1話:呪いの屋敷と、一振りの鎌
第一話「呪いの屋敷と、一振りの鎌」
馬車が止まったとき、リディア・オーウェンは窓から見える景色に息を呑んだ。
屋敷は、確かにそこにあった。灰色の石造りの建物は、かつての威容を物語るように堂々とそびえている。けれど、その周囲を覆う庭は――まるで生命が吸い取られたように、枯れ果てていた。
草木は黒ずみ、萎れている。花壇の跡らしき場所には、かつて何が植えられていたのかも判別できないほど荒れ果てた土が広がっている。生垣は形を失い、蔦は壁を這い上がったまま干からびていた。
「お嬢様、本当にここで……」
御者台から降りてきた老執事のベルンハルトが、心配そうに声をかけてくる。
「大丈夫よ、ベルン」
リディアは努めて明るく答えた。十八歳の春を迎えたばかりの彼女にとって、この縁談は、没落したオーウェン子爵家を救う唯一の希望だったのだから。
ヴェルナー公爵家。かつては王国でも指折りの名門だったその家は、今や「呪いの館」として恐れられていた。当主である若き公爵が、強すぎる魔力の暴走により屋敷ごと死の淀みに包まれてしまったのだと、噂は語っていた。
誰も近づかない。使用人は次々と逃げ出す。公爵は静かに死を待っている。
そんな場所へ嫁ぐことを、父は涙ながらに詫びた。けれどリディアには、断る理由などなかった。弟たちを養うには、この縁談しか道はなかったのだから。
重い鉄門が軋んだ音を立てて開く。馬車が進むにつれ、リディアは庭の荒廃ぶりをまじまじと見つめた。
ああ、と彼女は思った。ここまで放っておかれるなんて。
彼女の胸に湧き上がったのは、恐怖でも絶望でもなく、どこか居心地の悪い焦燥感だった。手入れを必要としているものが、こんなにも長い間、誰の手も入れられずに放置されている。それが、どうしようもなく気になってしまうのだ。
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玄関ホールは、薄暗かった。
窓という窓が厚いカーテンで覆われ、わずかに差し込む光さえも、まるで空気そのものに吸い込まれてしまうかのようだった。リディアは思わず呼吸を整える。確かに、ここには何かが「溜まって」いた。
空気が澱んでいる。それは呪いと呼ばれるものなのかもしれないが、リディアの感覚では、それはただ「掃除されていない部屋の淀み」に似ていた。
「お待ちしておりました、リディア様」
現れたのは、痩せこけた老執事だった。名をアーデルベルトというその男は、深々と頭を下げた。
「アーデルベルト様でいらっしゃいますね。お初にお目にかかります」
「公爵様が、お待ちです。どうぞこちらへ」
案内されたのは、屋敷の奥にある応接室だった。ここもまた薄暗く、空気が重い。リディアが部屋に足を踏み入れたとき、窓際の椅子に座っていた人影が、ゆっくりと顔を上げた。
「ようこそ、リディア・オーウェン嬢」
低く、静かな声だった。
ヴェルナー・フォン・エーデルシュタイン。二十三歳の若き公爵は、噂に違わぬ美貌の持ち主だった。漆黒の髪と、深い青灰色の瞳。整った顔立ちは、しかし、まるで石膏像のように生気を欠いていた。
「お初にお目にかかります、ヴェルナー様」
リディアは膝を折り、丁寧に礼をした。
「顔を上げてくれ。そして、座ってほしい」
促されるまま椅子に座ると、ヴェルナーはじっとリディアを見つめた。その瞳には、何の感情も読み取れなかった。
「君が、ここへ来ることを承諾した理由は聞いている。オーウェン家の窮状を救うため、だろう」
「……はい」
「正直で、よろしい」ヴェルナーは淡々と続けた。「ならば話は早い。この屋敷で君に求めることは何もない。公爵夫人の名を持ち、好きに暮らしてくれればいい。私は――おそらく、長くはない」
リディアは、その言葉の意味を噛みしめた。彼は、自分の死を受け入れている。いや、むしろ待っているのだ。
「一つだけ、お願いがあります」
リディアは、静かに口を開いた。
「何だ」
「この屋敷の庭を、手入れさせていただけないでしょうか」
ヴェルナーの瞳に、わずかな驚きの色が浮かんだ。それは、彼が初めて見せた感情らしきものだった。
「庭を?」
「はい。私、手入れをするのが好きなのです。お庭が、とても……気になってしまって」
ヴェルナーは数秒、黙ってリディアを見つめた。やがて、小さく息をついた。
「好きにしてくれ。ただし、庭も呪いに侵されている。近づけば、気分を害するかもしれない。それでも構わないなら」
「ありがとうございます」
リディアは、心から笑顔を浮かべた。
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その日の午後、リディアは早速庭に出た。
ベルンハルトが心配そうに後をついてくるのを制し、彼女は物置から古びた鎌と手袋を見つけ出した。
庭に立つと、やはり空気が重かった。リディアの肌に、じっとりとした不快感が纏わりつく。けれど彼女は、それを「汚れ」のようなものだと感じていた。
掃除をすれば、落ちる。手入れをすれば、流れる。
彼女にとって、それは当たり前のことだった。
袖をまくり、リディアは最も荒れ果てた一角――かつては薔薇園だったらしい場所に向かった。黒ずんだ蔦が絡み合い、棘だけが鋭く残っている。
「まずは、ここからね」
リディアは鎌を手に取り、一番手前の蔦を掴んだ。
その瞬間だった。
手のひらに、温かな感覚が広がった。まるで、流れの淀んだ川に手を入れたときのように、彼女の指先から何かが「動き出す」のを感じた。
それは呪いと呼ばれるものだったのかもしれない。けれどリディアにとっては、ただの「溜まったもの」だった。だから彼女は迷わず、その淀みを手のひらで掬い取るように、ゆっくりと鎌を引いた。
ざく、と音を立てて、蔦が切り離される。
リディアは丁寧に、一本ずつ、枯れた蔦を取り除いていった。日が傾き始めても、彼女は黙々と手を動かし続けた。
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屋敷の二階、自室の窓からその光景を見ていたヴェルナーは、息を呑んだ。
庭で働くリディアの周りだけが、わずかに明るく見えた。いや、それは錯覚ではない。確かに、彼女の手が触れた場所から、何かが「抜けて」いた。
長年、この身を蝕んできた淀み。魔力の暴走が生んだ呪い。それがまるで、霧のように薄れていく。
ヴェルナーは、自分の右手を見つめた。いつも重く、痛みを伴っていたその手が――ほんの少しだけ、軽い。
「まさか……」
彼は呟いた。
庭で、リディアが顔を上げ、額の汗を拭った。夕日が彼女の栗色の髪を照らし、その笑顔は、まるでこの死の館には似つかわしくないほど、生き生きとしていた。
ヴェルナー・フォン・エーデルシュタインは、長い長い時間の後に初めて――ほんの少しだけ、生きることに興味を持った。
この娘は、一体何者なのだろう。
そして、自分の中で何かが変わり始めていることを、彼は確かに感じていた。
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【第一話 了】
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