認知のズレ
列に並び始めてから1時間が経過した。
未だに時刻は朝と分類される時間なのだが、それでも日差しは照らす全てを焼いている。ここにいる全ての者が地獄が始まることを肌で感じていた。
それは碧達も感じてはいたが、勿論予期できることなので対策もしっかりしてきていた。
こまめな水分補給と制汗剤等による暑さ対策だ。
その他にも凍らしたペットボトルや瞬間冷却パックなどもあるが、それは最終兵器なのでまだ温存していた。
しかし既に持参したペットボトルの内1本は消費してしまっており、碧達は水が足りると心配し始めていた。
だが、どちらかと言うと補給する水分も今は排出する水分の方が碧を悩ませていた。
「うぅ・・・、んぅ」
股を押さえながら、苦悶の声を漏らす。
そう、人間の生理現象でもある尿意である。いま碧達はその尿意に対処すべく仮設トイレへ訪れていた。
この体になってから、確実に我慢できる許容量が少なくなっている。多分体の構造場の問題なのだが、その違いを今ほど実感することは無かっただろう。
「れん・・・、もうダメかも」
「頑張れっ、頑張ってくれあいちゃん。
俺は何も出来ないけど・・・そうだな、人の膀胱は尿意を感じてからも結構余裕があるって聞くぞ。だから多分大丈夫なはずだ!」
蓮が隣で応援してくれる。しかし何も出来ない事がもどかしい見たいでただバタバタしていた。
そんな様子が碧には気が紛れるようで苦しげに笑う。でも現実を思い出してしまうとすぐに尿意が頭を満たしていく。
碧はまだかとトイレの列を確認すると、全体の3分の1位には前に来ていた。しかし後ろを確認すれば、『最後尾60分待ち』というプラカードも見えた。
うわぁ・・・。
碧の顔が苦渋のものに変わる。
しかしこれだけ人がいればあの待ち時間にもなるか。それに蓮曰くそろそろ列整理が行われ始めるらしく、その前に駆け込みで行きたいという人達が多いらしい。
それを知らなかった碧は、まんまとその混雑に捕まってしまったのだ。そうと知っていれば早めに行っていたのに。
だが過ぎてしまったことは仕方がない。
碧はあとは神頼みをしながらギリギリで耐え続けるのであった。
そうして尿意と格闘すること10分。
膀胱の粘りと蓮の必死の励ましもあり、何とか耐えた碧達はとうとう順番が回ってきた。
複数ある仮設トイレの1つが開き、碧が入れるトイレが開いた。
「あいちゃん、空いたから行ってこい」
「分かった、それじゃあ先に行くね?」
「ああ。
もしあいちゃんの方が先に出たらあそこの木陰で待っててくれ。くれぐれも一人で帰っちゃダメだぞ?」
「うん」
碧は蓮が指さした待ち合わせ場所を確認してからトイレへ向かう。もうトイレに行けると考えると、既に報われた気がして膀胱が緩む。しかしここまで来て油断して漏らしたくも無いので勢いよく駆け込むのだった。
「ふぅ」
その瞬間だけは、この茹だる暑さすらも忘れ爽快感だけがあった。
忌々しさすら感じた太陽も、まるで自身を祝福するかのようにサンサンと輝いて見える。
仮設トイレを出てホッと一息を着く。
しかしおちおちと余韻に浸ってもいられない。今こうして出た瞬間に次に待っている人の圧を感じ、逃げるように手洗い場へと向かった。
碧はその行く間にも、蓮が先に出ていないかキョロキョロするが残念ながら見つからない。手を洗い、待ち合わせ場所に指定された気を見つけるとそこの木陰へと向かう事にした。
しかしその間に少しばかりの視線を感じた。それは今に始まった事では無いのだが、それでも気がついてしまうとどうしても心騒がしくなってしまう。
はぁ・・・れん、早く出てこないかな。
こうして一人で歩いていると、今日で克服したと思っていた人の目も全く慣れていないのだと知った。
碧は人目を避けるように俯きながら、駆け足で木陰へ行く。
しかし予想外にも、木陰には意外と人が多く集まっていた。どこかのグループなのか、避暑地としてその場を陣取って談笑している。
「どうしよう・・・」
碧は立ち止まり思案する。
そこまで広い訳では無い木陰にこのまま行くのはどうしても躊躇われてしまい、別の木陰を探してみる。
するとちょっと遠くではあるが別のところが空いているのを確認できたのだ。
あそこにしよう。
ここから見える距離だし、スマホで連絡すれば問題ないだろう。
そう判断し、スマホでその旨を伝えながら碧はそこへ向かうことにする。そしてたどり着くと、明らかに温度が下がった空気に癒された。
今日の湿度はそこまでなようで、日陰に入るだけでも違う。あとは風がもう少し吹いてれば気持ちいのだがこれ以上は欲張りというものだ。
碧は木に寄りかかりながら目を閉じ、このひと時を満喫していた。まるでここの空間だけ切り離されたかのように、時がゆっくりと流れるように感じる。蓮がいない心細さも、この平穏で紛らわせていたのだ。
するとザッザッといった靴が地面を擦る音が聞こえた。それは明らかにこちらへ近ずいて来ると、碧の前で止まるのが分かった。
れんかな?
