いいえ」
リディアは、微笑んだ。
「ただ、幸せすぎて」
「俺もだ」
ヴェルナーは、彼女を抱き寄せた。
「お前がいてくれて、本当に幸せだ」
子供たちが、二人の周りを走り回っている。
笑い声が、庭に響いている。
空には、雲一つない青空が広がっていた。
そして、風が吹いた。
温かく、優しい風が。
リディアには、その風の中に――
たくさんの声が聞こえた気がした。
アリシアの声。
代々の月の巫女たちの声。
月の女神の声。
そして、母の声。
『幸せに、リディア』
『あなたは、よくやったわ』
『これからも、愛する人たちと共に』
リディアは、空を見上げた。
「はい」
彼女は、心の中で答えた。
「これからも、ずっと――」
***
日が傾き始めた頃、家族は屋敷に戻った。
夕食の準備を、マルタが張り切って行っている。
エリーゼ(使用人)は、子供たちの世話を手伝い、アーデルベルトは、相変わらず完璧な執事として屋敷を仕切っていた。
全てが、穏やかで、幸せだった。
夕食後、リディアは子供たちを寝かしつけた。
三人とも、すぐに眠りについた。
リディアは、一人ずつの額にキスをした。
「おやすみなさい」
部屋を出ると、ヴェルナーが廊下で待っていた。
「寝たか?」
「はい。すぐに」
「なら、少し庭を歩かないか?」
「いいですね」
二人は、手を繋いで庭に出た。
月が昇り始めていた。
満月だった。
「今夜も、満月ですね」
「ああ。月樹を植えた日も、満月だった」
「結婚式も」
「北の辺境から帰った日も」
二人は、思い出を語り合いながら、庭を歩いた。
やがて、桜の木の下に辿り着いた。
葉桜になった木が、月明かりを浴びて静かに立っている。
「この木、大きくなったな」
「はい。子供たちと一緒に」
リディアは、木の幹に手を当てた。
「この木は、私たちの愛の証」
「ああ」
ヴェルナーも、木に手を当てた。
そして、二人は向き合った。
「リディア」
「はい」
「愛している」
「私も、愛しています」
二人は、キスをした。
長く、深く。
月明かりの下で。
永遠を誓うように。
やがて、唇を離すと、リディアは微笑んだ。
「ヴェルナー様、ありがとう」
「何が?」
「全てです」
リディアは、ヴェルナーの胸に顔を埋めた。
「私を愛してくれて。私を必要としてくれて。私に、こんなに幸せな人生をくれて」
ヴェルナーは、彼女を抱きしめた。
「俺の方こそ、ありがとう」
彼は、彼女の髪にキスをした。
「お前が来てくれなければ、俺はまだ――闇の中にいた」
「でも、もう闇はありません」
「ああ。お前が、光をくれた」
二人は、抱き合ったまま、月を見上げた。
満月が、優しく輝いていた。
そして――
どこからか、声が聞こえた気がした。
『幸せに』
『永遠に、幸せに』
それは、全ての祝福の声だった。
リディアとヴェルナーは、微笑んだ。
「これからも」
「ずっと」
二人は、同時に言った。
「一緒に」
桜の木が、風に揺れた。
庭全体が、月明かりに包まれていた。
そして――
この物語は、ここで幕を閉じる。
でも、二人の人生は、まだまだ続いていく。
愛と、希望と、幸せに満ちた人生が。
永遠に。
~ 死を待つ公爵の庭掃除 ~ 完
***
【最終話 了】
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