お墓参り
宮原沙織から手紙をもらってから時が過ぎていた。
胸の中に重く沈んだものは、その手紙のおかげで消えていた。だがまだ航はなにかをしなければならないという思いがあった。
夜。
机に向かっても勉強してても時折考えてしまう…どうしようか…と
——墓参りがしたい。
その思いが、気づいたら航の中で形になっていた。
そして震える指で、宮原沙織にメールを送った。
平静を装った言葉の下に、本当は「会いたい」という気持ちが隠れていた。
返事は意外なほど早かった。
「琴音のお墓は、あなたの町近くにあります。場所をお伝えしますね。よかったら、娘に会いに行ってあげてください。」
それを読んだ瞬間、航の胸に熱いものがこみ上げた。
あの琴音が——
いつも笑って、無邪気で、真っ直ぐで——
ずっと…
なのに自分は、一度も会いに行けなかった…
皮肉にも程がある…
自分はこんなに近くにいたのに…
自分がつくづく嫌になる…
でも、もう落ち込んだりはしない。
学校帰り。
玄関を出た航を、アナが待ち構えていた。
心配そうな顔。
そして、迷いのない声。
「知りたいの。航が、いま背負ってるもののこと。
琴音ちゃんのことも。私、知らないままなの、イヤだから。」
言葉はまっすぐで、少し強気で、でも優しかった。
航は小さく息を吐いて、ぽつりと答えた。
「……わかった。じゃあ、話すよ。少しずつ……でいいなら。」
アナは黙って頷いた。
そのまなざしに急かす色はなく、ただ航が話し出すのを待っているだけだった。
数日かけて、航は少しずつ琴音のことを語った。
最初のうちは曖昧な話ばかりだった。
ミニトマトの話。
写生大会で落書きされた話。
吹部に遊びにきて、ホルンを嬉しそうに吹いたあの日のこと。
航はアナに話しながら、琴音の表情や言葉、ホルンを吹く指の動き、いろんなことがまるで今目の前に起きてるように現実のように蘇っていた。
それはまるで記憶のかけらを一つ一つ埋めていっているかのように…
アナは急かさなかった。
ただ、微笑んで聞いてくれた。
そしてある日、航がぽつりと、
「——あの子、最後に吹いた曲があるんだ」
と言ったとき、アナは真剣な目になって尋ねた。
「その曲、教えて。私も……吹きたい。」
航は驚いた。
「なんで?」
「吹きたいからだよ。琴音ちゃんのこと、ちゃんと知りたいから。」
その答えが、航の胸にじんと染みた。
航は宮原にメールを送った。
琴音の曲の譜面をお願いするために。
宮原は優しい返事をくれた。
「ぜひ、奏でてあげてください。あの子の音が、また世界に響くなら……それだけで母として救われます…」
数日後。
航とアナは、空港近くの小さな墓地に向かった。
冬空は薄く曇り、風はまだ冷たい。
時折、空港から飛び立つジェット機の低い重い音が空気を震わせる。
「ここ……なんだ……」
航は立ち尽くした。
近くにいたのに、何も知らず、会いに来られなかった自分が悔しかった。
航は花束を供える。ろうそくとお線香に火をつける。つかない。
風が強くてつかないのだ。
仕方なく諦めて手を合わせる。航の隣に立つアナ。彼女はカトリック教徒だけれど、ためらいなく手を合わせた。
この土地の風習として当たり前のように。
アナは先祖がここから地球の反対側へ希望を抱いて長い旅路の末にたどり着き、必死に新しい土地で生きてきたことを知っている。
そこで生きていくためにいろんな苦労と努力があったことも…
両親もいつも言っていた…
ここで生きていくならここの人を尊重しなさい…
先祖もそうやって新しい土地に根付いたのだから…と
両親も必死にこの土地に馴染もうと努力していたのを知っている。
そんな両親をアナは誇りに思っていた。
だから、信じるものは違っても、ここの人を尊重しようと思っていた。先祖がしたように…
「……琴音ちゃん、こんにちは。アナです…よろしくね」
小さな声でアナが言った。
航は喉がつまったように、声が出なかった。
黙って手を合わせ、胸の奥の痛みと向き合う。
風が吹き、花の香りが揺れた。
しばらくして、航はホルンケースを開いた。
アナも隣でトランペットを取り出す。
二人の手は少し震えていた。
手だけではなく、心も震えていた。
「……じゃやろうか」
「うん…」
空港の滑走路から、また離陸の音が響く。
その低く響く轟音にかぶせるように、ふたりは息を吸った。
そして——
冬空に、静かな鎮魂のアンサンブルが流れ出した。
航のホルンはやわらかく、深く。
アナのトランペットは澄んでいて、まっすぐ。
旋律はまるで琴音の笑顔が風に溶けて浮かび上がるように、墓地の空に優しく広がっていった。
演奏しながら、航はそっと目を閉じた。
——琴音。
ごめん。
そして、ありがとう。
アナの音が寄り添う。
ふたりの音は重なり、揺れ、空へ溶けていく。
終わったあと、アナがぽつりと言った。
「……航。すごく、いい音だったよ。」
航は小さく笑った。
「アナもな」
ふたりの息は白く空へ溶けた。
遠くで飛行機の音がまた響く。
二人の音はかき消されてもここに眠る琴音にきっと届いてる…
まるで、どこかへ向かう誰かを見送るように。
航はジェット機の音を聞きながら思った。
——琴音。
君の音は、まだ終わってない。
そしてアナの横顔を見た。
彼女もまた優しい光を宿していた。
その存在に救われていると、ようやく気づき始めていた。
冬の空気の中、ふたりはゆっくりと歩き出した。
まるで、新しい一歩を踏み出すかのように。