碧はパチリと目を開けた。
するとそこにいたのは、碧の知らない男の人であった。
「ーーーーーぇ」
完全に蓮だとタカをくくっていた碧は、予想外の出来事に思考が停止した。
男は痩せ型だが背が高い。碧と比べれば見上げる程の差に威圧感すら感じた。そんな男は碧と目が合わせながら、様子を伺うように近づいた。それも完全に碧のパーソナルスペースを侵害する距離である。
ここまで予想外の事が起きると、普通なら浮かぶであろう疑問や忌避感といった感情すら出てこなかった。ただ現実に脳が追いつかずに男の人の接触を他人事かのように傍観するのみである。
「ねえ君一人?」
「っ、」
男は言った。
碧は話しかけられても声が出せずに、口からは声にならない空気だけが抜けた。
だがここまで来れば碧にも考える余裕はできていた。しかしだからと言ってまともな思考ができるまでには至らない。
な、なにか言わないと。
でもなんて?何か用ですかとか?
でも明らかに品定める様に碧の顔や身体ばかり見てくるし、普通の要件で声をかけているようには思えない。怖い。逃げた方がいいかな。
色んな応答パターンが頭の中で繰り返されるが、一向に答えは導き出せていない。しかしそんな碧を置き去りにして目の前の男は話を続けた。
「コミケに来るってことは、アニメとか好きなの?俺も好きなんだけどさ、ちょっと話さない?」
何て不器用な話の詰め方だろうか。この男、これでもナンパを持ちかけようとしていた。
だがここに至ってもナンパされているという意識がない碧はアタフタしながら答え返す。
「え、えっと・・・、ボク、そのーーー」
「ボクっ子?うわ、リアルでもそんな子いるんだ。でもやっぱりアニメとか好きなんじゃない?どういう系が好きだったりするの?」
な、何でこの人こんなにボクのこと聞いてくるの?
それに捲したてる言葉は早くて聞き取りずらい。
この人からは悪意の感情や視線は感じないが、でもそれとは別種の何かは感じる。それがなんて感情なのかが分からない。でもその視線は害意とは別の恐怖に頭が真っ白になる。
れんっ、早く来て・・・。
碧は視界がじんわりと歪み涙が溜まる。
それ以降、碧は考えることをやめひたすら俯き続けた。
完全に拒絶されている。しかしその男はその事に気づけないのか、尚言葉をまくしたて会話を行った。
「んー、やっぱ女の子って腐女子系のやつが好きだったりするのな?俺あんまそう言うのは分からないけど、少しだったら話せるよ。
もし今がダメでもさ、コミケが終わった後でもいいから連絡先交換しようよ」
「・・・・・・・・・・・・」
碧は完全に黙りを決め込んだ。
別に無視してやろうとかでは無いが、律儀に考えた末に答えられないのだ。だが段々と会話が成り立たない事に不満感を見せ始めた男は、すこし強引に迫った。
「ねえ、聞いてる?」
そう言って碧の手を掴もうとする。
しかしである。
「なぁ」
その瞬間、一陣の風とともに黒い影が碧の視界に過ぎった。
「だれだ、お前?」
そう言って、影の主が男の手を横から掴んで間に割って入った。
突然のことに目を白黒させている碧だったが、何とか視界にとらえたのは大きなせなかであった。背は高く、頼もしいさすら感じる見慣れた背中。そして金色に揺れる髪。
顔を見なくても分かる。
そこにはボクの最愛の人物である、蓮がいたのだ。
「ーーーーーれんっ」
嬉しさで声が跳ねるのが分かる。
そして嬉しさのあまりその背中へと飛び込んだ。
それを見て、男の人は完全理解した。この2人がどういう関係かを。
「大丈夫だったか、あいちゃん?」
「うんっ、だいじょうぶっ。
れんが来てくれたから、平気」
碧は彼の体温を、体の感触を求めるように身を寄せた。
蓮はそんな碧の様子で、また完全なトラウマを抱いてしまったのでは無いかという心配が消え安堵する。しかし、トラウマとまで行かなくても彼女を不安にさせた目の前の男がどうにも許せず睨みつける。
「人の彼女になんか用かぁ?」
そんな不良紛いの言葉で詰め寄ると、男は完全に顔を歪ませる。蓮の髪が金色なのも手助けしたのかもしれない。
「ご、ごめんなさいっ!」
男はそう言うとこちらの返答も待たずして脱兎の如く逃げ出した。助走にバランスを崩したのか、その後もどうも不格好な走りで駆けていく。
そうして、見えなくなった所で蓮は振り返りニカッと笑う。
「どうだ!
