音を手放させないために
地方都市の春は、相変わらず静かだった。
駅前の商店街はシャッターが目立ち、夕方になっても人影はほとんどない。
それでも、学校の校舎に差し込む光だけは、昔と変わらず柔らかかった。
航は音楽室の窓から校庭を眺めていた。
グラウンドではサッカー部の人数も減り、吹奏楽部の部室も、今では半分が物置になっている。
「……今年も、入部希望は三人なのか…」
低く呟くと、隣で譜面を整理していたアナが顔を上げた。
「そう…しかも、一人は途中で辞めそう。“この先、続けても意味ありますか”だって…」
アナの声はいつものようにまっすぐだったが、その奥に疲れが滲んでいた。
航とアナは、地元の中学と高校で吹奏楽部の顧問をしている。航は母校の高校、アナは母校の中学の顧問だった。
教師として、音楽を教える立場になった今、二人は別の現実と向き合っていた。
——少子化。
——部活動の縮小。
——地方と都会の、埋めがたい環境格差。
航の高校はまだなんとかギリギリ部活を維持できてはいたが、アナの中学はかなり厳しい状況だった。地域の人口も減っていた。
航は時々アナの活動を手伝っていた。
「合同練習、今年は四校集めたけど……」
アナが言う。
「移動費が出ないのが一番きつい…集まるだけでも大変…」
アナはため息をついた。
「楽器も足りない。指導者も足りない。
それでも“好きだからやりたい”って言う子に、なんて答えたらいいのか……」
アナは悔しそうに唇を噛んだ。
「私ね…」
ぽつりと続ける。
「自分が音楽を続けられたのは、この土地と人のおかげだと思ってる。先生がいて、仲間がいて、環境が完璧じゃなくても——それでも音楽があった。続けてこれたのに…」
航は黙って聞いていた。
「だから恩返しのつもりだったの。一人でも多くの子に、“続けていいんだ”って言ってあげたかった。それがこんなになるなんて…これじゃとてもここを離れることなんて…」
そのとき、航のスマホが震えた。
画面には懐かしい名前。
遥
——文部科学省・音楽教育担当。
遥は、最高峰の大学を卒業し、官僚になった。
今は音楽教育の制度設計に携わっている。
「また相談?」とアナが聞く。
「たぶん」
航は苦笑した。
三人は、形は違えど、同じ方向を向いていた。
地方の子どもたちが、音楽を諦めなくていい社会。
だが現実は、理想ほど優しくない。
数日後。
アナは音楽室の机に突っ伏していた。
「……辞めた」
「……例の子?」
「うん。
“これ以上続けても、将来が見えない”って」
その言葉が、アナの胸を深く抉った。
「私、何もできてない……」
声が震える。
「頑張れって言うだけなら、誰でもできるのに」
航はしばらく黙っていたが、静かに言った。
「……俺も、同じこと思ってた」
顔を上げるアナ。
「才能があっても、環境に左右される。
俺たちはそれを知ってるのに、止められない…」
航は窓の外を見た。
かつて、琴音が走り回り、遥が悩み、梨沙が迷い、
自分自身も立ち止まった場所。
「それでもさ」
航は続ける。
「俺たちが音を手放さなかったから、ここにいる。
それが、無駄だったとは思わない」
アナは目を潤ませながら笑った。
「……ほんと、あんたはズルい」
その夜、三人でオンライン会議が開かれた。
画面の向こうの遥は、相変わらず真剣な顔をしていた。
「現場の苦しさは、わかってる」
遥は言う。
「制度は遅い。でも、動かす」
「焦ってるんですか?」と航。
遥は一瞬、目を伏せてから答えた。
「……うん。でもね、私たちが諦めたら、終わる」
その言葉に、アナが強く頷いた。
「だったら、私たちは現場で踏ん張る。子どもたちの“やりたい”を、できる限り守る」
航は画面越しに二人を見て、静かに思った。
——これは、もう自分たちだけの物語じゃない。
一人ひとりの音が重なって、支え合って、
次の世代へと受け渡されていく。
終わらないアンサンブル。
たとえ形が変わっても、
音楽が誰かの人生から消えないように。
三人は、それぞれの場所で、今日も音をつなごうとしていた。