俺、かっこよかったか?」
先程男を追っ払った人物とは思えないおちゃめな顔をしていた。
「うんっ、かっこいい!」
碧は涙を拭いながら、バカ真面目に感想を言った。
「そっかそっか。
ああいうのちょっと言ってみたかったんだよな。でも勝手に彼女にしてすまん、ああ言っておいた方が効果あると思ったんだ」
「全然大丈夫、それよりも助けてくれてありがとう」
「いや、 こっちからしたらあんな状況にしちまってすまん。もっと気を使ってれば良かった」
蓮は申し訳なさそうな顔をして悔いた。
しかし碧は全く蓮が悪いと思ってないので、謝らなくていいことを伝えた。
「そんなこと気にしなくていいよ。
ボクこそ、あのくらい対処出来てれば良かったんだけど・・・。
結局あの人が何を言いたいのか分からなくて、ボクこそダメダメだった」
「ん?」
碧の言葉に蓮が反応した。
「あいちゃん?」
「はい?」
「さっきの奴がどういう目的てあいちゃんに近づいて来たのか、分からなかったりするのか?」
「?」
碧はコテンと首をかしげる。
あの人の目的?あの人の言葉から探るにアニメの話をしたかったようにしか思えない。
それ以上に何かあるのだろうか?
「れんはわかるの?あの人、アニメが好きだったみたいで、何が言いたいのかよく分からなかったんだけど」
「あー、まじか。分からないか」
蓮は複雑な顔をして、なんて伝えようかと考える。そしてある程度頭でまとめてから、碧にも分かるように噛み砕いて教えてく。
「あいつはな、あいちゃんと話がしたかったんだよ」
「う、うん。なにかそういう事言ってた気がする」
それは分かる。
「つっても話したいってのも口実で、実際はあいちゃんとお近ずきにになりたかったんだよ。言ってしまえばナンパだな」
「?」
なんぱ?
ナンパ・・・、ありえない。
いやしかし楓と外出した時にもナンパがどうとか言ってた気がするけど・・・、それでも碧には実感が持てないでいた。
「まさかー、それは無いよ」
いやまさか、ナンパってつまり好意のある人に言い寄るやつでしょ?ないない。あの時だって楓がいたからこそであって、ボク一人の時にだなんてもの好きいない。
「・・・」
しかし蓮は悲しげで、どう言い聞かせようかと困る表情をしていた。
「えっと、・・・れん?」
「なぁ、あいちゃん?」
「な、なに?」
妙に優しげな声音で碧の名を呼ぶ。
その後に続く言葉が少し怖かった。
「よく思うんだけどさ、あいちゃんって自分のことどういう風に認識してるんだ?」
認識?
えーと、哲学?
察しの悪い碧に、蓮はため息をついてから補足する。
「もっと絞れば、あいちゃんのルックス・・・要は顔立ちについてなんだが」
顔・・・、あー、
碧は流石に蓮が何を言いたいか理解した。けれどその事はあまり触れて欲しくない。確かに自分でも悪くないと思っているだけに、とても複雑な気持ちになるのだ。
「それは、・・・れん、言わなくちゃダメ?」
「あーいや、別に分かってたらいいんだけどさ。
だが分かってるんだったら言い寄ってくる男の1人や2人いてもおかしくないだろ?」
「・・・」
碧はムツリとして黙り込む。
蓮の言ってることは理解は出来た。しかし納得までは出来なかった。
確かに初めてこの容姿を見た時は可愛いと思いはした。しかしその時はまだ自分と言う認識が無かったからそう思えただけで、これが自分なのだと思えばどんなに綺麗なものでもメッキのように見えてしまえるのだ。
人と言うものはどれだけ独り善がりな者でも、他者からの影響は少なくとも受けるものだ。
特に碧の場合はそれが顕著で、それでいて家族にすら愛されず無関心でいられる現状に、自分は何処までも無価値な存在なのだと勝手に決めつけていた。
だからどれだけ蓮に可愛いと言われようと、心の中では真に受けてはいなかった。
実際、蓮にナンパをされた事を説明されても、全くもって実感はもてていなかった。百歩譲って確かに碧と交友を持たずにこの側だけ見れば、気に入って声をかける者もいなくもないかと理解はできた。しかし理解は出来たがただそれだけだ。
「あいちゃん」
「・・・はい」
「あいちゃんが自分の事をどう思っていようとも、世間一般から見てあいちゃんが可愛いと思われるのは変えられないと思うんだ」
「うん」
「だから納得出来なくてもいい。
でもその事実を考えて行動するのは大切だと思う。
今回はそこまで強引な奴じゃなかったから良かったけど、多分あいちゃんを無理やり言うことを聞かそうなんて奴もいるかもしれない。
俺の目がある時はいいけど、出来ればあいちゃんもああいう時の対処法を考えておいた方がいいかもしれないな。俺に助けを呼んでもいいし、怖くなれば逃げてもいい。
もしその場から動けなくても、防犯ブザーを鳴らしてくれれば絶対に助けに行くから、な?」
防犯ブザー。
コミケの持ってくものリストに入っており、今日の朝に蓮から貰ったものがあった。
碧はそれを入れてあるバックを手で触り、感触を確かめてから握った。何に使うのかと思ったが、そういう事だったのか。
「うん、気を付けてみる。
・・・ごめんなさい」
碧は窘められた事で完全に意気消沈してしまった。
蓮にこれだけ言われる事は、先程の知らない男に迫られた時よりも心に来た。
言い聞かせるように語った蓮の言葉に理解を示せず、嫌われたのでは無いか、そう思うと自然と謝罪の言葉が出てきてしまう。
蓮は俯き顔の見えなくなってしまった碧の頭に手を乗せる。
「怒ってないから謝らないでくれ。
ただ、今回みたいな事が起こった時に対処できるように2人で考えようってことだ」
ウィッグがズレないよう、優しく撫でた。
いつもの強い刺激の撫で方もいいけど、傷心気味である今はこのもどかしい感じが心地よい。
だが完全に元気が取り戻した訳では無い。それを見た蓮はなにか元気づけられないかと考え、いいことを思いつく。
そして少しわざとらしく、「あとはそうだな〜」なんて唸ってから言った。
「1番手っ取り早いのは、あいちゃんが自分の事を可愛いと思えるようになる事だよなー」
「え?」
碧は思わず聞き返してしまう。
俯いていた顔を上げ、蓮の顔を見ると分かりやすくニヤニヤしている。
なんだがその顔に若干の不安を覚えた。そして碧のこういう勘は結構当たるのである。
「そうだ!
これからはあいちゃんと会う度に可愛いって言うか。
今まで心の中で叫んでいた事を面として言うだけだから、俺は逆にそっちの方がありがたいしな」
そしてその予感は的中した。蓮の訳の分からない提案に戦慄する。
なっ、なにそれ。
「何言ってるのれん!?冗談だよね?」
「はは、そんなにアタフタして可愛いなぁあいちゃんは」
「〜〜〜〜〜〜〜〜っっ、」
本当に言ってきたっ。
いつもは何気なく言われるだけだった。しかしあんな会話があったあとで、面と向かって可愛いなんて言われるとどうしても意識してしまい顔を逸らす。
碧の顔が見るからに真っ赤に変わっていく。
『可愛い』という言葉に意識を持ち始めた碧に、蓮は完全に不意を突かれた。
先程の言葉だって嘘では無い。しかし心から湧き上がる本当の言葉がどうしても溢れ出てしまう。
「まじ可愛すぎんだろ・・・」
もはや芸術だ。
漫画やアニメですらここまでの初な反応は見せないだろう。まるで芸術鑑賞をするかのように碧のコロコロと変わる表情を見つめる視線で、耐えられなくなった碧は爆発する。
「もうっ、もう!
れんのばか!見るなぁっ」
碧にしては珍しく、と言うより初めての命令を含む言葉を使い拒絶する。
しかし珍しい碧の表情にニヨニヨが止まらない。拒絶の言葉すらも楽しんで見てくるものだから、とうとう顔を手で塞ぎしゃがみこんでしまう。
ここまで来ると流石に蓮も嫌われたのでは無いかと焦りが生まれる。つい楽しくなって弄り過ぎてしまっていた。そして案の定、声をかけても返ってくるのは罵倒ばかりになってしまうのだった。
コミケ等同人イベントでのナンパって結構多いみたいですね。イベントに限らず某アニメ専門店とかでもあるみたいです。
オタクって言う共通の趣味と互いに恋愛に不慣れだろうと思い、手が出しやすいみたいですが成功率はかなり低い様です・・・




